郡山城跡脇を通る9号線を道なりに進んで大きく南にカーブした後、富雄川と並行にしばらく走ってから右に折れて橋を渡った。富雄川は滔々と流れて夏川の濁った水に木の葉が浮き、追い越してゆくトラックの巻き上げる砂埃に暫し呼吸を止めた、奈良は夏が暑い。右手に低い矢田丘陵を望み、ダラダラとゆるい下り坂を走って行くと法起寺の三重の塔の尖った水煙が見える。ああ、また会えたな・・・。私は法起寺には妙に親近感があって、取っ付きにくい法隆寺や近代的な法輪寺と比べると身内のような暖かみと懐かしさを覚えて、しばらくぶりに田舎に帰って家の敷居を跨いだ気分になるのだった。今年の法起寺は随分とさっぱりして、車が2~3台ほど止まっている駐車場の向こうに楚々として佇んでいた。
この前テレビで法起寺を案内していたが、数ある奈良の寺の中の、小さい方の寺との印象を与えたようである。築地塀に囲まれた寺域を正門から入って行くと、美しい三重の塔が今も昔と変らぬ端正なフォルムで出迎えてくれる。慶雲3年(706)創建当時の愛くるしい姿を見上げて、これが奈良の素朴な信仰心を代表する仏教寺院だとの実感が湧き上がってくる。元は聖徳太子の宮だったものを太子没後に寺にしたとのこと、岡本寺とか池尻尼寺とか呼ばれていたらしい。歴史の古さを、1300年という時の流れを身体に感じて思わず畏まった。法隆寺の五重塔は宏壮華麗な外見から広く民衆の支持を得た仏教の興隆を印象付ける大寺院のものだが、法起寺は裕福な貴族のパトロンが私寺として尊宗していたことを思わせる。それは大寺院の多くの塔頭が広大な敷地内に点在するように、ひっそりと静まり返って人影もなく、法隆寺の観光ルートから遠く離れた場所に、まるで地域の集会所のような佇まいでチョコンとあった。
私は幾度か離れた所から眺めて観賞しているだけで中に入ったことはなかったが、テレビで金堂とか社務所とか映しているのを見て、法起寺も普通のお寺なんだなあと思った。お寺は本尊をお参りしてこそ、と考えている人々は、眺めるだけの私なぞは信心として認めないかもしれない。確かに私は信仰心から十一面観音菩薩像を拝んだことはない。私は仏教徒ではないのだ。ただ歴史の彼方に消え去った人々のドラマが微かに残って、頬を撫でる風の冷たさに古代の息吹を感じたい「時の旅人」である。そんな私に法起寺の三重の塔は何事かを語ってくれる訳でもなく、悠久の過去から永遠の未来へと、薄墨色の瓦と白い壁、暗色の木組みを見せて屹然と立っている。
今や法起寺は景色の中で国道脇の一部になっていて、すっかり地域に根付いているように見える。奈良の風物詩は数あれど、「風そよぐナラの小川の夕暮は、と歌に詠まれた夏の情景は特に美しい」。・・・と今の今まで思い込んでいたが超ビックリ、このナラは奈良では無く「樹木の楢」だと初めて知ったのだ。何という無知、何というアホ。65にもなってこんな事をウェブで公開する羽目になるとは、恥ずかし過ぎてどうしていいか。だが開き直る訳ではないが、家隆は確かに楢のつもりで歌ったのかもしれないが、この歌は「奈良」と鑑賞した方が抒情味が溢れ出て更に美しさが倍加する、と主張したい。「禊ぞ~」の意味がぼやけてしまうが、固いことは言わずに全体の声調を整える役割と捉えて充分である。ま、無理やりこじつけた解釈にもなっていないが、私としては「奈良」で通したいな。
法起寺に名残惜しく別れを告げて国道に戻り、法隆寺を目指して道を急いだ。何処の道だったかわからないが、家並みを抜ける細い小道をくねくね曲がると、ちょっとした坂を登る切り通し状の所に出た。年をとると誰もが経験する(そうじゃない幸運な人もいるらしいが)切迫的な尿意を催して、右手の脇道の竹藪が生えている辺りに自転車を置き用を足した。古風な民家の一軒家が立っていて静かなひっそりした場所である。どこかの間道なのか、脇道はずーっと奥まで続いていて林の中にと消えていく。僅かに蝉の声だけが耳に響いて、後はシーンと静けさが戻った。奈良の古道はそこかしこで歴史の痕跡を残している。私は知らずにその痕跡の上にもう一つ、全く無粋な生理現象の営みを罪深くも刻み付けたかと思うと、古都を散策するということは博物館以上の注意深さを持って歩かねばならない、と深く深く自戒した。
痛々しいその文化的暴力の水溜りを眺めては、奈良の土地の聖なる奥深さにつくづく感嘆した。奈良の風は心地良い。ふと遠くの鐘の音が余韻を響かせて二つ三つ鳴った。まだ陽は高く、車が自転車を追い越してゆく。見通しの良い開けた国道沿いの畑を左右に見ながら、少し口笛を吹いてみる。青い空が笑ってた。この辺りは聖徳太子のゆかりの地、遥か藤原京の政争から遠く離れた仏道の里である。心なしか道端の白い花にも仏の慈愛が宿っているかのようである。
この前テレビで法起寺を案内していたが、数ある奈良の寺の中の、小さい方の寺との印象を与えたようである。築地塀に囲まれた寺域を正門から入って行くと、美しい三重の塔が今も昔と変らぬ端正なフォルムで出迎えてくれる。慶雲3年(706)創建当時の愛くるしい姿を見上げて、これが奈良の素朴な信仰心を代表する仏教寺院だとの実感が湧き上がってくる。元は聖徳太子の宮だったものを太子没後に寺にしたとのこと、岡本寺とか池尻尼寺とか呼ばれていたらしい。歴史の古さを、1300年という時の流れを身体に感じて思わず畏まった。法隆寺の五重塔は宏壮華麗な外見から広く民衆の支持を得た仏教の興隆を印象付ける大寺院のものだが、法起寺は裕福な貴族のパトロンが私寺として尊宗していたことを思わせる。それは大寺院の多くの塔頭が広大な敷地内に点在するように、ひっそりと静まり返って人影もなく、法隆寺の観光ルートから遠く離れた場所に、まるで地域の集会所のような佇まいでチョコンとあった。
私は幾度か離れた所から眺めて観賞しているだけで中に入ったことはなかったが、テレビで金堂とか社務所とか映しているのを見て、法起寺も普通のお寺なんだなあと思った。お寺は本尊をお参りしてこそ、と考えている人々は、眺めるだけの私なぞは信心として認めないかもしれない。確かに私は信仰心から十一面観音菩薩像を拝んだことはない。私は仏教徒ではないのだ。ただ歴史の彼方に消え去った人々のドラマが微かに残って、頬を撫でる風の冷たさに古代の息吹を感じたい「時の旅人」である。そんな私に法起寺の三重の塔は何事かを語ってくれる訳でもなく、悠久の過去から永遠の未来へと、薄墨色の瓦と白い壁、暗色の木組みを見せて屹然と立っている。
今や法起寺は景色の中で国道脇の一部になっていて、すっかり地域に根付いているように見える。奈良の風物詩は数あれど、「風そよぐナラの小川の夕暮は、と歌に詠まれた夏の情景は特に美しい」。・・・と今の今まで思い込んでいたが超ビックリ、このナラは奈良では無く「樹木の楢」だと初めて知ったのだ。何という無知、何というアホ。65にもなってこんな事をウェブで公開する羽目になるとは、恥ずかし過ぎてどうしていいか。だが開き直る訳ではないが、家隆は確かに楢のつもりで歌ったのかもしれないが、この歌は「奈良」と鑑賞した方が抒情味が溢れ出て更に美しさが倍加する、と主張したい。「禊ぞ~」の意味がぼやけてしまうが、固いことは言わずに全体の声調を整える役割と捉えて充分である。ま、無理やりこじつけた解釈にもなっていないが、私としては「奈良」で通したいな。
法起寺に名残惜しく別れを告げて国道に戻り、法隆寺を目指して道を急いだ。何処の道だったかわからないが、家並みを抜ける細い小道をくねくね曲がると、ちょっとした坂を登る切り通し状の所に出た。年をとると誰もが経験する(そうじゃない幸運な人もいるらしいが)切迫的な尿意を催して、右手の脇道の竹藪が生えている辺りに自転車を置き用を足した。古風な民家の一軒家が立っていて静かなひっそりした場所である。どこかの間道なのか、脇道はずーっと奥まで続いていて林の中にと消えていく。僅かに蝉の声だけが耳に響いて、後はシーンと静けさが戻った。奈良の古道はそこかしこで歴史の痕跡を残している。私は知らずにその痕跡の上にもう一つ、全く無粋な生理現象の営みを罪深くも刻み付けたかと思うと、古都を散策するということは博物館以上の注意深さを持って歩かねばならない、と深く深く自戒した。
痛々しいその文化的暴力の水溜りを眺めては、奈良の土地の聖なる奥深さにつくづく感嘆した。奈良の風は心地良い。ふと遠くの鐘の音が余韻を響かせて二つ三つ鳴った。まだ陽は高く、車が自転車を追い越してゆく。見通しの良い開けた国道沿いの畑を左右に見ながら、少し口笛を吹いてみる。青い空が笑ってた。この辺りは聖徳太子のゆかりの地、遥か藤原京の政争から遠く離れた仏道の里である。心なしか道端の白い花にも仏の慈愛が宿っているかのようである。
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