日本がコロナから立ち直るための出口戦略が色々と考えられているようだ。それを考える材料として、2、3考察の筋道を検討してみよう。まず「出口」を出たら、どういう社会が待っているのか、である。
1、出口の外の社会には、ウィルスは「いるのか、いないのか」
世界から完全にウィルスが消えてなくなれば何の問題もない。しかし現在の状況では、日本でいなくなっても「どこかの国で蔓延」すれば、グローバルな世界だから「また日本に旅行者が持ち込み」、元の木阿弥になってしまう。そのためには「鎖国」を永久に続けて完全に交通をシャットダウンするしかない。勿論、日本からも海外に行き来することは出来ないだろう。これではウィルスから逃れても、世界の経済活動からは「落ちこぼれ」になってしまい、貧乏国に成り下がる確率は非常に高い。これは国民としても耐えられないだろう。結論から言って、ウィルスが季節性のものでない限り、日本からウィルスを完全に除去することは「経済的」にも不可能である。ウィルスは出口を出ても「社会に確実に存在」している。では実際問題、出口戦略はどうするべきか。
a. 季節性
ウィルスが幸運にも季節性だった場合(私は大いに可能性有りと思っているが)、ウィルスは自然に消滅して、梅雨が始まる「6月ごろ」には、日本に平和な日常がやってくる。勿論、また冬が来るとウィルスが活性化して、再び蔓延する可能性があるけど、いずれワクチンと治療法の確立によって、今ほどの脅威は無くなって来るだろう。問題はワクチン開発にどれくらいの時間がかかるかだが、大方の予想では来年の秋頃と見ているので、もう1、2回はこのコロナに耐えなければならない(かも知れない)。だが、これが一番「楽な」シナリオである。何もしなくて良いからだ。
b. 集団免疫
社会の6割が感染して抗体が出来あがると、ウィルスの増加する割合が減少し、次第に不活性化して消滅する。これは「そういうもんだ」と社会全体が容認すれば、多少の犠牲は出るものの、スウェーデンのように「社会は日常を取り戻す」作戦だ。これは、リスクの高いものはそれなりの防御をする、という事でもある。例えば糖尿病の人は「甘い物は我慢」しなくてはならないし、心臓が悪い人は「スポーツは我慢」するというように、健康な人と比べて「より不自由な生活」をする、と言うことである。コロナの場合、この不自由は「他人との接触の制限」になる。つまり「完全隔離」だ。これで初めて、免疫を獲得した集団と、免疫はないが「安全なエリアに隔離された集団」という、社会に2つの集団がそれぞれ「独立して接触のない状態」を維持しつつ出来上がる。経済活動も回復して、旅行者の制限もないから「これがベスト」なことは一目瞭然である。だが世代で分断された社会は、もう日常とは言えないだろう。とすれば、これは一時的な処置と言わねばならない。いずれ高齢者・リスキー集団の「隔離解除」という新しい問題に打ち当たる。
なお、これは余談だが、65歳以上の高齢者全員にリモートアシスタントを付けて、役所でリモート会話できる環境を作り、国と高齢者との連絡網にするのである。これにより、ハイリスクな高齢者を「コロナが一杯の危険な社会活動」から隔離し、必要な物資を届けたり適切な医療・介護を補助したり、或いは適度の運動を管理したりなど、高齢者の健康支援を図ることが出来る。ちなみに私の個人的希望だが、役所側でリモートを担当するのは「若い子」のアルバイトがいいねぇ。何しろ、高齢者を「気持ちの上でも明るくする」配慮が望ましいのであるから、出来れば18歳から35歳位までの女性にお願いするのがベストであると思う(それが目当てかい!)。
ついでに、マイナンバーを活用して確定申告や財務管理に医療介助から趣味の話まで、包括的な相談を一手に引き受ける「カウンセラー的業務」を行うことにすれば、より一層の信頼とともに「精神的なケア」をしていくことも可能だ。これを高齢者支援プログラムとして全国の津々浦々まで拡げていけば、今巷で話題になっている「孤独死」なんて問題も、お茶のこさいさいで一気に解決する筈である。まあ、老人がリモートなんて最先端の事をやるんだから、セキュリティには十分注意をしなければならないが、独り身の老人にとって見れば「無料キャバクラ」みたいで、これはこれで楽しいかも(アチャーっ!)。例えてみれば「姥捨山に置いてきぼり」みたいな扱いだが、何事も考え方一つ、その姥捨山は「キャバレー姥捨山」だった、というお話です。お粗末さまでした(馬鹿!)
2、ではウィルスが季節性でなく、政府が集団免疫獲得&高齢者隔離作戦も取らなかった場合はどうするのか
その場合は「不要不急の外出自粛」を永遠とやるのである(何という無策!)。つまり緊急事態が延長され、次第に「何らかの理由」でウィルスが消えて無くなるのを「ひたすら待つ」という、作戦とも言えないような「首を引っ込めたカメ」のやり方である。どうやってウィルスが居なくなったのかを見極める方法というのが、あの悪評高い「PCR検査での感染者数の減少」である。私が思うに今の状態は、ウィルスが消えて終息にむかっているのではなく、感染ターゲットのリスキーな人間や高齢者が「自宅に引き籠っている」から、感染者数が減っているに過ぎない。自粛が解除されたら、また元のように感染者が激増するであろう。北海道がその良い例である。出口戦略を「緩やかな自粛解除」というソフトな形で実行した場合、結局は新たなウィルスがやってきて「再び」感染者数が増加に転じて、また「再度、緊急事態宣言」という悪夢になりかねないのだ。我々を取り巻くウィルスの環境は、全く変わっていないのだから、至極当然である。
コロナウィルスは当初は「スポット的に点在」して感染を拡げていった。クラスターを追いかける作戦は、ことコロナに関しては「後手後手」である。何故なら発症前に人から人へと感染させるので、ライブハウスやフィットネスジムといった「クラスター」的スポットを追いかけるだけでは、ウィルス封じ込めは不可能なのだ。クラスターになる「前」が肝心なのである。そこでウィルス拡散で一番可能性が高いのが、首都圏で見られる「満員の通勤電車」だ。これは、ニューヨークでの「地下鉄のデータ」から推測される事実である。つまり遅かれ早かれ、ウィルスは「誰が持ち歩いて」いても不思議ではない状態になる。
3、実践策
ではウィルスが町中にまだウヨウヨしている状態で、高齢者隔離を行わず、社会活動を平常に戻すにはどうしたらいいか。
a. まず心構えとして、コロナは一種の「癌」だと思うこと。癌に罹る原因は人それぞれだが、我々人間の体内では、日々小さな癌が何個も出来ているのだそうだ。それを免疫システムやその他諸々の生物の工夫によって、無毒化・処理して体外へ無事排出しているわけである。たまたまそれが何かの拍子に増殖を始めて、我々の臓器の機能を奪うまでに成長した時、やっと我々は癌だと気づくのだが、「時すでに遅し」ということになる。だから「いつ、どこでコロナに罹ったのか」という詮索を、もうやめることである。犯人探しは一文の得にもならないのだ。そんなこと詮索したって、コロナから回復するわけじゃないし、時間を巻き戻せるわけでもない。要するに、コロナに罹った本当の原因は「あなた自身の身体にある」と観念することである。つまり罹るべくして罹ったというわけだ。元々コロナへの抵抗力が弱い人やハイリスクな条件に当てはまる人は、無防備で街を歩けば「一発で感染する」のは当たり前であろう。コロナに罹ったのは誰のせいでもない。ただ自分が弱かっただけなのだ。「そう思って」諦めるのが、立派な男というものである(俺、出来るかなぁ・・・)。
b. 次にPCR検査・抗体検査を増やして感染者を病院やホテルなどに収容し、ウィルスを「次の人に伝染させない」ように阻止する。なお、PCR検査は「唾液で検査」したほうが安全で早いとニュースでやっていたようだ。そんな分かりきったことに今頃気づくなんて、医者の先生方も相当「ポンコツ」である。だって最初っから「唾液の飛沫感染」って、先生方が自分で言ってたじゃないの!。・・・まあ、先生方を非難するのは別の機会に任せるとして、当然、医療施設・ベッドの確保を最優先とし、医療従事者の二次感染を防ぐ「N95マスク・防護ガウン・フェイスシールドや、ICUの人工呼吸器および専門技士の養成」など、必要な措置を「躊躇なく」実行する(これ、安倍首相のお気に入りの言葉だ)。学校は最初っからコロナ蔓延とは無関係なのだから、さっさと授業を始めるべし。これも安倍首相の思いつきで始めた休校措置だが、コロナ防止には「何の役にも立たなかった」わけだ。
c. ウィルスがターゲットの弱い人間を見つけることが難しくなり、社会全体が「ソーシャルディスタンス」を保ちながら徐々に日常を取り返してくると、経済もそれにつれて回復してくる。今まで自粛していたスポーツ・コンサート・テーマパーク・美術館・その他の施設も、徐々にであるが客を入れて営業再開するようになって来る。勿論、外食関係やジムや小売業も復活し、学生アルバイトも「また働ける」ような環境も整って、ようやく人々にも平和が戻ってくる、という計算だ。
要するに「相変わらず感染者は出続けている」が、社会は徐々に立ち直っていく。つまり、感染されたら大変だとか、酸素吸入器は恐ろしいとか、私はコロナの死の淵から生きて戻ってきた云々と、マスコミに踊らされて恐怖を撒き散らすのではなく、「死と隣合わせに生きる」ことを決心するのである。コロナがなければ、全員100歳まで元気に生活出来るってわけじゃない。何だかんだ言っても、毎年日本人は130万人も死んでいるのだ。そのうちコロナで死ぬのが「いま500人ばかりいる」というだけである。これって、言い換えれば単に「誤差の範囲」だと言える数字ではないか?
若くてピンピンしている人が「或る日突然」コロナで死んだりしたらショックだろうとは思う。石田純一だって66歳だから、私らから見れば「まだ子供」である。水泳の池江璃花子は19歳、それが突然白血病という「昔なら不治の病」で、辛い病院生活を余儀なくされた。それでも病気は「日常」の一つである。人間は、何かの病気で死亡する。ただコロナは「金と時間」が掛かるということ。だから不幸にしてコロナに罹った高齢者は、私は「ICUに入らなくても結構です」といって、医療者の負担を軽くするのも、いいかなって思う。だって80歳以上の重症患者は97%の確率で死亡する、ってデータが出ているそうじゃないの。コロナに罹って重症化したら、それで一巻の終わりなんである。もう、観念しましょうよ。
4、出口戦略
ここで、政府の取ろうとしている「徐々に解除」するやり方は、集団免疫・高齢者隔離のやり方と「今後のあり方」が根本的に異なる事だと分かったのである。違いは「徐々に解除」の方は、人間同士が余り接触しないから、ウィルスが「伝染りようがなく」て町中から消えてゆく、というのに対して、集団免疫のやり方は積極的にバラ撒いて、ウィルスが伝染ろうにも「伝染る相手が見つからない」ので次第に消えていく、というものだ。一見、ウィルスが消えて同じ事のように見えるが、中身は全然違う。
「徐々に解除」の場合、・・・人間同士の接触は感染者の発生状況を見ながら、徐々に緩めなければいけない。それと、外国人インバウンド観光業を再開すると、「新たなウィルスが持ち込まれ」て感染が広がるというデメリットが考えられる。だから経済の回復は「長い期間掛かる」し、もしかして地球規模のコロナ終息まで視野に入れなければならないだろう。日本の経済的ダメージは甚大である。しかも精神的には、しばらく「びくびく」する生活が続くから、気分だって晴れない日がずーっと続くのである。
一方「集団免疫」の方は、高齢者保護をどれだけ積極的に行うか、に掛かっている。幸い高齢者は元々年金で保護されているから、経済的なダメージは「それ程大きくはない」だろう。問題は心のケアである。只でさえ社会から見放されているような老人を、如何に「安全に隔離」するかが課題だ。若い人たちは伸び伸び社会に復帰してゆくが、老人たちは行き場がなくて「自宅に籠もりっきり」というのでは、逆に認知症患者が増えたりして、新たな別の問題が起きてしまう。そこで一般人の出歩く場所と「高齢者・リスキーな人」の楽しむ場所を、時間や曜日で分けるのである。例えば喫茶店や飲み屋や公園・ゴルフ場その他の施設など、それぞれ利用する曜日を分けて「〇〇曜日は、守られている人達」の専用、という風にするとか、色々工夫すれば、安全でしかも我慢しなくていい方法が見つかる筈だ。ここはみんなの知恵の見せ所ではないだろうか。今流行の「SNS」で、頑張ろう!ばかり言ってるんじゃなくて、こういうアイディアも是非出してもらいたいもんである。
問題は、死者がどのくらいのペースで出るか。そして、社会がそれに耐えられるかの「心の問題」になる。
5、結論
重症者・死亡者をなるべく減らし、しかも経済活動は回復していくためには、少なくとも「3つの対策」が必要だ、というのが分かった。それは、医療体制の確保拡大・コロナ弱者のケアと隔離・それと「コロナに向き合う覚悟」、である。日本はまだ、3つのうち「どれも出来ていない」状態だ。この状態で、緊急事態を5月末まで延長するという。これには、出口の先に何があるのか、その戦略を「具体的に、しかも実行可能な形」で説明する必要があると思う。いつまでも「不要不急な外出は控えて」では、何も考えていないのと同じであろう。もし「徐々に解除」する方針なら、海外からの「旅行者の受け入れ」を考慮する必要がある。そして、待っている間の「経済の維持と休業者の保護、及び心身の健康保持」のための強力な施策を断行すべきであろう。マスクと10万円を一律に配ったぐらいでは、ちょっと追い付かないんじゃないかな、と危惧する。国民は、税を納める「都合の良い家畜」ではない。自粛を要請するだけで「何を待っている」のか教えてくれないような政府なら、次の選挙で「もっと出来る政治家」に頭をすげ替えるべきである。
つまり、出口戦略の詳細説明がなされるかどうか、だ。
安倍首相率いる自民党が、「座して死を待つ暗愚な政府」にならなけりゃいいけどねぇ。ちなみに私は、菅官房長官・二階幹事長のコンビを従えた「石破首相」なんて、最高だと思うんだけど・・・ねっ?。まあ、コロナが収まってワクチンも開発されて、それで来年あたりに「史上最高のオリンピック」が開かれる、ってのが一番だけど、どうなるかなぁ、期待を込めてだけど。
ほんの少しだが、可能性は、まだあるよ!
1、出口の外の社会には、ウィルスは「いるのか、いないのか」
世界から完全にウィルスが消えてなくなれば何の問題もない。しかし現在の状況では、日本でいなくなっても「どこかの国で蔓延」すれば、グローバルな世界だから「また日本に旅行者が持ち込み」、元の木阿弥になってしまう。そのためには「鎖国」を永久に続けて完全に交通をシャットダウンするしかない。勿論、日本からも海外に行き来することは出来ないだろう。これではウィルスから逃れても、世界の経済活動からは「落ちこぼれ」になってしまい、貧乏国に成り下がる確率は非常に高い。これは国民としても耐えられないだろう。結論から言って、ウィルスが季節性のものでない限り、日本からウィルスを完全に除去することは「経済的」にも不可能である。ウィルスは出口を出ても「社会に確実に存在」している。では実際問題、出口戦略はどうするべきか。
a. 季節性
ウィルスが幸運にも季節性だった場合(私は大いに可能性有りと思っているが)、ウィルスは自然に消滅して、梅雨が始まる「6月ごろ」には、日本に平和な日常がやってくる。勿論、また冬が来るとウィルスが活性化して、再び蔓延する可能性があるけど、いずれワクチンと治療法の確立によって、今ほどの脅威は無くなって来るだろう。問題はワクチン開発にどれくらいの時間がかかるかだが、大方の予想では来年の秋頃と見ているので、もう1、2回はこのコロナに耐えなければならない(かも知れない)。だが、これが一番「楽な」シナリオである。何もしなくて良いからだ。
b. 集団免疫
社会の6割が感染して抗体が出来あがると、ウィルスの増加する割合が減少し、次第に不活性化して消滅する。これは「そういうもんだ」と社会全体が容認すれば、多少の犠牲は出るものの、スウェーデンのように「社会は日常を取り戻す」作戦だ。これは、リスクの高いものはそれなりの防御をする、という事でもある。例えば糖尿病の人は「甘い物は我慢」しなくてはならないし、心臓が悪い人は「スポーツは我慢」するというように、健康な人と比べて「より不自由な生活」をする、と言うことである。コロナの場合、この不自由は「他人との接触の制限」になる。つまり「完全隔離」だ。これで初めて、免疫を獲得した集団と、免疫はないが「安全なエリアに隔離された集団」という、社会に2つの集団がそれぞれ「独立して接触のない状態」を維持しつつ出来上がる。経済活動も回復して、旅行者の制限もないから「これがベスト」なことは一目瞭然である。だが世代で分断された社会は、もう日常とは言えないだろう。とすれば、これは一時的な処置と言わねばならない。いずれ高齢者・リスキー集団の「隔離解除」という新しい問題に打ち当たる。
なお、これは余談だが、65歳以上の高齢者全員にリモートアシスタントを付けて、役所でリモート会話できる環境を作り、国と高齢者との連絡網にするのである。これにより、ハイリスクな高齢者を「コロナが一杯の危険な社会活動」から隔離し、必要な物資を届けたり適切な医療・介護を補助したり、或いは適度の運動を管理したりなど、高齢者の健康支援を図ることが出来る。ちなみに私の個人的希望だが、役所側でリモートを担当するのは「若い子」のアルバイトがいいねぇ。何しろ、高齢者を「気持ちの上でも明るくする」配慮が望ましいのであるから、出来れば18歳から35歳位までの女性にお願いするのがベストであると思う(それが目当てかい!)。
ついでに、マイナンバーを活用して確定申告や財務管理に医療介助から趣味の話まで、包括的な相談を一手に引き受ける「カウンセラー的業務」を行うことにすれば、より一層の信頼とともに「精神的なケア」をしていくことも可能だ。これを高齢者支援プログラムとして全国の津々浦々まで拡げていけば、今巷で話題になっている「孤独死」なんて問題も、お茶のこさいさいで一気に解決する筈である。まあ、老人がリモートなんて最先端の事をやるんだから、セキュリティには十分注意をしなければならないが、独り身の老人にとって見れば「無料キャバクラ」みたいで、これはこれで楽しいかも(アチャーっ!)。例えてみれば「姥捨山に置いてきぼり」みたいな扱いだが、何事も考え方一つ、その姥捨山は「キャバレー姥捨山」だった、というお話です。お粗末さまでした(馬鹿!)
2、ではウィルスが季節性でなく、政府が集団免疫獲得&高齢者隔離作戦も取らなかった場合はどうするのか
その場合は「不要不急の外出自粛」を永遠とやるのである(何という無策!)。つまり緊急事態が延長され、次第に「何らかの理由」でウィルスが消えて無くなるのを「ひたすら待つ」という、作戦とも言えないような「首を引っ込めたカメ」のやり方である。どうやってウィルスが居なくなったのかを見極める方法というのが、あの悪評高い「PCR検査での感染者数の減少」である。私が思うに今の状態は、ウィルスが消えて終息にむかっているのではなく、感染ターゲットのリスキーな人間や高齢者が「自宅に引き籠っている」から、感染者数が減っているに過ぎない。自粛が解除されたら、また元のように感染者が激増するであろう。北海道がその良い例である。出口戦略を「緩やかな自粛解除」というソフトな形で実行した場合、結局は新たなウィルスがやってきて「再び」感染者数が増加に転じて、また「再度、緊急事態宣言」という悪夢になりかねないのだ。我々を取り巻くウィルスの環境は、全く変わっていないのだから、至極当然である。
コロナウィルスは当初は「スポット的に点在」して感染を拡げていった。クラスターを追いかける作戦は、ことコロナに関しては「後手後手」である。何故なら発症前に人から人へと感染させるので、ライブハウスやフィットネスジムといった「クラスター」的スポットを追いかけるだけでは、ウィルス封じ込めは不可能なのだ。クラスターになる「前」が肝心なのである。そこでウィルス拡散で一番可能性が高いのが、首都圏で見られる「満員の通勤電車」だ。これは、ニューヨークでの「地下鉄のデータ」から推測される事実である。つまり遅かれ早かれ、ウィルスは「誰が持ち歩いて」いても不思議ではない状態になる。
3、実践策
ではウィルスが町中にまだウヨウヨしている状態で、高齢者隔離を行わず、社会活動を平常に戻すにはどうしたらいいか。
a. まず心構えとして、コロナは一種の「癌」だと思うこと。癌に罹る原因は人それぞれだが、我々人間の体内では、日々小さな癌が何個も出来ているのだそうだ。それを免疫システムやその他諸々の生物の工夫によって、無毒化・処理して体外へ無事排出しているわけである。たまたまそれが何かの拍子に増殖を始めて、我々の臓器の機能を奪うまでに成長した時、やっと我々は癌だと気づくのだが、「時すでに遅し」ということになる。だから「いつ、どこでコロナに罹ったのか」という詮索を、もうやめることである。犯人探しは一文の得にもならないのだ。そんなこと詮索したって、コロナから回復するわけじゃないし、時間を巻き戻せるわけでもない。要するに、コロナに罹った本当の原因は「あなた自身の身体にある」と観念することである。つまり罹るべくして罹ったというわけだ。元々コロナへの抵抗力が弱い人やハイリスクな条件に当てはまる人は、無防備で街を歩けば「一発で感染する」のは当たり前であろう。コロナに罹ったのは誰のせいでもない。ただ自分が弱かっただけなのだ。「そう思って」諦めるのが、立派な男というものである(俺、出来るかなぁ・・・)。
b. 次にPCR検査・抗体検査を増やして感染者を病院やホテルなどに収容し、ウィルスを「次の人に伝染させない」ように阻止する。なお、PCR検査は「唾液で検査」したほうが安全で早いとニュースでやっていたようだ。そんな分かりきったことに今頃気づくなんて、医者の先生方も相当「ポンコツ」である。だって最初っから「唾液の飛沫感染」って、先生方が自分で言ってたじゃないの!。・・・まあ、先生方を非難するのは別の機会に任せるとして、当然、医療施設・ベッドの確保を最優先とし、医療従事者の二次感染を防ぐ「N95マスク・防護ガウン・フェイスシールドや、ICUの人工呼吸器および専門技士の養成」など、必要な措置を「躊躇なく」実行する(これ、安倍首相のお気に入りの言葉だ)。学校は最初っからコロナ蔓延とは無関係なのだから、さっさと授業を始めるべし。これも安倍首相の思いつきで始めた休校措置だが、コロナ防止には「何の役にも立たなかった」わけだ。
c. ウィルスがターゲットの弱い人間を見つけることが難しくなり、社会全体が「ソーシャルディスタンス」を保ちながら徐々に日常を取り返してくると、経済もそれにつれて回復してくる。今まで自粛していたスポーツ・コンサート・テーマパーク・美術館・その他の施設も、徐々にであるが客を入れて営業再開するようになって来る。勿論、外食関係やジムや小売業も復活し、学生アルバイトも「また働ける」ような環境も整って、ようやく人々にも平和が戻ってくる、という計算だ。
要するに「相変わらず感染者は出続けている」が、社会は徐々に立ち直っていく。つまり、感染されたら大変だとか、酸素吸入器は恐ろしいとか、私はコロナの死の淵から生きて戻ってきた云々と、マスコミに踊らされて恐怖を撒き散らすのではなく、「死と隣合わせに生きる」ことを決心するのである。コロナがなければ、全員100歳まで元気に生活出来るってわけじゃない。何だかんだ言っても、毎年日本人は130万人も死んでいるのだ。そのうちコロナで死ぬのが「いま500人ばかりいる」というだけである。これって、言い換えれば単に「誤差の範囲」だと言える数字ではないか?
若くてピンピンしている人が「或る日突然」コロナで死んだりしたらショックだろうとは思う。石田純一だって66歳だから、私らから見れば「まだ子供」である。水泳の池江璃花子は19歳、それが突然白血病という「昔なら不治の病」で、辛い病院生活を余儀なくされた。それでも病気は「日常」の一つである。人間は、何かの病気で死亡する。ただコロナは「金と時間」が掛かるということ。だから不幸にしてコロナに罹った高齢者は、私は「ICUに入らなくても結構です」といって、医療者の負担を軽くするのも、いいかなって思う。だって80歳以上の重症患者は97%の確率で死亡する、ってデータが出ているそうじゃないの。コロナに罹って重症化したら、それで一巻の終わりなんである。もう、観念しましょうよ。
4、出口戦略
ここで、政府の取ろうとしている「徐々に解除」するやり方は、集団免疫・高齢者隔離のやり方と「今後のあり方」が根本的に異なる事だと分かったのである。違いは「徐々に解除」の方は、人間同士が余り接触しないから、ウィルスが「伝染りようがなく」て町中から消えてゆく、というのに対して、集団免疫のやり方は積極的にバラ撒いて、ウィルスが伝染ろうにも「伝染る相手が見つからない」ので次第に消えていく、というものだ。一見、ウィルスが消えて同じ事のように見えるが、中身は全然違う。
「徐々に解除」の場合、・・・人間同士の接触は感染者の発生状況を見ながら、徐々に緩めなければいけない。それと、外国人インバウンド観光業を再開すると、「新たなウィルスが持ち込まれ」て感染が広がるというデメリットが考えられる。だから経済の回復は「長い期間掛かる」し、もしかして地球規模のコロナ終息まで視野に入れなければならないだろう。日本の経済的ダメージは甚大である。しかも精神的には、しばらく「びくびく」する生活が続くから、気分だって晴れない日がずーっと続くのである。
一方「集団免疫」の方は、高齢者保護をどれだけ積極的に行うか、に掛かっている。幸い高齢者は元々年金で保護されているから、経済的なダメージは「それ程大きくはない」だろう。問題は心のケアである。只でさえ社会から見放されているような老人を、如何に「安全に隔離」するかが課題だ。若い人たちは伸び伸び社会に復帰してゆくが、老人たちは行き場がなくて「自宅に籠もりっきり」というのでは、逆に認知症患者が増えたりして、新たな別の問題が起きてしまう。そこで一般人の出歩く場所と「高齢者・リスキーな人」の楽しむ場所を、時間や曜日で分けるのである。例えば喫茶店や飲み屋や公園・ゴルフ場その他の施設など、それぞれ利用する曜日を分けて「〇〇曜日は、守られている人達」の専用、という風にするとか、色々工夫すれば、安全でしかも我慢しなくていい方法が見つかる筈だ。ここはみんなの知恵の見せ所ではないだろうか。今流行の「SNS」で、頑張ろう!ばかり言ってるんじゃなくて、こういうアイディアも是非出してもらいたいもんである。
問題は、死者がどのくらいのペースで出るか。そして、社会がそれに耐えられるかの「心の問題」になる。
5、結論
重症者・死亡者をなるべく減らし、しかも経済活動は回復していくためには、少なくとも「3つの対策」が必要だ、というのが分かった。それは、医療体制の確保拡大・コロナ弱者のケアと隔離・それと「コロナに向き合う覚悟」、である。日本はまだ、3つのうち「どれも出来ていない」状態だ。この状態で、緊急事態を5月末まで延長するという。これには、出口の先に何があるのか、その戦略を「具体的に、しかも実行可能な形」で説明する必要があると思う。いつまでも「不要不急な外出は控えて」では、何も考えていないのと同じであろう。もし「徐々に解除」する方針なら、海外からの「旅行者の受け入れ」を考慮する必要がある。そして、待っている間の「経済の維持と休業者の保護、及び心身の健康保持」のための強力な施策を断行すべきであろう。マスクと10万円を一律に配ったぐらいでは、ちょっと追い付かないんじゃないかな、と危惧する。国民は、税を納める「都合の良い家畜」ではない。自粛を要請するだけで「何を待っている」のか教えてくれないような政府なら、次の選挙で「もっと出来る政治家」に頭をすげ替えるべきである。
つまり、出口戦略の詳細説明がなされるかどうか、だ。
安倍首相率いる自民党が、「座して死を待つ暗愚な政府」にならなけりゃいいけどねぇ。ちなみに私は、菅官房長官・二階幹事長のコンビを従えた「石破首相」なんて、最高だと思うんだけど・・・ねっ?。まあ、コロナが収まってワクチンも開発されて、それで来年あたりに「史上最高のオリンピック」が開かれる、ってのが一番だけど、どうなるかなぁ、期待を込めてだけど。
ほんの少しだが、可能性は、まだあるよ!
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