空観方程式

「色」と「空」の一体化によって可視化され、相互作用で共感・共鳴が生じ、新たなる思いや生命力が実体化される。

始まりがあるから終わりがある

2022年10月21日 | 読書・TV感想
煩悩を解脱して悟りに達する  について
分別・対立を「空」だとするところに
根源的な問題がある様に思う。
「空」とは実体が無い、実体を持たないということ。
「実体が無いのだから執着してはならぬ」となり、
そこに苦悩を解消するという
実践に対しての困難な状況が生まれる。
即ち
「空」という体験の境地によって、
平等性の意識が求められる。
自他の差別がなく、
自己 と他人 とが一体 不 二 という
意識 を もっ てな さ れるものであり、
さらには
西洋とは異なる
個人の独立の否定にもつながるものだ。
確 かに
対立や憎悪の不在、あるいは平等性が
慈悲の必要条件であることは理解できるが、
分別しないままの実践はいよいよ困難である。

加えて、
仏教には「因縁、因果」という概念があり、
苦はただ因縁によって誕生しただけであり、
自分が犯した業によって今があるとされている。
即ち全ての結果の原因は自分にある。
関係性は自分の所業であって、責任は自分にある。
そこの領域にカルトが入り込む。
例えば旧統一教会の代表的な教義には
「先祖の供養ができていないから災難に遭う」
となってしまう。
そこに高額な商品を売りつける実体が生まれる。
そうすることで
教義や指導者に従った上での結果は
自分に責任はなくなり苦悩も解消する。
「迷って生きていく自由」を放棄することにより、
人間は実に心地よく楽に生きることができる。

大乗仏教となっていても、
分別による苦悩は解消されず、
伝統仏教の困難さがあぶり出される。
苦しみを「実体のない空」だとして、
大衆の総てに対して無分別とするところ、
「総てに分別は虚妄である」には
限界がある様に思う。
分別に意味がある場合や、意味のない
場合が混在しているのが現実だ。
そもそも仏教に生きる目的はない。
しかし、
どう生きればよいか、ここでも
分別の意識によって葛藤し、結局
自分で決める事が苦しいので
教義や教祖様に頼る。

言うだけならば正しいことは無数にある。
正しいこと(空)だけを示すのではなく、
何が本当なのか(色)を示すべきだ。
何が現実に生じて、何が実在して起きているのか。
要はここでも何が正しいことなのかと、
何が本当のことなのかの分別だ。
自灯明と法灯明も、表も裏も実在している。
表だけでなく、裏だけでなく、双方を分別し、理解して
(平等性やバランスでの平衡状態にして)共存させる。

空観方程式のやり方では
「空」とは一体化された実体であり、
教義や教祖様に頼るのではなく、
生命の法則に頼ろうとするものだ。
具体的には
エントロピー増大の法則の中で折り合う方法である。
分別や対立をなくそうとするものではなく、分別によって、
分解の方を合成よりも少しだけ先回りさせる事だ。

関係性は自分の所業であって、
責任は自分にある点はそのままで、
あるときはあるように、ないときはないように、
両方混ざった状態だ。
即ち、
「いい人やめる」と、「やればできる」の両方だ。
そして、
いい人やめる、を少しだけ先回りさせる。

空観方程式では分別はそのままに、
一体化された存在の世界が「空」である。
どう行動するかは、自分で決められる。
できるときにやり、できないときにはやらない。
そもそも分別から生まれる一体化とは
各人に役割がそれぞれに与えられ、
それを各自分担するような意識である。
即ち自力の精神構造である。
禍福はあざなえる縄の如くである。
良いときもあれば悪いときもある。
表と裏という分別概念によって、
「紙」の概念が生まれてくるように、
始まりがあるから終わりがあるという分別によって、
生命の概念が生まれるように。
楽にさせると苦を取り除くという概念によって、
「慈悲」の概念が生まれてくるように。

私のように智慧のない人間は、分別によって
自分を是とし、他の人を非として、
自己都合や自己中心にこだわった
生き方しかできなくなる。(分別による苦の原因)
だから、他人の方を少しだけ先回りさせる。 
いわば
他人から聞く方を少しだけ先回りさせることだ。
分別はそのままで、苦と折り合いをつける方法だ。

自分になぜ生きるのかと自問することは、
キリンにどうして首が長いのか?
と聞いているようなものだ。
自分にどう生きるのかと自問することは、
象にどうして鼻が長いのか?
と聞いているようなものだ。
答えは誰にもわからない。
唯一解っているのは
生命が採用しているように、合成よりも
分解の方を少しだけ先回りさせる事だ。

「動的平衡」から構想する“能動的破壊”で生まれる組織の持続性
生きるために、壊し続ける38億年続く生命の営みに見る持続性
福島伸一参照


自分だけの一辺倒でなく、
他者(教祖様)だけの一辺倒でなく、
あるときはあるように、ないときはないように、
両方混ざった状態だ。

表があるから、裏もある。

生にだけこだわるのではなく、
死にだけこだわるのでもなく、
双方在るのが生命だ。

始まりがあるから終わりがある。




分別はそのままに、
一体化された存在の世界が「空」である。
そこから新たに生まれてくる。

荒々しさと機能性

分別・対立によって生じる迷いから、
共感・共鳴のインパクトに奮い立たされ、
新たなる思いや生命力が実体化される。


楽観主義と他者への励まし






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繰り返される権威主義集団の出現

2022年08月14日 | 読書・TV感想
権威主義集団の出現

権威主義は民主主義と対峙する姿であって、
全体主義への端緒である。
弱さから生まれるもので
絶対的権威への帰依につながる部分である。
宗教も同様に
神への絶対的な帰依が本質部分であり、
そこの部分では自由は放棄されている。
そこでの姿は
信仰の自由を享受しながら、
集団組織内では自由を放棄しているという、
ねじれの姿である。
その代わり苦から解放されて楽になる。

世の中には様々な集団が形成されている。
特に権威的集団形成のプロセスは、
弱い立場の大衆が
群れを作るプロセスと似ている。
ナチスが生まれる歴史的背景には
第一次大戦で敗退したドイツが
多額の賠償金を背負い、
大量の失業者であふれていたことにある。
そこに「国家が君を必要としている」と
プライドの持てる国家つくりの政党が現れ、
集団で結束した権威主義が形成され、
全体主義へと突き進んでいった。

我が国でも明治維新以後、
著しい工業化や経済自由主義の発展により、
資産家や労働者集団が出現した。
地方(農業)と都市(政治・商工業)での
差別化が進み地方から都市への大量の
人口流入が行われた。
そこでは弱い立場である労働者が
群れを形成する。
労働組合は小規模集団の典型であるが、
一方では、
新しい生き方や様々な人生に憧れて、
地方の農家から都会に出てきた
おびただしい人口は「大衆」と呼ばれ、
地方では得られなかったビジョン、
現金収入と自由を手にすることができた。
しかし
それと引き換えに大都市特有の
孤独に見舞われた。
その孤独が「新しいつながりの欲求」に向かい、
群れを形成するプロセスが働く。
特にここでも権威主義への憧れが台頭する。

自由は
村社会での連帯とは反対の方向であって、
各自が好きに生きればよいのであり、
孤独に向かうのは必然である。
一方の村社会では指導者の権威に従うことで、
人生の無意味さに対する不安や孤独などとは
初めから切り離される。
村の古来からの掟に従っていればよいことだ。
しかし権威に疑問を持つことや、
集団内でしか通用しない「正しさ」を疑う
という自由を放棄することになる。
そして権威主義の中に埋没して楽になる。

さて、
信仰は自由だけれど、
カルトと呼ばれる反社会性の内容であれば
ある程度の制限(法律・課税)が必要だ。
日本にはないのだが、既にフランスでは
信仰の内容・教義によって規制するのではなく
反社会性によって規制している。
要は、
社会の風習や伝統、価値観が国によって
反社会の基準が異なるからである。
ここに政治と宗教の関係が生まれてくる。




権威主義集団の実体

権威主義の種類も多義に渡るが、
全体主義と民主主義(自由主義)の
中間にあるといわれる。
それぞれの優先項目は
以下のようになっていて大別できる。

自由主義は個人の権利と民主化
(数量評価中心:多数決や利益)
権威主義は秩序と権威と虚飾
(理念、指導者、格やヒエラルキーの尊重)

大衆が向かう都会での集団化特徴とは
「他者の動向のみに注意を払う」
「大きな不祥事が生じても
    誰も責任をとろうとしない」
「不都合な事実については誰もが口を閉ざし、
    事実が隠蔽されてしまう」…
以上に加えて
集団化を強める働きをする要素としては
熱狂と憎悪と不寛容といった、
要素の存在である。
より巨大な権威主義への歯止めとして
具体的には
オルテガ「大衆の反逆」である。
「自らとは異なる意見や
少数派の意見に丁寧に耳を傾け、
粘り強く議論を積み重ねる」
「自らの能力を過信することなく、
歴史の叡知を常に参照する」
「短期的な目先の利益だけのために
物事を強引に進めない」
「敵/味方といった
安易なレッテル貼りに組しない
『懐疑する精神』を大切にする」


一方の権威的である「力」による
統治者により与えられた答えによって、
その「正しさに依存」することでも、
この決断の責任を
自分で取らなくてもよくなる。

ここでも盲目的な信仰と
一途な忠誠を求めるのである。
今は苦しいがもっと大きな幸福へ
向かう過渡期にあるのだと説明されたら、
それを信ずればよいことになる。

あるいはまた、
現代はたしかに神が死んだ時代であるが、
忠実な信奉者たちは
依然として減少はしていない。
新興宗教においては
「力」によるものではないが、
オルテガより安易であり純粋である。
そして忠実な信奉者たちであり、
聖なる大義のために自分の生命を
犠牲にする準備ができている
狂信的な信仰を抱いている人々である。
そして政治と同様に集団が巨大化すれば
明らかに民主主義の劣化へと進む。



孤独からの解放(都会における群れの形成)

地方から都会に向かう大衆が自覚する孤独により
「新たなつながりの欲求」が生まれる。
本当は人間に生きる目的などはなくても、
苦悩から解放するために、
あえて生きる目的を打ち出す必要が生じる。
生きる目的などの説明には目的論的世界観といって、
強い断定・ビジョン・決断が必要である。
あるいは受け取る側においても
自己都合による思い込みや正しさも必要である。
その正しさの御心(あるいは虚飾)に
依存していればよく、それによって
その問いには悩む必要が無くなり、
あるいはそうした虚飾にどっぷり浸ることにより
孤独や苦から解放される。



コンピュータシュミレーションの要素・結果からも
同じ方向に向く →  地方から都会に向かう大衆
仲間に近ずく  →  新しいつながりの欲求
仲間から離れる →  新しい生き方の自由な選択

こうしてみれば
以上のような同様のルールによって
都会の大衆により集団が形成されるのは
必然のように思われる。
そして
自己都合による虚構に埋もれてしまう。
しかし
熱狂と憎悪と不寛容の「集団化の加速要素」が
大きくならないかぎりにおいては、
権威主義への集団には向かわないように思うのだが、
歯止め要素の欠損による大集団化に於いては、
自分達が絶対的に正しいと思っているから
権威主義的集団は強大となり、その中では
自己の自由はますます放棄される。



「大衆の反逆」よりも科学を

科学は無いことの証明(ブラックスワンの証明)
はできない。
そのための証拠がないので
断定することができないのである。

何が「正しいのか」ではなく、
「何が本当なのか」を知るために
科学技術を使うことだ。
科学は誰でも何時でも再現が可能で、
普遍的なものであるからだ。
そもそも宗教においては信仰により
「正しさ」を疑うことが困難である。
「宗教として何が正しく、
何が間違っているのか」という判断基準に
普遍的な証拠は存在しないからだ。

権威主義の政治だろうが、宗教だろうが
集団化をゼロにすることはできない。
しかし
熱狂と憎悪と不寛容の「集団化の加速要素」
はゼロにすることはできる。

空観方程式においては
熱狂と憎悪と不寛容の原因にスポットを当て
その基準を科学に求めようとするものだ。
具体的には
「無明」を取り除くための「光明」を
科学に求める空観方程式のスタンスであって、
信仰や集団化の自由と、
その自由はどこまで許されるものなのかの提案だ。
自由を制限する範囲に的を絞って
何が本質な状態なのかを示してみようと思う。


何が正しいのか?、
意義在る人生とは?、
より良く生きるためには?
役に立つ存在のために?
こうした権威主義ではなく、
科学の普遍性「何が本当なのか」
を最優先にする。
それをもとにすることで、
変えられないものを変えようとしないことだ。
ただ盲目的に従うのではなく
折り合いを付ける方法を模索する。

従い
無いときには無いように、
あるときにはあるように。
できるときにはできるように、
できないときはできないように。
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人の命は定められたもの それにあらがってどうする

2022年07月09日 | 読書・TV感想
人の命は定められたもの。それにあらがってどうする。
あまんじて受け入れ、好きなように生きる。
神仏にすがり、おびえて過ごすのは時の無駄だ。  
NHK「鎌倉殿の13人」より




人間の不安と対立は無くならない。 
(変えられないものと折り合い合いながら生きる)


できるときにはできるように、
できないときはできないように。
そして
ある時はあるように、ない時はないように。

我らは生と死とが同居している世界に生きているので、
二元の状態も片方だけにこだわらないことだ。



ところで
「空」から「色」への変化は以下の様になっている。
片方だけでは存在できない二元である
時空、表と裏、生と死、プラスとマイナスなどの
重ね合わせ状態から
禍福、闇と明るさ、悲しさと喜び、そのような
二元の状態が50対50で次々に休みなく現れる が、
受け入れる側でその比率は変化する。
こうして
片方だけでも存在が可能な状態へと変化する。



だからあるがままでもいいし、
あるがままでなくてもいい。

片方だけでも存在が可能な
低次元の中で、何かにしがみついたり、
何かにこだわってしまっているのは、
コップ(想像上の秩序)の中で
泳いでいるようなものだ。

いい時もあれば悪い時もある。
それは変えられない人生の舞台だ。
悪いことの回避だけに邁進するのではなく、
いい時もあれば悪い時もある。それが
高次元の存在を知ることから生まれる
囚われからの解放だ。


要は
「合成よりも分解を少しだけ先回りさせる」即ち、
負けても構わないと思うと勝つことに
繋がったり、
このような世界だからこそ生きていられる
と感じたりする人間原理。
    動的平衡状態(福岡伸一)より

二元の比率が変わってしまう
低次元の世界にこだわったり、しがみつかない。
自分の心(心の反応ではなく)を変えてみる
変えられないものを自覚して、それを変えようとしない。

あるがままにと思った(合成)途端に、
あるがままでなくなる。
あるがままを捨ててこそ(分解)、
あるがままとなれる。

繰り返しになるけれど、
「こうでなければならぬ」「こうすべきだ」
を捨ててこそ、
「こういう世界だからこそ生きていられる」
が生まれてくる。



ところで
慈善活動と新興宗教は
自己都合を捨てられない人たちの活動かも?

あまり恵まれた状態にないと感じていると、
意味のある人生だということを確認してみたくなって、
あるいは
役に立っている人間だということを確認するために、
人を助ける活動に入りたいと考える。
(合成を優先的にしてしまう)

そこから
あなたはかわいそう!助けてあげる!
その自己都合の虜となって、

慈善活動に入る人

新興宗教に入る人

のめり込むと言われている。



「何かをしなければ」との思い(合成)から
始めることは、
できる時はできるように、できない時はできないように、
といった意識からは離れてしまった状態であり、
囚われからの思い込みである。

だから結論は
囚われや計らいは捨て、回り舞台の風景によって
できる時であればできるように!
となる所以である。



人の命は定められたもの。
それにあらがってどうする。あまんじて受け入れ、
好きなように生きる。(できる時はできるように)
即ち「分解を合成より少しだけ先回りさせる」生き方だ。


身を捨ててこそ身をも助けめ  西行
無義の義  親鸞
はからいを捨ててこそ本当の自分に出会う





















あとがき:参照記事
「人は『正しい』と信じてブレなくなった時に
手に負えなくなる。
自分たちが絶対的に正しいと思っているから、
従わないものを迷わず虐待したり排除したり
できるようになる」という――。
カルトに与えられた答えによって
「正しさに依存」すると、
この決断の責任を自分で取らなくてもよくなる。
今は苦しいがもっと大きな幸福へ向かう
過渡期にあるのだと説明されたら、
それを信ずればよいことになる。
カルト宗教の心地よさ
PRESIDENT Online(2022/07/29 10:00)
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宇宙が加速膨張していても、 回り舞台の回転速度は一定だ

2022年06月17日 | 読書・TV感想
こうした世界だからこそ我らは
生きている。

誕生間もない初期の宇宙は
温度が非常に高く、
「対称性」の保たれた均一な世界だった。
やがて、
宇宙が膨張して冷えはじめ、
ある温度以下になったとき、
粒子に「質量」を与えることになった。
種々の粒子がこの世に出現して、
原子や分子が誕生した。
それら原子や分子が
さまざまに結合することで
各種の物質が生まれ、
いつしか有機物が登場する。
やがて生命が誕生し、
私たち人聞が存在するようになった。





物理学者のナッシム・ハラマイン氏によると、
「宇宙空間は虚空ではなく、
エネルギーに満ちている」と。
何もないとは真空であるが、
眼に見えなくても
エネルギーに満ち溢れている世界。
しかも普通の物質は
宇宙の膨張とともに薄まるが、
そうした真空エネルギーは薄まらない。
従って、真空のいたるところで
多数の粒子がひんぱんに出没している。

要は、人間の眼に見えない
感じることしかできない
高次の世界によって、
次々に作られる世界だ。




宇宙が加速膨張していても、
真空エネルギーにより
回り舞台の回転速度は今でも
遅延することなく一定だ。

そして仏教の「空」も、
「感じることしかできないが
存在しているもの」(佐々木閑)である。
その満ち溢れたエネルギーにより
人間は自発的に現れる時空や粒子、
即ち「色」を初めて目の前にする。

いわば我らは回り舞台の上に
立たされているようなものだ。
どうすることもできないことと
折り合いを付けながら生きている。
つまり、
目の前に現れてきた「色」という
回り舞台の上で、
どのように振る舞うかという
ことになるわけだ。

いうなれば
与えられたものが回り舞台で、
課せられたものが振る舞いだ。

そこで
V,E,フランクル)によれば、
「それでも人生にイエスという」より
生きるとはいつでも
課せられた仕事なのである。
私たちの可能性は制約されている。
が、こういう事実のおかげで、・・・
どのような態度をとり、
どうふるまうのか、により
人生に意味がある。(意味が生まれる)


従いそれは次から次へと際限なく
目まぐるしく変化する回り舞台だ。
その回り舞台の回転速度は一定だ。
モットモットと思っていても、
舞台の方はそれには構わず、
次から次へと変わってゆく。

舞台の風景がすっかり
変わってしまっているのに、
モットモットのままでは
破綻するのは明白だ。





例えば、
もっと崇高な生き方は?といわれたって、
比較しているひまなど少しもない。

できる時にはできるように、
できないときにはできないように。だ!

ある時はあるように、
ない時はないように。だ!

自然には逆らえないと
よくと言われるように、この世の
真空エネルギー、あるいは回り舞台
には逆らえない。
「柳は緑 花は紅」
これ以上の(比較する基準がないから)
生き方は存在しなし、目的もない。



ところで科学の発達によって、
人間は必ず間違った見方をするものだ
ということも解ってきた。
人間は言語や文字の伝達能力を獲得したが、
その代償として悩める存在となった。
即ち苦を自覚しながら(悩みながら)
生きることとなった。そこから
死や老化の自覚からの逃避により、
あるいはまた象の鼻が長くなったように、
人間は目先のことを優先する脳となった。
将来のことよりも現在の状態、
他人の事より自分の事を優先する特性だ。
その為に自分中心(自己都合)という
思い込みするようになった。
そこからモットモットが幅を利かす。
いうなれば生きる為の、
パニックにならないための防衛手段
という進化だ。


人間も
何かに最終的に到達することを
目指して生きているわけではない。
生きるために
いろんな事をしなければならない。
生きるための目的ではなく、
生きることが目的である。
即ち生きるために生きる。(更科功)

自己都合とは異なる回り舞台の上で、
こうした無常の世界だからこそ我らは
生きていられる。







参照:「天の扉開き」
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量子コンピュータの原理と三法印

2022年03月16日 | 読書・TV感想
量子コンピュータの原理の一つに
「重ね合わせ」の原理がある。
象徴的には、
電子が波でもあり粒子でもあるという
二つの状態を同時に共存していることだ。
いわばコインを空中に放り投げて、表と裏が
同時に共存している状態であって、
地上に落ちれば、裏か表かが初めて確定する。
同様に量子ビットでも
時計回りと反時計回りの回転を
同時に共存する状態を使って、
重ね合わせのままで計算する。




オイラーの公式では
指数関数はSIN関数とCOS関数の
「重ね合わせ」となっている。







     
仏教での三法印においても
涅槃(悟り)と寂静(安らぎ)の二つの状態が
同時に共存していることにある。
いわば「重ね合わせ」の状態である。
涅槃=SIN関数
寂静=COS関数




そうした状態が量子ビットと同様に
問題の解決に役立っている。

空観方程式でも
両方の状態をいつも同時に持つことであり、
二つの状態の連立方程式となっている。

涅槃=空間(関係)
寂静=時間

即ち、
あるときはあるように
ないときはないように。

できないときはできないように
できるときはできるように。

戦える時は戦い、
戦えないときは戦わない。







参考:弁証論について
対立したり矛盾したりする概念の
双方を合わせ、どちらも切り捨てることなく
より高次の次元での概念を導く。



とんかつとカレーライスを
どちらも切り捨てることなく
高次な次元に導くと
カツカレーが生まれる。

子供に必要な勉強とゲームの場合
どちらも切り捨てることなく
高次な次元に導くと
学習ゲームが生まれる。

キリストが生誕した時の祝日名
メリークリスマスは非キリスト教徒には
当てはめられない。そこで双方の合議により
ハッピーホリデーという名称による
祝日が生まれる。


以上のような合議は止揚論として使われるが、
いずれも静的な事例や概念によるものである。


一方の
量子ビットの場合はどちらも切り捨てることなく
高次な次元に導くと「重ね合わせ」という
動的な概念として導入されている。






弁証論

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命を懸けても守るべきものがある・・・

2022年03月07日 | 読書・TV感想
ウクライナが多くの犠牲者を出しながら、
ロシアの軍事侵攻を阻止している。
国民も色々な立場、考えがあり、
逃げるのも踏みとどまるのも自由。
しかし「命が大切だから降伏しよう」
だけでは、降伏後に法律が無視されて
大量殺りくされる可能性もある。
従って、一方では
「座して死を待つより、戦って死ぬ」
という価値観も現実に存在する。


軍事力ではロシアと比べて大きく異なる。
命を懸けて守るべきものがある場合には、
守れそうなら守る。
命の方が大事になれば戦いを止める。

突き詰めれば、
「命よりも大切なものがある」だけでもダメ。
「命が一番大切だ」だけでもダメ。
双方が混在しているのが真の姿だ。

自分の命より大切のものがある。
命を掛けてでも守りたいものがある。
家族や社会が守れないなら戦う。
大きな犠牲をもとに大切なものを守るのも
事実なので、多くの命が犠牲になり、
国家・社会が消失するのなら戦いを止めることも
必要な考え方だ。


指揮官は戦争状態にあれば、
国民の命を守るために何でもありで、
最後まで戦うと発言するのも当たり前。
善良で慈悲深い指揮官だけでは早晩
没落するだけだ。

要は軍事的決断には、他国との連帯と
これらの状態を把握して制御できる
精神状態であるかどうかだ。
「座して死を待つより、戦う」といった
勇ましくかっこいいものだけに
熱中してしまわないことだ。
バランスを維持するためには
悪魔とも手を結ぶ。
これが外交の基本である。

なによりも
ウクライナが大国ロシアと闘う姿を見せたことで、
NATO諸国がばらばらに進めていた天然ガス
対応では、一致団結した経済制裁という
「群れの形」を世界に示すようになった。
さらには世界企業がロシアから引き上げたり、
世界の人の心がロシアから離れてしまうという
新たな「群れの形」が生まれた。

権威主義は専制主義ともよばれ、
強権的な政治体制のもとで市民の権利を
制限して統治するやり方だ。現実には
権力が一人や一党に集中する独裁主義である
場合が多く、2019年時点では
民主主義国・地域は87、非民主主義国は92と
民主主義は少数派となっている。
特にコロナ禍では、人の動きを強権的に抑える
権威主義国のやり方が効果を発揮している。
また中国のように著しい経済成長をも実現する。
しかし今回、オリンピック期間中に発覚した
ドーピング問題や、プーチン大統領が行った
突然の、誰も予期できなかった
ウクライナへの侵攻は、
専制主義が潜在して抱え持つ暴挙として
民主主義国の同盟を一層強固なものに
していった。


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素晴らしいものは困難から生まれる

2021年10月12日 | 読書・TV感想
◇国内女子◇
スタンレーレディスゴルフトーナメント

渋野が「スタンレーレディス」で演じたのは、
まさしく“苦労して勝つドラマ”だった。

苦労して勝つ方がドラマがあるというか。
女子でも男子でも、
例えば何年もスランプになっている方が
優勝しているところを見ると、
周りの選手まですごく熱くなるというか。
何年も苦労して勝ったというのは、
自分の中でもいろんな思いが出てくる・・・
渋野日向子が体現した“苦労して勝つドラマ”

1年11カ月ぶりのタイトルには、
2019年に積み重ねた優勝とはまた違う意味がある。

苦難を乗り越えて悲願をかなえた松山の姿は、
まぶしかった。
「本当にいろんな人に影響を与えてくれる。
自分も、そういう立場になれたらいいな」。
再び目指すメジャーの頂へ、
唯一無二のストーリーを描いていく。


 10/12(火) 8:13配信 亀山泰宏より


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マンドラゴラの象徴

2021年08月14日 | 読書・TV感想
イタリアの哲学者マキャベリ
道徳的・倫理的なものと、合理的な考えとの二元性の対比によって、
権力者のとるべきスタンスを書き表している。君主論(1534年)

愛されるべき倫理的なものと、恐怖という合理的な考え方である。
例えば、権力者は恐怖と愛のどちらを選択するのかと問われれば、
愛されるより恐れられる方がはるかに安全である。
そもそも人間は恩知らずで、むら気で、偽善者で、厚かましい。
人間は利己的で偽善的であり、たとえ従順に見えても
利がなくなれば反逆するが、君主を恐れていれば反逆しないからだ。
人間の本質を直視した、重要な倫理的問題を提起している言葉である。

君主が善良で慈悲深い人間であることは称賛すべきだとしつつも、
現実を見ればそうした君主は必ず没落するとして、
愛される君主より恐れられる君主のほうが安全だという。




薬草にも関わらず、人を殺す毒を持つ
マンドラゴラからの解放は、対立する
2元性と折り合いを付けるための特性として、
知っておいて無駄なことはない。




人間の二元対立を解決しようとする場合
マンドラゴラのように一体化している状態
であって、
そこに折り合いを付けようにもそうそう
簡単なことではない。

そこで
二元の対立が一体化している状態ならば
オイラーの公式にならって、
三角関数での解決方法ではなく、
指数関数の方法を取り入れることだ。



例えば、弁証法においても同様である。




要は見えない領域に気付かずに、
見える領域だけで決め付けてしまったり、
異質な考えにこだわって、不調和や排除したりしないことだ。

マンドラゴラの地上の葉である、人間いかに生きるべきかだけを見て、
地下にある現実の生きている姿を見逃す人間は、
自立するどころか、破滅を思い知らされるのが落ちである。
そのことに気が付かずに
一次元での正しい事だけで熱狂してしまえば、多くの場合で破綻する。

決めつけているもの(知識・理念)だけでは生きてゆけない。
人間は居心地の良い、悪いといった意識の領域も無視して生きてゆけない 。
正しい事だけで行動すれば、確かに間違いではないだけに
現実との一体化で、新たに生まれていることに気が付きにくいからだ。
しかも目には見えない概念や関係性であれば尚更だ。

新たに生まれる世界
人間はマンドラゴラの植物の様に、見えない領域の
どうしようもない不合理な領域と共に、
折り合って生きていかなければならぬ動物だ。

マンドラゴラの世界に気が付かづにいれば、
単にその場その場の感情で行動する人間だということになる。
その場合は損得・陰謀論などの外的要因に惑わされやすい。
マンドラゴラの世界に気が付けば、合理的な最適化を意識して
判断ができる。




同様に、科学の教えるもの
「人間はエントロピーの法則に
    逆らって生きてはいけない」

生命現象とはエントロピーに逆らう現象
従って、人間はマンドラゴラのように

エントロピーに逆らう領域(誕生)と
エントロピーに従う領域(死)
との双方一体化となって生きるしかない。


例えば
植物だけでなく動物との共生の場合
田んぼに鴨を育てると除草してくれる
楽になる・楽しいこととは、
他の生物と共生する(折り合いを付ける)ことで
パーフェクト・ハーモニーの世界に向かう。
共存できるレベル、即ちそれが自然の力だ。

要は見えない領域に気付かずに、
見える領域だけで決め付けてしまわぬことだ。

典型的な例:
「どう生きるべきか?」 は「何が正しいのか?」 の典型である。
一元的な見方では答えは出ない。

「人間いかに生きるべきか?」というのと、
「人が現実に生きている!」のとは、
マキャベリが言うマンドラゴラであって、
はなはだかけ離れているのだが、

マンドラゴラの象徴
二個の生命体が一つに接合しているのではなく、
一つの生命体がエントロピーに従う要素と
エントロピーに逆らう要素の二つを兼ね備えているので、
それらには境界がなく、もともと折り合った形の一体化である。
それらが同時に進行する状態での生命体だ。

エントロピーに逆らう領域(誕生)と
エントロピーに従う領域(死)
との一体化(循環)で生きるしかない。
 = 動的平衡状態


「人間が人生の意味は何かと問う前に、
人生のほうが人間に対し問いを発してきている。
だから人間は、本当は、生きる意味を問い求める必要などないのである。
人間は、人生から問われている存在である。
人間は、生きる意味を求めて問いを発するのではなく、人生からの問いに
答えなくてはならない。
そしてその答えは、それぞれの人生からの具体的な問いかけに対する
具体的な答えでなくてはならない」
ヴィクトール・E・フランクル

オイラーの公式はSINとCOSとの二つが一体化して
複素空間の中で同時に進行する状態の形となっている。
同様に、マンドラゴラも薬草と毒草とが一体となって
調和しながら生存している。

Opposite Polarities Harmonize To Become One.
Duality is a part of our existence.
Many people hate what isn’t like them.
However, without duality, you wouldn’t be alive.







変えるのではなく、新たな止揚概念を作り出すのでもなく
排除や差別でもなく、マンドラゴラのように
互いに折り合う形で一体化する。
やはりその二つが同時に進行する状態での生命体だ。

一方だけが膨張・拡大してしまう状態では破綻する
苦しいこととは、一方だけが膨張・拡大している状態なのであって、
損得だけでは破綻する。

オイラーの公式


オイラーの公式もマンドラゴラの植物の様に、
実数と虚数と共に、指数関数の姿として
折り合って一体化している。
さらに複素数での共役関係の折り合いによって
特別な世界を意識させる。

あるいは
SINとCOSとの二つが一体化して
同時に進行する状態の形となっている。

Opposite Polarities Harmonize To Become One.
Duality is a part of our existence.
Many people hate what isn’t like them.
However, without duality, you wouldn’t be alive.
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剣と天秤を持つ正義の女神 観念と本質の場合

2021年06月01日 | 読書・TV感想
剣と天秤を持つ正義の女神テミスの姿は、
空観方程式でのオイラーの公式とも一体化する。
 

即ち複素数の、実数部が天秤で虚数部が剣である。


指数関数が目隠しでの実働を象徴している。


ネイピア数(e)の導入によって
逆関数と理想的バランス状態にある。

天秤と剣はいわば考える領域であって、目隠しは考えのない実動領域である。
目隠しは法の下での平等を象徴しているが、
ちょうど真実の下では渇愛や感情、自己都合などは混在させない、
純粋な領域であることと同一のように見える。

さらには、いささかこれもこじつけに近いのであるが、
西田幾多郎博士の「善の研究」の中にある


知識と情意の観念が天秤
「色即是空」と「空即是色」であり、
剣は執着やとらわれを断ち切るであって、
目隠しが「諸法空相」に対応している。

正しいか正しくないかの天秤(観念)だけでは
持続可能性はなく、 物事の本質が剣の部分であって、
観念と一体の関係となる。
いわば本質と観念とが動的平衡状態という
関係にある。
その結果での決意が、
真相である目隠しとして象徴され、
信じるべき真の実在「涅槃寂静」の状態が
出現し存在する。

正しいか正しくないかの観念の世界に
浸るだけではなく、
善の為に悪を指摘する建前だけでなく、
ごちゃごちゃした人生の中から、
すっきりとした純粋性が体現・一体化できるし、
余分なものや心も捨てることができる。
何か信じるものがあれば、希望を持てる。
多い少ないではなく、
例えば我欲であっても大吟醸の一滴があれば、
希望を持てるようなものだ。

これは空観方程式でいうところの
「色即是空」と「空即是色」が天秤(観念)であり、
剣(本質)が執着や自分と他との境界が断ち切られた現実であり、
真相「諸法空相」が目隠しの状態だ。
いわばオイラーの公式から
観念+本質=真相(真の実在)の関係であって、
この公式はすっきりとした純粋大吟醸の一滴、
真の実在「涅槃寂静」の象徴であるように見えなくもない。
つまりこれは
麹菌(天秤)によってでんぷんが糖化され、
酵母菌(剣)によって発酵が促され、
結果としてアルコールである真の実在が
生まれてくるようなものだ。

観念と本質は一体で尚、
観念よりも本質が先立つ。
つまり
何が正しいのか(観念)ではなく、
何が本当なのか(本質)である。
したがって
「正しいものが勝つ」とは限らない。
また観念には、
自分の都合の良いことだけを切り取って
考えるといった確証バイアスもかかる。
都合の悪いところはなかったことにする。
正義の女神が不在の場合である。


例題1 公平と正義
観念(心の世界)公平であることこそ正義だ
本質(外の世界)自然は偶発的であって尚、
       全て異なるものから成り立つ
       公平と正義も異なる
真の実在   心の世界を外の世界に合わせる


例題2 仕事と幸せ
観念     好きなことを仕事にするのが
       幸せだ
本質     好きなことをするためには
       嫌なこともしないと
       できないものだ
真の実在   嫌なことも好きになることだ



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新型コロナによる超過死亡者数の比較

2021年05月16日 | 読書・TV感想
新型コロナによる超過死亡者数の比較



英国、韓国、日本


米国、韓国、日本


米国と英国共にワクチン効果が見られる

日本の超過死亡データ







米国と英国の比較
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プロゴルファー松山選手の優勝

2021年04月12日 | 読書・TV感想
松山英樹 夢のマスターズV
日本男子初のメジャー制覇!15番で池ポチャも1打差で逃げ切る


正しいか正しくないかではなく、
「評価せずとらわれることなくただ観ること」である。
これがいかに大切なことか。

最終日15番パー5、2位と4打差あれば2オンを狙うことなく、
レイアップが正しい選択であるが、松山選手はそうしなかった。





第2打の選択に「何をすれば正しいのか」を考えると、
実作業に評価の行為が混在して、自己都合が紛れ込む。
決められた通りの作業をただアクションする
競技ではそれができるかどうかだ。

ゴルフではどの方向にどの位飛ばすかだけ。
レイアップを狙う行為は、あらかじめ決めた通りの作業以外の
「優勝したい」要素が入っている。
ツーオンするとあらかじめ決められた作業の純粋行為は、松山選手が
チャレンジする姿を同組2位の選手に見せつけることにつながった。
これを見た2位の選手は次の16番で追い詰められて、
逆にあらかじめ決めた通り以外の余分な力が入ってミスしてしまった。
ここで勝負が決着したような気がする。




「自分ひとりで、何がダメだとか、フィーリングだけでやっていた。
自分が正しいと思い過ぎていた。
コーチを付けて、今は客観的な目をもってもらいながら正しい方向に進んでいる」

 頑固なまでに「自分だけ」を貫いてきた松山が、そんな言葉を口にしたのは初めてだった。
勝利から遠ざかり、苦しんだ4年間の歳月は、松山に謙虚さをもたらした。
そうやって気持ちの上で成長し、変化したことが、彼のゴルフそのものの変化と成長につながった。

 その先に待っていたのが、マスターズ優勝だった。

舩越園子 2021/04/12 11:03 記事より



マスターズにチャレンジすること、
それが競技に向き合うありのままの姿だ。
それ以外の作業や評価を競技中に介在させると情意が邪魔する。

競技だけでなく、我々の日常作業においても、
「評価せずとらわれることなくただ観ること」である。
それが「日日是好日」の真実である。
そこには
何が正しいのか(観念)だけでなく、何を信じるのか、
何にチャレンジするか(本質)である。
色即是空と空即是色と同様に、
本質と観念は常に一体であって、動的平衡状態という関係にある。
それにより日常の情意や自己都合のない正常な分析評価が可能となる。
そしてフェイクニュースに惑わされることもなくなる。
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二つの関数(動的平衡)から出現する特別な世界

2021年02月21日 | 読書・TV感想
人類の至宝といわれるオイラーの公式に於いては、
二つの関数の相互作用によって特別な状態が
実空間(実社会)に現れているということだ。
二つの関数から出現した、
縦糸と横糸により織り込まれ現れた布の
奇跡的で特別な秩序の世界だ。



全豪オープン/現地発リポート
「興奮」がポジティブな精神状態を生み、
「恐れ」が冷静な判断力へとつながる。
相反する2つの要素が連携を取りながら舵取りし、
大坂の心技体の針をピタリと勝利に定めていた。
2021/02/20 06:00現地取材・文●内田暁




スポーツ競技の時
実空間である競技中に、虚である喜怒哀楽を同居・介在させてしまい、
自分自身で挫折に追い込んでしまう現象がある。
競技中は今何をすべきかだけに集中しなければならない。
その為にプロゴルファーもプロテニスプレイヤーも
競技中に感情を持ち込まない工夫を、それぞれがしている。

虚と実とが一体となっている世界
「興奮」と「恐れ」との相反する2つの要素が動的平衡状態となって
「今何をすべきか?」の新たな世界が現れる。
興奮だけでもダメ、恐れだけでもダメ。

成功するから微笑むのではなく、微笑むことで成功する
「○○を得たい」、「これこそが!のこだわり」
このような渇愛の火はなくならないが、
笑顔は「私は今何をしているのか?」に一瞬注意を向けさせる。
喜怒哀楽ではなく、現実をあるがままに「感じる」ことである。
即ち一打一打に集中して、ただそれだけを積み重ねることができる。
一つ一つのプレーに一喜一憂しないことだ。
優勝したいという渇愛の火を完全に消してしまえば、
それに代わって完全な満足と平穏の状態が訪れる。
まさにゴータマ(仏教)の悟りだった。

これはちょうど量子の世界と同じ振る舞いをしている。
電子を見ているときは「粒子」として振る舞い、
電子を見ていないときには「波動」として振る舞う。

「興奮」がちょうど電子を見ているときの「粒子」として、
「恐れ」がちょうど電子を見ていない「波動」として振る舞う。
電子は波動でもあり粒子でもある。
現実社会での電子は「エネルギー」として振る舞うことになるので、
実作業の行動中はもっぱら「私は今何をしているのか?」に
集中することだ。
現実社会の中で「恐れ」のような渇愛の状態、あるいは「興奮」の
喜怒哀楽を持ち込むことは、「負の感情」が満足と平穏の状態を
乱してしまうことになる。
従ってこのとき実作業の行動は中断した方がよい。
中断できないときは
もっぱら「私は今何をしているのか?」に集中することだ。
とりもなおさず「今の自分に打ち込む!」ということだ。



”One for all, All for one”
「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために」
ラグビーワールドカップを機会により有名になった言葉。
誰の意見であろうが、お互い自分の意思決定としてコミットして実行する。
一つ一つの行動が恣意的な感情によって、左右されないようにする
ニュートラル(空相)な特別な世界だ。
「必要なときに、そこに仲間がいる」
「ミスはいつでも起こる、 それを仲間が全力でフォローする」という世界だ。


「良心を束ねて河となす 〜医師・中村哲 73年の軌跡〜」NHK 2021. feb.
医師であった中村哲はその著書に
「人は愛するに足り真心は信ずるに足る  アフガンとの約束」とある。
理念ではなく「おなかいっぱい食べられれば、誰も戦争には行きません」
の現実の姿であって、そこに真実があるという信条によって出現した
その世界において、
人から砂粒手を投げられても、人を疑うことをしなかった生き方である。
「人を愛する」と「人を信じる」、「理念」と「現実」
日々の活動中においては負の感情を抱くことのない象徴的なことである。
真実だから人として守るべきもの、人として尊ぶべきものに生きる姿である。
コメント

動的平衡状態とバランス・オブ・パワー

2020年03月20日 | 読書・TV感想
最後の講義 ドキュメンタリーTV・ nhk
福島伸一教授の動的平衡
および
「動的平衡」の視点から「不安定な社会」を見る
不安定な状況を創り出すことで、あらゆる変化に対応できる高次元の
「安定」を実現しているのだ。
この「動的平衡」の考え方は生物学だけではなく社会を理解する時にも
ヒントになるのではないか。(柴沼俊一 Future Society 22)


「動的平衡」の視点から「不安定な社会」を見る  生物学者 福岡伸一教授
私たちは宇宙の大原則である「エントロピー増大則」に支配されている以上、
築き上げたものは崩れ、秩序あるものは無秩序化する。
一つの場所で止まっていることはできず、分散していきます。
でも、38億年も生きながらえてきた生物はどうやって朽ち果てることに
抗ってきたのでしょう。
生物は堅牢になることを諦め、自分で自分の細胞を壊すことを選んだんです。

例えば片足を前に差し出すことで、体全体のバランスを崩しています。
その不安定な状態を解消しようとして、もう一方の足が自然と前に出るんです。
最初に「分解(エントロピーの増大)」があり、「合成(自己組織化)」が起きる
というサイクルを、絶え間なく繰り返し続けていることで、
高次元の「安定」をつくり続けている、これが「動的平衡」の考え方です。
互いに影響し合うという「関係性」、「つながり」だけは変わらない。
細胞は変わっているのに、細胞同士がつながりながら、全体としては
バランスを取っているんです。


感想:
動的平衡とは、互いに逆向きの過程が同じ速度(程度)で進行することにより、
系全体としては時間変化せず平衡に達している状態を言う。 wikipedia
分解と合成・創造と破壊・過去と今・プラスとマイナス
人間の脳も矛盾したことを考えているし、
まったく関係ないもの同士をつなげたりしている。
決してロジカルではない。偶然もあるし、カオスだ。
まさにその二次元的な相互作用によって、
即ち混沌によってバランス・オブ・パワーを保っている。

長期的な生命維持のためにサステイナビリティという
方法がある。
丈夫で頑丈なものを作って環境の変化に対応しようとしない。
何のために(私は)生きるかとか、
優勝するために、成功するために頑張るといった
一方向だけでなく、正反応と逆反応の意識を同じように
作用させることで、意識の動的平衡を維持させる。
いい時もあれば、悪い時もある。柔軟に対応する。
その方が安定的であって長持ちする。

空観方程式の意識化では、
「空」と「色」、「虚」と「実」
複素空間と実空間、個人と公共(外部要因)、
内なるものと外なるもの
中空構造や自分自身の固有領域などが
二元性の相互作用での動的平衡の結果であった。
空観方程式ではこれを純粋実空間と複素空間と呼び、
それによりバランス・オブ。パワーを保つ。
左側が複素空間で、右側が純粋実空間である。

例えば「合成」が青で、「分解」が赤である。
相互作用によって実空間に安定を作り出している。
また「色即是空」が青で、「空即是色」が赤である。
そして「涅槃寂静」が純粋実空間に対応する。
同様に
自分の周りにある外部要因が青で、感情が赤である。
正反応と逆反応の速度が同じ場合には動的平衡となり、
反応系を構成する各物質の濃度(実空間)は変化しない。
複素空間では感情と逆向きの意識を相互作用させる。
そうした複素空間では、プラスとマイナスあるいは
互いに逆向きの行程が同じ速度(程度)で進行させることで、
日常の実空間では系全体として時間変化せず
プラスのみの平衡に達している状態。
「怒り」のない時空の意識空間を維持する。
「諸行無常」が複素空間で、
「今何をしているのか?」を純粋実空間という。

コメント

虚と実の二元論と「ミアレ」の原理

2019年08月05日 | 読書・TV感想
中沢新一著「アースダイバー 東京の聖地」2017より

明治神宮は、代々木の内苑と青山にある外苑と
二つの部分で成り立っている。
伊勢神宮も、
内宮と外宮という二つの宮で成り立っている。
二つの神社はシンメトリーをなしている。

さまざまな集団が移り住んで、より大きな集団を
形成していくときの知恵である。
「違いを呑み込んだ同一性」をつくるための、
じつに巧妙な原理なのだ。



ところが明治神宮に現れている二元論は、
伊勢神宮とは違う本質を持った二元論なのである。
それは「二重構造のうちにあらわれている霊力」である。

明治神宮の代々木内苑は内側に閉じこもる「隠す」考えで、
青山の外苑は自分を「開こう」としている。
異質な空間が南北の二本の連絡通路でつながれていて、
矛盾したものを統合する原理でできている。
人間の心の自然体の構造を、そのまま表現している。



世界がどのようにして生まれてくるのかをめぐって、
日本人が抱いてきた無意識の思想にほかならない。
内苑と外苑の二重構造のうちにあらわれているものは、
「ミアレ」の原理と呼ばれ、物事の生成をあらわす、
きわめて古い日本語である。

創造の原理としての「ミアレ」
世界の本質は、その閉ざされた見えない空間から、
存在の世界に向かって、神々はあらわれ出ようとする。
そのとき、聖なる力のミアレが起こるのである。

卵のように外から閉ざされた空間の中に、霊力は隠れている。
その力が現実世界に向かって、自分を開いていく。
そのとき現実世界のただ中に、神的な力が純粋に戯れているような
特別な場所がつくりだされる。神の「ニワ(斎場)」と呼んだ。
閉じ込められていた霊力が、ミアレをつうじて、神のニワに顕現し、
遊び戯れるのだ。
内苑と外苑の二元論は、ミアレの原理が、近代的な装いをして復活を
とげている。ニワである明治神宮外苑には、ミアレの原理を復活させて
絵画館や競技場が作られた。

内苑の幽から外苑の顕へ。
隠された状態から顕現された状態へ。
神話から歴史へ。
このミアレの構造を空間で表現したのが、明治神宮の二元論である。
内苑の幽(かくれ)の空間と、外苑に実現された顕の空間は、
はじめから一体でなければならない。
外苑なしの内苑も、内苑なしの外苑も考えられない。

幽から顕へというミアレの原理は、
前方後円墳の継承儀礼の例にも存在する。
霊界に隠れてしまった霊が、
四角い土檀の上で新天皇の登場が演出された、と
考古学者は考えている。



感想:
ミアレの原理は「創造の原理」にほかならない。
「閉ざされた見えない空間から、存在の世界に向かって、
あらわれ出ようとする」とある。
そのとき、聖なる力のミアレが起こるのである。
その力が現実世界に向かって、自分を開いていく。

空観方程式においての二元論も、虚と実の関係にあって、
虚である複素空間は意識の空間として、
「閉ざされた空間の中に隠された状態にある」
シュレーディンガーの猫の様なフタ付きの箱の中にある。
箱のフタを開けない限り、複数の状態を同時に持っている。
そこでの相互作用の力によって、現実の実空間へ、
いわば存在の世界に向かって、顕現する。

即ちそこでの複素空間と実空間と同様の関係を言い表す
「ミアレ」の原理は、古来からの日本にあった
意識としての概念であり、精神文化として存在していた
とは、まさしく驚きを禁じ得ない。

そもそも複素空間と実空間の関係は、次のような意識化である。
自分の意味を自分で見つけ、
自らを信じ、自らを頼りにして生きる。
法を頼り、自分の次元で自分を考えることだ。
これがブッタの二元論(自灯明・法灯明)

そこで
複素空間と実空間の二元の関係を中沢風に言えば、
虚空観と実空観が作用する力は、ミアレの力と同様に
「卵のように外から閉ざされた空間の中に隠れている。
その力が現実世界に向かって、自分を開いていく。」
この虚空観と実空観の構造を空間で表現したのが、
複素空間であり、まさしく言い得て妙!である。
その意識概念が虚空間と実空間との二元論となっている。

複素空間の意識は箱の中にある。
喜怒哀楽、悩める空間の世界である。
自と他、いきさつとこだわり、渇愛とあるがまま、
虚空観と実空観とが相互作用を起こして合成され、
現実世界に向かって出てゆく。(ミアレの力)

複素空間と実空間の二元関係は、意識と無意識の二元論ではなく、
正と負の意識と、(エネルギーや確率のように)正だけの意識との関係だ。
目的と手段の関係に近い。渇愛と同様に目的と手段が混在するから
苦の原因となる。
目的は箱の中で相互作用させることで、手段とは混在することがない。
いわば隠された状態から顕現された状態への意識化。
「虚である複素空間と、二乗することで実現された(ミアレの力)、
実体でのエネルギー実空間は、はじめから一体でなければならない。」


   内苑       外苑
  目的の設定     手段
 正と負の意識    正だけの意識
 
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客観論的世界観と目的論的世界観との違い

2017年08月23日 | 読書・TV感想
こころの時代「唯識にいきる」
唯識の科学性 Aug.20.2017 NHK

科学者と宗教学者との対談
横山紘一(仏教学者)
大栗博司(理論物理学者)

共通した認識
人間も与えられた機能が発揮できている時が幸せである。

異なった認識
正しいかどうかをどのようにして証明するのか。
科学者:共通の言語である数学を使って証明する。
仏教学者:人によってすべて異なるが、
多数の人が幸せな状態となることで普遍性があり正しい。





丸山圭蔵著「生きるよすがを求めて」1997によれば、客観論と目的論の中で、

現代人は宗教家と科学者の互いに相いれない二つの世界観を合わせもっている。
科学技術は妥当性を検証するための方法に共通性があり、世界中どこでも通用する普遍性がある。
目的論的世界観では共通性に劣り、それを信ずる集団でしか通用しない。
そして正しいかどうか検証する手段がない。そうでないことの証明はできないから無敵である。

これによれば
多数の人が幸福になるとは、厳密には限られた集団の中での話であって、
いつでも誰にでもあてはまる普遍性ではないので、正しいことの検証にはならない。
幸せな状態となることが正しいとなると、自分にとって都合のよい面だけが強調されて
歯止めがなくなる。

丸山圭蔵著「生きるよすがを求めて」
(「MARC」データベースより)
生物機械論と生気論、客観論と目的論、還元論と全体論という生物学における生命についての対立的論議をとりあげ、順に考察。
生きているということはどういうことか、生命の本質について生物学的に論考する。
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