量子スピンは
左回転と右回転を同時に
併せ持つ
重ね合わせの状態にある。
人間はこの状態を見ることが出来ない。
人間がたまたま見ることが出来るのは
左回転の量子か、右回転の量子か、
いずれかの状態である。
その概念を利用して、新たに
量子コンピュータが生まれた。
また、量子は粒子でもあり
波動でもある状態を
同時に併せ持っている。
人間はこの状態を見ることが出来ない。
人間がたまたま見ることが出来るのは
粒子の状態か、波動の状態かの
いずれかの状態である。
電子の場合にも、粒子として一つずつ
二重スリットに打ち込んだとき、
それが多数になれば波動の干渉縞が
現れる。
結晶構造でも
電子顕微鏡において
透かし画像(透過像)か
逆格子像かのいずれかである。
双方からのシュミレーションとして
結晶構造を見ることになる。
人間はそのままの実体結晶構造を
見ることは出来ない。
最近二種類の二次元結晶を重ねると、
そこから光起電力効果が新たに現れたとの
論文が発表されている。
さて、密教思想を「総持」という。
空海は言葉や文章ではなく、
「総持」の世界から現れる
金剛界と胎蔵(界)の
二つのイメージとしてそれを表現した。
ところで鶴見には禅寺で知られる総持寺がある。
「総持」には「双方に所有」の意味を持つとある。
したがい「双持」とも表現される。
これはとりもなおさず
「量子の重ね合わせ状態」である。
いわば
真理や存在の双方を同時に持つ状態だ。
あるいは
「現実と理念の相矛盾する存在を保持する」
という。
人間はこの状態を見ることは出来ないが、
それぞれの存在を認め合い
互いに折り合う形の秩序として
新たな意識となって人間の心に現れる。
参考資料:
「総持」と「止揚」の比較
現代物理における量子の重ね合わせ状態と
空海の「総持」が同じ状態なのであれば、
これには驚くほかにない。
そもそも仏教には
現代物理における量子の重ね合わせ状態
と思われる概念がいくつか伝承されてきた。
例えば
「相即」
「二つの対立するものが実は相互に融合し合い、
一体となっていること」広辞苑
これも量子ビットでの重ね合せ状態と同じだ。
いわば西田哲学の「矛盾的自己同一」だ。
同様に「色即是空」の「即」においても、
「即とは相反することがそのまま同等で差別のないこと」広辞苑
無分別概念の表現だ。
また「空」とは
「単なる空虚(void)ではなく、そこから力と創造が出てくる」
「空とは、すべての個々のものが全体性を持ったまま、畳み込まれ
融和して完全に一体化した状態である」宗教研究家志水一夫
これも量子ビットでの重ね合せ状態と同じだ。
存在はするが眼に見えない状態を「空」として
何も存在していない状態は「無」と表現し、
「空」から眼に見える、あるいは感じられる状態が
出現することが「色」であるとしている。
そうした途中での行程が「縁起」とされる。
また、「無」から出現する状態を「渇愛」といって
対立の原因としている。
このような表現が現代の量子物理学と酷似している。
つまり
量子ビットで言えば、右回転と左回転が
重ね合わせとなった状態「空」と、
右回転あるいは左回転のいずれかが観察される「色」で、
「空」と「色」は一体の関係となっている点だ。
他の具体例では、眼に見えないブラックホールの合体により、
重力波という人間が観察できる歪みとして現れる現象だ。
時空の歪みは重力レンズとして観測され、
時空の変化は
宇宙の加速膨張として観測されている。
ところで
ホモサピエンスは他者に共感することで、
近づく意識と離れたままの意識の二つが
重ね合わせとなることで群れの状態が
新たに生まれてくる。
群れである集団の大きさは技術革新に比例する。
これは「想像上の秩序」といわれるものであって、
ホモサピエンスの特性だ。
これによって
ホモサピエンスは最強の生物となった。
しかし同時にそれは
対立に傾きやすい性質にもなっている。
一方、
対立に傾きやすいその性質に逆らう能力も
併せ持つことが知られていて、
これも一種の重ね合せ状態である。
ホモサピエンスの集団脳は人間の進歩の源泉だ。
古来より仏教として伝えられてきた「空」と「色」の関係。
そこから新たに生まれてきた
その特性を意識することでも、
一人の天才に依存するのではなく、
試行錯誤を繰り返して新たな道具を実現してきた。
「対立」は避けられないものかもしれない。
しかし「空」と「色」の道具によって「対立」する習慣が少しでも
避けられるようになることが期待される。
たとえ対立があっても、
互いに共感・共存していく道具は眼に見える形で既に存在している。
マンドラゴラ
左回転と右回転を同時に
併せ持つ
重ね合わせの状態にある。
人間はこの状態を見ることが出来ない。
人間がたまたま見ることが出来るのは
左回転の量子か、右回転の量子か、
いずれかの状態である。
その概念を利用して、新たに
量子コンピュータが生まれた。
また、量子は粒子でもあり
波動でもある状態を
同時に併せ持っている。
人間はこの状態を見ることが出来ない。
人間がたまたま見ることが出来るのは
粒子の状態か、波動の状態かの
いずれかの状態である。
電子の場合にも、粒子として一つずつ
二重スリットに打ち込んだとき、
それが多数になれば波動の干渉縞が
現れる。
結晶構造でも
電子顕微鏡において
透かし画像(透過像)か
逆格子像かのいずれかである。
双方からのシュミレーションとして
結晶構造を見ることになる。
人間はそのままの実体結晶構造を
見ることは出来ない。
最近二種類の二次元結晶を重ねると、
そこから光起電力効果が新たに現れたとの
論文が発表されている。
さて、密教思想を「総持」という。
空海は言葉や文章ではなく、
「総持」の世界から現れる
金剛界と胎蔵(界)の
二つのイメージとしてそれを表現した。
ところで鶴見には禅寺で知られる総持寺がある。
「総持」には「双方に所有」の意味を持つとある。
したがい「双持」とも表現される。
これはとりもなおさず
「量子の重ね合わせ状態」である。
いわば
真理や存在の双方を同時に持つ状態だ。
あるいは
「現実と理念の相矛盾する存在を保持する」
という。
人間はこの状態を見ることは出来ないが、
それぞれの存在を認め合い
互いに折り合う形の秩序として
新たな意識となって人間の心に現れる。
参考資料:
「総持」と「止揚」の比較
現代物理における量子の重ね合わせ状態と
空海の「総持」が同じ状態なのであれば、
これには驚くほかにない。
そもそも仏教には
現代物理における量子の重ね合わせ状態
と思われる概念がいくつか伝承されてきた。
例えば
「相即」
「二つの対立するものが実は相互に融合し合い、
一体となっていること」広辞苑
これも量子ビットでの重ね合せ状態と同じだ。
いわば西田哲学の「矛盾的自己同一」だ。
同様に「色即是空」の「即」においても、
「即とは相反することがそのまま同等で差別のないこと」広辞苑
無分別概念の表現だ。
また「空」とは
「単なる空虚(void)ではなく、そこから力と創造が出てくる」
「空とは、すべての個々のものが全体性を持ったまま、畳み込まれ
融和して完全に一体化した状態である」宗教研究家志水一夫
これも量子ビットでの重ね合せ状態と同じだ。
存在はするが眼に見えない状態を「空」として
何も存在していない状態は「無」と表現し、
「空」から眼に見える、あるいは感じられる状態が
出現することが「色」であるとしている。
そうした途中での行程が「縁起」とされる。
また、「無」から出現する状態を「渇愛」といって
対立の原因としている。
このような表現が現代の量子物理学と酷似している。
つまり
量子ビットで言えば、右回転と左回転が
重ね合わせとなった状態「空」と、
右回転あるいは左回転のいずれかが観察される「色」で、
「空」と「色」は一体の関係となっている点だ。
他の具体例では、眼に見えないブラックホールの合体により、
重力波という人間が観察できる歪みとして現れる現象だ。
時空の歪みは重力レンズとして観測され、
時空の変化は
宇宙の加速膨張として観測されている。
ところで
ホモサピエンスは他者に共感することで、
近づく意識と離れたままの意識の二つが
重ね合わせとなることで群れの状態が
新たに生まれてくる。
群れである集団の大きさは技術革新に比例する。
これは「想像上の秩序」といわれるものであって、
ホモサピエンスの特性だ。
これによって
ホモサピエンスは最強の生物となった。
しかし同時にそれは
対立に傾きやすい性質にもなっている。
一方、
対立に傾きやすいその性質に逆らう能力も
併せ持つことが知られていて、
これも一種の重ね合せ状態である。
ホモサピエンスの集団脳は人間の進歩の源泉だ。
古来より仏教として伝えられてきた「空」と「色」の関係。
そこから新たに生まれてきた
その特性を意識することでも、
一人の天才に依存するのではなく、
試行錯誤を繰り返して新たな道具を実現してきた。
「対立」は避けられないものかもしれない。
しかし「空」と「色」の道具によって「対立」する習慣が少しでも
避けられるようになることが期待される。
たとえ対立があっても、
互いに共感・共存していく道具は眼に見える形で既に存在している。
マンドラゴラ