朝ドラ「らんまん」 (65回よりの文字おこし)
家というのはなんじゃろ
血筋、金、格式、何を守ってきたがじゃろう
それより今ここにおる
おまんらが幸せなのが肝心ながじゃ
この先も健やかに幸せに生きていく
家の願いじゃのうて己の願いに生きていくことが....
今更なんじゃ!
これまで散々本家と分家を区別して
わしら分家を見下してきたがは誰じゃ!
わしがそうさせてきた、けれど時が変わった
この先は本家分家と上下の別なく互いに手を取りおうて
商いに励んでいってほしい
役に立つ観念かどうかは人間が決めるのではなく、
自然環境や偶然のめぐり合わせが、そして何よりも
その場その時代での外的環境によって作用される。
例えば時代の移り変わり、感情、インパクトである。
従って、その時代には命がけで守り続けていた
絶対的な観念でさえも、
もともとは無価値なものであったとの立場が
ここでも一層鮮明になる。
人々は何を恐れ何を守って生きてきた?
本家分家の区別を守ることで
村組織・秩序を守ってきた。
自由や平等の観念が犠牲となるけれど、
それよりも従来のしきたりの方が役に立つ。
即ち誰もが決められた秩序で定められた
作業をこなしてゆけば、
誰もが食う事に困ることがない。
長年にわたって
従来通りの変化のない秩序が保たれる。
昔からの役割分担で、
定められた取り分でお互いが納得して
生きて行ける。
これが戦もなく、
もめ事もなく平和で何よりだった。
集団での組織防衛には
格差や差別の問題が付きまとうものだ。
何よりも
活気や熱意には格差や差別が障害となる。
特に我が国においては鎖国の状態では、
活気や熱意よりも、波風の立たない
競争の無い整然とした秩序の方が
役に立つ状態が長期間続いた。
ところが産業革命は、
世界的な交流が活発になるにつれ
国家の力や富の大きさが注目される。
やがて商工業の発展は、村から都会に
出ることで現金収入と自由が得られる
という認識が拡散する。この外部環境が
長年続いた村の掟の観念を打ち砕く。
格差や差別の観念と相まって、
大勢が同一の新たな観念を共有し
熱狂してしまう。
一方、
尊王攘夷など信条や正義の観念では、
正しいか正しくないかの一辺倒となって、
人間が多数の観念を勝手に序列化してしまう。
この場合は必ずモットモットとなって、
パワーバランスが崩壊したという外部環境の中で
不安定で悲惨な道に進んでしまいがちだ。
従って、進化の法則と同様に、
血筋を守る観念も、接ぎ木による新たな観念も
正義、信念、自由や霊魂、お家の観念も、
無限にある観念を同列に扱って序列化しない。
その中から人間が価値を決めるのではなく、
外部環境がその場その時で
選別・淘汰し、ただそれを繰り返すだけだ。
一旦秩序が崩壊すれば、革命的な改革がない限り、
平和な秩序に戻ることの保証がない。
富国強兵をあきらめて、元の村秩序に戻ることは
ほぼ不可能だ。
人間が考える観念の序列
「観念は無価値である」と唐突に主張しても
直ぐには受け入れられない。
こういう場合には事例で示すのが良い。
象徴的には独裁政治の中で
被支配者達が正しいか正しくないかを主張しても、
聞いてもらえないのなら価値がないのと同然だ。
独裁政治と同様な立場にある外部環境が
人間の観念を評価・選別するのであれば、やはり
人間にとって観念は価値がないのと同然だ。
無価値なものを都合で序列化しても無意味だ。
進化でも同様に、
勝手に人間が序列化した進化の図は誤りとされる。
(下図)
要は無価値なものだと自覚したうえで、自分に合う
観念を選択し、肯定してゆくことだ。
失望したり後悔したりすることがなくなるために。
それが「らんまん」での脚本に今回登場した
ということだ。
参考:
東京八王子南大沢にある牧野標本館には
おびただしい実物標本(16万点が収蔵)が保管され
データべース化されている。
参考に牧野博士が宮崎、高知、岩手早池峰で採取した
スイフヨウ、ヒメウコギ、カトウハコベの
データベースにリンクする。
家というのはなんじゃろ
血筋、金、格式、何を守ってきたがじゃろう
それより今ここにおる
おまんらが幸せなのが肝心ながじゃ
この先も健やかに幸せに生きていく
家の願いじゃのうて己の願いに生きていくことが....
今更なんじゃ!
これまで散々本家と分家を区別して
わしら分家を見下してきたがは誰じゃ!
わしがそうさせてきた、けれど時が変わった
この先は本家分家と上下の別なく互いに手を取りおうて
商いに励んでいってほしい
役に立つ観念かどうかは人間が決めるのではなく、
自然環境や偶然のめぐり合わせが、そして何よりも
その場その時代での外的環境によって作用される。
例えば時代の移り変わり、感情、インパクトである。
従って、その時代には命がけで守り続けていた
絶対的な観念でさえも、
もともとは無価値なものであったとの立場が
ここでも一層鮮明になる。
人々は何を恐れ何を守って生きてきた?
本家分家の区別を守ることで
村組織・秩序を守ってきた。
自由や平等の観念が犠牲となるけれど、
それよりも従来のしきたりの方が役に立つ。
即ち誰もが決められた秩序で定められた
作業をこなしてゆけば、
誰もが食う事に困ることがない。
長年にわたって
従来通りの変化のない秩序が保たれる。
昔からの役割分担で、
定められた取り分でお互いが納得して
生きて行ける。
これが戦もなく、
もめ事もなく平和で何よりだった。
集団での組織防衛には
格差や差別の問題が付きまとうものだ。
何よりも
活気や熱意には格差や差別が障害となる。
特に我が国においては鎖国の状態では、
活気や熱意よりも、波風の立たない
競争の無い整然とした秩序の方が
役に立つ状態が長期間続いた。
ところが産業革命は、
世界的な交流が活発になるにつれ
国家の力や富の大きさが注目される。
やがて商工業の発展は、村から都会に
出ることで現金収入と自由が得られる
という認識が拡散する。この外部環境が
長年続いた村の掟の観念を打ち砕く。
格差や差別の観念と相まって、
大勢が同一の新たな観念を共有し
熱狂してしまう。
一方、
尊王攘夷など信条や正義の観念では、
正しいか正しくないかの一辺倒となって、
人間が多数の観念を勝手に序列化してしまう。
この場合は必ずモットモットとなって、
パワーバランスが崩壊したという外部環境の中で
不安定で悲惨な道に進んでしまいがちだ。
従って、進化の法則と同様に、
血筋を守る観念も、接ぎ木による新たな観念も
正義、信念、自由や霊魂、お家の観念も、
無限にある観念を同列に扱って序列化しない。
その中から人間が価値を決めるのではなく、
外部環境がその場その時で
選別・淘汰し、ただそれを繰り返すだけだ。
一旦秩序が崩壊すれば、革命的な改革がない限り、
平和な秩序に戻ることの保証がない。
富国強兵をあきらめて、元の村秩序に戻ることは
ほぼ不可能だ。
人間が考える観念の序列
「観念は無価値である」と唐突に主張しても
直ぐには受け入れられない。
こういう場合には事例で示すのが良い。
象徴的には独裁政治の中で
被支配者達が正しいか正しくないかを主張しても、
聞いてもらえないのなら価値がないのと同然だ。
独裁政治と同様な立場にある外部環境が
人間の観念を評価・選別するのであれば、やはり
人間にとって観念は価値がないのと同然だ。
無価値なものを都合で序列化しても無意味だ。
進化でも同様に、
勝手に人間が序列化した進化の図は誤りとされる。
(下図)
要は無価値なものだと自覚したうえで、自分に合う
観念を選択し、肯定してゆくことだ。
失望したり後悔したりすることがなくなるために。
それが「らんまん」での脚本に今回登場した
ということだ。
参考:
東京八王子南大沢にある牧野標本館には
おびただしい実物標本(16万点が収蔵)が保管され
データべース化されている。
参考に牧野博士が宮崎、高知、岩手早池峰で採取した
スイフヨウ、ヒメウコギ、カトウハコベの
データベースにリンクする。