空観方程式

「色」と「空」の一体化によって可視化され、相互作用で共感・共鳴が生じ、新たなる思いや生命力が実体化される。

仏教での「無我」の教えと「お盆」の習慣 Copilotの答え

2024年11月29日 | スクラップブック
日本国内での「盆」に対する意識の根拠について教えてほしい。
「お盆」は日本における重要な行事の一つであり、
祖先の霊を迎え、供養する期間として知られています。
この行事に対する意識や根拠について、いくつかのポイントを紹介します。

歴史的背景
仏教の影響:

お盆は、仏教の「盂蘭盆会」(うらぼんえ)に由来します。
盂蘭盆会は、仏教の教えに基づいて、亡くなった人々の霊を供養するための行事です。
お盆の行事は日本に仏教が伝来した6世紀ごろから行われているとされています。

祖先崇拝:
日本の伝統的な信仰である祖先崇拝とも深く結びついています。
古くから、亡くなった祖先の霊を敬い、家族の一員として迎える習慣がありました。

お盆の習慣
迎え火と送り火:
迎え火は、祖先の霊を家に迎え入れるために行われ、
送り火は、霊を見送るために行われます。
これらの火は、霊が迷わず家に戻り、
そして帰ることができるようにする役割を持っています。

墓参り:
お盆の期間中、多くの人々が先祖の墓を訪れ、掃除や花を供えることで供養します。
これは、先祖の霊に感謝し、家族の繁栄を願うためです。

精霊棚(しょうりょうだな):
家庭内に精霊棚を設け、故人の写真や遺品、お供え物を並べます。
これにより、故人の霊が家に帰ってきたときに休息できる場所を提供します。

現代における意識
家庭の絆:
お盆は、家族が集まる機会として重要視されています。
忙しい現代社会においても、お盆の期間には帰省する人々が多く見られます。
祖先を敬い、家族の歴史や絆を再確認する時間とされています。

地域の伝統:
各地域で独自のお盆行事や風習があり、地域社会の結束を強める役割も果たしています。
例えば、踊りや祭りなどが行われ、地域住民が一体となって先祖を供養します。

文化遺産の保存:
お盆の習慣は、文化遺産としても大切にされています。
次世代に伝えられることで、日本の文化と伝統を守る役割を担っています。

お盆は、歴史的・宗教的な背景とともに、
現代においても家族や地域のつながりを深める大切な行事として認識されています。




お盆は仏教に由来するとの回答ですが、
仏教では「無我」思想の様に永遠不滅である「霊」の存在を否定している点で
矛盾しているのではないか?


確かに、仏教の「無我」思想とお盆のような祖先供養の行事の間には、
表面的には矛盾があるように見えます。以下にその点を詳しく説明します。

仏教の「無我」思想
仏教では、すべての存在は常に変化し、
固定された自己(アートマン)や魂の存在を否定する「無我」思想を持っています。
すべての現象は因縁によって生じ、独立した実体を持たないとされています。
この教えは、執着を手放し、悟り(ニルヴァーナ)に至るための重要な概念です。

お盆の由来と目的
一方、お盆は祖先の霊を迎え、供養する行事であり、これには仏教だけでなく、
日本の伝統的な祖先崇拝の要素も強く影響しています。
以下のような点で、お盆が仏教の教義と調和し得る理由があります:

現実の生活と教えの調和:
仏教の教えは、理論的な哲学だけでなく、人々の日常生活や社会的な慣習とも融合しています。
お盆のような行事は、家族や地域社会のつながりを強化し、精神的な平和をもたらす役割を果たしています。

象徴的な理解:
祖先の霊を迎える行為は、必ずしも個々の固定された魂の存在を示すものではなく、
象徴的な意味合いが強いと解釈できます。
これは、先祖への感謝や家族の歴史を大切にするための象徴的な儀式と捉えられます。

融合と変容:
日本における仏教は、伝統的な神道や民間信仰と融合し、独自の形で発展してきました。
お盆もその一例であり、仏教の教えと日本固有の文化や信仰が交じり合って形成されたものです。

現代の視点
現代の仏教徒や宗教研究者の中には、お盆の行事を仏教の教義の一部として受け入れつつ、
哲学的な無我の教えと日常の宗教的実践を矛盾なく理解する方法を模索している人もいます。
実際のところ、宗教や文化の伝統は複雑で多層的なものであり、
一見矛盾するように見える要素が共存することもあります。

このように、
お盆の行事は仏教の教えと伝統的な日本文化の融合によって成り立っており、
両者の関係は深く、複雑なものです。
さらに深く掘り下げたい場合は、仏教の教典や学術的な研究を参照すると良いでしょう。













参考:Copilot(コパイロット)



論理的な矛盾点が存在していても
人間の方で指摘しないと回答には含まれない。

(恣意的かどうかは別にしても)
欠落箇所が含まれていたとしても判りずらい。
そもそも
お盆の風習は仏教の論理的な価値判断から
選ばれたわけではないことの証明だ。
個人個人が自分にとって価値があると思われるから
風習として選択されて継承されているのであって、
明確な根拠があるから行っているのではない。
魂の存在という仮想空間でのストーリーに
従っているだけなのだ。特に日本人は
互いに相反する観念が共存していても問題ない。
混ざっているのではなく一体化している証拠でもある。
量子の重ね合わせと同等だ。

タイのプーケットでは現在もなお
邪悪を払うため、そして幸運を呼び込むために
ウナギを放流する習慣があるという。
個人個人が自分にとって価値があると思うからだ。
「ウナギを放流する人に向かって根拠を示せ」
とはだれも言わないだろう。
単に自分の生きてきたストーリーに従っているのであって、
他人から押し付けられた価値観にとらわれることではない。


ソースコードを生成する
日本語で書くだけで、
AI(Copilot)によって自動的にソースコードが補完される。


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空海の「虚往実帰」

2024年05月05日 | スクラップブック
老子の言葉で
 人に魚を与えれば一日生かすことができるが、
人に魚釣りを教えれば一生養うことができる。
というのがある。

この逸話(教訓)は
モノにすがって生きることを戒める道徳とは異なり、
メンタル的な面での解決策、
それにより救済される場合がある。
道徳だけでは解決策にならないという主張だ。

例えば、
自由主義のみでは損得勘定優先となって
損した得したに媚びるようになる。
結果的に「魚をもらって得したような気になる」
知らず知らずに自由からは逸脱し、
損得に媚びた不自由な身となる。
自由を維持するためには
モットモットの意識だけでは危うい存在だ。
捨てるという意識・感情も必要だ。
「もらうことを捨てれば(魚釣り方法を)得ることになる」
呼吸と同様、吸うだけでなく吐く(捨てる)ことも必要だ。
あるがままを捨ててこそあるがままとなれる。
ハッピーを捨ててこそハッピーになれる。
純粋を捨ててこそ純粋になる。
悟りを捨ててこそ悟れる。
不完全なものの可能性により、
完璧を捨ててこそ完璧となる。
モットモットを捨てることで儲ける。
そこから
「生きているだけで丸儲け」といった
心の変化が生まれる。



美徳や理想の観念(魚を与える)だけでは
パワーにならないし、
いつまでもひたすら堪えて待つ思いだけでなく、
心の変化が可能となる対処法(魚釣り方法を)も必要である。
要は
感じる(観じる)心で見えてくる。
それを実社会に活かすことだ。

色即是空
空即是色 

実社会から仮想空間に赴き、
空から実社会に帰るという空海の「虚往実帰」に
通じる言葉でもある。




ところで
「誰かに頼ったり、誰かに頼られたり」
この二項で人間関係が生まれ、そこからの道徳だ。
生まれて死ぬまでの長期にわたる関係で、
道徳通りにはいかない場合も多くある。
たとえ失敗しても、あるいは生きづらさを実感しても
メタバースと呼ばれる仮想空間で希望を取り戻して、
実社会に帰ってくる方法が「虚往実帰」だ。
「実」である現実世界と「虚」である仮想空間、
片方だけでは関係・改良は生まれない。
心の持ち方には双方による動的平衡が必要だ。
こうして対立二項での共存作用がとても重要だ。
それを「融合」や「重ね合せ」と呼ぶ。
例えば波動の干渉は仮想空間での演算により
実体空間で波の強度として現れる。

量子の世界でも、
スピンの回転方向が、
左と右の対立した形で共存している場合がある。
「重ね合せ」と呼ばれる。
量子コンピュータはこれを利用して、
0と1とを一体化させて重ね合せた形で
計算を実行する。
その計算結果だけが現実社会へ提示される。
ここでも「虚往実帰」だ。

 


 現実社会で人間が考え、
その正しさにこだわろうとするのが
道徳のような一極集中型で、
例えば民主主義、権威主義、全体主義、共産主義など、
いずれも後戻りのない決めつけ型の一極集中だ。
しかし
たまたま運良く旨くいった方が褒め称えられ、
運悪く旨くいかなかった方はすげ替えられるだけの話だ。
要は正しいから良くなることではない点だ。
だからこそ問題は膨大の数の日常だ。
そもそもいちいち正しいかどうかの合理性について
検証するわけでもないし、
即断即決の扁桃体思考に加えて、
感情による評価ミスで多くの トラブルが生まれる。
そして正しいかどうかではなく、
運が良かったかどうかで決められるのであれば、
結果として
運悪く全てを否定されたとしても、
信じるものがなくなったとしても、
絶望回避する方法に、
メタバースのような仮想空間での
自分の思考を自分で眺める方法だ。
つまり、魚の釣り方である
心の変化が可能となる対処法だ。

仮想空間では、
過去の人々との相互作用によって、
「感じる(観じる)心で見えてくる」
そこから夢や希望を取り戻し、
実社会に帰って元気を取り戻し、
またダメなときにはメタバースに戻るという
試行錯誤が可能だ。
例えば古来からの試行錯誤では、
「和(重ね合わせによる相互作用)を以て貴しとなす」
日日是好日
これらが「色即是空・空即是色」のリセット思考だ。
若い年代ではやり直しができるから、
何時でも戻ってこられる虚構のメタバースを基地にして
大いにチャレンジしてみることだ。
要は如何にして好ましく捉えられるか、
これが魚釣りの教えなのであろう。
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幸福の原理

2024年04月07日 | スクラップブック
幸福の原理:メンタルの安定と心の平和
それを得るため、メンタルと心の原理を知る。
それによって
原因の一つである評価ミスを防ぐことが出来るし、
同時に
自分の感情の起伏を眺めることでも、
今ある幸せに気づくことも出来るようになる。

頭の毛や唾は普段丁寧に扱われる人体備品だが、
一旦床に落ちてしまえば瞬時に汚物扱いとなる。
これはとりもなおさず
扁桃体の評価ミスで引き起こされている。
同じようにして
扁桃体思考はどうでもいいことであっても、
関わらずにはいられない程の重大事件で、
無視することなどできないと感じるものだ。
これは脳での危機管理に関連する、
進化の過程で培われた
ネガティブな感情を処理する
最優先の独裁者的部位のなせる特性だ。

日常のほとんどが
この扁桃体思考(感情主体の独裁者)である。
心配事に取りつかれ
不安にさいなまれている最中は、
どうでもいいことでも,
おとぎ話であっても
とてもリアルに感じられる。
そしてむしろ
現実化しないことに不安を覚え
悩みとして抱え込む

そのことに気が付かなければ
思い込みのようにして評価ミスを起こす。
「取り越し苦労」で、人生を浪費してしまい、
「いまを楽しみながら生きること」ができなくなる。
(長期化による精神障害の危険)
扁桃体思考は一極集中(何が正しいか)の
効率優先であって、
生きる意味の合理性(何が本当かの試行錯誤)
にまで深められない。
合理的な思考による一極集中化であれば、
気が付くことでリセットして
引き返すことができるが、
扁桃体思考による評価ミスから進んでしまった
一極集中化では、
気が付かないままで進行するので、
元の状態に戻るのが極めて困難だ。


扁桃体思考を抑制するためには、
前頭前野を刺激(前頭葉思考)することだ。
例えば
眼に見えないものに価値を見いだす
合理性による評価判断だ。
自分に正直に生きる幸せ、
目的を持つことが幸せ
感謝する幸せ、
人のため、人を幸福にする幸せ
家族と一緒にいる幸せ
などについてだ。


参考:
感情主体の扁桃体思考における象徴的な具体例と特徴
マネーによる幸せ(比べてみるための眼で見える幸せ)
刺激的な幸せ(比べるために普通のことに満足できない)
この様なことには限りがないこと(長期化の危険性)であり、
苦しみを生むものである。
しかも心の安定とは関わりのないことである。

改善することと否定することは異なる
ダメな・無価値な人間だ、ではなく
価値ある人間だと肯定する。
自然を眺めるように、自分の気持ちの起伏を眺める。
自然とのつながりに気が付く事、
自分のこだわりを他に委ねる事。




余談:
西欧の個の意識や主観・観念は我執・こだわりである。
一方、我が国での基本は我執・こだわりを捨てて、
自然と(善と悪とが)一体となる(無分別の)観念である。
それによって
新たに生まれた秩序で悩み・争いから解放され救済される姿勢だ。
善を行うとかえって対立を生むことがあるからだ。
(扁桃体思考により何もしない人間が悪に見える)
善いことの意識(分別することや自己都合)を捨てることで、
初めて真の善となる。(善と悪の一体化)
息を吐く(捨てる)ことで息を吸うことができる。
「吐くことと吸うことは一体である」
ハッピーでなければいけないと思っている限り、
ハッピーになれない。
「ハッピーを捨ててこそハッピーになれる」



2024年4月7日 日野市
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二項対立によって生まれるもの

2023年01月14日 | スクラップブック
対立する二つの概念要素が
重ね合わせの状態となることで
新たな状態が生まれてくる。
一つだけの概念要素では、
融通性に欠け、思想が硬直した状態となり
選択性やバランス性においても劣る。 
何より新たなる概念は生まれてこないので、
問題の解決に乏しい。
そもそも硬直した思想の下では、
人間の自由も大きく制限されてしまう。

物理的な現象においても
電子は波でもあり粒子でもあるということで
多面的であって、象徴的である。
それによって様々な現象に対して
融通性に富んだ解釈が可能となる。また、
左や右のスピンがあって、それらが
一体化された重ね合わせ状態になると、
電子のスピンは無くなるわけではないが
消えてしまう。

さて、人間は一人では生きられないが、
集団行動によって一体感が有られ、
(それだけ自由も制限されるものの)
迷いや苦悩からも解放される。
場合によっては安全も強化される。
それは、人間の進化の面でも現れていて、
集団の大きさに依存していることが
知られている。
つまり、大きな集団であるほうが
より大きく進化している。
ホモサピエンスでの大きな集団脳は
人間の進歩の源泉だ。
ホモサピエンスとネアンデルタールには
言葉や火を使うこと(知能)には違いがないが、
ホモサピエンスでは、より大きな集団であったため、
それだけ相対的に大きく進化した形跡がある。



それは一人の天才に依存するのではなく、
複数の思考の重ね合わせによって
新たなものが次々と現れてくるからだ。
即ち試行錯誤を繰り返すことにより、
新たな道具を実現してきたことによる。
改良やアイデアといった自分以外に対する
(天才一人による思考より)
興味からくる多様性である。
多様性により技術革新が生まれるからだ。

同様に近代においても
革命などによって成立した集団、特に
一つの思想のみによって成立した国家では、
歴史を振り返れば
悲惨な道のりを歩んでいるように見える。
我が国においても、
幕末には尊皇攘夷の思想が登場したが、
それにこだわることなく、経済と一体での
政治を進めた結果、明治維新と呼ばれる
発展を遂げた。
然るに、昭和初期になって再び尊皇攘夷の
思想一色に染まってしまった結果、
悲惨な歩みをたどることとなった。

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無分別の分別

2022年09月06日 | スクラップブック
弁証法で使われた図を利用して、それを
量子システムにも当てはめてみて、
電子の重ね合わせの状態を示す。


正、反の良い方を選択するのではなく、
高次元の新たな解決法を生み出す。
正、反にはいずれにも偏ることがない。



重ね合わせの状態

量子である電子は自転していて、
上向きスピンと下向きスピンがある。
双方が一体化している状態が
重ね合わせといわれる。
そのような重ね合わせの姿は
見ることができないが、
重ね合わせやスピンとの関係により
磁性という性質が現れ、
その姿を我々に見せてくれる。




同様に
電子そのものの姿も
粒子でもあり波でもある状態で、
大きさの概念のない
重ね合わせの状態となっている。
そのような重ね合わせの姿も
見ることができない。
さて、止揚システムに比べて、
量子の重ね合わせは動的である。



ところで仏教においても
而二不二(ニニフニ)といわれる教えの中で、
対立項目の
「表と裏」から、紙の姿が表現されている。
ここでも
弁証法で使われた図を利用してみると、



ここでは「表も裏」も一体であって、
そもそも分別することが虚妄であるという。
確かに
表ばかりの紙や、裏ばかりの紙は存在しない。



利他の実践
仏教で知られる「慈悲と知恵」も、
救いたいという気持ち(慈悲)と
救う方法(知恵)、
要は分別することなく、
どちらの心も併せ持つことが大切だ。
それが二元一体化での「而二不二」だ。
慈悲だけの仏教もないし、
知恵(智慧)だけの仏教もない。
双方が一体となって、はじめて
意味のある仏教となる。

しかし、ここで終わってしまっては
単なる願望や道徳領域であるから、
今一度、実践に向けて半歩進めてみよう。





人は進化によって選択・排除の
分別能力を獲得したが、
それと引き換えに
苦悩し、争うようになった。



どうすればよいか

量子の世界の
眼には見えないが、
重ね合わせ状態の自覚。
例えば電子スピンの重ね合わせ状態から
眼に見える実体が生まれてくる。

一方
「空」の般若心経の世界にも、
「感じることしかできないが
存在しているもの」佐々木閑
というのがあった。
より高次元の世界が
我らが感じられないところにある。
というものだ。

全てが平等につながり合い、
一体となって溶け合っている世界。
眼には見えないが新たなものが
常に生み出している世界
新しい自分にリセットしてくれる世界。

慈悲と知恵が無分別となった世界から
新たな回り舞台が出現し、その上で
自分にとっての意味ある人生、即ち
自分の中に直感が生まれ、
人生をどのように演じるかが問われる。

重ね合せも空も無分別(日本的霊性)も
エネルギーのように眼には見えないが、
存在するものである。
そこから眼に見える実在が生まれてくる。
それは人間には変えられない法則で
そこから生まれてくるものと
折り合いながら生きるしかない。

(無分別の分別)



そして、
エントロピー増大の法則の中で、
生命が採用している「分解と合成」の
動的平衡状態に注目する。

「動的平衡」から構想する
“能動的破壊”で生まれる組織の持続性
生きるために、壊し続ける
38億年続く生命の営みに見る持続性
福島伸一参照





「空」と「色」との分別、即ち
変えられないものと変えられるものとの
自覚ができれば、変えられるものでの
動的平衡状態の応用によって、特別
無分別にこだわる必要はなかろう。


例えば紙の裏と表での分別では
裏と表の分別はそのままで、
裏があるから表もあるということで、



同じく例えば
自分と他人との分別においては
自と他の分別はそのままで、
他人を少しだけ先回りさせる。



例えば生と死の分別において、
生と死の分別はそのままで、
死(分解)の方を先回りさせる。



映画:武士の一分より
「必死すなわち生くるなり」
「武士の一分が立てばよく、勝つ必要はない。」

死を覚悟(分解)するとは、
全力で生きようとする(合成)こと。

「死を意識するときは、人は自身の生を意識する」
即ち、生と死の分別はそのままで、
死(分解)の方を少しだけ先回りさせる生き方。



その他の
合成より分解の方を先回りさせるやりかた。

外なるもの(分解)に思いを馳せる。
つまり、夜は寝るため(分解)にあり、
朝はもう一度生きる(合成)ためにある。

手漕ぎボートを漕ぐ様に、後ろ向きで
周りの景色を観ながら(分解)、
目的地に向かって進める。(合成)

はからいのない、報いのない
ありったけの自分を捧げてみて、(分解)
そして
ワクワクするものから初めてみる。(合成)

過去に悩まず,未来に期待せず(分解)、
現在に生きる。(合成)

少しずつ手放して(分解)、
自由になる。(合成)

正義の女神
目隠しして平等の適用(分解)、
バランスでの折り合いと実行(合成)
(変えられることと変えられないことの折り合い)


利休
不完全なままで(分解)、生きて(合成)いける。
不完全な方が(分解)、可能性がある(合成)。

利休
柔(分解)よく剛(合成)を制す
ピラミッドは剛主体のために風化する。



華道
華をたむけ(分解)、そして活ける(合成)

西行
身を捨ててこそ(分解)身をも助けめ(合成)

親鸞
無義(分解)の義(合成)

鈴木大拙
無分別(分解)の分別(合成)

あるがままを捨ててこそ(分解)
あるがままとなる。(合成)



「あるがままになる」あるいは
「執着をなくす」というものは
それが執着となってしまう。
ここでは分解よりも
合成の方が先回りしているので、
自然に実現されているものとはならない。


人間の願望は
自己都合によって変わるもので
哲学者西田幾多郎は
善の研究の中でも、
「人生の真相とは知識と情意が一体化する
以前のものであって、
自然に実現されている存在をいう」とある。
人間の願望ではなく自律的に実現されている
ものである。



「慈悲と知恵」においても、
而ニ不ニのように、
知識と情意を一致させる前に、
自律的に実現させる真の実在は
いかなるものかを明らかにすべく・・・


眼には見えないが
重ね合わせの状態が存在している。
無分別の状態が存在している。
空の状態も存在している。
これら存在の自覚が
真の実在のように見える。
そこから自律的に実態が出現し、
実現させる。




善の研究


コメント

我らが感じられないところに高次元の世界がある

2022年06月01日 | スクラップブック
電子スピンはコマのように
自転していて、
それは永久に止まることはないし、
止めることも出来ない。
その電子スピンの向きによって
磁性が現れる。
しかし
電子は粒子でもあり波でもあるという
現実により、大きさの概念がない。
従い電子の姿は感じたままの想像図
となる。




電子スピンは
トップスピンとダウン(ボトム)スピン
それに重ね合わせのスピンの3種である。
トップどうし、ダウンどうしの
重ね合わせは存在できない。
また、トップスピンとダウンスピンが
隣り合うと、重ね合わせの状態となる。
ただし
重ね合わせの姿・形も観察ができない。



磁性が現れたり磁性がなかったりするのは
電子スピンによって決まる。
そしてスピンの向きは外的要因により
簡単に変えることができる。




ボトムスピンとトップスピンが
同数であったり
スピンが重ね合わせの状態であれば
磁性は現れない。



金属原子一個当たりの
スピン配列により磁性が現れる。
下記に鉄原子の例を示す。








従って金属の結晶構造によって
決まった磁性が現れる。







要は
人間の眼に見えない電子の
重ね合わせの分布によって
磁性の状態が決められて
現れているということだ。







ところで
最近流通していると思われる
般若心経「空」の表現のなかに、
「感じることしかできないが
存在しているもの」佐々木閑
というのがあった。
より高次元の世界が
我らが感じられないところにある。
というものだ。

これはまるで
量子の重ね合わせの世界のようだ。
量子世界の重ね合わせとは、
英語ではsuperpositionといって
やはり高次元の世界だといっている。

重ね合わせの姿は
想像図や数式においては
シュミュレーションとしての
表現が可能であるが、
実体として見ることはできない。
そもそも電子自身が
「粒子でもあり波でもある状態」
であり、これも
実体として見ることはできない。


ブラックホールも
「感じることしかできないが
存在しているもの」である。
人間はそこから自発的に現れる時空、
即ち関係性の縁起やら関係者を初めて
目の前にする。
それが「色」というもので表現される。
具体的には重力波が観測されている。
その時空の世界の複素状態、
時空のゆがみと時空の変化とが
ふたたび重ね合わせとなった状態が
元の「空」なのであろう。






さて、
合成と分解の動的平衡状態から
生命が生まれ維持される。
重ね合わせとは異なり
互いに対抗する複素状態が
順次入れ替わり発生する状態だ。
このような状態の中で
少しだけ「分解」の方を
先回りさせる(福岡伸一)だけで、
生命は変えることのできない
エントロピー増大の法則と
折り合うことが可能となる。

一方、重ね合わせの世界では
動的平衡とは異なり
対抗する複素状態が順次現れてくる
とは限らないのだが、
動的平衡状態と同様
生命はどうすることもできないことと
共存しながら生きている。

要するに
人間は動的平衡状態から生まれて、
重ね合わせの状態から出現する
人生とか運命のような
どうすることもできないことと
折り合いを付けながら生きている
ということだ。
自然には逆らえないと
よくと言われるように、
量子の重ね合わせには逆らえない。




人間が高次元の世界、つまり
変えられない世界を相手にするとき、
目の前に現れてきた「色」という
舞台の上で、
我らがどのように振る舞うかという
ことになるわけだ。即ち
共存する法則とどのようにして
折り合うのかということだ。



人間の日常も
成功や失敗、喜びと悲しみ
の変えられない世界、即ち
重ね合わせから生まれる。

そうした「空」と「色」の
変えられない関係から、
ミスや悲しみのない世界だけを
追求したのでは破たんする。
変えられないことを
変えようとしてしまえば、
死ぬまで苦しむことになる。
無くしてしまえと思わないことだ。
量子のスピンや重ね合わせは
無くならない。
ミスや悲しみとは
乗り越えようとするのか、
(バックアップしておく)
折り合いを付けようとするのか
のいずれかだ。

成功や失敗、喜びと悲しみ
の繰り返しの世界で生きている。
そのことに気が付けば、
いつまでも
悲しみに暮れていても始まらない。
成功や喜びも同様に生まれている
ことが認められれば、次には
チャレンジしようという意識が
生まれる。



どうすればよいのか?
動的平衡状態の時と同様に、
少しだけ
心の老廃物の分解を
先回りさせればいい。
それは
重ね合わせの状態を知ることから
始まる。
superpositionといって
変えることのできない
高次元の世界を知ることから始まる。

そしてそこから新たに生まれてくる
秩序やら意識から希望が生まれる。
そして少しずつ、楽しいことを
増やしていく。

低次元の中で、何かにしがみついたり、
何かにこだわってしまっているのは、
コップ(想像上の秩序)の中で
泳いでいるようなものだ。

いい時もあれば悪い時もある。
それは変えられない人生の舞台だ。
悪いことの回避だけに邁進するのではなく、
いい時もあれば悪い時もある。それが
高次元の存在を知ることから生まれる
囚われからの解放だ。


「あるがままに」と思ったとたん、
あるがままではなくなる。
「あるがまま」を捨ててこそ、
あるがままになれる。
それが
少しだけ「分解」の方を
先回りさせるということだ。

自分というものを捨ててこそ、
本当の自分というものになる
ことができるということか。

親鸞も
「無義の義」といって、
こうでなければならぬ!や、
こうあるべきだ!を捨てたところにこそ
本当のあるべき姿が現れる。


西行も
「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな
身を捨ててこそ 身をも助けめ」
と詠んでいて、いささかこじ付け的ながら
量子の世界と共通するところがある
ように思えた。











スピンの想像図

コメント

空海の総持と量子ビットの重ね合わせ

2022年05月18日 | スクラップブック
量子スピンは
左回転と右回転を同時に
併せ持つ
重ね合わせの状態にある。
人間はこの状態を見ることが出来ない。
人間がたまたま見ることが出来るのは
左回転の量子か、右回転の量子か、
いずれかの状態である。


その概念を利用して、新たに
量子コンピュータが生まれた。


また、量子は粒子でもあり
波動でもある状態を
同時に併せ持っている。
人間はこの状態を見ることが出来ない。
人間がたまたま見ることが出来るのは
粒子の状態か、波動の状態かの
いずれかの状態である。

電子の場合にも、粒子として一つずつ
二重スリットに打ち込んだとき、
それが多数になれば波動の干渉縞が
現れる。





結晶構造でも
電子顕微鏡において
透かし画像(透過像)か
逆格子像かのいずれかである。
双方からのシュミレーションとして
結晶構造を見ることになる。
人間はそのままの実体結晶構造を
見ることは出来ない。



最近二種類の二次元結晶を重ねると、
そこから光起電力効果が新たに現れたとの
論文が発表されている。






さて、密教思想を「総持」という。
空海は言葉や文章ではなく、
「総持」の世界から現れる
金剛界と胎蔵(界)の
二つのイメージとしてそれを表現した。

ところで鶴見には禅寺で知られる総持寺がある。
「総持」には「双方に所有」の意味を持つとある。
したがい「双持」とも表現される。
これはとりもなおさず
「量子の重ね合わせ状態」である。
いわば
真理や存在の双方を同時に持つ状態だ。
あるいは
「現実と理念の相矛盾する存在を保持する」
という。
人間はこの状態を見ることは出来ないが、
それぞれの存在を認め合い
互いに折り合う形の秩序として
新たな意識となって人間の心に現れる。


参考資料:
「総持」と「止揚」の比較




現代物理における量子の重ね合わせ状態と
空海の「総持」が同じ状態なのであれば、
これには驚くほかにない。







そもそも仏教には
現代物理における量子の重ね合わせ状態
と思われる概念がいくつか伝承されてきた。
例えば
「相即」
「二つの対立するものが実は相互に融合し合い、
一体となっていること」広辞苑
これも量子ビットでの重ね合せ状態と同じだ。
いわば西田哲学の「矛盾的自己同一」だ。

同様に「色即是空」の「即」においても、
「即とは相反することがそのまま同等で差別のないこと」広辞苑
無分別概念の表現だ。

また「空」とは
「単なる空虚(void)ではなく、そこから力と創造が出てくる」
「空とは、すべての個々のものが全体性を持ったまま、畳み込まれ
融和して完全に一体化した状態である」宗教研究家志水一夫
これも量子ビットでの重ね合せ状態と同じだ。



存在はするが眼に見えない状態を「空」として
何も存在していない状態は「無」と表現し、
「空」から眼に見える、あるいは感じられる状態が
出現することが「色」であるとしている。
そうした途中での行程が「縁起」とされる。
また、「無」から出現する状態を「渇愛」といって
対立の原因としている。

このような表現が現代の量子物理学と酷似している。
つまり
量子ビットで言えば、右回転と左回転が
重ね合わせとなった状態「空」と、
右回転あるいは左回転のいずれかが観察される「色」で、
「空」と「色」は一体の関係となっている点だ。

他の具体例では、眼に見えないブラックホールの合体により、
重力波という人間が観察できる歪みとして現れる現象だ。


時空の歪みは重力レンズとして観測され、
時空の変化は
宇宙の加速膨張として観測されている。




ところで
ホモサピエンスは他者に共感することで、
近づく意識と離れたままの意識の二つが
重ね合わせとなることで群れの状態が
新たに生まれてくる。
  

群れである集団の大きさは技術革新に比例する。
これは「想像上の秩序」といわれるものであって、
ホモサピエンスの特性だ。
これによって
ホモサピエンスは最強の生物となった。
しかし同時にそれは
対立に傾きやすい性質にもなっている。
一方、
対立に傾きやすいその性質に逆らう能力
併せ持つことが知られていて、
これも一種の重ね合せ状態である。

ホモサピエンスの集団脳は人間の進歩の源泉だ。
古来より仏教として伝えられてきた「空」と「色」の関係。
そこから新たに生まれてきた
その特性を意識することでも
一人の天才に依存するのではなく、
試行錯誤を繰り返して新たな道具を実現してきた。

   

「対立」は避けられないものかもしれない。
しかし「空」と「色」の道具によって「対立」する習慣が少しでも
避けられるようになることが期待される。

たとえ対立があっても、
互いに共感・共存していく道具は眼に見える形で既に存在している。
















マンドラゴラ
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国別新型コロナ感染状況

2021年12月23日 | スクラップブック
新型コロナウイルス感染状況(日毎)を
国別に比較する。

ワクチン接種が不十分であった時期と、
接種が進行した時期との
感染者数(陽性反応者)と死者数を
比較してみる。

感染者数が増加しても
死亡者数が減少しているグループと
感染者数が増加して
死亡者数も増加するグループの
大別して二種類が存在している
事が解る。



感染者数が増加しても
死亡者数が減少しているグループ例



感染者数が増加するにつれて
死亡者数も増加するグループ例




ヨーロッパではワクチン接種が進行し、
前回の波状と比べて
死者数は減少している。









米国やメキシコでも死者数は
減少の傾向である




我国でもワクチン接種が進行した状況で
前回の波状と比べて
死者数は減少している。


一方、インドネシア、ポーランドでは
ワクチン接種が不十分なことにより
感染者増加と死亡者の増加状況は
比例している。





韓国とロシア、ウクライナが
ワクチン接種が進行している
にもかかわらず、
感染者増加と死亡者の増加状況は
比例している。







死亡者数の減少は、
ワクチン接種によるものと、
弱毒化とされるオミクロン株の
置き換えによるものが
考えられている。
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2021年に注目された日本と日本人

2021年12月15日 | スクラップブック
大谷翔平 MLBリアル二刀流(ベーブルース以来)
 米国大リーグ9勝、46ホームラン。
 138安打、100打点、103得点、130回投球、156奪三振
 コロナ禍において明るい話題と光りと希望
 アジア人への好印象とアジア人の誇り
 チャレンジ精神とプレーへのひたむきな姿勢。
 誰でも簡単に出来る事を一生懸命するという教育。

東京2020

コロナ感染者の激減

ノーベル物理学賞 真鍋淑郎
  米プリンストン大上席気象研究員;日系米国人
 「日本では人々は常に他人に気を使い、調和を保つ。
  アメリカでは他の人がどう思っているか気にせず、
  やりたいことができる。
  私は調和を保つのが苦手なので日本に戻りたくなかった」

スーパーコンピュータ富岳4年連続世界一

反田恭平
ショパン国際ピアノコンクール、ファイナリスト2位

藤井聡太
19歳で将棋4冠達成

大阪なおみ(プロテニス全豪オープン優勝)
井上尚弥(プロボクシングWBA6度目、IBF4度目の防衛に成功)
松井秀喜(米国男子プロゴルフメジャー優勝)
笹生彩香(米国女子プロゴルフメジャー優勝;日系フィリピン人)


米国伝統の自動車レース、
インディアナポリス500マイル(インディ500)で
佐藤琢磨選手が日本人初の優勝を果たした

2021年限りでのF1活動終了を決定でホンダ劇的優勝
1991年のセナ以来となるドライバーズチャンピオンをもたらした。




追加
新型コロナ感染者数の推移は年の後半(オリンピック以後)
欧米と比べて急激に減少した。日本人の潜在的な抗体所有
との説もあるが、明確な原因は不明なままである。

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ワクチン接種によって陽性者数は増加するが死亡者は減少?

2021年12月10日 | スクラップブック
陽性者数(上段)と死亡者数(下段)
の比較を、ワクチン接種率の
低い時期と高い時期で比較してみる。


インドネシアのように、
ワクチン接種率が低ければ
陽性者が増加するにつれて、
死亡者数も上昇する傾向である。



一方、
ワクチン接種率が高ければ、
陽性者が増加しても
死亡者数は増加しない。







米国においてはワクチン接種率の
低い時期と高い時期とで
大きな変化がなかった。




韓国では
ワクチン接種率が高いにもかかわらず、
陽性者が増加するにつれて
死亡者数も増加している。




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コロナウイルス株での勢力争い

2021年11月29日 | スクラップブック
コロナウイルス感染者数が急激に減少した理由

ウイルスの変異による弱毒化の結果ではなく、
ウイルス株の種類混在による勢力争いの結果の
人間感染なのではなかろうか。即ち
ウイルスの変異によって出来た株種相互の
勢力争いによって、人間の細胞が利用され、
その結果で感染が増大する。
一旦、最強のウイルスが領域内で蔓延して、
勢力争いが収束してしまえば感染も収束する。
従って、
インフルエンザウイルスの蔓延が抑えられるのも
こうしたウイルス間での勢力争いの結果
ではなかろうか。




期間軸に対するコロナ株の勢力争いの例
   


コロナウイルスにおいても
現在日本ではデルタ株の蔓延によって
感染は収束の状態にあるが、新たにオメガなどの
コロナ異種株が混在するようになってくれば、
再び勢力争いが生じて感染拡大すると考えられる。

南アフリカでの感染状況と比較してみる。




我国における第5波の感染収束状況は、
ワクチン接種の進捗状況と重なっているために
感染収束の原因とも伝えられてきたが、
ワクチン接種進捗以前におけるインドでの
感染収束状況(下図)を見れば、
ワクチン接種によって感染収束した
原因ではないことが分かる。



また、第5波とオリンピックの開催が
重なっているので人流抑制が感染収束の
原因とも考えずらい。
ワクチン接種はむしろ下図に示す通り、
感染抑制よりも重篤化防止に効果的であった
と考えられる。
第5波での死亡者数はワクチン接種以前の
第3、第4波死亡者数より減少している。従い
ワクチン接種は特に高齢者の感染死亡率改善に
寄与していると考えられる。





世界的にはコロナウイルスの感染によって
経済対策のための金融緩和政策が実施されて、
莫大なマネーが蔓延している。


新種のコロナウイルス株が発見されただけで、
世界同時株安がまたしても生じた。
このようなパンデミックは、同時に人間の
金の奪い合、勢力争いにもなっている。





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在日米軍と新型コロナ感染者

2021年11月16日 | スクラップブック
ウェブ上で公表されている
在日米空軍基地内でのコロナ感染者数を
以下に示す(10月21日付)。



一方
国内における感染者数において、
都道府県別の公表データをみると
(10月18日付)
沖縄と青森が突出して多い時期がある。
特に青森と岩手・秋田は陸続きの
隣接県であるにも関らず、
青森2位、秋田46位、岩手47位である。
このデータを見れば
在日米軍基地が関連しているように見える。




しかしながら
公表されている在日米空軍とNHKとの
データで関連性は見当たらない。

水際対策するならば、正しいかどうかだけでなく、
何が本当なのかを注意しておく必要がある。
成田や羽田だけでは水際対策にならないからだ。
(あるいは
米空軍のデータだけでは不十分なのかもしれない)

そこでここでは
関連していると思われる新聞記事を
スクラップブックとして掲載しておく事にする。

 
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宇宙の加速膨張について

2021年10月25日 | スクラップブック
アインシュタインの方程式(1916年)は
重力の正体が時空のゆがみによるものであることを
示す方程式である。

それによれば時空のゆがみ(幾何学的要素)は
質量の分布として示されるという
一元的な関係性であった。



しかし後にアインシュタインは
時空の静的な変化を示すために、
上記の方程式に新たに宇宙項を追加した。
(1917年)




右辺である質量の分布(エネルギー)は左辺の
時空のゆがみ(幾何学的:1項と2項)と
時空の変化(3項)の二元要素で示される
方程式となった。

これはいささかこじつけ的であるが、
オイラーの公式が示す形と同様である。
即ち
SINとCOSの二元で示される三角関数が
指数関数で示される形である。





後にハッブルらの宇宙観測によって、
時空の変化は静的なものではなく
動的(ダイナミカル)なものだということで、
追加された宇宙項(3項)が宇宙における
加速膨張している時空の変化を示す項目に
つながった。(1998年)

要は宇宙項の追加によって、何が正しいのか
(ニュートンの万有引力から始まる法則)
ではなく、何が本当の姿なのかという
宇宙の本質的な姿を示す形となった。

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新型コロナ感染者数の減少原因

2021年09月29日 | スクラップブック
超過死亡者数の国別比較

米国


日本


スペイン


米国、英国、韓国、日本



インド、Covid19感染者数と死亡者数


インドには超過死亡のデータがない。

インドでの感染者や死者数の実体を見ると、
ワクチン接種率が高いわけでもないのに、
急激に感染者数が激減するのに興味がある。
人口の多い国で自然感染に委ねることで、
集団免疫は確立するのだろうか?

インドでの感染者や死亡者数の収束は、
「集団免疫」を達成して感染が自然に終息に向かった
結果なのだろうか?

人口の60%以上の人が免疫をもっていれば、
感染は終息するとされる。
人口10億人の国で、数百万人の感染者でによって
国全体で集団免疫ができたのであろうか。
宗教色の強い国家であるし、
それ以上のロックダウンによって
収束したようにも見えない。


私は集団免疫ではなく、
ウイルス株変異が関係しているものと考える。

変異株が統一されることでウイルスの活性が弱まり、
弱毒化として現れ、収束したのではないだろうか。
それに至るまでの過程で、
異種の変異株が混在しているときが、他種間での
生存競争の激化によって、結果として感染者が急増する。
ウイルスは自分自身では増殖できないからだ。

カゲロウの研究においても、変異株の集団により
縄張りが守られているという。
やはり同型の株どうしの認識によって
行動している。

ウイルスにおいては
縄張りによる棲み分けでなく、異種株間での生存競争が
行われているのではなかろうか。
このとき感染者が急増する。
ある種のウイルスが勝ち抜き、やがて
一種株のウイルスによって支配されれば、
結果として多様性の欠如となって衰退するというものだ。

実際にも昨年には
インフルエンザウイルスとコロナウイルスとの
生存競争の結果によって、インフルエンザが駆逐された。
その時人間がウイルス生存競争に利用される形で
感染者が増える。

スペインなどでも生存競争の結果ではなかろうか。
比較的早い時期に変異株が存在し、株の統一によって
収束したのではないか。
今年になってからは、
ワクチンの効果によって収束が維持されている。

日本では変異株の混在化が、島国の入国制限で
後れていたことにより、感染者の急増が遅れて発生した。
昨年は幸か不幸か中国株が支配的だったせいで、
感染者の激増は抑えられていたが、
我国では今年になってから、インド株を初めとして
アルファ型(イギリス株)やガンマ型(ブラジル株)などの
新型株が拡散混在したことにより、
8月からの第5波感染拡大となった。
第5波の死者数が少ないのはワクチンの効果であろう。

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マンドラゴラからの解放

2021年09月22日 | スクラップブック
薬草にも関わらず、人を殺す毒を持つ
マンドラゴラからの解放は、対立する
2元性と折り合いを付けるための特性として、
知っておいて無駄なことはない。


人間の二元対立を解決しようとする場合
マンドラゴラのように一体化している状態
であって、
そこに折り合いを付けようにもそうそう
簡単なことではない。

そこで
二元の対立が一体化している状態ならば
オイラーの公式にならって、
三角関数での解決方法ではなく、
指数関数の方法を取り入れることだ。



即ち
三角関数ではなく指数関数を使うということは、
例えば正しいか正しくないかではなく、
何が本当かということだ。さらには
例えば人生の意味を人間が問うのではなく、
人生の方から問われているのだと視点を変えることだ。



横から見れば四角だが、
上から見れば丸になる様に。
「理念の中で泳いでいる魚は、
自分が泳いでいることが解らない」
そこで上から見れば、
泳いでいることが見えてくる。

まずは理解することではなく姿に親しむこと、
姿を知ることだ。
何かが芽生えるまで、
答えが出てくるまで何度でも繰り返し、
心に宿すものが出てくるまでじっくり付き合う。
包んでいるように見えても、
包まれていることがわかる。
ごまかそうとする意識や逃げようとする姿、
夢や希望を抱きながら
何に関り、何に関ることを避けているのか、
そうした動的平衡状態の姿として知りつつ、
その場その場で最善を尽くすことだ。




要は、オイラーの公式が示す
三角関数から離れて
指数関数を使うということは、
自己主張による解決方法だけではないことだ。
例えば個性とは
自分が作り出すもの、目新しいものだけではない。
他者が作り出している外的要因、
そこにある水や土、気候風土から生まれてくる
ものを生かすことであり、
本当の良さとは自然にできてくるものであって、
そうした中で生まれてきた、昔からの個性をも
重んじることだ。

そもそも生命とは合成と分解による
動的平衡のバランスで成り立つように、
人体細胞との折り合いを付けながら、
代謝の持続と生命の連続を継続させる。

合成と分解を同時進行させながら、
わずかに分解が合成を先回りしたとき、
エントロピーの減少する方向が起る。
(福岡伸一著:西田哲学を読むより)
薬草でありながら人を傷つける毒を持っている
マンドラゴラのように、人間もこうした二元性と
折り合いながら人生や運命を維持してゆくものだ。
注目すべき点は、
合成と分解の繰り返しの場合には分解を優先する点だ。
薬草と猛毒の二元性では
猛毒の分解を薬草の合成より少し先回りすることだ。
もしも薬草の合成を優先させてしまえば
生命の維持がスムースに行われないということだ。

エントロピー増大の法則という、
どうすることもできないことと
関わってゆくために、
合成と分解による動的平衡という二元の
流れによる効果(福岡伸一より)によって
折り合いをつけている。
とりもなおさず
支配しながら、支配される関係であり、
ありのままのダイナミズムな姿の
自覚である。
理念の中だけで泳いでいる自分の姿を見る様に、
どんな実体や観念の中でいるのか、
真の実在は何なのか、何が本当なのか、
即ち本質との一体化であって、
ひいては居心地の良さの感得でもある。


一方、
オイラーの公式と同様に
三角関数の化学反応ではなく、
指数関数である触媒反応という
システムを使う方法もある



同様にして
例えば親水性と疎水性の動的平衡による
秩序の維持においては、
疎水性を少しだけ優先して、
エントロピー増大の老廃物を汲み抱いて廃棄しながら
生命秩序を継続させる。

親水性と疎水性の動的平衡状態によって代謝する
脂肪加水分解酵素リパーゼのように、
油というものを、
水のような液体に溶解させながら
分解して、心の老廃物をシステムを利用して
汲み出し廃棄する。
これはエントロピーの排出機能そのものであって、
エントロピー(増大)の法則に従う状態と
エントロピーに逆らう状態(減少)がそれぞれ交互に
繰り返されることで生命秩序が維持されてゆく。
エントロピー増大の法則と折り合いをつける方法でもある。
都合の悪い自分の姿から逃げることを優先するのではなく、
ありのままの自分の姿を少しだけ先回りさせて
白日の下に晒すことで、心の老廃物を洗い流すことができる。
これこそマンドラゴラのように、対立が一体化している、
どうすることもできないものとの化学反応ではなく
触媒酵素での折り合いをつける方法であり、
マンドラゴラからの解放でもある。


運命の法則によって生じた老廃物を、いつまでも
抱え込むことの無い様にする方法であって、
いささかこじつけ的であるが、
生命のダイナミズムにもつながるシステムである。

人生においても
何でもコントロールできると思って
自己主張するだけが解決方法ではない。
他人の意見を受け入れる方を
少しだけ先回りさせ、
自己主張は少しだけ遅らせる事で
人生をスムースにさせる方法となりうる。
これが化学反応ではなく、
触媒・酵素反応の代謝方法である。
人の細胞と同様に分解を少しだけ先回りさせる。
目の前にある対立によって生じた問題の
化学反応だけが解決法ではない。



秩序は守られるために絶え間なく壊され、
再構築される(福岡伸一より)
エントロピーを排出する代謝システム
=運命の老廃物を廃棄する。

これもまた、
理念や観念だけでなく、真の実在
即ち本質との一体化であって、
ひいては居心地の良さの感得でもある。




酵素触媒システムの参考例:
神輿を担ぐように対立を空洞化させる方法や
「相即」のシステムで解決する方法もある。

自分と他人との二元対立
他人のために生きる生き方も
苦しみを消す一つの道だ。
人の痛みが分かる人間となる


幸福と不幸の二元対立
自分の不幸を肯定的に受けいれる。
そもそも不幸を乗り越えることによって
幸福が訪れるものだ。
そして人間をより大きくするものだ。
また、素晴らしいものは困難から生まれる。

逆らわないと受け容れるの二元対立
逆境は必ず訪れるものだ、
それを回避するだけでなく
受け容れることも必要だ。
一方的、あるいは一元的なものは
人為的であって自然ではない。

人生の楽しみは自分の心の持ち方次第だ。
困難を乗り越えるだけでなく、
困難を受け容れ、
折り合いをつけることでも可能だ。
(方丈記)
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