空観方程式

「色」と「空」の一体化によって可視化され、相互作用で共感・共鳴が生じ、新たなる思いや生命力が実体化される。

生まれ変わってやり直すという観念だけでは

2023年05月25日 | 記事のコメント
自己の持つ観念が一つしかない場合には
(ある一つの観念にのみこだわってしまうと)
選択肢が限られてしまう。
もしも
自分の立場と多数の立場との違いにより
環境の変化に対応できなくなれば、
多数の人が抱く虚構の観念に押しつぶされる。

一つの観念に対応・対立する観念を知っていれば、
即ち二項対立から生まれる観念の存在を知っていれば
選択肢が格段に広がるものだ。これは
「進化における無限の枝分かれ」が環境の変化に
対応できるようになっているシステムと同様の
システムだ。

例えば、
「輪廻転生」という多数の人が持つ観念のみで、
それと対立する観念を持ち合わせていなければ、
環境の変化に対応できなくなった時に
選択肢が乏しいものだから、
「生まれ変わってやり直そう」という解決策しか
生まれてこない。
輪廻転生に対抗する観念として例えば
ニーチェの「永劫回帰」を知っていれば、
対立二項との重ね合わせの原理から、
多くの選択肢が生まれて存在してくるものだから、
硬直した観念に
押しつぶされることが無くなる。
人間の持つ観念は無価値であるという観念に
価値を見出すことができれば、(無義の義)
無価値の中から、
自分のみに通用する価値を見出して
それを肯定して生きることができる。

生と死の二項対立においても、
死の方にのみこだわってしまえば、
どうせ死ぬのに何故生きる?という結論しか
生まれてこない状態となる。
どうせ、なる様にしかならないのだから
何もしない、という観念ではなく、
進化の枝分かれのシステムと同様に
人間の観念にも
多くの枝分かれがあってよいはずだ。
その中の選択肢から、即ち
その場その場における環境から、
その場限りで選べばよいだけだ。
なる様にしかならくても、
その場でなることを肯定してやり抜く
生き方だ。



そもそも個人の肯定する観念は
年齢を重ねると変化するものだが、
大勢が肯定する共有観念の方は変化しない。

役に立つ人間が正しいという観念の例でも、
当然のように
役に立たなくなる時が訪れて来るものだ。
要は、その時にどうするかだ。
永劫回帰のように
最初から無価値な観念だと判ったうえで
自分がその場限りで
肯定して来た観念であれば、
多数の虚構観念に押しつぶされることは
なくなると思うのだが。









死んで生まれ変わるという観念の事例
    







あとがき 1

輪廻転生に対抗する観念として、
永劫回帰以外の「枝分かれ」事例としては
「業のはなびら」という物語の例もある。
「二十六夜」という童話に
現実とファンタジーとの二項対立から
何とか業というものと折り合おうとした
結果のストーリーとして、宮沢賢治が
主張したものだ。



あとがき 2

脳科学者の茂木健一郎氏が
国際政治学者といった観念に対して、
「きちんと根拠を示すべき」などの声が
相次いでいる事態に対して、
無意味なことだと発言している。

ここでも、
人間の観念に意味がないという事例の一つだ。
そもそも
「国際政治学者」自体に対する観念は無意味であり、
もともと
無意味な観念に根拠などは存在しないのである。

古墳から出土する鏡や刀剣によって想像される、
被葬者を邪悪なものから守る
「辟邪(へきじゃ)」の観念と似たようなものだ。


繰り返されることで無意味になる。
クローン家畜の場合は儲かるかもしれないが
観念としては(インド人が牛を崇拝するように)
進化の立場から見れば無意味である。
現に多くの虚構といわれる観念は現在に至るまで、
なお繰り返されている。
「国際政治学者」の観念も
使えば儲かるかもしれないが、新たに生まれた
ものでもなく、繰り返されていて無意味である。




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親鸞の「無義の義」とニーチェの「永劫回帰」の類似

2023年05月12日 | 読書・TV感想
[起]
法然上人は
「他力には義なきを義とす」といった。
また親鸞上人は
「念仏には無義をもって義とす」歎異抄第10章
といった。
哲学者ニーチェは
「世界は何度でも繰り返される。
意味を持たず、目的もない。
すべてが無価値である」
といった。

いずれも
人間にどのようなはたらき方をするかが述べられる。


[承]
親鸞は心の信心に触れ
「義」を「はからい」と訓読し、
自分の人生の意味を考え、価値を計ること
「はからい」を超えるようにと呼びかけているのが
親鸞の他力「念仏」だ。
無義の世界とは
計らいがきれいになくなる世界(無礙の一道)。
「むなしさ」を超えるはたらきが得られる。
「本願力にあいぬれば」ということは、
それは人間の価値基準のこころを、
もはやあてにしないということだ。
人間が意味があるとかないと決めているのは、
すべて人間の価値基準の範囲内のことであって、
リンゴは「赤い、丸い、甘い」といった価値基準のことだ。
同様に「役に立たぬものは意味がない」というのも
人間の価値基準だ。
我らはそうした価値基準によって苦悩する社会に住む。
親鸞の思想は人間の価値基準の世界を超越した視点であり、
本来、人間の考える義というものは無いとする考え。



ニーチェの「永劫回帰」では、
「あらゆる出来事が同じ順番で、永遠に繰り返し起こるような世界像」
世界は意味を持たず、ただあるがままに永遠に繰り返される。
世界には目的もない。
人と人の間に起こるうりとあらゆる出来事を
それまでの人間社会にある価値観に捉われず
個人で再定義することで、
より良い毎日の体験をもたらすことができる考え方である。
神が世界と万物を 「創造」 したように、神も
形而上における人間の価値基準なのだ。


[転]
時間が無限にあって、物質や原理・法則は有限であれば
繰り返しが発生する。
そもそも進化の法則そのものが繰り返しの法則だ。
進化の歴史を遡ってリプレイさせてみても
地球環境が同じであれば、同じ枝分かれが発生すると
科学者は考えている。(J・B・ロソス)
進化は同じように繰り返されうる、ということだ。
進化の枝分かれは繰り返しの結果なのだ。
それは終わることがない。
そもそも生命そのものも分解と合成、解体と構築を
繰り返すことでエントロピーの法則に対抗している。
動的平衡状態(福島伸一)
ただ無機質に繰り返すのみのシステムである。




進化によって新たな価値が生まれるが、
その価値のみにこだわってしまえば進化は停止する。
むしろ価値を認めずに繰り返しを継続することが
生きていることになる。
繰り返しの継続によって次から次へと進化の枝分かれが生成される。
意味があるからそうしている。
やらないリスクはやるリスクより大きいからだ。
少なくとも一つの価値にこだわり、その価値を渇愛すれば、
他はやらないというクローン的な進化となる。
無価値だからこそ次から次へと繰り返す。
諸行無常のごとく常に変化して繰り返しているのであれば
変わらぬ価値など存在しない。
仏教でも執着しない、
こだわらないが基本的なスタンスだ。


[結]
親鸞は絶対他力による救済、ニーチェは自力での救済で
異なる点があるものの、
人間の価値基準の存在を否定し、
無条件での救済という点においては一致している。
信じることで救われる、あるいは
念仏唱えれば救われる、という条件付きではない点だ。
即ち全てが無価値であるというところに価値を見出す。
無価値であれば渇愛はしないであろう。

後付けで設定された価値観は人間の都合によって変化する。
従い意味があると思った価値観はその場限りのものだとして
振る舞うべきである。
要は他に押し付けたり、渇愛したりしないことだ。
そうすることで
お金の為にあくせくしないし、後悔もなくなる。
現在の自分を肯定する以外に、何かを守る必要もない。
人間は自己との出会いや発見で救済される。
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