空観方程式

「色」と「空」の一体化によって可視化され、相互作用で共感・共鳴が生じ、新たなる思いや生命力が実体化される。

人間が考える観念に価値がないとすれば分別が無くなる

2023年06月27日 | 読書・TV感想
人間が考える観念について
奈良富雄丸山古墳から盾と刀剣が出土した。
盾の防御性や鏡や剣の神秘性とが一体化して
被葬者を邪悪なものから守る
「辟邪(へきじゃ)」の観念の存在を示すものだ。



物品を死者と共に埋葬しとうとする観念は
我が国のみならず古代文明発祥の地からは
多数発掘されており、人間共有の観念だ。
死者を丁寧に葬ることと次の世界での
安寧を求める姿勢でもある。
しかし科学技術発展の環境変化により
物品の埋葬が必ずしも丁寧な埋葬と
結びつかない状況となった。
ところが
物品が伴わない観念については
環境の変化にも関わらず
今なお多くの人々によって肯定されている。
観念は「楽しいから」「楽になるから」などが
一般的であるが、
「観念の通りに行動しないから悪いことが起きる」
と言われれば、ブラックスワンの証明と同様に
反証できない。そしてその点を利用して
【カルマ(業)を浄化し、新しく生まれ変わりたいあなたへ】
こうした商売上のうたい文句が堂々と貼り付けられたり、
場合によっては
高額なツボを購入させたりする違法性の商売迄
いまだに存在する。ここではそうした
輪廻転生や無分別の観念について考察する、






思い込みやトラウマ、
常識といったこともすべて観念だ。
観念とは人間の考えたものでありながら、
役に立つかどうかは人間ではなく、
自然選択と同様に、感情や経験などを含む
生き残りやすかったかどうかの
外部環境が決める。
感情や経験の種類は無限にあるので
観念も無限に存在する。
さらに「観念」自体には
善い・悪いという判断は存在しない。
なぜなら、善と悪も観念に過ぎないから。
観念の間に善悪の差がないのであれば
進化の枝分かれと同様に
無限に枝分かれして同格で存在する。

しかし、
辟邪(へきじゃ)の観念と
無分別(平等)の観念を比べると,
無分別の観念の方を役に立ちそうな
優れた観念と感じてしまう。
このように勝手に分別・序列化してしまう。
自分のみに特化された外部環境の中で
役に立つ観念は存在することを意味する。
さらには自分の力では何ともしがたいような
困難を経験すると
信仰の観念にも強く引き寄せられる。
信仰は科学と異なり、
無いことの証明ができない関係性から
「こうなっている!」と断定することが可能だ。
(目的論的世界観)
信仰をもつ人がどう向き合い、生きたのか。
多数の語りの中に同一の観念が生きる。
例えば
仏教では無分別という「空」の観念のほかに
「因果応報」という教えの観念がある。
縁が来たときに、因と縁が和合して、
因果応報によって目に見える運命となって現われる。
現在の出来事は過去の結果であり、
現在の行為は将来の原因になる。そして
善い業(善行)には良い結果が、
悪い業(悪行)には悪い結果が訪れるとされる。








さて、輪廻転生の観念においても
善い行いと悪い行いは、
一つ上の状態である「業」という
過去の行いに依存して決められる。
輪廻転生の思想に業(カルマ)という状態を
結びつけた(生み出した)点が止揚の思想
(弁証法)と同一である。
良いことも悪いこともむくい、すなわち
業のはたらきによって生じると説く。
しかし
人間の観念を序列化しない無分別の
観点から眺めれば、善と悪とを
別の世界であるカルマの世界で決めている。
輪廻転生とカルマの間で
分別・序列化がなされている。
カルマの世界を特別扱いしているようなものだ。
本来は
偶然に引き起こされた結果においても、
因果応報に結び付けられてしまう。
善い結果と悪い結果が分別されて
過去の行いとに結び付けられる。
偶然の結果ということは、例えば
恐竜が絶滅して哺乳類が勢力を付けたことや、
地球に生命が誕生したことなど。
そもそも進化の多様性は突然変異という偶然に依って
引き起こされた様に、かなりの頻度になると思われる。
キリンの首が長いのも、象の鼻が長いのも偶然に依るものだ。
にもかかわらず、
因と縁によって引き起こされた結果であると
強く断定されてしまう。その結果
生まれ変わってやり直すといった
思い込みに依る観念が誘発されてしまう。

「因果応報」の観念においても、偶然という要素を
取り入れなければならないだろう。
因と縁が和合する場合に、
何らかの偶然が働いた結果が引き起こされることもある。
種と田んぼから米が作られるだけでなく、
種と田んぼから大豆が生まれる場合だって考えられる。
同様に
善い業(善行)には良い結果だけでなく、
何らかの偶然に依って、
善い行いから悪い結果が引き起こされる場合もあるし、
悪い行いから善い行いが訪れることもありうる。
進化の突然変異から見れば何ら不思議なことではない。







西洋の哲学者ニーチェは「永劫回帰」の中で
「人間の観念には価値がない」といった。
全てに価値がないのであれば分別しようがなく、
「無分別」の教えに近づく。
そうであれば人間の観念に進化の法則と同様に
序列化は存在しない。
辟邪の観念と無分別の観念は同格として存在し、
因果応報も同様に価値の序列は無く同格である。
哲学を引き合いに出すまでもなく、そもそも
善い悪いの基準も曖昧であり、
かつ偶然を考慮すれば、確かに
固定化された価値など存在しない。これは
独裁政治の中で善い悪いを論じても
意味が無いのと同様である。
人間に役に立つものかどうかを
独裁政治のような外部環境が決めるのであれば
人間が考える観念には価値がない。

無限にある観念を
序列化することに価値がないのであるならば、
カルマの世界が輪廻転生の世界から
序列化されて尚、善悪を決めていること自体が
無価値であるということだ。一方
全ての観念には価値がない訳ではなく、
中には自分の経験上において
役に立つ観念も確実に存在する。
ご先祖様がこの世に帰ってくるという
盆の観念により、親子や孫と親交の機会
となってとても有用である。
無限の観念の中から
自分に役立ちそうな観念を選択して、
自分のものとして再定義し肯定する。
いずれにせよ、
他の大勢が肯定している観念に
惑わされないことが重要だ。

社会や他人からけし掛けられたありもしない
観念にとらわれて、達成できなくても、
あるいは
無益な価値判断を押し付けられても、
失望したり、余計な不幸を背負わなくてもいい。
今この瞬間を味わって力強く生きることだけだ。
過去のことをクヨクヨと悔やんだり、
将来をアレコレ心配する必要がなくなる。
















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輪廻転生とカルマが決める善と悪

2023年06月07日 | 記事のコメント
輪廻転生は
生まれ変わりの観念であって、
初期宗教における観念に近い。
輪廻転生とは、人が何度も生死を繰り返し、
新しい生命に生まれ変わること。
特に動物に生まれ変わる様な思想は
アニミズムといわれる。アニミズムは
古代宗教に分類されている。
人や動物などに霊魂が宿るとする信仰だ。

輪廻転生とは、
何度も生まれ変わることである。
人生は一度きりではない。
以前にも別の姿で生きていて、
これからも
別の姿に生まれ変わり生きてゆく。

現在の行いは過去の「むくい」に影響される
といった観念である。死ねば肉体は滅するが
精神は存在し続ける。即ちこの前世から現世、
来世へと流れて行く業(カルマ)が存在している。
阿頼耶識と呼ばれる世界であって、縁が来たときに、
因と縁が和合して、
因果応報によって目に見える運命となって現われる。
現在の出来事は過去の結果であり、
現在の行為は将来の原因になる。そして
業にも必ず原因があると説かれ、
善い業(善行)には良い結果が、
悪い業(悪行)には悪い結果が訪れるとされる。


さて、
西洋哲学の代表の一つに「止揚」がある。
二項対立から一つ上の状態にある
新たな観念を作り出す。弁証論
「白い猫も黒い猫もネズミを捕る猫がいい猫だ」
白か黒かの対立を超えた上の状態で政策を進めた
中国鄧小平の改革開放政策での言葉だ。



輪廻転生の思想においても
善い行いと悪い行いは、
一つ上の状態である「業」という
過去の行いに依存して決められる。
輪廻転生の思想に業(カルマ)という状態を
結びつけた(生み出した)点が止揚の思想と
同一である。この点では
輪廻転生といわれる東洋的な思想は、
分別という観念によっては、
西洋の思想である止揚思想に近いものとなる。

そもそも輪廻転生には
善と悪、過去と未来などの「分別」の観念が強い。
肉体と精神、支配するかされるかといった西洋哲学の
思想であって、東洋の思想とは一線を画すものだ。
ところが仏教は「空」に代表されている通り、
「無分別」の宗教ともいわれる。そして、
輪廻転生から離れることを「解脱」という。
迷いという原因をなくすこと(無分別)にある。
即ち
輪廻を乗り越え克服することが悟りであるという。





ところで
善い行いと悪い行いは誰が決めているのだろうか?

問題は善い行いと悪い行いの分別にある。
勝ちと負け、生と死、成功と失敗、多い少ない等、
善悪の基準としてこのような「分別」は、
多数の人間が良い行いとして共有していれば
良い行いなのであろうか。さらには
恐竜の時代のように
強いものが正しく善である。果たしてそうか。

いくら宗教観念が多数に支持されていても
肝心の善悪の基準があいまいなままでは
輪廻転生のように運用に支障をきたすだけだ。
あまりにも分別にこだわるから、
有名な文化人でさえも「死んで生まれかわる」
と言って死を選択してしまう。
こうして何が善で何が悪なのかが不明確なまま
死を選択しているところが問題である。


また動的平衡の観点からすれば、
分別にのみこだわることは、
継続性とは逆の観念であって
苦悩の端緒でもある。

業の観念やら
生と死の観念からいえば、
過去や死の方にのみこだわった
マイナス思考であり、
「死んで生まれ変わる」のように
分別にこだわった
解決策しか生まれてこない。

さらに乗り越えるという観念は
直進的進化であって、
進化論においては誤った考え方の立場である。








多数の観念と折り合う姿が真実である。
人間の観念は自然選択と同様に、
良い悪いではなく、感情や経験などの
外部環境によって生き残りやすかったどうかで決まる。
人間の観念に対応する外部環境は無限に存在するから、
その結果、無限に枝分かれさせる要素が生まれている。

そうであれば善と悪は「業」が決めることでもない。
さらに人間の多数の共有観念などではなく
外的環境(状況)が生命の適用性を決める。
従い、無限にある人間の観念は善も悪も業も、
すべてが進化的な対等の関係にある。



恐竜時代でも、
その中で細々と生き延びていた哺乳類が
環境変化によって繁栄したように、
変化の中での継続には多様性が必要である。
自己の観念は自己のためだけにあって、
何かにこだわったり、
他に押し付けたりしないことだ。
多数の観念、あるいは多数の価値観と
枝分かれのシステムによって折り合う。

人間が善悪を決め、
直進的に優劣を定めようとするから
苦悩し、対立し後悔する。
人間は人間の観念を
対等な枝分かれの状態であるとの認識であれば、
多数の枝分かれの中から、自分に合ったものを
選べばよいだけだ。
それには二項対立の概念が役に立つ。
二項対立によって、
一つのものにこだわることが無くなり、
「できる時に行い
できない時には行わない」といった
多様性の観念を編み出してくれる。

重ね合わせの概念
双方の絡み合いの概念でもある。
止揚とは異なる状況であって、
他を否定したり排除することでもなく、
双方が対等であり優劣の区別がない。
二項対立による重ね合わせによれば、
神輿のように双方が対等のままで、
(空の状態のままで)進んで行ける。
縦糸と横糸によって現れる真実の姿である。
これが唯一の真理だ!と一方に固執
するならば、真理には到達しない。






分別による序列化(止揚思想)


重ね合わせの状態
二項対立(分別)にある場合でも
序列化しない




注)良いか悪いか(役に立つか役に立たぬか)
  人間の観念の価値は
  外部環境(状況)によって選択される



タイのプーケットでは現在もなお
邪悪を払うため、幸運を呼び込むために
ウナギを放流する習慣があるという。
さらに僧侶の托鉢に喜捨を毎日行う姿も
TVにて紹介された。



脳科学者の茂木健一郎氏が
国際政治学者といった観念に対して、
「きちんと根拠を示すべき」などの声が
相次いでいる事態に対して、
無意味なことだと発言している。

ここでも、
人間の観念に普遍的には意味がないという事例の一つだ。
もともと
無意味な観念に根拠などは存在しないのである。
そもそも「国際政治学者」の観念も
多くの人間に有益だとは限らない。
ただ単に
一個人が自分にとって価値があると思って
使っているだけなのである。

個人個人が自分にとって価値があると思われる
無限にある観念の中から採用しているだけなのだから、
他人がその根拠を示せと主張するのはおかしい。
タイのプーケットにおいて、
「ウナギを放流する人に向かって根拠を示せ」
とはだれも言わないだろう。


忠義も信用も
役に立つ観念なのかは
人間が決めるのではなく、
その時の環境によって左右される事例。

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