NHK100分で名著「歎異抄」よりの感想 (蓮如写本)
[起]
解説者である宗教学者釈 徹宗氏が、難解な所でもわかりやすい言葉で
親鸞の教えとはいかなるものかを伝えて切れ味が良い。
その上でどう生きるかであって、こうしなさい、これが正しいのだという指南書ではない。
例えば仏教でよく使われる言葉で「自我に囚われる」という表現がある。
番組ではそれを、「自分が正しいと思った瞬間に、自分の都合を振り回す」
と説明。その人間の本性を指摘しながら解説している。
念仏も同様で、念仏称えようとする心をたまわったことで称えさせていただくので、
信じるものが救われると同様に、念仏すれば救われるといった条件次第ではない。
他力の思想は誤解を生みやすいことで、人間の都合を徹底して回避する。
歎異抄ではそこを文書(リミッター)によってきっちりと遮断している。
あくまでも自分が起こした信心ではなく、「仏からたまわった信心」がポイントである。
すべては他力の道筋であると徹底している。
各人各様の物語によって、自分のありようが問われる。
歎異抄は著者の都合を振り回わそうとしている訳ではなく、親鸞の教えとは
いかなるものかを伝えようとする。
番組で使われた言葉を多用させていただき、ブログとして書留める。
[承]
第十条 念仏(他力)には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑ にと仰せ候ひき。
仏からたまわった信心であれば、人間の都合や条件、選別の作用(はからい)は入らない。
「弥陀のはからいにおまかせする」ことで、自分の都合に執着しないことによって
ルサンチマンが発生しないようにすることが日本独自の思想となっている。
誓願はすべての人を救う願いであるが、泳げる人と泳げない人がいれば、
泳げない人から救済する。西洋の原罪思想あるいは救済思想から来る善か悪かの
選別思想ではなく、いわゆる悪人正機によってルサンチマンを乗り越えようとしている。
「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」
仏の目から見た善悪は、とても自分にはわからない。と親鸞は言う。
人間である自分は、何を見ても自分の都合というフィルターを通して考えてしまう。
と前述の釈徹宗氏がいうように、ここでも人間の都合やルサンチマンを人間が考えた
善と悪によって排除するのではなく、発生しないようにすることにある。
仏教とはそもそも知と信が一体になっていて、知性は信仰に裏付けされている。
親鸞は自分自身の知も信も、不完全なものでしかないという立場である。
だからこそ救い(物語)のめあてとなる。
人間はどんなにえらそうなことを言っても、状況次第よってどんなことでもしてしまう。
したがいどちらが善で、何が善なのかという形而上学とは一切関知しない。
だから善い行いをして救われるというスタンスではない。
加えて中庸の尊重、あるいは陽陰双方による調和の一体化に価値を見出し重きを置くので、
善か悪かだけではなく、いわばミドルクラスという確固たる存在としても認められる。
[転]
形而上では人間が行う都合による選別(排除・差別)が入り込む。
それでは報復や怨念・妬み、恨といったを解消できないので、
哲学者ニーチェにとってルサンチマンの解消には別の方法が必要となった。
いわば「神は死んだ」との結論に至った。
哲学者鈴木大拙は著書「日本的霊性」のなかで、
「不思議な事には千五百年ほども経過した歴史を有しながら、浄土思想は、
支那においては親鸞的な霊性直覚に到達しなかったのである。
そうしてこの思想は支那にもなく、インドにもなく、欧州(ユダヤ・キリスト教)
にもないのである。」とある。
同じ救済型の他力思想でありながら、浄土仏教とキリスト教とは180度異なる。
浄土仏教では宇宙に生命が生まれた時から現在に至るまで、今後も「ありのままに」
なのであり、無義の義とは「はかりごと無き」であって、ルサンチマンにとっても
弥陀の誓願は既に達成されているのであって、はかりごとから開放される。
従って善い行いをすれば救われるというスタンスではないし、いわんや
「求めよ、さらば与えられん、尋ねよ、 さらば見出さん、叩けよ、さらば開かれん、
神のみこころにかなう願いをするなら」と比べてみても、
浄土仏教には条件や強制が無く、苦難に向かおうという意思は、仏から
たまわったものという意識。
[結]
現代では毎日がはかりごとの生活だ。そしてそれはなかなか思い通りにならない。
その中でも「弥陀のはからい」の物語に出遇うことで、大きな自由と喜びの体感に
感謝(念仏)していこうとする、極めて特徴的な思想である。
弥陀のはからいに出遇う喜びで、おのずと自分のはからいがなくなる。
人間のはからいが自然(じねん)を妨げる。そのはからいによってできなければ
任せるしかない。煩悩具足の自分を救うために阿弥陀仏(救済原理)は存在する。
その仏からたまわったその信心によって、自我に囚われた状態から救済される。
それが幸せに生きることに繋がり、それで元気をいただき、各人各様の生きた物語を
喜ぶことができる。
他力本願といいながら、実は極めて強いプラス思考(自分の為に準備された物語)
即ち自我に囚われない、知と信が調和させる(弥陀の他力)物語のように思う。
秩父清雲寺 しだれ
付録
役に立つものだけが生きやすい世界とは、人間の価値基準を基にした世界でのこと。
現代の人間の価値基準とは例えば貧富とか、美醜とか、意味があるとかないとか、
ひとがいいとか、仕事ができるとか、その中で生きる限り、自分が正しいと思った瞬間に、
自分の都合を振り回してしまうリスクを同時に併せ持つ。
もし役立つものが傍にいてくれれば、自分の都合を振り回すこともない。
そもそも古代の人間には今の価値基準がなくたって幸せだったに違いない。
仏さまを傍で感じる。まして仏さまが、「助けてあげよう」と言っていたのだと感じれば、
すべてに建設的に取り組み、他人に対して安心を与えるように接することができる。
NHKスイッチインタビュー (2016年04月12日)
山中伸弥さんと渡辺謙さんの対談から
ノーベル医学賞の山中教授が、離れて暮らす母親から夢枕電話エピソードについて
紹介があった。研究医から臨床医を目指そうと、土地購入の契約前日に
母親から電話があった。
「死んだお父ちゃんが夢枕に立って、伸弥に思い留まるように言えとそういったんだ」
悩んだ末に、奈良先端科学技術大学院大の助教授に応募する。そこで
iPS細胞という技術に出会うことができた。偶然という事もあるだろうが
自分の人生に大きな作用が働いたと感じることが誰にでもあると思う。
ノーベル賞級の科学者でさえも「何か大きな力が作用することがある」と言う。
いわんや一般人ではなおさらである。
「人間万事塞翁が馬」の故事成語がうしろに大きく書いてあった。
不思議な大きな力を感じたからこその、各人各様に独自の物語があるわけで、
歎異抄という「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて」からはじまり、
「ひとへに親鸞 一人がためなりけり」で終わる。その物語ににひきつけられる。
ところが宗教という「組織」となれば「信じる」ことを大きな力で強要するようになる。
自分の信念でなく、組織が強要する信念に従うと、「組織」の都合の奴隷となる。
宗教には差別性と暴力性を内包していて、人間の力で止められない大きな力を持つ。
長い歴史のある宗教にはそれなりの体系から、暴走をしないように歯止めをかけているが、
現代のいいとこどりをした宗教には歯止めがかからず、突き当たった苦しみにとって
都合のいい自分の解釈が乱立して、暴走してしまう危険があると釈 徹宗氏は警告する。
どうなったら幸せなのか
本来仏教の教えは「無我」で自我の囚われの無い自己によって精神の自由を
回復することにある。とある。そこは浄土も禅宗も共通であって、それとは逆に
自己の都合によって「あるがままを受けいれ、思うままに生きる」から遊離
してしまうことを「無明」とか「煩悩、妄想」と言う。
自己の都合とは、思い込みや価値観、主義によって、思いに囚われ、迷い、
他人を批判し対立すること。それは自分が正しいと思った瞬間から嵌まる。
いわゆる「思いの自閉症」から「弥陀のはからい」に出遇いて開放される。
[起]
解説者である宗教学者釈 徹宗氏が、難解な所でもわかりやすい言葉で
親鸞の教えとはいかなるものかを伝えて切れ味が良い。
その上でどう生きるかであって、こうしなさい、これが正しいのだという指南書ではない。
例えば仏教でよく使われる言葉で「自我に囚われる」という表現がある。
番組ではそれを、「自分が正しいと思った瞬間に、自分の都合を振り回す」
と説明。その人間の本性を指摘しながら解説している。
念仏も同様で、念仏称えようとする心をたまわったことで称えさせていただくので、
信じるものが救われると同様に、念仏すれば救われるといった条件次第ではない。
他力の思想は誤解を生みやすいことで、人間の都合を徹底して回避する。
歎異抄ではそこを文書(リミッター)によってきっちりと遮断している。
あくまでも自分が起こした信心ではなく、「仏からたまわった信心」がポイントである。
すべては他力の道筋であると徹底している。
各人各様の物語によって、自分のありようが問われる。
歎異抄は著者の都合を振り回わそうとしている訳ではなく、親鸞の教えとは
いかなるものかを伝えようとする。
番組で使われた言葉を多用させていただき、ブログとして書留める。
[承]
第十条 念仏(他力)には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑ にと仰せ候ひき。
仏からたまわった信心であれば、人間の都合や条件、選別の作用(はからい)は入らない。
「弥陀のはからいにおまかせする」ことで、自分の都合に執着しないことによって
ルサンチマンが発生しないようにすることが日本独自の思想となっている。
誓願はすべての人を救う願いであるが、泳げる人と泳げない人がいれば、
泳げない人から救済する。西洋の原罪思想あるいは救済思想から来る善か悪かの
選別思想ではなく、いわゆる悪人正機によってルサンチマンを乗り越えようとしている。
「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」
仏の目から見た善悪は、とても自分にはわからない。と親鸞は言う。
人間である自分は、何を見ても自分の都合というフィルターを通して考えてしまう。
と前述の釈徹宗氏がいうように、ここでも人間の都合やルサンチマンを人間が考えた
善と悪によって排除するのではなく、発生しないようにすることにある。
仏教とはそもそも知と信が一体になっていて、知性は信仰に裏付けされている。
親鸞は自分自身の知も信も、不完全なものでしかないという立場である。
だからこそ救い(物語)のめあてとなる。
人間はどんなにえらそうなことを言っても、状況次第よってどんなことでもしてしまう。
したがいどちらが善で、何が善なのかという形而上学とは一切関知しない。
だから善い行いをして救われるというスタンスではない。
加えて中庸の尊重、あるいは陽陰双方による調和の一体化に価値を見出し重きを置くので、
善か悪かだけではなく、いわばミドルクラスという確固たる存在としても認められる。
[転]
形而上では人間が行う都合による選別(排除・差別)が入り込む。
それでは報復や怨念・妬み、恨といったを解消できないので、
哲学者ニーチェにとってルサンチマンの解消には別の方法が必要となった。
いわば「神は死んだ」との結論に至った。
哲学者鈴木大拙は著書「日本的霊性」のなかで、
「不思議な事には千五百年ほども経過した歴史を有しながら、浄土思想は、
支那においては親鸞的な霊性直覚に到達しなかったのである。
そうしてこの思想は支那にもなく、インドにもなく、欧州(ユダヤ・キリスト教)
にもないのである。」とある。
同じ救済型の他力思想でありながら、浄土仏教とキリスト教とは180度異なる。
浄土仏教では宇宙に生命が生まれた時から現在に至るまで、今後も「ありのままに」
なのであり、無義の義とは「はかりごと無き」であって、ルサンチマンにとっても
弥陀の誓願は既に達成されているのであって、はかりごとから開放される。
従って善い行いをすれば救われるというスタンスではないし、いわんや
「求めよ、さらば与えられん、尋ねよ、 さらば見出さん、叩けよ、さらば開かれん、
神のみこころにかなう願いをするなら」と比べてみても、
浄土仏教には条件や強制が無く、苦難に向かおうという意思は、仏から
たまわったものという意識。
[結]
現代では毎日がはかりごとの生活だ。そしてそれはなかなか思い通りにならない。
その中でも「弥陀のはからい」の物語に出遇うことで、大きな自由と喜びの体感に
感謝(念仏)していこうとする、極めて特徴的な思想である。
弥陀のはからいに出遇う喜びで、おのずと自分のはからいがなくなる。
人間のはからいが自然(じねん)を妨げる。そのはからいによってできなければ
任せるしかない。煩悩具足の自分を救うために阿弥陀仏(救済原理)は存在する。
その仏からたまわったその信心によって、自我に囚われた状態から救済される。
それが幸せに生きることに繋がり、それで元気をいただき、各人各様の生きた物語を
喜ぶことができる。
他力本願といいながら、実は極めて強いプラス思考(自分の為に準備された物語)
即ち自我に囚われない、知と信が調和させる(弥陀の他力)物語のように思う。
秩父清雲寺 しだれ
付録
役に立つものだけが生きやすい世界とは、人間の価値基準を基にした世界でのこと。
現代の人間の価値基準とは例えば貧富とか、美醜とか、意味があるとかないとか、
ひとがいいとか、仕事ができるとか、その中で生きる限り、自分が正しいと思った瞬間に、
自分の都合を振り回してしまうリスクを同時に併せ持つ。
もし役立つものが傍にいてくれれば、自分の都合を振り回すこともない。
そもそも古代の人間には今の価値基準がなくたって幸せだったに違いない。
仏さまを傍で感じる。まして仏さまが、「助けてあげよう」と言っていたのだと感じれば、
すべてに建設的に取り組み、他人に対して安心を与えるように接することができる。
NHKスイッチインタビュー (2016年04月12日)
山中伸弥さんと渡辺謙さんの対談から
ノーベル医学賞の山中教授が、離れて暮らす母親から夢枕電話エピソードについて
紹介があった。研究医から臨床医を目指そうと、土地購入の契約前日に
母親から電話があった。
「死んだお父ちゃんが夢枕に立って、伸弥に思い留まるように言えとそういったんだ」
悩んだ末に、奈良先端科学技術大学院大の助教授に応募する。そこで
iPS細胞という技術に出会うことができた。偶然という事もあるだろうが
自分の人生に大きな作用が働いたと感じることが誰にでもあると思う。
ノーベル賞級の科学者でさえも「何か大きな力が作用することがある」と言う。
いわんや一般人ではなおさらである。
「人間万事塞翁が馬」の故事成語がうしろに大きく書いてあった。
不思議な大きな力を感じたからこその、各人各様に独自の物語があるわけで、
歎異抄という「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて」からはじまり、
「ひとへに親鸞 一人がためなりけり」で終わる。その物語ににひきつけられる。
ところが宗教という「組織」となれば「信じる」ことを大きな力で強要するようになる。
自分の信念でなく、組織が強要する信念に従うと、「組織」の都合の奴隷となる。
宗教には差別性と暴力性を内包していて、人間の力で止められない大きな力を持つ。
長い歴史のある宗教にはそれなりの体系から、暴走をしないように歯止めをかけているが、
現代のいいとこどりをした宗教には歯止めがかからず、突き当たった苦しみにとって
都合のいい自分の解釈が乱立して、暴走してしまう危険があると釈 徹宗氏は警告する。
どうなったら幸せなのか
本来仏教の教えは「無我」で自我の囚われの無い自己によって精神の自由を
回復することにある。とある。そこは浄土も禅宗も共通であって、それとは逆に
自己の都合によって「あるがままを受けいれ、思うままに生きる」から遊離
してしまうことを「無明」とか「煩悩、妄想」と言う。
自己の都合とは、思い込みや価値観、主義によって、思いに囚われ、迷い、
他人を批判し対立すること。それは自分が正しいと思った瞬間から嵌まる。
いわゆる「思いの自閉症」から「弥陀のはからい」に出遇いて開放される。