純粋なもの、一点の曇りのない一途なもの、
それがいわゆる空観の「空」であるとするならば、
啄木が「空に吸はれし十五の心」と詠んだ
「空」と偶然にも重なりました。
多感なる十五の心とは、いわば「色」であって
十五歳の啄木の夢や希望、迷いや不安は澄みきった
空に吸われて、浄化され光り輝いた。
それがやがて決意となって歌に昇華したのでしょうか。
迷いと決意が相互に依存して交錯する。
「空に吸はれし十五の心」は「色即是空」の心経
そのものと感じます。
「よしこれで行ってみよう」という決意あるいは
純粋なものにお任せしようという覚悟によって
迷いや不安と決別出来たのでしょう。
むろん啄木はそんなことを意識して詠んだとは
思いませんが、天才の感性には驚くばかりです。
十五歳のような純粋で澄みきった心こそが
人間にとっての普遍的要素ではないでしょうか。
いくら歳を重ねたとしても、誰にでもあったものだし、
少なくともニーチェが言う欺瞞的な善などとは異なる
ものです。
それがいわゆる空観の「空」であるとするならば、
啄木が「空に吸はれし十五の心」と詠んだ
「空」と偶然にも重なりました。
多感なる十五の心とは、いわば「色」であって
十五歳の啄木の夢や希望、迷いや不安は澄みきった
空に吸われて、浄化され光り輝いた。
それがやがて決意となって歌に昇華したのでしょうか。
迷いと決意が相互に依存して交錯する。
「空に吸はれし十五の心」は「色即是空」の心経
そのものと感じます。
「よしこれで行ってみよう」という決意あるいは
純粋なものにお任せしようという覚悟によって
迷いや不安と決別出来たのでしょう。
むろん啄木はそんなことを意識して詠んだとは
思いませんが、天才の感性には驚くばかりです。
十五歳のような純粋で澄みきった心こそが
人間にとっての普遍的要素ではないでしょうか。
いくら歳を重ねたとしても、誰にでもあったものだし、
少なくともニーチェが言う欺瞞的な善などとは異なる
ものです。