権威主義集団の出現
権威主義は民主主義と対峙する姿であって、
全体主義への端緒である。
弱さから生まれるもので
絶対的権威への帰依につながる部分である。
宗教も同様に
神への絶対的な帰依が本質部分であり、
そこの部分では自由は放棄されている。
そこでの姿は
信仰の自由を享受しながら、
集団組織内では自由を放棄しているという、
ねじれの姿である。
その代わり苦から解放されて楽になる。
世の中には様々な集団が形成されている。
特に権威的集団形成のプロセスは、
弱い立場の大衆が
群れを作るプロセスと似ている。
ナチスが生まれる歴史的背景には
第一次大戦で敗退したドイツが
多額の賠償金を背負い、
大量の失業者であふれていたことにある。
そこに「国家が君を必要としている」と
プライドの持てる国家つくりの政党が現れ、
集団で結束した権威主義が形成され、
全体主義へと突き進んでいった。
我が国でも明治維新以後、
著しい工業化や経済自由主義の発展により、
資産家や労働者集団が出現した。
地方(農業)と都市(政治・商工業)での
差別化が進み地方から都市への大量の
人口流入が行われた。
そこでは弱い立場である労働者が
群れを形成する。
労働組合は小規模集団の典型であるが、
一方では、
新しい生き方や様々な人生に憧れて、
地方の農家から都会に出てきた
おびただしい人口は「大衆」と呼ばれ、
地方では得られなかったビジョン、
現金収入と自由を手にすることができた。
しかし
それと引き換えに大都市特有の
孤独に見舞われた。
その孤独が「新しいつながりの欲求」に向かい、
群れを形成するプロセスが働く。
特にここでも権威主義への憧れが台頭する。
自由は
村社会での連帯とは反対の方向であって、
各自が好きに生きればよいのであり、
孤独に向かうのは必然である。
一方の村社会では指導者の権威に従うことで、
人生の無意味さに対する不安や孤独などとは
初めから切り離される。
村の古来からの掟に従っていればよいことだ。
しかし権威に疑問を持つことや、
集団内でしか通用しない「正しさ」を疑う
という自由を放棄することになる。
そして権威主義の中に埋没して楽になる。
さて、
信仰は自由だけれど、
カルトと呼ばれる反社会性の内容であれば
ある程度の制限(法律・課税)が必要だ。
日本にはないのだが、既にフランスでは
信仰の内容・教義によって規制するのではなく
反社会性によって規制している。
要は、
社会の風習や伝統、価値観が国によって
反社会の基準が異なるからである。
ここに政治と宗教の関係が生まれてくる。
権威主義集団の実体
権威主義の種類も多義に渡るが、
全体主義と民主主義(自由主義)の
中間にあるといわれる。
それぞれの優先項目は
以下のようになっていて大別できる。
自由主義は個人の権利と民主化
(数量評価中心:多数決や利益)
権威主義は秩序と権威と虚飾
(理念、指導者、格やヒエラルキーの尊重)
大衆が向かう都会での集団化特徴とは
「他者の動向のみに注意を払う」
「大きな不祥事が生じても
誰も責任をとろうとしない」
「不都合な事実については誰もが口を閉ざし、
事実が隠蔽されてしまう」…
以上に加えて
集団化を強める働きをする要素としては
熱狂と憎悪と不寛容といった、
要素の存在である。
より巨大な権威主義への歯止めとして
具体的には
オルテガ「大衆の反逆」である。
「自らとは異なる意見や
少数派の意見に丁寧に耳を傾け、
粘り強く議論を積み重ねる」
「自らの能力を過信することなく、
歴史の叡知を常に参照する」
「短期的な目先の利益だけのために
物事を強引に進めない」
「敵/味方といった
安易なレッテル貼りに組しない
『懐疑する精神』を大切にする」
一方の権威的である「力」による
統治者により与えられた答えによって、
その「正しさに依存」することでも、
この決断の責任を
自分で取らなくてもよくなる。
ここでも盲目的な信仰と
一途な忠誠を求めるのである。
今は苦しいがもっと大きな幸福へ
向かう過渡期にあるのだと説明されたら、
それを信ずればよいことになる。
あるいはまた、
現代はたしかに神が死んだ時代であるが、
忠実な信奉者たちは
依然として減少はしていない。
新興宗教においては
「力」によるものではないが、
オルテガより安易であり純粋である。
そして忠実な信奉者たちであり、
聖なる大義のために自分の生命を
犠牲にする準備ができている
狂信的な信仰を抱いている人々である。
そして政治と同様に集団が巨大化すれば
明らかに民主主義の劣化へと進む。
孤独からの解放(都会における群れの形成)
地方から都会に向かう大衆が自覚する孤独により
「新たなつながりの欲求」が生まれる。
本当は人間に生きる目的などはなくても、
苦悩から解放するために、
あえて生きる目的を打ち出す必要が生じる。
生きる目的などの説明には目的論的世界観といって、
強い断定・ビジョン・決断が必要である。
あるいは受け取る側においても
自己都合による思い込みや正しさも必要である。
その正しさの御心(あるいは虚飾)に
依存していればよく、それによって
その問いには悩む必要が無くなり、
あるいはそうした虚飾にどっぷり浸ることにより
孤独や苦から解放される。
コンピュータシュミレーションの要素・結果からも
同じ方向に向く → 地方から都会に向かう大衆
仲間に近ずく → 新しいつながりの欲求
仲間から離れる → 新しい生き方の自由な選択
こうしてみれば
以上のような同様のルールによって
都会の大衆により集団が形成されるのは
必然のように思われる。
そして
自己都合による虚構に埋もれてしまう。
しかし
熱狂と憎悪と不寛容の「集団化の加速要素」が
大きくならないかぎりにおいては、
権威主義への集団には向かわないように思うのだが、
歯止め要素の欠損による大集団化に於いては、
自分達が絶対的に正しいと思っているから
権威主義的集団は強大となり、その中では
自己の自由はますます放棄される。
「大衆の反逆」よりも科学を
科学は無いことの証明(ブラックスワンの証明)
はできない。
そのための証拠がないので
断定することができないのである。
何が「正しいのか」ではなく、
「何が本当なのか」を知るために
科学技術を使うことだ。
科学は誰でも何時でも再現が可能で、
普遍的なものであるからだ。
そもそも宗教においては信仰により
「正しさ」を疑うことが困難である。
「宗教として何が正しく、
何が間違っているのか」という判断基準に
普遍的な証拠は存在しないからだ。
権威主義の政治だろうが、宗教だろうが
集団化をゼロにすることはできない。
しかし
熱狂と憎悪と不寛容の「集団化の加速要素」
はゼロにすることはできる。
空観方程式においては
熱狂と憎悪と不寛容の原因にスポットを当て
その基準を科学に求めようとするものだ。
具体的には
「無明」を取り除くための「光明」を
科学に求める空観方程式のスタンスであって、
信仰や集団化の自由と、
その自由はどこまで許されるものなのかの提案だ。
自由を制限する範囲に的を絞って
何が本質な状態なのかを示してみようと思う。
何が正しいのか?、
意義在る人生とは?、
より良く生きるためには?
役に立つ存在のために?
こうした権威主義ではなく、
科学の普遍性「何が本当なのか」
を最優先にする。
それをもとにすることで、
変えられないものを変えようとしないことだ。
ただ盲目的に従うのではなく
折り合いを付ける方法を模索する。
従い
無いときには無いように、
あるときにはあるように。
できるときにはできるように、
できないときはできないように。
権威主義は民主主義と対峙する姿であって、
全体主義への端緒である。
弱さから生まれるもので
絶対的権威への帰依につながる部分である。
宗教も同様に
神への絶対的な帰依が本質部分であり、
そこの部分では自由は放棄されている。
そこでの姿は
信仰の自由を享受しながら、
集団組織内では自由を放棄しているという、
ねじれの姿である。
その代わり苦から解放されて楽になる。
世の中には様々な集団が形成されている。
特に権威的集団形成のプロセスは、
弱い立場の大衆が
群れを作るプロセスと似ている。
ナチスが生まれる歴史的背景には
第一次大戦で敗退したドイツが
多額の賠償金を背負い、
大量の失業者であふれていたことにある。
そこに「国家が君を必要としている」と
プライドの持てる国家つくりの政党が現れ、
集団で結束した権威主義が形成され、
全体主義へと突き進んでいった。
我が国でも明治維新以後、
著しい工業化や経済自由主義の発展により、
資産家や労働者集団が出現した。
地方(農業)と都市(政治・商工業)での
差別化が進み地方から都市への大量の
人口流入が行われた。
そこでは弱い立場である労働者が
群れを形成する。
労働組合は小規模集団の典型であるが、
一方では、
新しい生き方や様々な人生に憧れて、
地方の農家から都会に出てきた
おびただしい人口は「大衆」と呼ばれ、
地方では得られなかったビジョン、
現金収入と自由を手にすることができた。
しかし
それと引き換えに大都市特有の
孤独に見舞われた。
その孤独が「新しいつながりの欲求」に向かい、
群れを形成するプロセスが働く。
特にここでも権威主義への憧れが台頭する。
自由は
村社会での連帯とは反対の方向であって、
各自が好きに生きればよいのであり、
孤独に向かうのは必然である。
一方の村社会では指導者の権威に従うことで、
人生の無意味さに対する不安や孤独などとは
初めから切り離される。
村の古来からの掟に従っていればよいことだ。
しかし権威に疑問を持つことや、
集団内でしか通用しない「正しさ」を疑う
という自由を放棄することになる。
そして権威主義の中に埋没して楽になる。
さて、
信仰は自由だけれど、
カルトと呼ばれる反社会性の内容であれば
ある程度の制限(法律・課税)が必要だ。
日本にはないのだが、既にフランスでは
信仰の内容・教義によって規制するのではなく
反社会性によって規制している。
要は、
社会の風習や伝統、価値観が国によって
反社会の基準が異なるからである。
ここに政治と宗教の関係が生まれてくる。
権威主義集団の実体
権威主義の種類も多義に渡るが、
全体主義と民主主義(自由主義)の
中間にあるといわれる。
それぞれの優先項目は
以下のようになっていて大別できる。
自由主義は個人の権利と民主化
(数量評価中心:多数決や利益)
権威主義は秩序と権威と虚飾
(理念、指導者、格やヒエラルキーの尊重)
大衆が向かう都会での集団化特徴とは
「他者の動向のみに注意を払う」
「大きな不祥事が生じても
誰も責任をとろうとしない」
「不都合な事実については誰もが口を閉ざし、
事実が隠蔽されてしまう」…
以上に加えて
集団化を強める働きをする要素としては
熱狂と憎悪と不寛容といった、
要素の存在である。
より巨大な権威主義への歯止めとして
具体的には
オルテガ「大衆の反逆」である。
「自らとは異なる意見や
少数派の意見に丁寧に耳を傾け、
粘り強く議論を積み重ねる」
「自らの能力を過信することなく、
歴史の叡知を常に参照する」
「短期的な目先の利益だけのために
物事を強引に進めない」
「敵/味方といった
安易なレッテル貼りに組しない
『懐疑する精神』を大切にする」
一方の権威的である「力」による
統治者により与えられた答えによって、
その「正しさに依存」することでも、
この決断の責任を
自分で取らなくてもよくなる。
ここでも盲目的な信仰と
一途な忠誠を求めるのである。
今は苦しいがもっと大きな幸福へ
向かう過渡期にあるのだと説明されたら、
それを信ずればよいことになる。
あるいはまた、
現代はたしかに神が死んだ時代であるが、
忠実な信奉者たちは
依然として減少はしていない。
新興宗教においては
「力」によるものではないが、
オルテガより安易であり純粋である。
そして忠実な信奉者たちであり、
聖なる大義のために自分の生命を
犠牲にする準備ができている
狂信的な信仰を抱いている人々である。
そして政治と同様に集団が巨大化すれば
明らかに民主主義の劣化へと進む。
孤独からの解放(都会における群れの形成)
地方から都会に向かう大衆が自覚する孤独により
「新たなつながりの欲求」が生まれる。
本当は人間に生きる目的などはなくても、
苦悩から解放するために、
あえて生きる目的を打ち出す必要が生じる。
生きる目的などの説明には目的論的世界観といって、
強い断定・ビジョン・決断が必要である。
あるいは受け取る側においても
自己都合による思い込みや正しさも必要である。
その正しさの御心(あるいは虚飾)に
依存していればよく、それによって
その問いには悩む必要が無くなり、
あるいはそうした虚飾にどっぷり浸ることにより
孤独や苦から解放される。
コンピュータシュミレーションの要素・結果からも
同じ方向に向く → 地方から都会に向かう大衆
仲間に近ずく → 新しいつながりの欲求
仲間から離れる → 新しい生き方の自由な選択
こうしてみれば
以上のような同様のルールによって
都会の大衆により集団が形成されるのは
必然のように思われる。
そして
自己都合による虚構に埋もれてしまう。
しかし
熱狂と憎悪と不寛容の「集団化の加速要素」が
大きくならないかぎりにおいては、
権威主義への集団には向かわないように思うのだが、
歯止め要素の欠損による大集団化に於いては、
自分達が絶対的に正しいと思っているから
権威主義的集団は強大となり、その中では
自己の自由はますます放棄される。
「大衆の反逆」よりも科学を
科学は無いことの証明(ブラックスワンの証明)
はできない。
そのための証拠がないので
断定することができないのである。
何が「正しいのか」ではなく、
「何が本当なのか」を知るために
科学技術を使うことだ。
科学は誰でも何時でも再現が可能で、
普遍的なものであるからだ。
そもそも宗教においては信仰により
「正しさ」を疑うことが困難である。
「宗教として何が正しく、
何が間違っているのか」という判断基準に
普遍的な証拠は存在しないからだ。
権威主義の政治だろうが、宗教だろうが
集団化をゼロにすることはできない。
しかし
熱狂と憎悪と不寛容の「集団化の加速要素」
はゼロにすることはできる。
空観方程式においては
熱狂と憎悪と不寛容の原因にスポットを当て
その基準を科学に求めようとするものだ。
具体的には
「無明」を取り除くための「光明」を
科学に求める空観方程式のスタンスであって、
信仰や集団化の自由と、
その自由はどこまで許されるものなのかの提案だ。
自由を制限する範囲に的を絞って
何が本質な状態なのかを示してみようと思う。
何が正しいのか?、
意義在る人生とは?、
より良く生きるためには?
役に立つ存在のために?
こうした権威主義ではなく、
科学の普遍性「何が本当なのか」
を最優先にする。
それをもとにすることで、
変えられないものを変えようとしないことだ。
ただ盲目的に従うのではなく
折り合いを付ける方法を模索する。
従い
無いときには無いように、
あるときにはあるように。
できるときにはできるように、
できないときはできないように。