日本人の能動的観念
自然を見て感じる(観じる)心(意識)
英語にはない固有名詞
楽しみや状態を示す抽象名詞
侘び寂び
こもれび
恩義
もったいない
いただきます
能動的に信じるとは
自分で見て観じて心の整理ができて、尚且つ共感される状態
恩義:恩から受けたり感じたりした義務感や責任感に報いるために努力する
ボランティアとは無償の奉仕であり異なる概念。自分のためでもある。
受動的に信じる(信仰)とは
先人の教えを聞くことで覚えて、それを信じ尚且つ従う
代表的なものが宗教
子供が言葉や善悪、物語を教えてもらうように。
人間は
心(意識)によって行動するので違いによる影響は絶大である。
もし受動的な意識が支配的であるならば、
損得や安全か危険かを教えられた通りに、あるいは
他のものに委ねることで(その時の状況によって)行動する。
むしろ損得だけで決めてしまう状況となる。一極集中型
即ち、扁桃体思考と呼ばれるものだ。
善か悪か、正しいか正しくないか、強いか弱いかだけで決めてしまう。
勝ちか負けかしかない状態だからとことん戦う状態が続く。
日本人は勝つとは、負ける人がいるからだと優先的に考えられる。
負けた人の気持ちになって考えられる。
自分の成功は自分の力だけでなく周りの人の支えがあったからだと考える。
前頭葉思考
そこから壊すことで活かす(動的平衡)意識に抵抗がない。試行錯誤型
例えば生き延びるために壊すという変化、分解と合成の共存のような場合だ。
それは生命の持続性に通じる物理的なシステムだ。同時に人間の意識に於いても
そうした一体化による変化が求められているのではないか。
諸行無常と諸法無我という思想を古来より継続させてきた。
何かを「信じる」より他者を「尊敬する」
そこでこだわらないという心の持ち方と
そこに通じる生き方についても迫ってみようと思う。
日本は自国文化を尊重しつつ
他国の影響を取り入れる柔軟な社会である。
象徴的には神道の中に仏教を取り入れて独自のものにした。
カレーライスを取り入れ、それにとんかつを加えてカツカレーにした。
クリスマスを祝った数日後、神社仏閣に初もうでをする。
構築と解体を共存させる意識も同様に違和感がない。
我が国では古くから「無常」という言葉で継承されてきた。
常に変化する状況にあり、失敗は成功の基、捨てることで得られる:
親鸞のいう「無義(分解)の義(合成)」である。
また西行も言う、「身を捨ててこそ(分解)身をも助けめ(合成)」
分解と合成が対立するものではなく、互いに補完し合いながら
新たな価値を生み出すプロセスであることを示している。例えば
ハッピーになることを捨てることでハッピーになる
死を覚悟(分解)するとは、全力で生きようとする(合成)こと。
夜は寝るため(分解)にあり、朝はもう一度生きる(合成)ためにある。
あるがままを捨ててこそ(分解)あるがままとなる。(合成)
華道:華をたむけ(分解)、そして活ける(合成)
鈴木大拙:無分別(分解)の分別(合成)
人間の進化によって獲得した分別によって生じた苦悩や悲しみに対し、
そこを乗り越えるための必要なものであって、いわば想像上の秩序である。
特に、生と死の二項対立は人間にとって避けることのできない状態だ。
片方のみにこだわれば新たな状態は出現してこない。
いつまでたっても解決することができないので苦難の道を歩み破綻する。
例えば闇のみにこだわってしまうと、どうせ死ぬのに人間はなぜ生きるのか?
から抜け出せなくなり、物語が生まれずに苦難の道が続いてしまう
「こうでなければならぬ」「こうすべきだ」を捨ててこそ、
「こういう世界だからこそ生きていられる」が生まれてくる。
要は
何が正しいのか(扁桃体思考)よりは何が本当か(前頭葉思考)だ。
だから何が正しいのかを追求するより、状況をそのままにした
曖昧・中庸の状態で発酵させる方が、むしろ解決に近づくとの考えだ。
仏教では諸法無我といい、繰り返しであって永遠不滅なものはないと教えるが、
神道で唱えられる先祖崇拝として死後の魂を敬う考え方と共存できる。
囚われや計らいは捨て、回り舞台の風景によって象徴や祈りの対象として
「できる時であればできるように、できないときはそのままで」
人の命は定められたもの。それにあらがってどうする。あまんじて受け入れ、
好きなように生きる。(できる時はできるように)
即ち「分解を合成より少しだけ先回りさせる」生き方だ。
自然を見て感じる(観じる)心(意識)
英語にはない固有名詞
楽しみや状態を示す抽象名詞
侘び寂び
こもれび
恩義
もったいない
いただきます
能動的に信じるとは
自分で見て観じて心の整理ができて、尚且つ共感される状態
恩義:恩から受けたり感じたりした義務感や責任感に報いるために努力する
ボランティアとは無償の奉仕であり異なる概念。自分のためでもある。
受動的に信じる(信仰)とは
先人の教えを聞くことで覚えて、それを信じ尚且つ従う
代表的なものが宗教
子供が言葉や善悪、物語を教えてもらうように。
人間は
心(意識)によって行動するので違いによる影響は絶大である。
もし受動的な意識が支配的であるならば、
損得や安全か危険かを教えられた通りに、あるいは
他のものに委ねることで(その時の状況によって)行動する。
むしろ損得だけで決めてしまう状況となる。一極集中型
即ち、扁桃体思考と呼ばれるものだ。
善か悪か、正しいか正しくないか、強いか弱いかだけで決めてしまう。
勝ちか負けかしかない状態だからとことん戦う状態が続く。
日本人は勝つとは、負ける人がいるからだと優先的に考えられる。
負けた人の気持ちになって考えられる。
自分の成功は自分の力だけでなく周りの人の支えがあったからだと考える。
前頭葉思考
そこから壊すことで活かす(動的平衡)意識に抵抗がない。試行錯誤型
例えば生き延びるために壊すという変化、分解と合成の共存のような場合だ。
それは生命の持続性に通じる物理的なシステムだ。同時に人間の意識に於いても
そうした一体化による変化が求められているのではないか。
諸行無常と諸法無我という思想を古来より継続させてきた。
何かを「信じる」より他者を「尊敬する」
そこでこだわらないという心の持ち方と
そこに通じる生き方についても迫ってみようと思う。
日本は自国文化を尊重しつつ
他国の影響を取り入れる柔軟な社会である。
象徴的には神道の中に仏教を取り入れて独自のものにした。
カレーライスを取り入れ、それにとんかつを加えてカツカレーにした。
クリスマスを祝った数日後、神社仏閣に初もうでをする。
構築と解体を共存させる意識も同様に違和感がない。
我が国では古くから「無常」という言葉で継承されてきた。
常に変化する状況にあり、失敗は成功の基、捨てることで得られる:
親鸞のいう「無義(分解)の義(合成)」である。
また西行も言う、「身を捨ててこそ(分解)身をも助けめ(合成)」
分解と合成が対立するものではなく、互いに補完し合いながら
新たな価値を生み出すプロセスであることを示している。例えば
ハッピーになることを捨てることでハッピーになる
死を覚悟(分解)するとは、全力で生きようとする(合成)こと。
夜は寝るため(分解)にあり、朝はもう一度生きる(合成)ためにある。
あるがままを捨ててこそ(分解)あるがままとなる。(合成)
華道:華をたむけ(分解)、そして活ける(合成)
鈴木大拙:無分別(分解)の分別(合成)
人間の進化によって獲得した分別によって生じた苦悩や悲しみに対し、
そこを乗り越えるための必要なものであって、いわば想像上の秩序である。
特に、生と死の二項対立は人間にとって避けることのできない状態だ。
片方のみにこだわれば新たな状態は出現してこない。
いつまでたっても解決することができないので苦難の道を歩み破綻する。
例えば闇のみにこだわってしまうと、どうせ死ぬのに人間はなぜ生きるのか?
から抜け出せなくなり、物語が生まれずに苦難の道が続いてしまう
「こうでなければならぬ」「こうすべきだ」を捨ててこそ、
「こういう世界だからこそ生きていられる」が生まれてくる。
要は
何が正しいのか(扁桃体思考)よりは何が本当か(前頭葉思考)だ。
だから何が正しいのかを追求するより、状況をそのままにした
曖昧・中庸の状態で発酵させる方が、むしろ解決に近づくとの考えだ。
仏教では諸法無我といい、繰り返しであって永遠不滅なものはないと教えるが、
神道で唱えられる先祖崇拝として死後の魂を敬う考え方と共存できる。
囚われや計らいは捨て、回り舞台の風景によって象徴や祈りの対象として
「できる時であればできるように、できないときはそのままで」
人の命は定められたもの。それにあらがってどうする。あまんじて受け入れ、
好きなように生きる。(できる時はできるように)
即ち「分解を合成より少しだけ先回りさせる」生き方だ。