さざなみ日記

日々思うこと、懐かしいことなど、つらつらと…

サラナルアンコールにこたえまして!

2024-02-12 17:23:56 | その他
秋田ミワの親戚(秋田家がわの女性陣、!)るにつきましては、オオムね実名で書かせてもらいました。
どうしても、世の中に必要にみえたので、

どうしてもの声がいちぶありましたので、3名だけ、ご紹介いたします。

1.秋田良一(りょういち)

北海道秋田家の長男坊、ただし、親の世話と家業の国鉄(今のJR)のお仕事は、次男と次男の嫁に押し付け、大学は、東京にでてまいりました

学校は、

工学院大学で、専門は、金属加工の研究?と聞いておりました、

若い頃は、パイプラインの設計などに携わったと自慢気に話すのを聞いたりした美和ちゃんでしたが、オイルショックからの第2次産業の衰退により、父の勤めていた、旧満鉄系のさほど大きくない会社は、あっというまに、倒産の危機、
(ちなみに社名は、扶桑工業転じて、扶桑レクセルというマンションの会社に、そしたその会社も、当時は、また倒産に追い込まれ、かいとってくださった大京建設、ありがたくはありましたが、手荒な社員のつかイップリで、当時は、過労死などの規定もあまりなく、アホみたいに働かされ、どやしつけられた、もともとは、ワタクシかそれ以上に繊細だった彼の精神は、ズタボロ、夜中に吠えまくるあれを病気といわずしてなんというの?

ワタクシは、誰に文句をいえばいいの?
負けず嫌い過ぎて、野生みあふれかつ、不器用な父が、敵が多かったのも、ムリはない、、ただボロボロだった父は、あり得ないほどのど根性で、もとの会社の最後の残党として、大京の部長として、定年を迎え、多くはないが、それなりの退職金と年金をいただいておりました、
正直、彼の晩年を、家族の誰もがもてあまし、世話をできかねる状況でしたが、それでも彼は、退職後さらに、母タミコの夢だった喫茶店うららの店長として10年頑張り抜き、愛しすぎてしまったタミコを、病院や看護士をどやしつけながらみとり、自分も最近、誰にも看取られずに、ひっそりなくなりました…

ご迷惑かけた方たち、申し訳ありませんでした、秋田ミワ、

なかなか難しかった母と父でした、

好きだったか?
イヤ、ほんとのところは、ビミョーです、
ただ、血をわけた家族の愛は、愛憎裏表で、とてもひとさまに、説明などしきれるものではなく、
ただ、それでも、あいがあった世であったと、教えてもらった、ワタクシにとっては、
やはり、
感謝と尊敬は、あります

苦しさの根本は、ここだとの、
自覚くらいは、
ありますよ、




(ちなみにメニュー開発、資金調達、内装指示、器の趣味、すべて母タミコよ、)

→これは、喫茶うららの紹介でした

母のことは、

まだ、書けません…セイリがほんとのところは、つきません、

だんながシャカだとか、
母親が、あんなだとか、

ワタクシにとっては、神々与えた、おそろしい試練でした、

もはや、

すべて

打ち消したい記憶ですって、書くと、ヤバい?

また?


ごめんなさい、

もうイロイロ勘弁して、


ほんとに、

自分のなかの正義や理性にのっとり、
穏やかにいきたいだけなの…

私、生きているの?

イヤ、ミレニアムで死んだのかも…



もはや、香川でみたすべてさえ、

まぼろしなの!?



ほんとに、勘弁して