さざなみ日記

日々思うこと、懐かしいことなど、つらつらと…

私は、おしゃべりさんでした。

2023-11-29 10:44:52 | その他
今日は、私が、いかにおしゃべりしたり、なんか書いたりするのが好きだったか、というお話です。(まあ、あまり誰も興味もないかもしれませんが…)

最近よく思うのですが、マグロが動き動き続けないと死んでしまうように、(そして、うちの次女さんはそれが歌うことみたいですが)、私はおしゃべりし続けないと、あるいはせめて何か書き続けないと
死んでしまう生き物だったのではないかと思います。

だんなさんとは、知り合って35年、付き合ってからも、25年くらい経ちますが、本当のところ、今でもそんなに夫婦仲が悪いというわけでもなく、ラブラブとはいえないかと思いますが、50歳も過ぎた夫婦だったら、むしろ普通の方というか、たいがいママ友や主婦仲間が集まったら、だんなさんの悪口なんて鉄板ねたで、そんなもんだと認識しております。
で、10年もただの友だちだった人と結婚したわけですから、ベースには恋愛感情だけではなく、友情も当然あったわけで、だんなさんを人として理解できるというか、評価できるというか、要するにそこは今でもかわってなくて、簡単に嫌いになったりすることもないのです。
むしろ今では、感覚的には、親や兄弟に近い身内の感覚で、「もしかして私、ここからもう一度嫁に行けちゃう?」とか思えちゃうくらい、実家なき今、我が家が実家みたいな感じです。
で、そのだんなさんへの唯一の不満は(結婚当初から今に至るまで、不満なところはその一点だけです)、だんなさんが無口な人だったということです。
ただこれは思った以上に、私には、頭の痛い問題でして、というのも、実家の母も弟も、大変よくしゃべる人で、実家にいた頃は、毎晩2時間がとこは、夜中に、その3人でしゃべり倒していて(しかも、学校や職場がとても遠く、家にたどり着くのが皆、深夜に近く、そこから夕飯を食べ、ひとしきりしゃべるという不健康な生活…)、さらに親友と呼べる女友達はみな、大変おしゃべり好きでかつ、私ととても話の合う人たちだったので、やはりべちゃくちゃ毎日、凄まじくおしゃべりしていたので、考えてみれば、私が独身時代、彼氏なんかいなくても、あまり寂しくなかったのは、そういうことなのかと思います。

そして、私は、結婚して、関西や香川県に住んで、それなりに心の平安はあったというか、幸せだったのかもしれませんが、おしゃべりを思う存分できない毎日が、私をどんどん苦しめていきました。
それで、毎日電話帳を傍らに置いて、ページをめくりながら、昔の友人に電話をかけまくる日々でした。連続でかけると迷惑がられるので、順番にというか。
それでも、私の心は病んでいました。これを書いたら、だんなさんに悪いのかもしれませんが、だんなさんと付き合いはじめてから、父母が亡くなる頃まで、病院とお薬から縁が切れることはなかったのです。私が長女の子育て中、毎日のようにブログを更新していたのも、そうしないと死にたくなってしまうからなのでした。

そんな状態の私をみかねてか、神様は、本当によくしゃべる、おしゃべり好きな娘を2人も、私のところに送ってくれました。娘たちがおしゃべりをはじめてから今まで、私は本当に楽しかった。本当に幸せな日々でした。

今、娘たちが
家を出てしまう日を前に、私は本当のところ、とても不安なのです。また病気になってしまう、また死にたくなってしまうのではないかと。

だから、何時間でも楽しくおしゃべりしてくれる人を、男女を問わず、緊急募集中です。(ただし、心の綺麗なひとのみね。私、人の悪口とかいう邪心のある人、本当に苦手なので。多分だから、子どもたちが好きなんだと思う)

おんなじ理由で、このブログも完全にやめることはないのではないかと思います。

今年読んだ本

2023-11-24 00:20:50 | 本・マンガ
今回は、今年読んだ本について。といっても、なんだかんだ忙しかったので、あんまり読めていないんですが。

①なんて素敵にジャパネスク
(氷室冴子著 2018年 集英社【復刻版】※底本は、1984年 集英社コバルト文庫)

私と同世代の女子ならたいていご存知であろう、私が中学生のときに女子中学生に大人気だったコバルト文庫の中でも人気のシリーズの第1巻です。数年前に急に読みたくなってゲットしていましたが、つい最近読みました。
いやあ、思った以上にぶっ飛んだおはなしで、絶対あり得ないって笑えてしまいますが、当時の女子たちは、私も含めて、このお転婆でかわいい瑠璃さまに夢中でしたね。設定が平安時代っていうのも、なんだかいいのよね。

②愛するよりも愛されたい
(佐々木良訳 2022年 万葉社)

これは昨年発行され(発行元は、なんと高松市にある出版社!)テレビなどでも取り上げられて話題の、万葉集を現代の奈良弁しかも若者言葉で訳した画期的な本です。すっごくわかりやすい意訳なので、一気に読めてしまいます。それにしても、万葉の時代、老若男女みんな恋してる!、しかも表現がストレート!!おもしろい。

気に入った歌をいくつか。

もの思ふと 人に見えじと なまじひに
常に思へり ありぞかねつる

いで何か ここだ はなはだ
利心の 失するまで思ふ 恋ゆゑにこそ

白雲の 五百重に隠れり
遠くとも 宵さらず見む 妹があたりは

(意味は本を買って、調べてみてくださいね!)


もともと高校生の頃は、古典の授業は、かなりうっとりと聞くくらい大好きでしたが、そういう学科に進んだわけでなく、それっきり、そんなに触れてはこなかったわけですが。
長女が大学生になったら国文科に進みたいということで、最近彼女とこういう話をよくしますね。彼女に教わりながら、また古典もいろいろ読めたらいいなと思います。



3万円のフルートと3万円のバイオリン~私と音楽のこと②

2023-11-15 11:00:54 | 音楽
1ヶ月くらい前の前回の記事に、私が高校、大学と、ビオラに打ち込んでいたお話を書きましたが、実は私は、中学生のときは、自分の子どもらと同じ吹奏楽部員でした。(子どもたちに、楽しいよ、はいったら、と勧めたのは、私です。)楽器は、フルートでした。

正式にフルートをはじめたのは、中学生になってからでしたが、実は、そのフルートを買ってもらったのは、小学5年生のときのことです。というのは、私は、小学5年生のときに、千葉市の団地から、郊外の佐倉市に引っ越ししているのですが、その千葉市の小学校には、ブラスバンドがあり、5年生からはいれたのですが、私は、そのブラスバンドでフルートをやることがもう決まっていて、かなり楽しみにしていました。でも、急に引っ越しが決まり、みんなと泣く泣く別れて、ちょっとしょんぼりしていました。そんな矢先に、母が悪いと思ったのか、ジャスコの開店セールで(マリンピアができた当時のこと)、楽器屋さんの店先に詰まれていた3万円のフルートを買ってきて、私に、はいこれ、と渡したのです。

引っ越しその他でお金がかかるときに、3万円でも、かなり母は奮発したのだと思いますが、そして私は、そのときはそれなりに嬉しく、佐倉市に引っ越ししてから、それを眺めたり、ちょっと吹いたり、なんならフルートのお話を書いたりして、楽しんでいました。

しかし、中学生になって、吹奏楽でフルートを実際にはじめてわかったのは、こんなおもちゃみたいな楽器では、とてもやっていけないということでした。当時いなかの、たいして強くもない吹奏楽部でも、フルートの子たちは、みんな最低でも7~8万円はする、ヤマハとかのちゃんとした楽器メーカーの楽器を使っていて(当たり前だったのですが)、こんなメーカーも聞いたこともない、あやしげな楽器を使っているのは、私だけでした。(そして、私は、当然母にちゃんとした楽器を買って、なんて言えませんでした。なんせ、母は当時、時給450円で、フードコートで、死にそうになりながらパートしてましたからね)
加えて、当時の私は、やせっぽちで肺活量が全くなく、ワンフレーズを一息で吹くのすら、難しかったのです。それでやっているうちに、吹奏楽で生きていくのは無理だと思い、高校のときは、オーケストラ部があったので、弦楽器(ビオラね)に転向しました。もっとも、ピアノなどの経験もなく、音感の悪い私は、これもかなり苦戦しましたが。でも、ビオラの穏やかな音が、私は大好きで、加えてオーケストラの中で、万年伴奏パートというビオラのポジションが、目立つことが嫌いで、メロディを奏でる人たちを裏で支えたい、自分の性格にかなりあっていたので、かなりはまって、長いことしていたわけです。

オーケストラ部には、かなり魅力的なひとがたくさんいましたが、なかでも、みんなの憧れを一身に集めていたのは、2つ年上のバイオリンのコンサートマスターの男の先輩でした。本当に彼は、勉強もスポーツもなんでもできて、絵もうまかったらしく、その上バイオリンは、本当に超絶うまかったです。そして、若さゆえのごう慢さがあるというか、自信家で、世の中をななめにみている感じで、いつも不機嫌そうで、そういうところもかっこよく見えました。その自信に満ち溢れたバイオリンの音は、若々しく、キラキラしていて、本当に素敵でした。そして、びっくりしたのは、そのバイオリンは3万円の楽器だったのでした。本当にクラクラしました。3万円でも、こんな素敵な音が出るんだ、と。けっこうお金持ちのおうちの子も多く、高校生でも、100万円のバイオリンとか持っている子もいたので、この事実は、本当に衝撃でした。(ごめんなさい、お金の話ばかりで。そのくらい私の前半生は、お金に苦しめられていました)そしてあとでわかったことですが、彼も私が育った団地と同じ埋め立て地のひとでした。

本当は、その人との思い出には、後日談もあるのですが、まあそれはいつか気が向いたら書くとしまして。

彼は、その後、夢を叶えて、千葉で心臓外科のお医者さまになりました。私は、それをあとから知って、本当に嬉しかったです。まあ、憧れは、憧れのままの方がいいというか。これは遠い昔、私が高校時代の憧れの人のお話です。

年取ってきて、昔話が多くなり、また話が長くなりがちなのは、ご容赦を。
(ほとんど自分のために書いています)