アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
著作物を勉強、講義、討議する会です。

第八章 帝国主義への道(2-1)

2014年12月03日 23時53分10秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第八章 帝国主義への道
 
 いかなる文明も、ほかの文明と対決することなしに伝播することはない。第二の波の文明は、第一の波の世界に対して大がかりな攻撃を浴びせ、その闘いに勝利を収めた結果、何百万という人間、究極的には何十億という人間を、思うままに支配した。
もちろん、第二の波が起こるはるか以前の16世紀から、ヨーロッパの支配者は、広範囲にわたって植民地帝国を築きはじめていた。スペインの司祭と征服者、フランスのわな猟師、イギリス、オランダ、ポルトガル、イタリアの探検家などが地球を横断し、出会った人びとを次から次へと奴隷にしたり、虐殺したりしながら、広大な土地の支配権を手に入れ、祖国の王に貢ぎ物を送っていた。
しかし、これらすべては、そののちに起こった事態にくらべれば、とるに足りない出来事にすぎなかった。
これら初期の探検家や征服者が祖国に送った金銀財宝は、実際には、個人的な戦利品の域を出なかった。それは軍資金になり、私的な財産になった。たとえば、冬期滞在用の別荘といった、働くことを知らない安逸な宮廷人の、虚飾に満ちた個人生活を彩る資金になった。しかし、植民地主義国とはいえ、まだ本質的には自給自足の段階だったその国の経済には、ほとんど無関係だったのである。
貨幣制度とか市場経済とはまったく関係なく、太陽で焼かれたスペインの大地や、イギリスの霧深いbヒースの茂った荒野でどうにかこうにか暮らしを立てていた農奴は、輸出するものなど、ほとんど持ち合わせていなかった。かれらは、その地方で消費するだけのものさえ、十分栽培できないほどであった。もちろん、他国から盗んだり買い付けたりした原料を当てにすることはできなかった。ともかく、農民はぎりぎりの生活を続けていたのだ。外地を征服した成果は、農民として生きてきた一般大衆ではなくて、支配階級や都市を豊かにするだけだったのである。この意味で、第一の波の時代の帝国主義は、まだ採るに足らず、一国の経済に組み込まれていなかったと言ってよい。
第二の波は、この相対的にみれば小規模な、こそ泥的行為を大事業に変えてしまった。小帝国主義を、大帝国主義に変えたのである。
こうして生まれた新しい帝国主義の目的は、金やエメラルド、香料、絹などを、トランクにつめて持ち帰ろうとすることではなかった。大量の硝酸塩、木綿、ヤシ油、スズ、ボーキサイト、タングステンをどんどん船に積み込んで自国に運び込む、本格的な帝国主義が成立したのである。コンゴ川流域に銅山を掘り、アラビアに石油掘削装置をつくりあげることになる帝国主義の出現であった。植民地から原料を吸い上げ、それを加工し、さらに、完成した製品を植民地に吐き出して莫大な利益を吸い上げる帝国主義が成立した。要するに、もはや一国の経済と無関係な帝国主義ではなく、産業国家の経済の基本構造にしっかりと組み込まれた、何百万という労働者が、それに依存して暮らしを立てるような帝国主義が出現したのであった。
そして、それは単に働き口ができたなどいう問題ではなかった。新しい原料に対する需要に加えて、ヨーロッパでは、次第に食糧の需要が増加した。第二の波の国家が製造業中心となり、農業労働力が工場に集中されるようになるにつれて、より多くの食糧を海外から輸入せざるをえなくなったのである。インドから、中国から、アフリカ、西インド諸島、中央アメリカから、牛肉や羊肉、穀物、コーヒー、紅茶、砂糖が輸入された。
反対に、大量生産体制が確立するにつれ、新しい産業エリートはより大きな市場と、新しい投資の場の開拓を迫られた。1880年代から90年代にかけて、ヨーロッパの政治家は自分たちの目的を、臆面もなく、大っぴらに語った。「帝国は貿易によって成り立つ」と言ったのはイギリスの政治家ジョゼフ・チェンバレンであった。フランスの首相ジュール・フェリーは、もっとはっきりしていた。フランスに必要なのは「産業と輸出品と資本のはけ口である」と明言したのだ。好景気と不況の間を激しく揺れ動き、慢性的な失業に直面することによって、ヨーロッパの指導者は幾世代にもわたって、植民地の拡大が止まるようなことになると、失業が発生して自国に武力革命が起こるのではないか、という不安につきまとわれていたのである。
しかし、大帝国主義のルーツは、経済的要因にとどまらなかった。戦略上の配慮、宗教的情熱、理想主義、冒険心、これらすべてが一役買っていた。白人またはヨーロッパ人がほかの人種よりすぐれているということを無言の前提とした人権観も関係していたことは、言うまでもない。多くの人びとが、帝国主義的征服を、神に対する責任を果たすことだと考えていたのである。「白人に負わされた重荷」というイギリスの作家キップリングの表現は、キリスト教と「文明」をひろげようとしたヨーロッパ人の使命感を、端的に表現している。もちろんこの場合、文明とは第二の波の文明を意味する。植民地主義者たちは第一の波の文明がいかに洗練されていようと、複雑化していようと、それをおくれた文明、未発達な文明としか考えなかったからである。農業従事者は幼稚な存在とみなされた。たまたま有色人種に生まれついていれば、なおさらのことだった。かれらは「ずるくて不正直」だと決め付けられた。「勤勉でなく、生命の貴さを知らない」とされたのである。
こうした感じ方は、第二の波が勢力を伸ばしていく途上で、行き当たる人びとを片っ端から絶滅させることまで正当化しかねなかった。
『機関銃の社会史』のなかで、著者のジョン・エリスは、19世紀に完成された、この新しい、まさに致命的な武器が、まず最初に組織的に使われたのが未開の土地の「原住民」に対してであって、けっしてヨーロッパの白人に対してではなかったと書いている。対等の相手を機関銃で殺すのはスポーツマン精神に反すると考えられていた、と言うのである。しかし、植民地人を射殺することは、戦争というより、むしろ狩猟のようなもので、また別な基準で考えるべきことだとされていた。エリスは書いている。「南ローデシアのマタベレ族やイスラム教の托鉢苦行僧、それにチベット人をやっつけることは、本当の意味の軍事行動というより、むしろ、少々危険な一種の“遊猟会”だと考えられていた。」
スーダンの首都ハルツームからナイル川を渡ったところにあるオムドルマンという町で、この最新のテクノロジーの威力が遺憾なく発揮された。1898年、みずから救世主マーディと称してスーダン独立政府を樹立していたムハマド・アーメドにひきいられた回教僧が、六丁のマキシム機関銃で武装したイギリス軍によって打ち負かされたのである。目撃者はこう伝えている。「それは救世主マーディの降臨信仰と、偉大な指導者の最後であった・・とても戦争などと言えたものではなく、まるで処刑であった。」このたった一回の交戦によって、イギリス人の死者28人に対して、回教僧の死者は、実に、1万1,000人にのぼった。なんと、イギリス人ひとりに対して、植民地人は392人も死んだのである。エリスは、続けて次のように書いている。「この戦いがまた、イギリス精神の勝利の例となり、白人一般の優越性の証しになったのである。」
イギリス人、フランス人、ドイツ人、オランダ人などが世界中にひろめた人種差別的考え方や、宗教的信念による正当化などの背後に、ひとつの冷厳な事実があった。それは、第二の波の文明が、単独では存続できないということである。外部から安い原料が入るということが、いわばかくれた補助金のようなもので、これなしにはどうにもやっていけないのである。第二の波の文明にとってなにより必要だったのは、こうした補助金を吸い上げるサイフォンの役目を果たす、統合的なひとつの世界市場だった。

庭の石油井戸
統合されたひとつの世界市場をつくりあげようという動きの根拠にあった考え方は、イギリスの経済学者ディビッド・リカードの「分業は工場労働者と同様に、国家の間にも適用されるべきである」という言葉に、もっとも端的に表現されている。リカードは、有名な一節でこう指摘した。「もしイギリス人が繊維産業を、ポルトガル人がブドウ酒醸造を専門とするならば、両国ともに利益がある。各国がおのおの自国のもっとも得意とする産業に従事すればよいのだ。そうすることによって“国際的分業”が成り立ち、さまざまな国がそれぞれ限定された役割を担うことになって、すべての国が潤うことになるであろう。」
この信念は、その後数世代を経る間に不動のドグマになってしまい、今日でも、世間一般に幅広い説得力を持っている。しかし、この考え方の言外の意味には、気づいていない人が多い。どのような経済体制のもとでも、分業にはどうしてもまとめ役が必要となり、そのために統合のためのエリートが発生したわけだが、国際的分業の場合もまったく同じように、全世界的な統括者が必要となり、そのため、世界的な規模で、国際的なエリートを生むことになったのである。これが第二の波に属する少数国家のグループで、これらの国が、あらゆる現実的な目的のために、ほかの大多数の国ぐにを交代で支配してきたのである。
ひとつの総合的な世界市場をつくり出そうという積極的な努力が成功を収めたのは、ヨーロッパがひとたび第二の波をかぶると、世界貿易がおどろくべき成長ぶりを見せたことからも明らかである。1750年から1914年の間に、世界貿易の取引額は50倍以上、7億ドルからほぼ400億ドルにまで増加したと推定される。もしリカードの説が正しかったとすれば、この世界貿易の利益は、多少の差はあれ、すべての取引参加国に平等に分配されていたはずである。だが実際には「分業化することこそすべての国の利益になる」という身勝手な信念は、公正な競争というありもしない幻想の上に成立していたのである。
この説は、労働と資源の完全に効率的な利用を前提にしていた。政治力や軍事力に威嚇されない、公明正大な取り引きを前提にしていた。多少なりとも対等にわたり合える契約当事者間の、普通の相対取引関係を前提としていたのである。要するに、リカードの理論は現実そのものを見逃していた。
現実には、第二の波に属する商人と第一の波に属する人びととの間の砂糖や銅、ココアそのほかの資源をめぐる売買交渉は、しばしば、まったく一方的なものであった。テーブルの一方には、金勘定に抜け目のないヨーロッパ人またはアメリカ人が、大会社や銀行の広大なネットワーク、圧倒的なテクノロジー、強力な政府を背にして座っており、もう一方には、ほとんど貨幣制度さえ知らず、小規模な農業か素朴な工芸に基礎をおいた経済生活を送っている人びとを従えた、地方領主か族長が座っていたはずである。一方に座っていたのは力づくで押してくる機械力の進んだ文明の代表者であり、自分たちの優越性を確信し、すぐにも銃剣や機関銃で、その優越性を証明しかねなかった。それに対しもう一方に座っていたのは、武力といっても弓や槍しか持たない、まだ国民国家以前の小さな部族国家か、属国の代表にすぎなかった。
後進国の支配者や企業家は、西欧人の手にかかると簡単に金でだまされてしまい、賄賂とか個人的な利得に目がくらんで、原住民の労働力を搾取されるにまかせ、抵抗運動を抑えたり、法律を外国人に遊離に変えてしまうなどということも多かった。ひとたび植民地化してしまうと、帝国主義国は原料の価格を自国の企業家に都合のよいように定め、競争国の貿易関係者が価格の引き上げをできないように、堅固な防衛壁をつくってしまうのである。
このような状況のもとで、産業化の進んだ国ぐには、当然自由競争の市場価格より安く、原料やエネルギー資源を手に入れることができた。
しかも、価格については「最初の価格はすべてを決める」とでも言うべき法則があって、さらに買い手に都合よい低廉な価格が設定された。第二の波の国ぐにが必要とした原料の大部分は、その所有者である第一の波のもとで生活している人びとには、実際上、ほとんど無価値であった。アフリカの農民にはクロムなど必要なかったし、アラブの族長は、自分たちの住む砂漠の砂の下にある黒い黄金、石油の使い道を知らなかった。
ひとつの商品について、それまで売買の実績が無い場合には、最初の取り引きで決まった価格が、決定的な意味を持った。そして、価格はコストとか利益、競争といった経済的要素よりも、相互の軍事力とか政治力によって左右された。これといった競争相手がいないのが典型的なケースであり、こうした場合、自分の手持ちの資源の価値を知らなかった首長や族長は、ガトリング砲を備えた軍隊の大群に囲まれてしまうと、ほとんど買い手の言いなりの価格を認めてしまった。そして、この「最初の価格」がひとたび安く決まってしまうと、それ以後の価格は、みなそれに引きずられて低くなってしまうのだった。
安い原料が船で産業国に持ち帰られ、最終的な産物として商品化されると、はじめの低価格は、事実上、がっちり固定されてしまった。結局、こうしてあらゆる商品について世界価格が確立し、すべての産業国は「最初の価格」が無競争で低レベルに設定されるという事実によって、多大の恩恵をこうむった。したがって、帝国主義者たちが弁舌さわやかに自由貿易、自由企業の美徳を強調したにもかかわらず、第二の波の国ぐにには、婉曲に言えば「不完全競争」によって、大きな利益をあげたのであった。
帝国主義者のレトリックやリカードの学説にもかかわらず、貿易を拡大したことによる利益は、平等に分配されはしなかった。利潤はおもに、第一の波の世界から第二の波の世界へと流れたのである。

マーガリンのためのヤシ農園
第一の波の世界から第二の波の世界への利潤の流れを容易にするために、産業主義列強は、懸命に世界市場を拡大し、統合していった。商業が国境を越えて行なわれるようになると、各国単位の市場は、より大きな、相互に関連を持った一定地域、またはひとつの大陸全体の市場連合体の一部になり、ついには、第二の波の文明を支配する統轄エリートが夢みていた、たったひとつの、一体化した交易システムの一部
になってしまった。世界中が、金銭で織り上げられた一枚の織物と化してしまったのである。
 第二の波の国ぐには、世界のそれ以外の国を、すべて自分たちのガスや食糧、石炭、石材、それに安い労働力の供給者として扱い、地球上の非産業国の人びとの社会生活に、深刻な変化を与えた。何千年も、自分たちの食糧はみずからの手で作り出す自給自足の生活を続けてきた人びとの文化が、否応無しに世界貿易のシステムに巻き込まれ、貿易をするか滅亡するかの選択を迫られたのである。貪欲な産業国の胃の腑を満たすためのスズ鉱山やゴム園が出現するとともに、突然、ボリビア人やマラヤ人の生活水準は、地球の裏側の産業経済に左右されることになってしまったのだ。
 家庭用の原始的なマーガリンづくりの変貌は、この間の事情を明らかにする、まことにドラマチックなケースである。マーガリンはもともとヨーロッパで、その地方特有の材料を使ってつくられていた。ところが、マーガリンづくりがあまり盛んになったので、そうした手近な材料が不足してきたのである。1907年、研究家はココナッツとヤシ油でも、マーガリンができることを発見した。ヨーロッパにおけるこの発見が、西アフリカ人の生活様式に、大混乱をひき起こしたのである。
 イギリス食糧科学技術研究所の前所長マグナス・パイクはこう書いている。「長年ヤシ油をつくってきた西アフリカ主要部では、土地は共同体全員の共有であった。」ヤシの木の利用を規定していたのは、複雑な地方ごとの習慣や規則であった。ある場合には木を植えた人間が、死ぬまでその木になる実を自分のものにする権利を与えられた。場所によっては、女性が特権を持っていたところもある。パイクの記述によれば「ヨーロッパやアメリカの産業社会の住民が、手近な店でいつでもマーガリンを買えるようにするため、欧米の企業家はヤシ油の大規模な生産組織をつくりあげた。ところが、これが産業化されていない、複雑な、外圧にはひとたまりもないアフリカ人の社会組織を破壊してしまった。」ベルギー領コンゴ、ナイジェリア、カメルーン、アフリカ西部のイギリス植民地ゴールドコーストに、壮大なヤシ農園がつくられた。西欧人はそこからマーガリンを入手したが、アフリカ人はこれら大農園で、半奴隷の状態におちいったのである。
 もうひとつの例がゴムである。今世紀のはじめ以降、アメリカにおける自動車の製造が、タイヤとチューブの原料であるゴムの需要を、突然、大幅に高めた。貿易業者は現地の支配者と結託してゴムの生産に従事するアマゾン流域のインディアンを、奴隷のように使った。リオデジャネイロ駐在のイギリス領事ロジャー・ケースメントは、「アマゾンの支流プトゥマヨ川流域で、1900年から1911年の間に4,000トンのゴムが算出されたが、このため三万人のインディアンが死んだ」と報告している。
 これらは「極端な」場合であって、大帝国主義の典型的な例とは言えない、という反論もありうるだろう。たしかに、植民地主義列強は、常に残酷無比だったわけではない。場合によっては支配下の住民のために、学校が建てられ、初歩的な保健施設も設けられた。衛生設備、上下水道なども改善された。一部の人びとの生活水準を引き上げたことは明らかである。
 また植民地主義以前の社会をロマンチックに理想化したり、今日の非産業国の貧困の原因を、もっぱら植民地主義に求めてこれを責めることも、公平な態度とは言えないであろう。貧困の原因には風土、その地方の道徳的水準の低さ、専制政治、無知、外国人嫌い、その他もろもろの原因が作用している。ヨーロッパ人がやってくるずっと以前から、さまざまな窮状や圧制はあったのだ。
 にもかかわらず、ひとたび自給自足の生活が破れ、金銭のため、交易のための生産を余儀なくされ、自分たちの社会組織を、たとえば鉱業や大規模農園を中心に再構成するように奨励されたり強制されたりすると、第一の波の社会の住民は、自分たちの手ではほとんど動かすことのできない市場に、経済的に依存せざるをえない状態に追い込まれてしまった。指導者はしばしば買収されてしまうし、固有の民族文化は嘲笑の対象に変わり、自分たちの言語をしゃべることも禁止された。その上、植民地主義列強は、被征服民の心のなかに、深い劣等感を植え付けてしまった。この劣等感が、今日なお、かつての植民地の経済的、社会的発展にとって、ひとつの障害になっている。 
 しかし、第二の波の社会では、大帝国主義はみごと成功したのだ。経済史家ウィリアム・ウッドラフが書いているように、「これら領地の開発と、その領地を相手とした貿易の増大こそ、西欧諸国民の家族を、歴史上かつてない規模で豊かにしたのであった。」第二の波の経済機構そのものと深く結びついて、あくことのない資源の需要を満たしながら、帝国主義は地球上を席巻していったのである。
 1492年、コロンブスが最初に「新世界」に足を踏み入れた時、ヨーロッパ人が支配していたのは、地球上のわずか9%にすぎなかった。それが、1801年には三分の一を支配しており、1880年には三分の二に達した。そして1935年には、ヨーロッパ人は地球上の陸地の85%、全人口の70%を、政治的に支配するにいたった。第二の波の社会と同じように、世界が統合する側と統合される側に分かれたのである。