March,1980
Alvin Toffler, The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳
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第八章 帝国主義への道(2-2)
アメリカ人による統合
しかし、統合する側もすべてが平等というわけではなかった。第二の波の国家の間でも、成長過程にある世界経済機構の支配権をめぐって、仲間うちで次第に血なまぐさい戦闘がはじまった。第一次世界大戦では優位に立っていたイギリスとフランスに対して、新興ドイツの産業力が挑戦した。戦争による破壊、それに続いたインフレと不況との破滅的なくりかえし、ロシアにおける革命、すべてが産業社会の世界市場をゆさぶった。
こうした激しい動乱は、世界貿易の成長率をひどく鈍化させ、貿易網の中に組み入れられた国の数はふえたにもかかわらず、実際に国際的に取り引きされた物資の量は減少した。第二次世界大戦は、さらに統合的な世界市場拡大の速度をおくらせた。
第二次世界大戦が終わった時、西欧は見わたすかぎりくすぶり続ける廃墟であった。ドイツではまるで月面のようにすべてが破壊されていた。ソビエトも人的、物的両面で、言語に絶する被害を出していた。
日本では、産業が破壊しつくされていた。主要な産業国列強のなかで、アメリカだけが、経済的被害を受けていなかった。1946年から1950年にかけて、世界経済は、国際貿易が1913年以降では最低のレベルに落ち込むという、ひどい混乱状態をむかえていたのである。
そのうえ、ヨーロッパ列強が戦争によって打ちひしがれ、すっかり弱体化してしまったので、植民地が次から次へと独立を要求しはじめた。インドのガンジー、ベトナムのホー・チミン、ケニアのケニヤッタ、そのほかの反植民地主義者が排斥運動を盛り上げていったのである。
したがって、戦火が収まる前に、戦後の世界産業経済が新しい基盤の上に立って再構成されなければならないということは、すでに明らかだった。
二つの国が第二の波のシステムを再構成、再統合する仕事を引き受けた。アメリカとソビエトである。
アメリカはその時まで、大帝国主義戦線では限られた役割しか演じていなかった。北米大陸におけるフロンティアを開拓していくなかで、この国もアメリカ大陸の原住民であるインディアンを、大量に殺戮したり、保留地へ押し込めたりしてきた。また、メキシコ、キューバ、プエルトリコ、フィリピンにおいては、イギリスやフランス、ドイツの帝国主義的戦略を模倣した。ラテンアメリカでは、今世紀はじめ何十年にもわたって、アメリカの「ドル外交」は、ユナイテッド・フルーツ社など多くの自国の大企業に、この地方から輸入する砂糖、バナナ、コーヒー、銅、その他の原料の低価格を保証してきた。にもかかわらず、ヨーロッパ諸国と比較すれば、アメリカは、活発な大帝国主義展開運動のなかでは、新参者にすぎなかったのである。
これに対して第二次世界大戦後のアメリカは、世界最大の債権国として立ち現われた。この国は、最新の科学技術を保有し、もっとも安定した政治機構を誇った。そして、競合関係にあった列強が植民地から手を引かざるを得なくなったために生じた空白に乗じて、権力を握る絶交の機会をつかんだのである。
1941年、早くもアメリカの金融政策立案者は、戦後の世界経済を自国にいちばん都合が良い方向で再統合する案を立てていた。国際通貨、金融問題を処理するために、1944年、アメリカの提唱でニューハンプシャー州ブレトンウッズで開かれた国際会議において、44ヵ国が二つの重要な統合組織の設立に同意した。国際通貨基金(IMF)と世界銀行である。
IMFでは、参加各国が自国通貨の為替レートをアメリカのドルか、金との関係で固定させることを義務づけられた。そのドルも金も、当時はほとんどをアメリカがほゆうしていたのである。(アメリカの金保有量は1948年現在、世界全体の金保有量の72%を占めていた)IMFはこれによって、世界の主要通貨の基本的な関係を固定化したのである。
一方、世界銀行は、当初、ヨーロッパ諸国に戦後の再建資金を提供するために設立されたのだが、私大に非工業国へも貸し付けを行なうようになっていった。主に道路、港湾その他いわゆる「基幹施設」の建設を目的とした貸し付けで、これらの施設は、結局、第二の波諸国への工業製品の原料や農産物輸出品の流れをスムーズにするのに役立ったのである。
まもなく、このシステムに第三の要素が加わった。「関税および貿易に関する一般協定」、略称GATTである。この協定もまた、最初、アメリカによって推進されたもので、貿易の自由化を目指していた。したがって、この協定によって、実際には、比較的経済力や科学技術の面でおくれている国が、競争力の弱い自国の産業を保護することがむずかしくなった。
IMFへの加盟やGATTの受け入れを拒否した国には、世界銀行の貸し付けを禁じるという規定があり、この3つの組織はかたく結びついていた。
このシステムによって、アメリカに対して債務を負った国は、通貨や関税率を巧みに操作して負担を軽減するということがむずかしくなった。このシステムは、世界市場におけるアメリカの産業の競争力を強化した。そして第一の波の諸国が政治的独立を達成したのちにも、それらの国の経済計画に対して、産業化の進んだ強国、とくにアメリカの影響力が強化されたのである。
これら相互に結びついた3つの期間が、世界貿易に対するひとつの、統合的な組織を形成した。そして、1944年から1970年代のはじめまで、基本的には、アメリカはこのシステムにのっとって政策を動かしていたのである。国家と国家の関係では、アメリカがほかの統合国をさらに統合していた、ということになる。
社会主義国の帝国主義
しかし、第二の波の世界に対するアメリカのリーダーシップは、ソビエトの台頭とともに、次第にその挑戦を受けるようになった。ソビエト社会主義共和国連邦そのほかの社会主義諸国は、みずから反帝国主義者を名乗り、世界の植民地化された国ぐにの友邦だと主張した。レーニンは政権を握る一年前、1916年に、資本主義諸国の植民地政策に対して痛烈な攻撃を行なった。彼の著作『帝国主義論』は、今世紀においてもっとも影響力のあった本で、いまなお、世界中の何百万という人びとの考え方を方向づけている。
しかし、レーニンは帝国主義を純粋に資本主義的現象と見ていた。資本主義国は、彼の主張によれば、好んで他国を虐げ、植民地化するわけではなく、必要にせまられてそうするのだ、と言う。マルクスの主張のなかに、資本主義経済では、利潤は一般に時とともに逓減する傾向が避けられない、という説がある。多分に疑わしい学説だが、これは社会主義者にとってひとつの鉄則になった。この学説を前提にしてレーニンは、資本主義諸国が最終段階では自国内の利潤の逓減を補完するため、海外により大きな利益を求めることを余儀なくされる、と考えたのである。
レーニンが見のがしていたのは、資本主義にもとづく産業国家をつき動かしている原理原則の大部分が、社会主義に立つ産業国家をも同じように動かしているという点である。社会主義産業国もまた、世界的規模の貨幣制度を持つという点で資本主義国と変わりなかった。社会主義国の経済もまた、生産と消費の分離の上に成り立っていた。やはし、もういちど生産者と消費者を結びつける市場を必要としていた。(必ずしも利益をめざした市場ではなかったが。)社会主義国家もまた、自国の鉱業機械を運用するために、外国からの原料を必要としたのである。そして、これらの理由によって社会主義産業国もまた、自国の必需品を手に入れ、自国の製品を外国に売るための、統合された世界経済機構を必要としたのである。
実のところ、レーニンは帝国主義を攻撃した一方で、まったく同じ時に、社会主義の目的について「単に諸国間の関係を緊密にするだけでなく、国ぐにを統合することである」と言っている。ソ連の経済分析学者M・セニンが、その著書『社会主義的統合』のなかで書いているように、レーニンは1920年に「諸国の統合を・・最終的には共通の計画によって・・調整される単一の世界経済をつくり出すための、目的のはっきりした過程である」と考えていた。これはどちらかといえば、基本的には産業主義的見通しだった。
表面的には、社会主義産業国も資本主義国とまったく同じ資源の必要にかられていた。社会主義産業国も、自国の急速に増大する工場と都市人口に原料や食糧を確保するために、木綿やコーヒー、ニッケル、砂糖、小麦、そのほかの物資が必要だった。ソビエトは膨大な自然の資源に恵まれていた。(現在も依然として恵まれている。)マンガン、鉛、亜鉛、石炭、リン酸塩、それに金を保有している。しかし、同じ資源はアメリカも持っていた。だからといって両国とも、可能なかぎり低価格で他国から資源を買い続けることをやめたわけではなかった。
そもそも発端から、ソビエトは世界的な貨幣制度の一端を担っていた。いかなる国も、いったこの貨幣経済に組み込まれ、一般的な通商上の慣習を受け入れてしまうと、すぐ型に嵌ったように効率と生産性に関する定義にしばられてしまった。こうした定義自体、初期の資本主義までさかのぼることができる。そして社会主義国といえども、ほとんど無意識のうちに、伝統的な経済概念、カテゴリー、定義、会計手続き、一連の度量衡などを受け入れざるをえなかったのである。
こうして社会主義国の経営者や経済学者も、資本主義国の同業者とまったく同じように、自国で原料を生産する場合のコストと、外国から調達する場合のコストを比較計算した。「つくるか買うか。」資本主義国の企業が日々決断をせまられるのとまったく同じ明確な決断を迫られたわけである。そして、ある種の原料については、世界市場で購入した方が自国で生産するより安上がりなことが、すぐに明白になったのである。
いったんこの決定がくだされると、ソビエトの抜け目ない買い付け担当者がいっせいに世界市場に散って行き、あらかじめ帝国主義国の貿易業者が意図的に低くおさえていた価格で調達しはじめた。ソビエトのトラックは、イギリスの商人が、マラヤで定めた低廉な価格で買い付けたゴムでつくったタイヤやチューブで走り回ることになった。近年、ソビエトはさらに一歩をすすめて、ギニアにソビエト兵を駐屯させ、アメリカが1トン23ドルで買っていたボーキサイトを、6ドルで買っている。ソビエトはその製品をインドに入れるにあたり、ソビエトの国内より30%も割高な価格で買えと請求をしながら、インド製品をソビエトに入れるにあたっては30%も値引きを要求する。このことについて、インドはソビエトに抗議を申し入れている。イランやアフガニスタンは、ソビエトに提供した天然ガスの代金として、相場以下の金額しか支払ってもらえなかった。このように、ソビエトは資本主義国の競争相手と同じように、植民地
の犠牲によって利益を得たのである。もし、これ以外のやり方をやっていたら、ソビエトの工業化は大幅におくれていたであろう。
ソビエトもやはり戦略的考察によって、帝国主義的政策に追い込まれた。ナチスドイツの軍事力に直面したソビエトは、まずバルト海沿岸諸国を植民地化し、フィンランドで戦争をはじめた。第二次大戦後は軍隊による侵略をちらつかせながら、東ヨーロッパのほとんど全域に、「友好的」政権を樹立ないし維持した。ソビエト自体より産業化の面では進んでいたこれらの国ぐにも、しばしばソビエトに搾取され、植民地ないし「衛星国」という性格を明白にした。
新マルクス主義経済学者ハワード・シャーマンは、こう書いている。「第二次世界大戦直後の数年間、ソビエトが東欧の資源を、それに見合う見返りの物資を渡さずに自国に搬入した事実は疑う余地がない。露骨な略奪が行なわれ軍事的賠償が要求された。ソビエトが経営上の支配権を持った合弁企業が生まれ、ソビエトがこれらの国ぐにから利益を吸い上げたのである。また、極端に不平等な通商条約が締結され、結局、二重に賠償金を支払われているに等しかった。
今日では、表面的には露骨な略奪は行なわれていないし、合弁企業も姿を消した。しかし、シャーマンはこうつけ加えている。「ソビエトと大部分の東欧諸国との間の交易は、ソビエトがずいぶん構成になった現在でも、いまだに不平等なものだと思われるふしが多い。」それでは、こうした手段で、どのくらい不当な利益を得ているのかということになると、ソビエトで出版される統計が不十分なため、はっきりした数字をあげることはむずかしい。おそらく、東ヨーロッパ全域にソビエト軍を駐在させておく軍事費は、こうした経済的利益を上回っているのであろう。しかし、議論の余地のない、明白な事実がある。
アメリカが、IMF-GATT-世界銀行という構造をつくりあげたのに対し、ソビエトは「経済相互援助会議(COMECON)」をつくり、東欧諸国に加盟を強制することによって、唯一の統合的世界経済システムというレーニンの夢の実現に、一歩をふみ出したのである。COMECON諸国は、モスクワによってソビエトそのほか加盟国との通商を強制されたばかりでなく、自国の経済発展計画をモスクワに提出し、その承認を得なければならなかった。モスクワは、分業化することによって利益が大きくなるというリカードの学説を盾にとって、古い帝国主義的列強がアフリカ、アジア、ラテン・アメリカの経済に対して行なったのとまったく同じ政策を実行し、東欧諸国の経済に、それぞれ分業的機能を割りあてたのである。これに対して公然と、しかも腰のすわった抵抗を試みたのは、ルーマニアだけであった。
ルーマニアは、自分たちの国を、ソビエトが「石油井戸つきの庭」にしようとしていると主張し、ルーマニアの多面的な発展、つまり偏りのない産業化をめざして歩みはじめた。ルーマニアはソビエトの圧力にめげず、「社会主義的統合」に抵抗したのである。要するに、アメリカが資本主義産業国の間でリーダーシップを発揮して、第二次世界大戦後、あらたに自国に有利な世界経済機構をまとめ上げていた間に、ソビエトも支配下の地域において、それに対応する機構とつくりあげていた、ということになる。
帝国主義のように広大なひろがりを持ち、複雑で変転きわまりのない現象は、単純には説明できない。
帝国主義が宗教や教育、保健衛生、文学や美術の主題、人権問題に対する受けとめ方、世界各国の国民の心理構造に与えた影響は、より直接的な経済的影響と並んで、いまなお、歴史家たちが解明しようとしているところである。帝国主義は極悪非道なこともいろいろやった。評価すべき、積極的役割を果たした面もあることは疑う余地がない。しかし、第二の波の文明が興隆していくなかで帝国主義が果たしたマイナスの役割は、いくら強調しても強調しすぎることはない。
われわれは帝国主義を、第二の波の世界が産業化を推進していく上での火付け役であり、先導者でもあったと考えることができる。アメリカや西欧、日本、ソビエトは、もし外国からの食糧やエネルギー、原料の導入がなかったとしたら、どうやって急速な産業化を実現できたであろうか。ボーキサイトやマンガン、スズ、バナジウム、銅のような、さまざまな必需品の価格が、もし何十年もの間、30%も50%も高かったとしたら、一体どうなっていたであろうか。
おそらく、無数の最終製品の価格が、それにつれて高騰していたであろう。場合によっては、大量消費が不可能になるほど価格が高騰する製品もあらわれたにちがいない。1970年代初頭の石油価格の急騰による、いわゆる石油ショックを考えてみれば、起こりうる影響を、おぼろげにではあっても想像できるはずである。
たとえ国産品で代替できる場合でも、第二の波に属する諸国の経済成長は、どう考えても遅れたであろう。帝国主義が利益をもたらさなければ、資本主義国であれ社会主義国であれ、第二の波の文明は、いまでもせいぜい1920年か1930年のような状態にあったのではないだろうか。帝国主義は、いわば第二の波の諸国の経済成長に、かくれた補助金を出していたことになる。
いまや、全体的な見取り図がはっきり見えてきたと思う。第二の波の文明は世界を細分化し、それぞれ独立した国民国家に再構成した。そして、地球上の国民国家以外の地域の資源を必要とするところから、第二の波の文明は、第一の波の社会と、まだ地球上に残っていた未開民族とを貨幣経済に巻き込んだ。そして、全世界的に統合された市場をつくり出したのである。しかし、地球を席巻した産業主義とは、単に経済的、政治的、あるいは社会的体系だけの問題ではない。それは生活様式、ものの考え方の問題でもある。産業主義は、第二の波に特有の精神構造を生み出した。
こうした精神構造が今日、第三の波の文明の展開をはばむ、最大の障害になっているのである。
Alvin Toffler, The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳
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第八章 帝国主義への道(2-2)
アメリカ人による統合
しかし、統合する側もすべてが平等というわけではなかった。第二の波の国家の間でも、成長過程にある世界経済機構の支配権をめぐって、仲間うちで次第に血なまぐさい戦闘がはじまった。第一次世界大戦では優位に立っていたイギリスとフランスに対して、新興ドイツの産業力が挑戦した。戦争による破壊、それに続いたインフレと不況との破滅的なくりかえし、ロシアにおける革命、すべてが産業社会の世界市場をゆさぶった。
こうした激しい動乱は、世界貿易の成長率をひどく鈍化させ、貿易網の中に組み入れられた国の数はふえたにもかかわらず、実際に国際的に取り引きされた物資の量は減少した。第二次世界大戦は、さらに統合的な世界市場拡大の速度をおくらせた。
第二次世界大戦が終わった時、西欧は見わたすかぎりくすぶり続ける廃墟であった。ドイツではまるで月面のようにすべてが破壊されていた。ソビエトも人的、物的両面で、言語に絶する被害を出していた。
日本では、産業が破壊しつくされていた。主要な産業国列強のなかで、アメリカだけが、経済的被害を受けていなかった。1946年から1950年にかけて、世界経済は、国際貿易が1913年以降では最低のレベルに落ち込むという、ひどい混乱状態をむかえていたのである。
そのうえ、ヨーロッパ列強が戦争によって打ちひしがれ、すっかり弱体化してしまったので、植民地が次から次へと独立を要求しはじめた。インドのガンジー、ベトナムのホー・チミン、ケニアのケニヤッタ、そのほかの反植民地主義者が排斥運動を盛り上げていったのである。
したがって、戦火が収まる前に、戦後の世界産業経済が新しい基盤の上に立って再構成されなければならないということは、すでに明らかだった。
二つの国が第二の波のシステムを再構成、再統合する仕事を引き受けた。アメリカとソビエトである。
アメリカはその時まで、大帝国主義戦線では限られた役割しか演じていなかった。北米大陸におけるフロンティアを開拓していくなかで、この国もアメリカ大陸の原住民であるインディアンを、大量に殺戮したり、保留地へ押し込めたりしてきた。また、メキシコ、キューバ、プエルトリコ、フィリピンにおいては、イギリスやフランス、ドイツの帝国主義的戦略を模倣した。ラテンアメリカでは、今世紀はじめ何十年にもわたって、アメリカの「ドル外交」は、ユナイテッド・フルーツ社など多くの自国の大企業に、この地方から輸入する砂糖、バナナ、コーヒー、銅、その他の原料の低価格を保証してきた。にもかかわらず、ヨーロッパ諸国と比較すれば、アメリカは、活発な大帝国主義展開運動のなかでは、新参者にすぎなかったのである。
これに対して第二次世界大戦後のアメリカは、世界最大の債権国として立ち現われた。この国は、最新の科学技術を保有し、もっとも安定した政治機構を誇った。そして、競合関係にあった列強が植民地から手を引かざるを得なくなったために生じた空白に乗じて、権力を握る絶交の機会をつかんだのである。
1941年、早くもアメリカの金融政策立案者は、戦後の世界経済を自国にいちばん都合が良い方向で再統合する案を立てていた。国際通貨、金融問題を処理するために、1944年、アメリカの提唱でニューハンプシャー州ブレトンウッズで開かれた国際会議において、44ヵ国が二つの重要な統合組織の設立に同意した。国際通貨基金(IMF)と世界銀行である。
IMFでは、参加各国が自国通貨の為替レートをアメリカのドルか、金との関係で固定させることを義務づけられた。そのドルも金も、当時はほとんどをアメリカがほゆうしていたのである。(アメリカの金保有量は1948年現在、世界全体の金保有量の72%を占めていた)IMFはこれによって、世界の主要通貨の基本的な関係を固定化したのである。
一方、世界銀行は、当初、ヨーロッパ諸国に戦後の再建資金を提供するために設立されたのだが、私大に非工業国へも貸し付けを行なうようになっていった。主に道路、港湾その他いわゆる「基幹施設」の建設を目的とした貸し付けで、これらの施設は、結局、第二の波諸国への工業製品の原料や農産物輸出品の流れをスムーズにするのに役立ったのである。
まもなく、このシステムに第三の要素が加わった。「関税および貿易に関する一般協定」、略称GATTである。この協定もまた、最初、アメリカによって推進されたもので、貿易の自由化を目指していた。したがって、この協定によって、実際には、比較的経済力や科学技術の面でおくれている国が、競争力の弱い自国の産業を保護することがむずかしくなった。
IMFへの加盟やGATTの受け入れを拒否した国には、世界銀行の貸し付けを禁じるという規定があり、この3つの組織はかたく結びついていた。
このシステムによって、アメリカに対して債務を負った国は、通貨や関税率を巧みに操作して負担を軽減するということがむずかしくなった。このシステムは、世界市場におけるアメリカの産業の競争力を強化した。そして第一の波の諸国が政治的独立を達成したのちにも、それらの国の経済計画に対して、産業化の進んだ強国、とくにアメリカの影響力が強化されたのである。
これら相互に結びついた3つの期間が、世界貿易に対するひとつの、統合的な組織を形成した。そして、1944年から1970年代のはじめまで、基本的には、アメリカはこのシステムにのっとって政策を動かしていたのである。国家と国家の関係では、アメリカがほかの統合国をさらに統合していた、ということになる。
社会主義国の帝国主義
しかし、第二の波の世界に対するアメリカのリーダーシップは、ソビエトの台頭とともに、次第にその挑戦を受けるようになった。ソビエト社会主義共和国連邦そのほかの社会主義諸国は、みずから反帝国主義者を名乗り、世界の植民地化された国ぐにの友邦だと主張した。レーニンは政権を握る一年前、1916年に、資本主義諸国の植民地政策に対して痛烈な攻撃を行なった。彼の著作『帝国主義論』は、今世紀においてもっとも影響力のあった本で、いまなお、世界中の何百万という人びとの考え方を方向づけている。
しかし、レーニンは帝国主義を純粋に資本主義的現象と見ていた。資本主義国は、彼の主張によれば、好んで他国を虐げ、植民地化するわけではなく、必要にせまられてそうするのだ、と言う。マルクスの主張のなかに、資本主義経済では、利潤は一般に時とともに逓減する傾向が避けられない、という説がある。多分に疑わしい学説だが、これは社会主義者にとってひとつの鉄則になった。この学説を前提にしてレーニンは、資本主義諸国が最終段階では自国内の利潤の逓減を補完するため、海外により大きな利益を求めることを余儀なくされる、と考えたのである。
レーニンが見のがしていたのは、資本主義にもとづく産業国家をつき動かしている原理原則の大部分が、社会主義に立つ産業国家をも同じように動かしているという点である。社会主義産業国もまた、世界的規模の貨幣制度を持つという点で資本主義国と変わりなかった。社会主義国の経済もまた、生産と消費の分離の上に成り立っていた。やはし、もういちど生産者と消費者を結びつける市場を必要としていた。(必ずしも利益をめざした市場ではなかったが。)社会主義国家もまた、自国の鉱業機械を運用するために、外国からの原料を必要としたのである。そして、これらの理由によって社会主義産業国もまた、自国の必需品を手に入れ、自国の製品を外国に売るための、統合された世界経済機構を必要としたのである。
実のところ、レーニンは帝国主義を攻撃した一方で、まったく同じ時に、社会主義の目的について「単に諸国間の関係を緊密にするだけでなく、国ぐにを統合することである」と言っている。ソ連の経済分析学者M・セニンが、その著書『社会主義的統合』のなかで書いているように、レーニンは1920年に「諸国の統合を・・最終的には共通の計画によって・・調整される単一の世界経済をつくり出すための、目的のはっきりした過程である」と考えていた。これはどちらかといえば、基本的には産業主義的見通しだった。
表面的には、社会主義産業国も資本主義国とまったく同じ資源の必要にかられていた。社会主義産業国も、自国の急速に増大する工場と都市人口に原料や食糧を確保するために、木綿やコーヒー、ニッケル、砂糖、小麦、そのほかの物資が必要だった。ソビエトは膨大な自然の資源に恵まれていた。(現在も依然として恵まれている。)マンガン、鉛、亜鉛、石炭、リン酸塩、それに金を保有している。しかし、同じ資源はアメリカも持っていた。だからといって両国とも、可能なかぎり低価格で他国から資源を買い続けることをやめたわけではなかった。
そもそも発端から、ソビエトは世界的な貨幣制度の一端を担っていた。いかなる国も、いったこの貨幣経済に組み込まれ、一般的な通商上の慣習を受け入れてしまうと、すぐ型に嵌ったように効率と生産性に関する定義にしばられてしまった。こうした定義自体、初期の資本主義までさかのぼることができる。そして社会主義国といえども、ほとんど無意識のうちに、伝統的な経済概念、カテゴリー、定義、会計手続き、一連の度量衡などを受け入れざるをえなかったのである。
こうして社会主義国の経営者や経済学者も、資本主義国の同業者とまったく同じように、自国で原料を生産する場合のコストと、外国から調達する場合のコストを比較計算した。「つくるか買うか。」資本主義国の企業が日々決断をせまられるのとまったく同じ明確な決断を迫られたわけである。そして、ある種の原料については、世界市場で購入した方が自国で生産するより安上がりなことが、すぐに明白になったのである。
いったんこの決定がくだされると、ソビエトの抜け目ない買い付け担当者がいっせいに世界市場に散って行き、あらかじめ帝国主義国の貿易業者が意図的に低くおさえていた価格で調達しはじめた。ソビエトのトラックは、イギリスの商人が、マラヤで定めた低廉な価格で買い付けたゴムでつくったタイヤやチューブで走り回ることになった。近年、ソビエトはさらに一歩をすすめて、ギニアにソビエト兵を駐屯させ、アメリカが1トン23ドルで買っていたボーキサイトを、6ドルで買っている。ソビエトはその製品をインドに入れるにあたり、ソビエトの国内より30%も割高な価格で買えと請求をしながら、インド製品をソビエトに入れるにあたっては30%も値引きを要求する。このことについて、インドはソビエトに抗議を申し入れている。イランやアフガニスタンは、ソビエトに提供した天然ガスの代金として、相場以下の金額しか支払ってもらえなかった。このように、ソビエトは資本主義国の競争相手と同じように、植民地
の犠牲によって利益を得たのである。もし、これ以外のやり方をやっていたら、ソビエトの工業化は大幅におくれていたであろう。
ソビエトもやはり戦略的考察によって、帝国主義的政策に追い込まれた。ナチスドイツの軍事力に直面したソビエトは、まずバルト海沿岸諸国を植民地化し、フィンランドで戦争をはじめた。第二次大戦後は軍隊による侵略をちらつかせながら、東ヨーロッパのほとんど全域に、「友好的」政権を樹立ないし維持した。ソビエト自体より産業化の面では進んでいたこれらの国ぐにも、しばしばソビエトに搾取され、植民地ないし「衛星国」という性格を明白にした。
新マルクス主義経済学者ハワード・シャーマンは、こう書いている。「第二次世界大戦直後の数年間、ソビエトが東欧の資源を、それに見合う見返りの物資を渡さずに自国に搬入した事実は疑う余地がない。露骨な略奪が行なわれ軍事的賠償が要求された。ソビエトが経営上の支配権を持った合弁企業が生まれ、ソビエトがこれらの国ぐにから利益を吸い上げたのである。また、極端に不平等な通商条約が締結され、結局、二重に賠償金を支払われているに等しかった。
今日では、表面的には露骨な略奪は行なわれていないし、合弁企業も姿を消した。しかし、シャーマンはこうつけ加えている。「ソビエトと大部分の東欧諸国との間の交易は、ソビエトがずいぶん構成になった現在でも、いまだに不平等なものだと思われるふしが多い。」それでは、こうした手段で、どのくらい不当な利益を得ているのかということになると、ソビエトで出版される統計が不十分なため、はっきりした数字をあげることはむずかしい。おそらく、東ヨーロッパ全域にソビエト軍を駐在させておく軍事費は、こうした経済的利益を上回っているのであろう。しかし、議論の余地のない、明白な事実がある。
アメリカが、IMF-GATT-世界銀行という構造をつくりあげたのに対し、ソビエトは「経済相互援助会議(COMECON)」をつくり、東欧諸国に加盟を強制することによって、唯一の統合的世界経済システムというレーニンの夢の実現に、一歩をふみ出したのである。COMECON諸国は、モスクワによってソビエトそのほか加盟国との通商を強制されたばかりでなく、自国の経済発展計画をモスクワに提出し、その承認を得なければならなかった。モスクワは、分業化することによって利益が大きくなるというリカードの学説を盾にとって、古い帝国主義的列強がアフリカ、アジア、ラテン・アメリカの経済に対して行なったのとまったく同じ政策を実行し、東欧諸国の経済に、それぞれ分業的機能を割りあてたのである。これに対して公然と、しかも腰のすわった抵抗を試みたのは、ルーマニアだけであった。
ルーマニアは、自分たちの国を、ソビエトが「石油井戸つきの庭」にしようとしていると主張し、ルーマニアの多面的な発展、つまり偏りのない産業化をめざして歩みはじめた。ルーマニアはソビエトの圧力にめげず、「社会主義的統合」に抵抗したのである。要するに、アメリカが資本主義産業国の間でリーダーシップを発揮して、第二次世界大戦後、あらたに自国に有利な世界経済機構をまとめ上げていた間に、ソビエトも支配下の地域において、それに対応する機構とつくりあげていた、ということになる。
帝国主義のように広大なひろがりを持ち、複雑で変転きわまりのない現象は、単純には説明できない。
帝国主義が宗教や教育、保健衛生、文学や美術の主題、人権問題に対する受けとめ方、世界各国の国民の心理構造に与えた影響は、より直接的な経済的影響と並んで、いまなお、歴史家たちが解明しようとしているところである。帝国主義は極悪非道なこともいろいろやった。評価すべき、積極的役割を果たした面もあることは疑う余地がない。しかし、第二の波の文明が興隆していくなかで帝国主義が果たしたマイナスの役割は、いくら強調しても強調しすぎることはない。
われわれは帝国主義を、第二の波の世界が産業化を推進していく上での火付け役であり、先導者でもあったと考えることができる。アメリカや西欧、日本、ソビエトは、もし外国からの食糧やエネルギー、原料の導入がなかったとしたら、どうやって急速な産業化を実現できたであろうか。ボーキサイトやマンガン、スズ、バナジウム、銅のような、さまざまな必需品の価格が、もし何十年もの間、30%も50%も高かったとしたら、一体どうなっていたであろうか。
おそらく、無数の最終製品の価格が、それにつれて高騰していたであろう。場合によっては、大量消費が不可能になるほど価格が高騰する製品もあらわれたにちがいない。1970年代初頭の石油価格の急騰による、いわゆる石油ショックを考えてみれば、起こりうる影響を、おぼろげにではあっても想像できるはずである。
たとえ国産品で代替できる場合でも、第二の波に属する諸国の経済成長は、どう考えても遅れたであろう。帝国主義が利益をもたらさなければ、資本主義国であれ社会主義国であれ、第二の波の文明は、いまでもせいぜい1920年か1930年のような状態にあったのではないだろうか。帝国主義は、いわば第二の波の諸国の経済成長に、かくれた補助金を出していたことになる。
いまや、全体的な見取り図がはっきり見えてきたと思う。第二の波の文明は世界を細分化し、それぞれ独立した国民国家に再構成した。そして、地球上の国民国家以外の地域の資源を必要とするところから、第二の波の文明は、第一の波の社会と、まだ地球上に残っていた未開民族とを貨幣経済に巻き込んだ。そして、全世界的に統合された市場をつくり出したのである。しかし、地球を席巻した産業主義とは、単に経済的、政治的、あるいは社会的体系だけの問題ではない。それは生活様式、ものの考え方の問題でもある。産業主義は、第二の波に特有の精神構造を生み出した。
こうした精神構造が今日、第三の波の文明の展開をはばむ、最大の障害になっているのである。