アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
著作物を勉強、講義、討議する会です。

第九章 産業的現実像(インダスト・リアリティ)2-1

2014年12月14日 21時22分43秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler, The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山二郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第九章 産業的現実像(インダスト・リアリティ)(2-1)
 
第二の波の文明は、地球の果てまでぐんぐんと、その触手を伸ばし、その波をかぶったものすべてに変貌を強いた。この文明によってもたらされたのは、科学技術や商業だけではなかったのだ。第二の波は、第一の波の文明との衝突によって無数の人びとの周囲に新たな現実をつくり出したにとどまらず、現実についての考え方自体を、一新してしまったのである。
さまざまな地点で農業社会の価値、観念、神話、道徳と衝突しながら、第二の波は神や正義、愛、権力、美の定義を一新していった。新たな概念や身の処し方、類推の仕方を普及させた。時間と空間、事象とその原因についての昔からの前提をくつがえし、これを破棄してしまった。筋のとおった説得力のある世界観が出現し、第二の波の現実を説明し、正当化したのである。この産業社会的世界観には、これまで特定の名前がない。「産業的現実像(インダスト・リアリティ)」とでも命名すれば、もっともふさわしいのではないだろうか。
産業的現実像とは、産業社会を覆う一連の概念や仮説であって、産業主義社会に生まれるこどもたちは、こうした概念や仮説によって、自分たちの世界を理解するように教えられてきた。言ってみれば、それは、第二の波の文明によって採択されたさまざまな前提のパッケージのようなもので、この文明に属する科学者、実業界のリーダー、政治家、哲学者、プロパガンダの専門家などが、好んでこれを活用してきたのである。
当然のことながら、対立意見の持主もいた。そうした人びとは、産業的現実像の支配的な概念に挑戦した。だが、ここで問題なのは第二の波の思想の支流ではなく、本流だったはずである。概観上は、本流などまったくなかったかのように思えるかもしれない。むしろ、二本の強力なイデオロギーの流れがあって、それらが互いに対立してきたかに見える。19世紀半ばになると、産業化を進める国ぐにには、みなはっきりした左派と右派があらわれた。個人主義、自由競争主義の擁護者と、生産そのほかの経済活動の手段をすべて国家で統制しようという集産主義、社会主義の擁護者である。
このイデオロギー闘争は、はじめのうちは産業諸国間に限定されていたが、まもなく全世界にひろがっていった。1917年にソビエト革命が起こり、世界的規模の中央指令にもとづく宣伝機構が組織されると、イデオロギー闘争はさらに熾烈になった。そして、第二次世界大戦終結のころになると、アメリカとソビエトはおのおの自分に都合の良い世界市場、あるいは全世界とまでもいかないにしても、それに近い大市場をもう一度統合しようとして、いずれの側も巨額の金を注ぎ込み、非産業国の人びとに、それぞれ自分たちの教義をひろめていった。
一方の側には全体主義の諸政権があり、別の側には、いわゆる自由主義の民主主義国家群があった。討議決裂の際には、ただちに武力決着をつけるべく、銃と爆弾が用意されていた。宗教改革期のカソリックとプロテスタントの大衝突以降、二つの思想陣営の間に、これほど画然と主義主張による境界線がひかれたことはなかった。
ところが、この白熱のプロパガンダ戦争において、ほとんどの人が見逃していた事実があった。それは、いずれの側も相手とは異なるイデオロギーをひろめようとしていたにもかかわらず、双方ともに、本質的にはまったく同じ「スーパー・イデオロギー」をふれまわっていた、ということである。
両者の結論 -その経済計画と政治原理- はまったく異質であったが、出発点となった前提の多くは、実は同一だったのである。プロテスタントとカトリックの宣教師たちが、解釈が違うだけで、もとは同じ聖書を後生大事に守りながら、いずれも同じキリストの福音を宣べ伝えているように、マルクス主義者と反マルクス主義者、資本主義者と反資本主義者、アメリカ人とソビエト人は、一様に世界の非産業地域、アフリカ、アジア、ラテン・アメリカへ進出していった。そして、その進出に当って、かれらは同じ一群の基本的前提を携えていたのである。しかし、双方とも自分ではそのことに気がついていなかった。かれらはともに、ほかのあらゆる文明に対する、産業主義の優越性を説いた。両者はともに、産業的現実像の熱烈な使徒だったのである。

進歩の法則
かれらがひろめた世界観は、産業的現実像を構成する、互いに関連の深い三つの信条に基盤をおいていた。この三つの考え方は、第二の波に属する諸国をひとつにまとめ、地球上のほかの国ぐにから産業国をはっきり区別する役割を果たした。
この革新的信条の第一は、自然にかかわるものであった。社会主義者と資本主義者は、自然の産物をいかに分配するかについて激しく対立していたのは事実だが、自然を見る見方に変わりはなかった。双方いずれにとっても、自然はしぼり出せるだけのものをしぼり出す対象でしかなかったのである。
人間は当然、自然に対して支配権を握っているのだという思想を遡れば、少なくとも『創世記』の昔にいたる。しかし、産業革命までは、明らかにそれは少数意見でしかなかった。ほとんどすべての産業革命以前の文化が強調したのは、反対に、貧しさに耐えられること、人間と人間を取り巻く自然のエコロジーとを調和させることであった。
しかし、こうした産業革命以前の文化が、自然に対してとくに従順だったわけではない。山を切り開き、焼き払い、土地の面積に対して多すぎるほどの家畜を放牧し、森を薪木のために裸にした。しかし、当時の人間の自然破壊力には、限界があった。大地に決定的な衝撃を与えるようなことはなかったし、みずからの与えた損害を正当化するための、明解なイデオロギーを必要とすることもなかった。
第二の波の文明が登場すると、資本主義の産業家たちは、利潤追求のために地中から資源を大規模に堀り上げた。大気中に大量の有毒ガスを吐き散らし、広い地域にわたって森林を丸裸にした。そして、その副作用や遠い将来への影響については、十分な配慮がなされたわけではなかった。自然は搾取されるために存在するという思想は、近視眼的展望と利己主義を正当化する、格好の口実になったのである。
だが、一概に資本主義者だけがそうだったわけではない。(利潤追求が諸悪の根源であるという持論にもかかわらず)マルクス主義の産業家たちも、権力を握ればどこででも、まったく同じような行動をとった。事実、かれらは自然との闘争を、自分たちの聖典のなかへ組み込んでしまった。
マルクス主義者が思い描いた未開社会像によれば、人間と自然は調和を保ちながら共存していたわけではなく、自然を相手に、生死を賭した凄絶な闘争をしていたということになる。かれらの考えでは、階級社会の出現とともに、この「人間対自然」の闘争が、不幸にも、「人間対人間」の闘争に変わってしまい、共産主義による無階級社会が達成した暁に、人間は「人間対自然」という、第一義的闘争への回帰を許されると言うのである。
人間は自然と対立し、これを支配する。イデオロギーの分水嶺に隔てられていたはずの両陣営に、実は、この同じ人間像が存在していた。この人間像は、産業的現実増の主要構成要素であって、このスーパー・イデオロギーから、マルクス主義者も反マルクス主義者も、一様に、自分たちの仮説をひき出していたのである。

産業的現実像を構成する第二の信条は、第一の信条とも関連があるが、問題をさらに一歩前進させた。
それは、人間が単に自然を管理するにとどまらず、長い進化の過程の頂点に立っている、という考え方であった。進化論はそれ以前からぼつぼつ唱えられていたが、この概念に科学的根拠を与えたのは、19世紀半ば、当時の最先進産業国イギリスに育ったダーウィンの考え方であった。彼が唱えたのは、世の中には「自然淘汰」という無作為の機能が働いているということであり、生存競争によって、弱者、不適応者は容赦なく淘汰されていくのが必然の過程だというのだ。そして生き残る種が、最適者だと定義したのである。
 ダーウィンが注目したのは、主に生物学的進化であるが、その思想は明らかに社会的、政治的なふくみを持っており、人びとは早くからそのことに気がついていた。こうして、「社会ダーウィニズム論者」たちは、社会の内部でもこの自然淘汰の法則が機能すること、そして、もっとも富裕でかつ強い権力を保持する者が、まさにその事実によって、生存の最適者であり、富と権力に値する人間である、と主張した。
 この考え方をほんの一歩推し進めれば、社会そのものも、すべてこの淘汰の法則にしたがって進化する、という思想につながってくる。この論理によれば、産業主義は、その周辺の非産業文化にくらべてより高い進化の段階に到達している、ということになった。端的に言えば、第二の波の文明は、ほかのあらゆる文明よりすぐれている、ということであった。
 社会ダーウィニズムが資本主義を合理化したように、みずからの文化の優越を疑わないこのあつかましさは、帝国主義を正当なものと考えた。拡大する産業社会は、その生命線を安価な資源に求め、農業社会と、いわゆる未開社会とを抹殺してでも、安い資源を獲得するために、倫理的口実を考え出した。つまり、社会進化論は、非産業社会の人びとを産業社会の人間より劣った存在であると決めつけ、したがって生存不適格者として遇することに、知的、倫理的口実を与えたのである。
 ダーウィン自身、冷酷な筆致でタスマニア原住民の大量虐殺について書き、民族抹殺の情熱をほとばしらせた。彼は「将来のある時期までに・・文明人が世界中の野蛮人をことごとく駆逐し、これにとって代わることはほぼ確実であろう」と予言した。第二の波の文明の先駆者たちにとって、生き延びる資格をだれが持つのかは、一点の疑いもなかったのである。
 マルクスにしても、資本主義と帝国主義を痛烈に批判はしたが、産業主義は社会のもっとも発達した形態であって、ほかのすべての社会も必然的に、順次その段階に向って進んでいくと考える点では、同じ展望の持主であった。

 産業的現実像を構成する核心的信条の第三は、自然と進化とを連繋する思想、すなわち進歩の法則であった。歴史は人類によってよりよい生活に向って流れており、逆流ではない、とする考えである。こうした思想もまた、産業主義時代以前に、すでに多くの先例が見られる。しかし、固有の意味での進歩の思想が大輪の花を咲かせたのは、第二の波の進行と時を同じくしていた。
 第二の波のうねりがヨーロッパをおおったとき、にわかに無数の声が文明の賛歌を歌いはじめた。ライプニッツ、テュルゴー、コンドルセ、カント、レッシング、ジョン・スチュワート・ミル、ヘーゲル、マルクス、ダーウィン、そのほか大勢の思想家が、こぞって世の中の見方についての楽観主義を論証していった。なるほどかれらはいろいろと議論を闘わしている。進歩は歴史の必然なのか、それとも人類が手を貸さなければ進歩しないのか。よりよい生活の中身はなになのか、進歩は永劫に継続するのか、あるいは継続しうるのか、等々。しかしながら、進歩という概念そのものについては、かれら全員が賛意を表し、だれひとり疑義をはさむものはなかったのである。
 無神論者も神学者も、学生も教授も、政治家も科学者も、この進歩を奉じる新しい信仰を説いた。企業家も共産主義諸国の高官も、ともに、悪から善へ、善からさらにより高度の善へ向かうこのあらがいがたい前進の例証として、各地の新しい工場、新製品、新興住宅団地、幹線道路、ダムの誕生をひきあいに出した。詩人も劇作家も画家も、進歩を疑わなかった。進歩は、自然の破壊と「低開発」文明の征服を正当化した。
 そして、この点についても、アダム・スミスとカール・マルクスの著作には、平行して同じ思想が説かれていた。ロバート・へイルブローナーが記しているように、「スミスは進歩の信奉者であった。『国富論』において、進歩はもはや人類の観念的な目標ではなく~人類が必然的に行きつく到達点であり、私企業が経済目標を達成しようとすれば、進歩はその副産物として、おのずから丹精されるのであった。」マルクスにとっては、当然のことながら、私的に経済的目標を追求することは資本主義を生み、かつその自己崩壊の種を播くだけのことであった。だがその彼にとっても、この現実それ自体は、人類が社会主義、共産主義、さらにそれを超えるよりよき体制へと進化していく、長い歴史のとうとうたる流れの一部であった。
 こうして、第二の波の文明期を通じて、自然との闘争、進化の意義、進歩の法則という三つの主要概念は、産業主義の代理人たちが、産業主義を世界に向かって説明し、これを正当化する際に援用される武器となった。
 こうした確信の背後には、現実についてのいっそう深い仮説が存在した。人間の経験そのものを構成する要素に対する、一連の暗黙の信念である。人間である以上、これらの要素と無関係ではありえないし、あらゆる文明が、それぞれ異なる表現によってこれを説明している。あらゆる文明はその社会のなかで育っていくこどもたちに、時間と空間にどう取り組むかを教えなければならない。神話によってであれ、比喩あるいは科学理論によってであれ、いかに自然が作用するかを説明しなければならない。なぜ物事が現に起こっているように起こるのか。この問いに対するなんらかの答を与えてやらなければならない。
 こうして、第二の波の文明は、その成熟に伴い。時間と空間、事象とその原因について、この文明独自の明解な仮説を立て、それを基盤に、まったく新しい現実像を生み出した。過去から断片的事実を拾い上げ、新しい手段でそれらを組み合わせ、実験や経験的試行を重ねながら、人間が自分をとりまく世界を認知する道筋を根本から変え、ひいては、日常生活の行動様式まで変えてしまったのである。

 時間のソフトウエア
 人間の行動を機械のリズムに合わせることが、産業主義の普及にどれほど貢献したかは、すでに第六章で見たとおりである。人びとが正確な、同じ時刻を刻む時計に従って生きるという同時化は、第二の波の文明の主導的法則のひとつであった。産業主義に取り込まれた人びとは、この波の社会以外の人びとの目には、どこにいても時間に追われ、いつもいらいらと時計ばかり気にしているように見えた。
 しかし、この時間意識を徹底させ、同時化を完璧にするためには、時間についての人びとの基本的仮説、つまり観念としての時間像を変革する必要があった。いわば「時間に関する新しいソフトウェア」が要請されたのである。
 農耕に従事する人びとは、種を播く時期と収穫の時期を知らなければならなかったから、一年を単位とした時間については、きわめて正確な計測法を発達させていた。しかし、日々の労働には、別に綿密なスケジュールは必要なかったので、農民の間では、短い時間を測るための、正確な単位はほとんど一般化しなかった。されらは普通、一時間、一分というように、時を一定の単位に分割せず、なんらかの家事労働に要する大雑把で、曖昧な塊(かたまり)に分けていた。農民なら、たとえば「乳搾りの時間」といった表現で、一定の時間経過を表した。マダガスカルでは、時間の単位として通用していたもののひとつに「飯が炊けるまで」というのがあり、また一瞬の短い時間を表現するのには、この地方の食生活を反映して「バッタが一匹揚がるまで」という言い方をしていた。イギリス人は、「主に祈りの間」つまり「天にましますわれらの父よ・・」という祈祷文を唱える時間とか、あるいはもっとくだけた表現で「小便をする間」などと言った。
 同じことだが、隣接した共同体あるいは村落でも交流はほとんどなかったし、労働形態も正確な時間を必要としなかったので、頭のなかで時間を測る単位そのものが、土地につれ、季節につれて変化した。たとえば、中世の北部ヨーロッパでは、日の出から日没までは等分に分けられていたが、日の出から日没での長さは日ごとに変化するので、12月の「1時間」は3月や5月の「1時間」より短かった。
 産業社会では「主に祈りを唱える間」といった、漠然とした時間区分に代わって時、分、秒という、きわめて正確な時間単位を必要とした。そして、これらの単位は季節が変わっても、隣りの共同体へいっても適用するように、規格化、標準化されていなければならなかった。
 今日では、全世界が整然たる時間帯に分類されている。われわれは「標準時」を口にする。地球上のどこにいても、パイロットは「ズールー時間」、つまりグリニッジ標準時に頼っている。国際会議によって、イギリスのグリニッジが、あらゆる時差を測定する基点となった。無数の人びとが、定期的、かつ、一斉に、まるで一個の意志に動かされているかのように、時計を一時間進めたり、遅らせたりしている。そして、いかにわれわれの心のなかで主観的に時がのろのろと過ぎているように思えようと、あるいは逆に飛び去るように早く過ぎると思えようと、いまや、一時間は一時間であり、普遍的な、標準化された一定の長さなのである。
 第二の波の文明は、時間をより正確で、標準的なかたまりに分割したばかりではない。これらのかたまりを無限に過去へさかのぼり、未来へ伸びる直線上に配列した。時間を直線であらわしたのである。
 たしかに、時間が過去、現在、未来へ伸びる直線につながっているという仮設は、われわれの思考の根底に植え付けられてしまった。第二の波の社会に育った人間は、それ以外の考え方など、思ってもみないということになってしまった。しかし、産業化以前の社会では、ほとんど例外なく、いまなお時間は直線ではなく、円環とみなされている。マヤ人から仏教徒、ヒンズー教徒にいたるまで、時はめぐりめぐる円環をなして歴史は無限にくりかえし、生命もおそらく、輪廻によって生まれ変わる、と考えられていた。
 時間が大きな円環に似ているという考えは、ヒンズー教における、循環する劫(宇宙の生成と滅亡との間の極めて長い時間)の概念に見られる。一劫は40億年に相当するが、それすらヒンズー教の創造神ブラフマーの、再生にはじまり崩壊に終わり、また再生をくりかえす、たった一日をあわらすにすぎない。時間が循環するという概念は、プラトンやアリストテレスにも見られる。アリストテレスの弟子エウデムスは、時間が循環するにつれて同じ瞬間を幾度も繰り返し生きるものとして、自分の姿をとらえていた。それはピタゴラスの教えであった。『時間と東洋人』のなかで、ジョーゼフ・ニーダムは述べている。「インド=ギリシャ文化圏の人々にとって、時間は周期であり、永遠であった。」さらに、中国では時間の直線的概念が支配的であったにもかかわらず、ニーダムによれば、「古代道教の思弁哲学者の間では、明らかに時間の円環的なとらえ方が顕著であった」と言う。
 ヨーロッパでも工業化に先行する数世紀の間、この矛盾するはずの二つの時間観が共存していた。数会社G・J・ホイットロウはこう書いている。「中世を通じて、直線的な時間の観念と円環的な時間の観念とが、相克状態にあった。直線的な時間の観念は、商人階級と貨幣経済の登場によって助長された。というのは、土地の所有者に権力が集中しているかぎり、時間は潤沢だと感じられていたし、農民の生活は大地の不変の周期に結びついていたからである。」
 第二の波が勢いを得ると、この年来の葛藤は決着をみた。勝利をおさめたのは直線型の時間観であった。直線型の時間観は、洋の東西を問わず、あらゆる産業社会において、支配的な概念となった。時間は、はるかな過去から現在を経て未来へと長く延びる、主要道路の観を呈することになった。そして、この時間認識は、産業化以前の文明のもとに生きた何十億という人びとにとってはそぐわないものであったが、第二の波をかぶった社会では、経済、科学、政治の各分野にわたって、あらゆる計画の基盤となった。IBMの経営陣も、日本の経済企画庁も、ソビエトのアカデミーも、例外ではない。
 だが、注目に価するのは、直線型の時間観が、進化と進歩を疑わない産業的現実像が成立する、不可欠の前提条件だったということである。進化と進歩の信憑性を与えたのは、直線型の時間観だった。なぜなら、もし時間が直線状でなく円環状なら、もし歴史上の事件が一方向に進行するのではなく、遡行するものならば、それは歴史自体がくりかえしであることを意味する。そうなれば、進化と進歩はもはや幻覚にしかすぎず、時間という壁面に落ちた影でしかないことになってしまう。
 同時化、規格化、直線化、この三つは、第二の波の文明を成立させた基本的仮説に影響をおよぼした。一般の人びとが生活のなかで時間をどう操作するか、そのやり方に大変革をもたらしたのである。だが、時間が変貌を遂げた以上、空間もまた、新しい産業的現実像に適応するような組み変えが必要だった。

 空間の組み変え
 第一の波の文明があらわれるはるか以前、われわれの遠い祖先が狩猟や牧畜、漁労や採集によって生きていたころ、生活は絶え間ない移動の連続であった。飢えや寒さなど、環境の異変に追われ、あるいは温暖な気候や獲物を求めて移動を続けた。高度の移動性は現代人の特性のように言われるが、実は古代人こそ、最初の「ハイ=モビール」であった。荷やっかいな家財類を一切蓄えず、身軽に旅し、広範な地域を渉猟した。男女こども、あわせて50人の人間が生きていくためには、マンハッタン島の六倍の広さの土地が欠かせず、毎年周囲の状況に左右されながら、文字通り何百マイルも放浪しなければならなかった。かれらは、今日の地理学者が言う「広域的」生活を送っていた。
 これとは対照的に、第一の波の文明は、「空間的守銭奴」とも言うべき、土地に執着する人種を育てた。農業が遊牧にとって代わると、放浪の民がさまよっていた土地は、耕地と恒久的な村落に変わっていった。広い地域をやすみなく漂泊することをやめて、農夫はその家族とともに定住し、大海原にも似た空間のなかの、小さな畑を懸命に耕した。縹渺たる大海原のなかだけに、こうした人間の生活はいっそう矮小化されて見えたのである。
 産業文明が誕生する直前まで、みすぼらしい農家の群落は、どれも広大な原野に囲まれていた。ひとにぎりの商人、学者、兵士をのぞく大多数の人たちの生活領域は、きわめて限定されていた。かれらは夜明けとともに畑に出て、日暮れとともに家路についた。畑以外には教会へ通った。ときには6,7マイル離れた隣村を訪ねることもあった。気候や地形によって当然事情は変わってくるだろうが、歴史家のJ・R・ヘイルは、「大多数の人が経験した旅は、一生のうちでもっとも長いものでも、平均すれば15マイルどまりと見て差し支えないであろう」と言う。農業は、「空間的に制約された」文明を生んだ。
 18世紀になってヨーロッパを襲った産業化の風は、ふたたび「空間的ひろがりのある」文化を生んだ。しかも、こんどは、ほとんど地球的規模の広がりを持った文化であった。何千マイルも隔てた商品、人間、思想が行き交うようになり、何十万、何百万という人びとが、職を求めて移動した。各地の農地で、てんでんばらばらに行なわれていた生産は、いまや都市周辺に集まった。膨大な人口が少数の地点に集中し、極端な人口密集地を形成した。古い村落は凋落した。煙突が林立し、溶鉱炉が立ち並ぶ産業の中心地が発生した。
 田園風景が一変して、都市と農村の間には、いままでより、はるかに入念な調整が必要になった。こうして、食糧、燃料、人間、原料が都市へ流れ込む一方、都市から農村へは製品、流行、思想、財政政策が流れた。この二方向の流れは、時間的にも空間的にも注意深く統合され、調整された。さらに、都市内部においても、いっそう多様多種な空間形態が要請された。古い農業体制のなかでの基本的建造物と言えば、教会、領主の館、それにみすぼらしい農家といったところで、ときたま居酒屋や修道院が加わる程度であった。だが、第二の波の文明の場合、分業がさらに複雑多岐になったため、目的別に特殊化された空間が、数多く要求されることになった。
 こうした理由から、まもなく建築家たちは事務所、銀行、警察、工場、鉄道のターミナル、デパート、監獄、消防署、養護施設、劇場などを建て始めた。さまざまなタイプの、これら変化に富む空間は、合理的に機能するように配置されなければならなかった。工場や家から商店までの道の位置、鉄道引込み線と積み降ろしホームや操車場との関係、学校や病院、水道管、発電所、地下配管、ガス管、電話局などあらゆる設備が空間的にうまく配置される必要があった。空間はバッハのフーガのように、細心の配慮をもって構成される必要があった。
 用途別に特殊化された空間をこのように入念に配置することは、適当な時に適材を適所に得るために不可決な条件であって、時間について同時化が進んだと同じように、空間の面でも、こうした変化が一般化したのであった。つまり、空間的同時化である。産業社会が機能するためには、それに先行する時代よりいっそう綿密に、時間と空間とを構成しなければならなかったのである。
 時間について、より正確で規格化の進んだ単位が必要になったように、空間についても、より正確で普遍的な単位が必要となった。産業革命以前、まだ時間が「主の祈りを唱える間」といった、大雑把な単位で分けられていたころは、空間の計測法もまた、ばらばらであった。中世イギリスでは、たとえば1「ルード」は、最短で16.5フィート、最長で24フィートをあわらした。16世紀当時、どうやって1ルードの長さを測ったかというと、最善の方法は、教会から出てくる男16人を任意に選び出し、「互いに左足と右足をくっつけて」一列に並ばせ、その列の長さを計るのがよいと言われていた。「馬で一日の距離」、「歩いて一時間」、あるいは、「馬を軽く走らせて30分」など、もっとあいまいな言い方もあった。
 ひとたび第二の波が労働形態を変えはじめ、目に見えない楔によって市場が拡大し続けると、こうした大雑把なやり方ではどうにもならなくなった。たとえば、貿易が盛んになるにつれて、正確な航海術がますます重要視され、各国政府は商船に正確な航路をとらせるため有効な方策を工夫した者には、莫大な褒賞をとらせた。陸地でも、ますます精密な計測と、より正確な単位が導入された。
 第一の波の文明の時代に幅を利かせていた地域によって異なる様々な習慣や法律、商取引の実態は、混乱と矛盾と無秩序とを伴うために、それらをすべて一掃して、合理的なものに改めなければならなかった。正確さの欠如と計測基準の欠落は、製造業者や新興の商人階級にとって、日常生活上の大問題であった。産業時代の黎明期にフランス革命を断行したブルジョアジーが、新暦による時間の規格化とメートル法による距離の規格化に示した熱意のほども、こうした背景から説明することができる。この問題はきわめて重要視され、国民議会が共和国宣言のために、はじめて召集されたとき、まっさきに採決すべき事項のひとつとされた。
 すべてを変えずにはおかない第二の波はまた、境界線の数を増加させ、しかも鮮明にした。18世紀まで、各王国の境界線は、厳密さに欠けることも少なくなかった。無人の土地が広域にわたっていたので、正確さを問われることもなかったのである。しかし、人口が増加し、交易が盛んになり、工場がヨーロッパ全域に建ちはじめると、諸国の統治者は、自国の国境を整然と地図に書き込むようになった。関税を課すべき境界について、とくに明確な線が引かれたのである。地方領や私有地さえも、前の時代とくらべると入念に境界を定め、標識を立て、囲いをつくり、記録をはっきりさせるようになった。地図はますます詳細をきわめ、包括的になり、規格化された。
 新しい時間像に対応して、ここにはっきり新しい空間像があらわれたのである。スケジュールを立て、時間を守って生活するようになると、いろいろな制約が生まれて期限を切られることが多くなったと同じように、境界線がここかしこに出現すると、空間的にも限界が設定された。時間の直線化に見合う現象が、空間についても起こったのである。
 産業化以前の社会では、陸海を問わず、直線をたどる旅は異例であった。農夫のとおる道、牛のとおる道、インディアンの踏み固めた道など、すべての道は地形なりに曲りくねっていた。町を囲む城壁も曲線を描き、ふくらみを見せるかと思うと、不規則な角度に折れ曲がっていた。中世都市の道路は相互に入り組んでおり、曲がったり、ねじれたり、うず巻き状だったりした。
 第二の波の社会は、船舶に正確な直線航路をとらせただけでなく、光り輝く二本の平行な線がどこまでも一直線に続く線路を敷設し、その上に汽車を走らせた。アメリカ合衆国政府の企業担当官グラディ・クレイが言及しているように、鉄道の線路(この言葉自体が無意識に直線的性格を物語っている)が、中心軸となって、その周辺に、基盤目状の新都市が出現した。直線を直角に組み合わせた碁盤目模様は、自然の景観に独特の機械的規則性と直線的性格を加えた。
 いまでもひとつの都市を丹念に観察すると、旧地区では街路、四角形の広場、円形広場、錯綜した交差点などが雑然と続いている。ところが、同じ都市内でも、時代をくだって産業化がさらに進行した段階で開発された地区では、しばしばこのような雑然たる状態に代わって、整然とした碁盤目状の都市があらわれる。こうした現象は、ある地域、あるいは国全体を見た場合にも同じことが言える。
 農地ですら、機械化によって直線模様を見せはじめた。産業化以前の社会では、農民は牛に畑を鋤かせたから、うねは不規則な曲線を描いた。農夫はいったん歩き出した牛を中途で休ませたくなかったので、牛はうねの端までくると大きくカーブして、畑にS字型に似た模様を描いた。しかし、今日、飛行機の窓から俯瞰すると、農地は四辺形に区画され、まるで定規でもあてたように直線の鋤き跡がついている。
 直線と直角の組み合わせは、農地や街路だけでなく、一般の人びとがもっとも見慣れた空間にもあらわれた。生活の場である住宅がそれである。産業時代になると、壁が曲線を描いたり、壁と壁が直角に交わらないような建築はめったに見られなくなった。整った直方体が不整形な部屋を駆逐し、高層ビルは空に向かって垂直に伸びていった。道路も一直線になり、それに面した建築の大きな壁面には、直線状、または碁盤目状に窓がつくことになった。
 こうして、われわれの空間についての観念と経験は、時間の線型化に並行して、空間の線型化という過程を経ることになった。資本主義社会、社会主義社会を問わず、洋の東西を問わず、すべての産業社会において、建築空間の特殊化、精密な地図、同形の反復、正確な計測単位、そしてなによりも直線が文化の恒常的特質となった。それは、新しい産業的現実像の基本だったのである。
(続く)