河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

畑120 / a man of culture

2023年12月09日 | 菜園日誌

今日は、あたたかい。
こんな日こそは、出来るだけのところまでやってしまおうと、エンドウとソラマメの畝の準備。
久々に耕運機の出番。
昔は鋤(すき)、近年は備中鍬で、エッチラオッチラと土を起こしてひっくり返していた。
「田を返す」が「たがやす」の語源。
漢字の「耕」も、井(四角い土地)+耒(すきへん=鋤)でほぼ同じ意味。
今は耕運機で、30分ほどで終了する。
ちょっと疲れたので、ドッカリと椅子に座って、耕運機を眺めながら、文明の利器、人間の叡智のたまものよと感心。

「耕す」の英語は「culture」(ギリシャ語のcolereから派生した語)。
「農業」の意味の英語「agriculture」にcultureがついているのはそのためだ。
人間は田畑を耕す以外にも頭脳を耕し、肉体を耕し、心を耕してculture(文化・文明・教養)を創造してきたのだ。

お釈迦様がある村で托鉢(たくはつ=食物を乞うて歩き、執着を捨てる修行)をしている時、バラモン教の男が、収穫した食物を配っているところに出会った。
お釈迦様が食を得るために男の所へ行くと、男がお釈迦様に言った。
「おまえもワイと同じように、田を耕して種をまいて、自分の力で食べんかい!」
お釈迦様は毅然として言った。
「私も田を耕し種をまいているのです!」
しかし、男は納得できず、「田を耕す道具もないのに、どないして田を耕してるねん?」
お釈迦様は静かに答える。
「信仰が種子で、苦行が雨です。智恵が農具で、真実をまもることが草刈りなのです。それで人々の心を耕し、あらゆる苦悩から解放するという実をみのらせているのです」

なるほど、そうか!
畑を耕すのも人々の心を耕すのも似たようなもので、耕すことは修行と同じなのだ。
人間の知恵の結晶の耕運機で少しぐらい耕して、疲れたなどと言っていてはダメなのだ。
というので、一気にエンドウ畝を立て、ネットを張り、昼からはエンドウの苗を定植。
暮れなずむ西空見ながら、畑だけでなく身も頭も心も耕して、独りご満悦。
なんといっても、吾もまた、a man of culture(文化人)なのだから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする