毎日のように時雨る。
晩秋から初冬にかけて、降ったりやんだりする雨を時雨(しぐれ)という。
昔の人は、木々の葉が色づくのは、時雨が降って葉を染めるからだと考えていた。
こもりくの泊瀬(はつせ)の山は色づきぬ しぐれの雨は降りにけらしも
万葉集 大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)
〈隠り国の初瀬の山は美しく黄葉した。時雨の雨が降ったらしいよ〉
泊瀬は現在の奈良県桜井市の初瀬(はせ)あたり。真言宗の長谷寺がある。
上記の和歌に「しぐれの雨」と、「しぐれ」を雨の修飾語につかっているように、本来の「しぐれ」は〈しばしの間に急に暗くなって降る・集中して降る〉の意味だった。
だから、秋冬に限らず、桜しぐれ・青しぐれ・片しぐれ・北山しぐれ などの言葉がある。
それが秋に限定されるのは、「しぐれ」という言葉の響きの柔らかさが、今の時期に、はらはらと降る雨にぴったりだったからだろう。
暮れて行く時雨霜月師走かな /与謝蕪村
にわかに、降ったりやんだりして、はらはらと降るという時雨を見立てて「蝉時雨・虫時雨・落葉時雨・紅葉時雨」」などの言葉ができる。
人間に見立てたものでは、はらはらと涙を流す「袖時雨」というのがある。
心もみじ葉 秋かと思や 濡らす涙の袖しぐれ/ 都々逸
昨日の昼は、南の方は晴れているのに我が畑だけ片時雨。
今日は夜半に小夜時雨で、なんとも憂鬱な時雨心地。
なのだが、この時雨が野菜を育て、木々を色づかせるのだ。
本来の「時雨」は、昔に中国の孟子先生がおっしゃった〈ほどよい恵の雨〉の意。
孟子が言いました。君子の(家臣・人民への)教え方の第一は、ほど良く降る雨が自然に草木を養育するようなやり方である(時雨之化 じうのか) /『孟子』
時雨はありがたい雨なのだ。
※絵は竹久夢二(国立国会図書館デジタルコレクション)