逝きし世の面影さんのサイトより
https://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/5519451a7062cd38812027edbbb19122
<転載開始>

渡邉英徳‏ @hwtnv

(75年前の今日)1945年9月2日,戦艦ミズーリの艦上で,日本の降伏文書に署名するコンラッド・ヘルフリッヒ提督。隣にはマッカーサー元帥が立っている。カラーフィルムで撮影された写真。

日ソ戦争 1945年8月――棄てられた兵士と居留民 – 2020/7/18富田武 (著)

「日ソ戦争」はソ連軍170万、日本軍100万が短期間であれ戦い、日本側の死者は将兵約8万、民間人約25万、捕虜約60万を数えた、明らかな戦争であった。
本書は、現在まで「触れたくない敗戦史」ゆえに放置されてきた日ソ戦争(1945. 8. 9-9. 2)の全体像を初めて描くものである。旧ソ連の公文書と日本側資料、日本人兵士の回想の三つの視点から戦闘現場の詳細を追った「第二部 日ソ八月戦争」を軸に、軍事的側面を中心に、これまで断片的にしかわかっていなかった戦争の真実を著者は明らかにしていく。
ソ連側の戦略はいかなるものであったか。それに対する日本と関東軍の実態は? 日本軍とソ連軍の兵士はどのような思いで戦闘にあたっていたのか。満蒙開拓団はじめ居留民がこの戦争に巻き込まれていった実態は? さらに、ヤルタ会談前後から広島・長崎への原爆投下、ソ連参戦まで、また日本敗戦後の日本軍捕虜などの取り扱いやシベリア抑留、東京裁判、731部隊の処置に至るまで、米ソの動向と思惑も併せて、現在に連なる諸相を、本書は考察していく。参謀の戦史に代わって兵士の戦史にアクセントを置き、日本敗戦後75年目にはじめて明らかになる真実を、ここに記す。

今週の本棚 沼野充義・評 日ソ戦争 1945年8月 棄てられた兵士と居留民=富田武・著 毎日新聞

徹底解明「終戦」でなかった8・15

◆『日ソ戦争 1945年8月 棄(す)てられた兵士と居留民』(みすず書房・4180円)

 第二次世界大戦はどのように終結したのだろうか? 一九四五年五月、ドイツが無条件降伏し、七月末には連合国首脳がポツダム宣言を発表、なおも戦い続ける日本に対して降伏を迫った。ところが日本政府はこれをすぐには受け入れず、「黙殺」すると発表した。国際的にはそれが「無視」「拒否」と受け止められ、アメリカは八月六日と九日、広島と長崎に原爆を落とし、これが決定的な打撃となって、日本は八月一五日、天皇の玉音放送によって降伏の受諾を公表した。つまり、日本の戦争は八月一五日に終わったことになる。それでは本書が表題に掲げる「日ソ戦争」とは一体何なのか?

 この本の主題は、戦争の本当の終結のために、アメリカによる原爆投下と同様に決定的な役割を果たしたのが、ソ連による対日参戦だったという歴史的事実である。八月九日、ソ連は日本との中立条約を破って対日参戦を通告、満州への侵攻を開始して関東軍を圧倒したのだが、それでも関東軍が正式に降伏したのは八月一九日であり、さらにソ連軍による樺太・クリル(千島)の侵攻・占領作戦は九月初旬まで続いた。
(有料記事なので以下省略)

敗戦を75年間も認めたくない日本 2020年08月15日 | 政治・外交と天皇制

シベリア抑留研究の第一人者である富田武・成蹊大学名誉教授の「日ソ戦争 1945年8・15」は2週間前の、戦後75年・表現者たちの夏「ソ連にも敗れた日本」(毎日新聞8月12日水曜日)でも取り上げられている。

ソ連対日参戦で「即座に日本が降伏する」と知っていたアメリカ

たぶん、この毎日新聞「ソ連にも負けた日本」が今までの日本のタブー中のタブーを恐れず、初めての第二次世界大戦の終戦(日本の降伏)を真面目に本気で取り上げたマスメディアであると思われる。(★注、その意味では歴史的な大事件である)

アメリカのルーズベルト大統領はソ連軍参戦こそが「日本降伏」の決め手だと知っていたので、ドイツ敗北(5月9日)から3カ月目のソ連赤軍の対日参戦は早い段階から計画されていたのである。(★注、玉音放送の1945年時点では本土決戦を予定した日本軍は兵力の半分を温存していたのである。アメリカのトルーマン大統領が言うように日本全土が地上戦になれば米兵の損害は100万人。沖縄戦のような事態なら日本人の損害は1000万から2000万人)

「目前の最大の危機」今では歴史上の出来事だが75年前は全く違っていた

日本の国体(天皇制)にとって1918年のロシア帝国の最後の皇帝ニコライ二世など300年続いたロマノフ王朝全員の処刑は目の前に迫った最大の危機だったのである。恐ろしいソ連赤軍だけには降伏したくないので必死で抵抗した。ところが、1日どころか一分一秒でも早くアメリカ軍に降伏したかったのである。(★注、8月9日未明のソ連軍参戦を聞いた日本は即座に御前会議を開催してポツダム宣言を受諾「無条件降伏」を決定、10日早朝には連合国に連絡している)

「敗戦日本の最大のタブー」一回目は清水の舞台から飛び降りる勇気が必要だがコロンブスの卵で二回目は簡単

毎日新聞「今週の本棚」8月29日(土曜)徹底解明「終戦」では無かった8・15では、2週間前の8月12日、戦後75年・表現者たちの夏「ソ連にも敗れた日本」記事に初めて登場した、今までの「日本軍降伏はアメリカ軍の原爆投下による8月15日」の俗論を排して、「ソ連軍の対日参戦が日本に降伏を決断させた」事実を取り上げていた。

北では200万の日ソ両軍が死闘を繰り広げ、南では日米が仲良く降伏を準備していたグロテスク過ぎる1945年8月

降伏を呼びかけるためにソ連軍から派遣された軍使(日本人捕虜)は日本軍将校に斬殺されたが、そのことは日本側の公式記録からは削除された。

日米合作だった「日本降伏」 2018年09月21日 | 社会・歴史

渡邉英徳‏ @hwtnv
1945年8月19日,沖縄・伊江島を経由し,正式降伏受理の打ち合わせのため,マニラに向かう日本の使節団。ニューラルネットワークによる自動色付け+手動補正。
(沖縄県伊江島で日本軍の白色緑十字の一式陸攻から降りてアメリカ軍の用意していたダグラスDC-4に乗り換えるところ)
 

伊江島に着陸する日本軍の白色緑十字の一式陸攻を護衛するアメリカ軍機(B-25 Betty’s Dream)の一連の画像はアメリカ軍によってカラーフィルムで撮影されていた
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♬戦後75年も経っていますが、ひとつ、またひとつと真実が表に出て来ています。これらは、パズルの一片のようにして、やがてそれが大きくつながると、はっきりと見えてくるものがあります。
 
真実は、何年たとうと真実のままです。私達が知ろうとして、手を差し伸べるのを、待っているかのようです。
 
タブーは、真実の彼らに気づかないようにタブーにされていたのです。