自家中毒
私と姉が一緒にお腹をこわし、吐き気をもよおしたことがあり、医者には父が付き添っていたことを、おぼろげながら覚えていました。
医者は「自家中毒ですね。」と言っていた事はずっと覚えていたのですが、それは長い間、普通の食から来る病だと私は思っていたのです。
それがつい最近、自家中毒という病名は精神的なダメージからくる病であって、食からくるものではないと、わかったのです。
それから、当時を思い出すと、
医者に「最近なにかお家で変わったことはありましたか?」と父は聞かれていて、「私が再婚したのですが。」「そうでしたか、そういう事でしたら・・・」というような会話を思い出したのです。
この病気は、小学生中学年位までに見られると書かれていましたが、その時私達姉妹は10代の半ばでした。
あの時、私達姉妹は父が再婚した事から、このような病気になっていたのでした。それは私の記憶にはずっとなかった辛かった記憶を取り戻すかのようにして、ぽろぽろと出て来たのです。
父親が再婚した相手は、以前住んでいた田舎の市内に住んでいた人で、私達の母と同じ血液型の人でした。
子供にとって、父親が再婚して新しいお母さんが来てくれるとだけ思っていたのですが、それは子供にとっては今までの我が家とはまるで違う雰囲気と、家の中の流れが変わることでした。
私達姉妹は、父親の再婚について不満を言う事もなく過ごしていましたが、自分たちの感情を押さえていたのではないかと思います。それが積もり積もって、身体に現れたのでしょう。
むろん父に不満や愚痴を言う事もありませんでした。
父はその時にどう思っていたのかは、もう聞くことも出来ませんが、その後私達家族は、動物園や、遊園地、など連れだって、出かけるようになりました。
忘れていた辛い思い出は、いつの間にか蓋をしてしまい何事もなかったかのように過ごしてきました。
やがて、私達も成長して義理の母親とも話をするようになってからは、すこしづつ間が埋まってきたのかもしれません。
なぜか、母の日の私の戸惑いが思い出されます。母の日のカーネーションを買うのに、私はピンクのカーネーションにしたかったのです。
それは、母が逝ってしまったから白いカーネーション。でも新しい母がいるので間をとってピンクのカーネーションが、私の気持ちにはぴったりだったのですが、父から「赤にしなさい」と言われて、やむなく「赤いカーネーション」を買ったことも思い出しました。
母の日はそんなわけで、毎年私の心はしっくりしませんでした。亡くなった母を思い出す日は無くなっていくようでした。
カーネーション一つでさえ、自分の意志とは違うことをしなければならない気持ちは私を悲しくさせたのです。
私はいつの間にか、自分の心を閉ざして暮らすようになり、やはり姉も同じようにして、自家中毒になったのは、姉も心の内を漏らすことはなかったからでしょうね。
父にどう言ったらわかってもらえるのか、というよりも、父に言う事はできないと子供心に思っていたのです。
そんなある日、ある家族連れの男性が我が家にやってきました。父親と娘さん2人を連れて我が家に来ました。我が家には義母の友人が来ていて、どうやらお見合いのセットをしたようでした。
私と同い年の長女とまだ幼い小学生の妹さんと、3人で公園に出かけました。
むかい合わせに座るブランコに乗っておしゃべりをしていると、その長女が私に言いました。「今日会ったあの人と、父はお見合いをしているのだけど、私はね、新しいお母さんはいらないと思っているの。私は絶対に嫌なの。」と言い出したのです。むろん彼女は我が家の事はすでに話で聞いているようでしたが。私はそういう彼女を見て、凄い人だと思ったのです。うちの姉よりもしっかりと自分の意志を言うなんて、そして心の中で思ったのです。彼女ならきっと妹の面倒も見て、家事をして3人で仲良く暮らしていくだろうって。私よりもずっとずっとしっかりしている彼女をまぶしく感じたのでした。
その後父から、この縁談は破談になったと聞き、私は心の中で彼女にエールを送りました。