父の日曜大工
父の日曜大工は、亡くなるまで続きました。
2度目の母を亡くした後、父の友人の奥さんの紹介で3度目の結婚をしたのです。
私は当時「反対」と言いました。「でも、結婚するのは自由です。」とも、言ったのです。県外に住んでいた私のところに、何度となく父から「元気か?」と電話がかかってきました。私の心をほぐそうとしていたのです。そして私は、「妹がいいというのなら、それでいい」と条件を出したのです。
そして、父は3回目の結婚をしましたが、父からは「お義母さんと呼んでやりなさい。」と何度も言われましたが、私は言う事ができませんでした。その後子供達が生まれてから、実家に帰ると自然に「おばあちゃん」と言えるようになりました。
私が小学生の頃、父が木にカンナをかけながら、「若い頃は、大工になろうと思っていたんだ。だけど爺さんにサラリーマンになった方が、収入が安定しているからサラリーマンになれ。と言われて辞めたんだ。」と言っていました。
殆どの休日はいつもやっていました。雨の日も、家の中で出来ることを、やり続けていました。
日曜日の朝、物置から引っ張りだしてきて、いつもカンナをかけたり、釘を売ったりペンキを塗ったりしていました。
家にはこれと言って大物が残っているわけではないのですが、便利に暮らせるように、色々と工夫するのが好きだったようです。
田舎に戻ってから、親戚や友人の為にヒバリの籠を作っていました。それは知人の竹林から竹をもらい、竹を割っていき、丸く削って竹ひごから作っていました。また天高くあがるヒバリがぶつからないように、網が天井につけられていて、親戚に川で漁をしていた人のところへ行き、網の作り方を習ってきました。
そうして、ひとつひとつ手作りの作業が続けられて、いくつものヒバリの籠が出来、知人へのプレゼントになっていきました。
その一つは神奈川の生母の従兄弟の家にもあり、それはメジロの籠でした。
休日の朝は、父の日曜大工で始まり、夕方の4時には終わり、道具を片付けほうきで履いて掃除をきちんとして、自分で風呂の支度をして、一番風呂に入るのが日課でした。
これは父の才能だと思いますが、この並みでない趣味こそが、父の心の平安を培っていたのではないかと思うのです。
父はいつでも自分の運命に対して、私達に愚痴を言う事もなかったですし、父はいつも前向きに明るく生きていたように、見えました。
その父を支えていたのは、この没頭する趣味だったのではないかと、私は思っています。健康的な心を支えていたのは、健康的な趣味だったのです。