六本木一丁目駅からエレベーターを何本も乗り継いで、
泉屋博古館東京へ
谷から麻布台台地の尾根に着く
泉坂の桜並木はまだ眠ったままだ
泉屋博古館の庭園の桜は一分咲き
枝垂れ桜は6〜7分咲きかな…
木島櫻谷(このしまおうこく1877〜1938)は、「大正の呉春」「最後の四條派」と云われ、大正期の関西では竹内栖鳳と人気を二分していた。昭和8年の文展を最後に京都北山の衣笠村に隠棲する。晴耕雨読の生活を送っていたが、次第に精神を病み、昭和13年(1938)枚方で、京阪電車に輓かれ身元不明者として埋葬されていた(家族で山科に松茸狩りに出かけたとき失踪、山科から枚方まで彷徨った)。享年62だった。近年まで「忘れられた日本画家」と呼ばれたのは、2013年に泉屋博古館が「京都日本画の俊英」で木島櫻谷を取り上げ、再評価につながって以来だろう。
木島櫻谷と住友家の結びつきは早く、数寄者だった第15代住友吉左衛門、住友春翠は当時40歳前の新鋭櫻谷を抜擢し、茶臼山住友本邸の大書院を飾る「四季連作大屏風」を依頼した事でもよく分かる。
【参考】
『ごあいさつ
大正中期に大阪茶臼山に竣工した住友家本邸を飾った木島櫻谷の「四季連作屏風」を 全点公開します。
木島櫻谷(1877-1936)は明治後期から昭和前期にかけて京都画壇の俊英として活躍しま した、円山四条派の写生表現を基礎に、琳派や狩野派の表現などまで研究して完成させた この「四季連作屏風」は、櫻谷の画業の画期となるもので、制作にあたって櫻谷は、独特な 色感の絵具を用い、顔料を厚く盛り上げ、筆跡を立体的に残し油彩画のような筆触にも挑戦 しています。
一方、櫻谷はなにより動物画に秀でていました、描かれた動物たちはリアルなだけでなく。 折節にみせる表情がどこか人間的な感情を溶かし込んだように生き生きと輝き、観る者の 心に沁みます。そうした櫻谷画のリアリティーの源は、江戸時代中期(18世紀) 京都で活躍 した絵師・円山応挙によって編み出された「生写し」(写生)という方法です、自然や事物を 生き生きとありのままに描く写生表現は、近代にも大きな影響を与え、櫻谷もその例外では ありませんが、ここでは親和的表現に特色の動物画に焦点をあて、応挙はじめ先人画家たち による動物表現と比較しながら櫻谷画の特質をライトアップします。
2024年3月吉日
公益財団法人泉屋博古館 每日新聞社』
展覧会は四季連作屏風の燕子花図以外は撮影禁止、写真はネット画像を借用しました
右から、木島櫻谷 雪中梅花、柳桜図、燕子花図、菊花図(以上四季連作屏風)、竹林白鶴
雪中梅花 大正7年(1918)
『独特な 色感の絵具を用い、顔料を厚く盛り上げ、筆跡を立体的に残し油彩画のような筆触にも挑戦 しています。』
雪中梅花でも雪の表現に活かしている。
しかし、雪は乾いており、春が近いしっとりと湿った質感は感じられない。応挙の「雪松図屏風」に倣ったかもしれないが、時期が違うのではないだろうか。
柳桜図 大正6年(1917)
菊花図 大正6年(1917)
四季連作屏風を光琳や応挙と比較するのではなく、『円山四条派の写生表現を基礎に、琳派や狩野派の表現などまで研究して完成させた 』本歌取りの作品として見るべきなのか
動物画で一番好きだったのが、「狸」
木島櫻谷 秋野老狸(部分) 昭和初期頃 個人蔵
狸の繊細な毛並み、ススキの冴えた線、上には鋭利な三日月が描がかれる
木島櫻谷 獅子虎図屏風 明治37年(1904)
ホールの彫刻
北村四海 陰 明治44年(1900)
木島櫻谷と住友家、泉屋博古館の
関係がわかった展覧会
お花見がてらの鑑賞をお勧めします
麻布台ヒルズと組み合わせると
いいかも