さて、フリマや上映会や会員の会費(年間18千円?)で2百万ほどの資金作りに成功したけやきの会です。
平成10年に長岡市川崎に民家を賃借し、会員総出でバリアフリーに改造工事を行い、翌11年の春に夢ハウスけやきの家がオープンしました。
当時はけやきの会員も60人くらいおりましたし、危機感があったので会員の意識も高く、お母さん方も全面的に協力体制を組んでくれました。
そして養護学校のオヤジの会が作った障害者施設として注目されました。
メディアも応援してくれ、新潟県出身のシンガーソングライター伊藤敏博さんもチャリティーコンサートで資金集めのPRをしてくれましたし、開所式にもかけつけてくれました。
夢ハウスは試験的に養護学校児童の放課後の受け入れを開始し、翌12年から本格的な運営がはじまりました。
この頃がけやきの会の絶頂期だったと思います。
誰もが夢ハウスの順調な運営をどうするかを考えてはいましたが、だれもこの先のけやきの会と周囲の環境変化を考えてはいなかったと思います。
少なくともぷーさんは改造工事で底をついたけやきの会の資金を回復させて、安定運営ができるように心を砕いていました。
<画像上>会員の素人大工で改造工事中の夢ハウス
<画像中>伊藤敏博さんと賢ちゃん
<画像下>開所式典 (中央がぷーさんと当時のPTA会長の坂内さん)
平成10年に長岡市川崎に民家を賃借し、会員総出でバリアフリーに改造工事を行い、翌11年の春に夢ハウスけやきの家がオープンしました。
当時はけやきの会員も60人くらいおりましたし、危機感があったので会員の意識も高く、お母さん方も全面的に協力体制を組んでくれました。
そして養護学校のオヤジの会が作った障害者施設として注目されました。
メディアも応援してくれ、新潟県出身のシンガーソングライター伊藤敏博さんもチャリティーコンサートで資金集めのPRをしてくれましたし、開所式にもかけつけてくれました。
夢ハウスは試験的に養護学校児童の放課後の受け入れを開始し、翌12年から本格的な運営がはじまりました。
この頃がけやきの会の絶頂期だったと思います。
誰もが夢ハウスの順調な運営をどうするかを考えてはいましたが、だれもこの先のけやきの会と周囲の環境変化を考えてはいなかったと思います。
少なくともぷーさんは改造工事で底をついたけやきの会の資金を回復させて、安定運営ができるように心を砕いていました。
<画像上>会員の素人大工で改造工事中の夢ハウス
<画像中>伊藤敏博さんと賢ちゃん
<画像下>開所式典 (中央がぷーさんと当時のPTA会長の坂内さん)