(『この世界の片隅に』の感想の続きです。)
映画を見て2週間が経って、
やっと涙を流さずに感想が書けるようになりました。
映画を見ているとき、
自分がスクリーンの中にいるような感覚とともに、
頭に浮かんだことがいくつかあります。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
自分が一生懸命がんばっている仕事が、
誰かを不幸にしていないだろうか?
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
なぜこんなことをこの映画を見て思ったかを書きますね。
私は仕事にしろ遊びにしろ、
何かにつけて工夫をすることが好き...
というより、工夫をしないではいられないたちです。
すずさんの感情に共感はできなくても、
普段ぼうっとしているのに、
何かにつけて工夫してしまう点は、
とてもよく分かります。
私にとって、
この点もすずさんの日常にリアリティを感じてしまう理由のひとつでした。
映画の終盤。
防空壕から出てきた人をターゲットにするため、
時限式の爆弾が投下されていたことが描かれています。
私はこんな爆弾があることを初めて知りました。
戦前の一般の欧米人にとって、
日本はマルコポーロの黄金の国ジパングであり、
日本人は木と紙でできた家に住んでいる
おとぎの国の住人だったのかもしれません。
その木と紙のおうちを効率的に火の海にして、
民間人を大量に殺傷する工夫がなされた兵器が、
焼夷弾です。
これは、前から知っていました。
時限式の投下爆弾を考えついた人、
焼夷弾を情熱をもって改良していった人。
非人道的な科学技術に怒りを感じます。
でも、
情熱をもってその工夫を進めていた人を断罪できるのか、
自分がその立場だったら同じことをしたのではないか...。
兵器に対する創意工夫は、
正義のための献身だったのか、
個人的な栄進、出世を求めた結果だったのか、
あるいは、
ありふれた日常業務だったのかは分かりませんが、
彼らにも、
私やすずさんと同じ様な日常があって、
個人の理想と組織の現実のなかで、
ぎりぎりに折り合いをつけて暮らしているんだと思います。
非人道的な兵器、
ありえないものを作った人々にも、
個人の理想と、
組織の論理との間の
葛藤があったはずです。
誰もが組織と個人の葛藤に折り合いをつけ、
自分を守りながら暮らしています。
組織から離れれば(離れられれば)
決してしないことを、
組織に属して、
その組織との折り合いのつけかた次第ではしてしまう。
むしろ積極的に進めてしまう。
そういう生き物だと思います、
人間は。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
私にとって個人の理想を犠牲にして献身してたのは、
会社という組織です。
なぜそうしてきたかは、
既に分からなくなってしまっています。
初めは自己実現の場、
と思っていたような気もしますが...。
今は仲間の成長のため、
と考えたいのですが、
偽善の香りがします。
組織が求めるものが、間違っているのか、
個人の理想と組織の論理の折り合いのつけかたで、
間違ったことが行われてしまうのか...。
自分自身の仕事で何かとても間違ったことをしている感覚はありませんが、
もしかすると、
いま当たり前だと思っていることが、
それを当たり前だと思えない人を
とても傷つけているのかもしれません。
自分が一生懸命がんばっている仕事が、
誰かを不幸にしていないだろうか?
以上、なぜこんなことを
この映画を見て思ったかを書きました。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
すずさんは、そのおおらかさで、
個人に対立する組織を、
自分の中にとりこんでいくような人に見えます。
初めはなじめなかった
新しい家族、隣組、ご近所。
その全てがすずさんを受け入れて、
むしろすずさんがそれら小さな社会の中心になっているかのようにも感じられてきます。
そんな中、
すずさんは、
もっと大きな組織と向き合います。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
倹約は、
当時求められていた美徳です。
すずさんは素直にこれに従って、
それどころか自ら進んで工夫を凝らし、
倹約生活を「楽しんで」います。
倹約以外にも、
戦争を進めるための社会制度が、
価値観が、
押しつけられていきます。
その価値観を、
すずさんらしく、
おおらかに受け入れていきます。
その価値観を、
押しつけているのが、
国家です。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
モンペを穿くのも、
配給に並ぶのも、
配給が少ないのも、
少し不便だけれども、
国の正義のため、
お兄ちゃんが、
戦場から帰ってこないのも、
悲しいけど、
国の正義のため、
たまには闇市で買い物もするけれど、
少しずつ自分の気持ちと組織の論理に折り合いをつけて暮らしています。
少し理不尽でも、
なんとか折り合いをつけて暮らすのが、
すずさんにとって、
「日常」。
そして私たちにとっても、
海の向こうの人たちにとっても、
「日常」とはそういうものです。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
嬉しいことも、
悲しいことも、
楽しいことも、
つらいことも、
そして理不尽なことも、
全て巻き込んで、
時間という坂を転がり続けるのが、
「日常」です。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
港の絵は描いちゃだめ、
というのはとても納得がいかないけれど、
そんなもんなのかな...、
爆弾が降り注ぐ中で暮らすことも、
仕方がない...、
笑顔が失われるのも、
右手が旅に出るのも、
折り合いなんてつけようもないことなのに、
折り合いをつけた気になって、
黙って暮らすのが「日常」です。
歪んでいます。
すずさんの日常は、
歪んでいます。
そのスクリーンの中、
その世界は歪んでいます。
それでは、
スクリーンの外、
いまここにある、
この世界は歪んでいないのでしょうか?
映画を見て2週間が経って、
やっと涙を流さずに感想が書けるようになりました。
映画を見ているとき、
自分がスクリーンの中にいるような感覚とともに、
頭に浮かんだことがいくつかあります。
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自分が一生懸命がんばっている仕事が、
誰かを不幸にしていないだろうか?
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なぜこんなことをこの映画を見て思ったかを書きますね。
私は仕事にしろ遊びにしろ、
何かにつけて工夫をすることが好き...
というより、工夫をしないではいられないたちです。
すずさんの感情に共感はできなくても、
普段ぼうっとしているのに、
何かにつけて工夫してしまう点は、
とてもよく分かります。
私にとって、
この点もすずさんの日常にリアリティを感じてしまう理由のひとつでした。
映画の終盤。
防空壕から出てきた人をターゲットにするため、
時限式の爆弾が投下されていたことが描かれています。
私はこんな爆弾があることを初めて知りました。
戦前の一般の欧米人にとって、
日本はマルコポーロの黄金の国ジパングであり、
日本人は木と紙でできた家に住んでいる
おとぎの国の住人だったのかもしれません。
その木と紙のおうちを効率的に火の海にして、
民間人を大量に殺傷する工夫がなされた兵器が、
焼夷弾です。
これは、前から知っていました。
時限式の投下爆弾を考えついた人、
焼夷弾を情熱をもって改良していった人。
非人道的な科学技術に怒りを感じます。
でも、
情熱をもってその工夫を進めていた人を断罪できるのか、
自分がその立場だったら同じことをしたのではないか...。
兵器に対する創意工夫は、
正義のための献身だったのか、
個人的な栄進、出世を求めた結果だったのか、
あるいは、
ありふれた日常業務だったのかは分かりませんが、
彼らにも、
私やすずさんと同じ様な日常があって、
個人の理想と組織の現実のなかで、
ぎりぎりに折り合いをつけて暮らしているんだと思います。
非人道的な兵器、
ありえないものを作った人々にも、
個人の理想と、
組織の論理との間の
葛藤があったはずです。
誰もが組織と個人の葛藤に折り合いをつけ、
自分を守りながら暮らしています。
組織から離れれば(離れられれば)
決してしないことを、
組織に属して、
その組織との折り合いのつけかた次第ではしてしまう。
むしろ積極的に進めてしまう。
そういう生き物だと思います、
人間は。
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私にとって個人の理想を犠牲にして献身してたのは、
会社という組織です。
なぜそうしてきたかは、
既に分からなくなってしまっています。
初めは自己実現の場、
と思っていたような気もしますが...。
今は仲間の成長のため、
と考えたいのですが、
偽善の香りがします。
組織が求めるものが、間違っているのか、
個人の理想と組織の論理の折り合いのつけかたで、
間違ったことが行われてしまうのか...。
自分自身の仕事で何かとても間違ったことをしている感覚はありませんが、
もしかすると、
いま当たり前だと思っていることが、
それを当たり前だと思えない人を
とても傷つけているのかもしれません。
自分が一生懸命がんばっている仕事が、
誰かを不幸にしていないだろうか?
以上、なぜこんなことを
この映画を見て思ったかを書きました。
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すずさんは、そのおおらかさで、
個人に対立する組織を、
自分の中にとりこんでいくような人に見えます。
初めはなじめなかった
新しい家族、隣組、ご近所。
その全てがすずさんを受け入れて、
むしろすずさんがそれら小さな社会の中心になっているかのようにも感じられてきます。
そんな中、
すずさんは、
もっと大きな組織と向き合います。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
倹約は、
当時求められていた美徳です。
すずさんは素直にこれに従って、
それどころか自ら進んで工夫を凝らし、
倹約生活を「楽しんで」います。
倹約以外にも、
戦争を進めるための社会制度が、
価値観が、
押しつけられていきます。
その価値観を、
すずさんらしく、
おおらかに受け入れていきます。
その価値観を、
押しつけているのが、
国家です。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
モンペを穿くのも、
配給に並ぶのも、
配給が少ないのも、
少し不便だけれども、
国の正義のため、
お兄ちゃんが、
戦場から帰ってこないのも、
悲しいけど、
国の正義のため、
たまには闇市で買い物もするけれど、
少しずつ自分の気持ちと組織の論理に折り合いをつけて暮らしています。
少し理不尽でも、
なんとか折り合いをつけて暮らすのが、
すずさんにとって、
「日常」。
そして私たちにとっても、
海の向こうの人たちにとっても、
「日常」とはそういうものです。
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嬉しいことも、
悲しいことも、
楽しいことも、
つらいことも、
そして理不尽なことも、
全て巻き込んで、
時間という坂を転がり続けるのが、
「日常」です。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
港の絵は描いちゃだめ、
というのはとても納得がいかないけれど、
そんなもんなのかな...、
爆弾が降り注ぐ中で暮らすことも、
仕方がない...、
笑顔が失われるのも、
右手が旅に出るのも、
折り合いなんてつけようもないことなのに、
折り合いをつけた気になって、
黙って暮らすのが「日常」です。
歪んでいます。
すずさんの日常は、
歪んでいます。
そのスクリーンの中、
その世界は歪んでいます。
それでは、
スクリーンの外、
いまここにある、
この世界は歪んでいないのでしょうか?