『親鸞』の下巻を読んだ。時は平安末期から鎌倉幕府の成立の頃、京の都には餓死者があふれるという末法の世にあって、南都北嶺の仏教のあり方に飽き足らない法然らが、「念仏を唱えれば誰でも極楽往生ができる」ということその影響を庶民の中に広げる。後に親鸞となる範宴が法然に傾倒しその門下に入る。そして善信と名前を変え、法然の真の考えを理解し独自の説法を行っていく。
しかし、古い体制の中にある叡山や興福寺などの旧仏教勢力から圧力が強まり、法然の教団自身のもっている弱点もあって、時の支配者である後鳥羽上皇から念仏の停止、そして法然も善信も追放流罪になる。善信の配流先は越後、すなわち妻の故郷である。その出発に先立って、善真を親鸞とあらためる。「念仏往生の教えは、遠く大乗の道に進んだ天竺の世親菩薩と、浄土の思想を極めた曇鸞大師の願につきる」と法然はその法名のもとを話すのだが、残念ながら私には何のことかよくわからい。親鸞は、越後から東日本のでの布教をすすめていく。その出発点となる越後への上陸の場面でこの小説は終わっている。
私は、科学的社会主義の世界観を持ちその基礎は唯物論であるから、念仏を唱えれば救われるという説には賛成できないが、当時の救われようのない民衆にとって、法然や親鸞の出現はまさに救いであったろうと思う。この流れが、後に「一向一揆」などの形で、領主に対する民衆の反撃となって表れてくるのだから。歴史の根底に、歴史を動かすものは民衆であったことがあり、それは現代社会にも共通した問題だと思った。