■以前、テレビで紹介された「日吉大社」の番組を見て是非一度参拝に訪れたい地の一つになりました。
今回は、奈良に行く途中京都に下車し、湖西線に乗り比叡山坂本駅に下りました。線路を挟んで、右側が琵琶湖や雄琴温泉に面し左側に天台宗比叡山延暦寺の本山、比叡山山系を望みその間にある八王子山(牛尾山)麓が日吉大社となります。
■京阪坂本駅を降りるとすでに参道前となります。
■日吉大社(ひよし、又はひえ)は、全国に3800の分霊社を持つ総本宮です。「日枝」「日吉」「山王」「八王子」「樹下」やその土地の名前など様々な社号が使われ、神代の昔より比叡山の神(大山咋神)が降り立つ神体山として崇められ、以後歴史の変遷の中で社殿が築かれ、神輿が奉納され、更には神仏習合といった様々な信仰形態が取り込まれ「古代信仰の博物館」とも評されています。
■日吉大社の参道で目を引く山王鳥居は、明神鳥居の上部に三角形の破風屋根が乗った形をしていて、仏教の胎臓界・金剛界と神道の合一を表しているとされます。山王信仰の象徴であるため、山王鳥居と呼ばれています。山王信仰とは、最澄が比叡山に天台宗を開いた折、唐の天台山の守護神「山王元弼真君」にちなみ、既に比叡山の守護神としてご鎮座されていた日吉大神を「山王権現」と称する神仏習合の信仰だそうです。 ゆえに、天台宗の全国普及と共に日吉神社・日枝神社など全国に広まりました。 以前、津軽の雪の中で見た山王鳥居を思い出します。
■境内に入ると、自然石をそのまま積み上げ苔むした美しい野面積みの石垣が散見されます。鎌倉時代から戦国時代に広まったいわゆる穴太積みといわれる石垣です。
参道から見る山王鳥居
■この様に、多くの神社の集合体が日吉大社なのですが、その中心となるのは西本宮と東本宮の二つです。西本宮は…天智天皇七年の大津京遷都にあたって、大和国三輪山(奈良大神神社)より大己貴神を勧請したものです。東本宮は…崇神天皇七年、八王子山の山頂の神様を麓にお祀したもの。
■西本宮の楼門
■西本宮の本殿 現在は初詣の準備中で本殿を鉄パイプで囲っています。
■西本宮の拝殿
■東本宮本殿
■東本宮の楼門
■平安時代以降、延暦寺の守護神と仰がれ、その隆盛とともに社殿は大規模となり、室町時代には東・西両本宮を中心とした境内百八社、境外百八社の摂末社の他、多宝塔・鐘楼・彼岸所などのおびただしい仏教施設が林立するようになりました。現在は40社程度の社が祭られています。
■元亀2(1571)年、織田信長は浅井・朝倉連合軍に加担した延暦寺の勢力が天下布武の障害になると考え比叡山焼討ちを行ない、その戦火に巻き込まれ境内の社殿等はことごとく焼失しました。
■灰燼に帰した社を復興すべく力を注いだのが豊臣秀吉で彼は幼名を日吉丸とし、あだ名が猿であることから、日吉大社と縁の深い方であり、一伝には母親が日吉大社の社家の出身であるともいわれています。ここ日吉大社の神の使いは「猿」です。「真猿(マサル)」と呼ばれています。参道脇に数匹の猿が(可愛そうに)小さな社(小屋)で飼われています。
■神の使いとされる動物は様々で、例えばお稲荷さんでは狐、春日さんでは鹿、天神さんでは牛、熊野さんでは烏であります。当大社では猿が神の使いであり、現在でも京都御所の「猿が辻」と呼ばれる東北の隅には神猿さんがいて、御所の鬼門を守護しています。このように、「魔除」と「神猿」には深い関わりがあり、「方除・厄除の大社」と呼ばれているのです。
■徳川家康も又、日吉大社と縁が深く、関ヶ原の戦い後に天台宗の僧侶である天海僧正と知遇し帰依され、死後、天海僧正により山王一実神道の教学のもと、東照大権現の神号を贈られ、初めは久能山、後に日光へお祀りされました。
日吉大社から徒歩5分ほどのところに「日吉東照宮」があります。宮の表参道の急な階段を下るとすぐ左手に「慈眼堂」があります。ここには天海僧正の供養搭が桓武天皇の傍らに佇んでおります。なぜかこの堂には清少納言、和泉式部、紫式部など有名な方々の供養等が数々並んでいます。
【交通】JR湖西線の「比叡山坂本駅」下車徒歩20分。又は京阪石山坂本線「坂本駅」から徒歩10分の距離です。
今回は、奈良に行く途中京都に下車し、湖西線に乗り比叡山坂本駅に下りました。線路を挟んで、右側が琵琶湖や雄琴温泉に面し左側に天台宗比叡山延暦寺の本山、比叡山山系を望みその間にある八王子山(牛尾山)麓が日吉大社となります。
■京阪坂本駅を降りるとすでに参道前となります。
■日吉大社(ひよし、又はひえ)は、全国に3800の分霊社を持つ総本宮です。「日枝」「日吉」「山王」「八王子」「樹下」やその土地の名前など様々な社号が使われ、神代の昔より比叡山の神(大山咋神)が降り立つ神体山として崇められ、以後歴史の変遷の中で社殿が築かれ、神輿が奉納され、更には神仏習合といった様々な信仰形態が取り込まれ「古代信仰の博物館」とも評されています。
■日吉大社の参道で目を引く山王鳥居は、明神鳥居の上部に三角形の破風屋根が乗った形をしていて、仏教の胎臓界・金剛界と神道の合一を表しているとされます。山王信仰の象徴であるため、山王鳥居と呼ばれています。山王信仰とは、最澄が比叡山に天台宗を開いた折、唐の天台山の守護神「山王元弼真君」にちなみ、既に比叡山の守護神としてご鎮座されていた日吉大神を「山王権現」と称する神仏習合の信仰だそうです。 ゆえに、天台宗の全国普及と共に日吉神社・日枝神社など全国に広まりました。 以前、津軽の雪の中で見た山王鳥居を思い出します。
■境内に入ると、自然石をそのまま積み上げ苔むした美しい野面積みの石垣が散見されます。鎌倉時代から戦国時代に広まったいわゆる穴太積みといわれる石垣です。
参道から見る山王鳥居
■この様に、多くの神社の集合体が日吉大社なのですが、その中心となるのは西本宮と東本宮の二つです。西本宮は…天智天皇七年の大津京遷都にあたって、大和国三輪山(奈良大神神社)より大己貴神を勧請したものです。東本宮は…崇神天皇七年、八王子山の山頂の神様を麓にお祀したもの。
■西本宮の楼門
■西本宮の本殿 現在は初詣の準備中で本殿を鉄パイプで囲っています。
■西本宮の拝殿
■東本宮本殿
■東本宮の楼門
■平安時代以降、延暦寺の守護神と仰がれ、その隆盛とともに社殿は大規模となり、室町時代には東・西両本宮を中心とした境内百八社、境外百八社の摂末社の他、多宝塔・鐘楼・彼岸所などのおびただしい仏教施設が林立するようになりました。現在は40社程度の社が祭られています。
■元亀2(1571)年、織田信長は浅井・朝倉連合軍に加担した延暦寺の勢力が天下布武の障害になると考え比叡山焼討ちを行ない、その戦火に巻き込まれ境内の社殿等はことごとく焼失しました。
■灰燼に帰した社を復興すべく力を注いだのが豊臣秀吉で彼は幼名を日吉丸とし、あだ名が猿であることから、日吉大社と縁の深い方であり、一伝には母親が日吉大社の社家の出身であるともいわれています。ここ日吉大社の神の使いは「猿」です。「真猿(マサル)」と呼ばれています。参道脇に数匹の猿が(可愛そうに)小さな社(小屋)で飼われています。
■神の使いとされる動物は様々で、例えばお稲荷さんでは狐、春日さんでは鹿、天神さんでは牛、熊野さんでは烏であります。当大社では猿が神の使いであり、現在でも京都御所の「猿が辻」と呼ばれる東北の隅には神猿さんがいて、御所の鬼門を守護しています。このように、「魔除」と「神猿」には深い関わりがあり、「方除・厄除の大社」と呼ばれているのです。
■徳川家康も又、日吉大社と縁が深く、関ヶ原の戦い後に天台宗の僧侶である天海僧正と知遇し帰依され、死後、天海僧正により山王一実神道の教学のもと、東照大権現の神号を贈られ、初めは久能山、後に日光へお祀りされました。
日吉大社から徒歩5分ほどのところに「日吉東照宮」があります。宮の表参道の急な階段を下るとすぐ左手に「慈眼堂」があります。ここには天海僧正の供養搭が桓武天皇の傍らに佇んでおります。なぜかこの堂には清少納言、和泉式部、紫式部など有名な方々の供養等が数々並んでいます。
【交通】JR湖西線の「比叡山坂本駅」下車徒歩20分。又は京阪石山坂本線「坂本駅」から徒歩10分の距離です。