(注)このBLOGは以前のBLOGから転記しています。よって、内容は当時のままですから現在は色々と変遷もございましょう。予めご容赦ください。
【酒田概観】
北に鳥海山、南に月山を配しその両山裾を最上川が日本海に流れ込む。
日本海の冬の寒風はその川筋を通って街へ吹き上げる地勢である。
湊町として江戸時代の古くから隆盛を誇っていた街として今でも有名な地方である。南側に鶴岡市を通って新潟へ続き、北は秋田県となる。東は出羽三山を超えると宮城県と福島県と接する。
藤原家ゆかりの徳尼公と三十六人衆によって街がおこされた酒井湊は、古くから最上川の船運送と海運との拠点として栄え、奈良・平安の昔より大陸への出羽の国の玄関口の役割を持ち、当時のポルトガル世界地図にもSAKATAの地名がある。
江戸時代に入り、河村瑞賢により西廻り航路が整備され出羽御城米の輸送航路が確立。以後京都・堺に代表される上方文化の影響を強く受け東北地方では珍しい独特の湊町文化が勃興した。
(アクセスルート)
新幹線を利用の場合
東京駅…上越新幹線…新潟駅…羽越本線(特急いなほ)…酒田駅(約4時間)
東京駅…山形新幹線…山形駅…奥羽本線…新庄駅…陸羽西線…酒田駅(約4時間)
9時に東京を新幹線で立ち、13時に酒田に到着。途中、鶴岡で大多数の乗客が降りたのをみると酒田の人が「今は、鶴岡に負けてる」といったことを思い起こす。
もっとも鶴岡が有名になったのは、もしかしたら「藤沢周平」の小説からかもしれないが…
↓乗り換え駅の駅弁 やっぱり東北の日本海側の駅弁は山海の味が美味しい。
駅中の案内所で情報を仕入れた後に、タクシーで最上川向うの土門拳写真記念館に向かう。タクシーの女性運転手が途中に古い街並みを回り道してくれた。1976年の酒田の大火で残った街並みらしい。酒田は海風が強く、防風林も多く地名にも飛砂と名がつく街もあると言う。これらの街並みにはなぜか個人宅内に稲荷神社を祭る家々が多い。理由は定かでないが、穀倉地であることに関係があるかも知れない。
土門拳写真館から再びタクシーで山居倉庫へ向かう。米倉が並ぶ倉庫郡だが一部が観光用に改装されている。土産物やらレストラン、辻村寿三郎の展示室がある。倉庫続きに庄内米の博物館がありその展示の中に当時の米一表(60キロ)を五俵担いで搬送する女性の写真がある。当時としては当たり前のことらしいが、小生も60キロを体験したら腰がギックリとするほどだ。
江戸の米飢饉の折に「西廻り航路を開拓した河村某」により酒田の米貿易が一挙に興隆し、酒田の繁栄と繋がるそうだ。 以前は、日本海を琵琶湖を渡り、大津から馬車に換え、桑名港から又船で江戸に向かう航路だったそうだ。
酒田の米の座は36人衆の大半は堺からの米商人が直接酒田湊の株を購入して直接買い付けから搬送までを請負、莫大な利益を得た。それらの賑わいから舞妓町の花街も隆盛を極め、同じくして影の世界の遊郭も又勃興した。
鶴岡は庄内酒井家14万石の城下町だったところである。ここ庄内藩は政治の中心は鶴ヶ岡、商業の中心は酒田と別れていた。
その酒田に「本間様には及びはせぬが、せめてなりたや殿様に・・・・」と歌まで読まれる程のお金持で有名な本間家である。元々は相模国愛甲郡本間村の出。
その子孫は佐渡および越後に移りその後酒田に移り住む。
本間家中興の祖と言われ、三代四郎三郎光丘は、父祖の志を体し、奉公の念厚く、最上川の水利を治め、天明の大飢饉では金穀を施し、酒田の西浜に防砂林を植えるなど功績多く、庄内藩はこれを賞して町年寄とし、後に士格に列し、小姓格となした。その後も酒田、鶴岡両城普請掛を命じられ、備荒貯蓄米24000俵を献じ、その功によって500石30人扶持を給せられた。
当時の豪商三井や住友と双肩を競っていたが 後十代を数え今日に至り、その栄華はすでに無いが、その教えは決して利己の利益を求めてはならぬという先祖の家訓から来るものであつたといわれる。
↓本間家別邸
↓山居倉庫群とその市街化模型
↓小鵜飼船 元禄時代、最上川上流から酒田港までの川舟として重宝された。米俵350表を積んで二名の船子で操船した。
↓北前船の模型
今も、当時の料亭の面影を残した店が数軒残っていたり、名残を残す朽ちた建物が散在する。
遊郭地は既にその面影をとどめるものは僅かに残る旅館の棟などの一部にあるだけだ。
今は観光用として改築された相馬楼は、酒田の繁栄を感じさせるに充分な情景を持っている。
↓観光用として見学もできる相馬楼
相馬楼の隣に当時からの料亭「香り梅咲(かめざき)」がある。総室数9つだが百人の客を賄える大きな室もあり、又、人を顔を会わせずに済むように離れた小部屋が多数ある。 今はランチもニ千円からと観光客、台湾からの集団観光客も見こんで営業がやっと成り立っている様子で、酒田の料亭文化の凋落も感じる。
↓当時の隆盛の名残として、その他の旧遊郭や料亭などの建築群など…
【追記】 2008年の映画「おくりびと」でロケ地の建物が下の古い建物です。私たちが訪れた時は無人の状態でしたが、最近では町興しとして再整備されたようです。
(参)おくりびとサイト
この通りに、寿司で有名な「鈴政」があったり、通り向かいにうなぎ料理の「治朗兵衛」がある。
↓うなぎ店と愛想のいい女将さん
街中の店にはそれぞれと特徴のある個店がある。
村上の鮭にヒントを得て「鮭の汐干しをし、トバづくり」をしている斉藤商店。 筆者は初めて店頭で汐干しをしているところを見たが、の壮観な顔つきをした鮭が飴色に枯渇している様は生きたオブジェである。
小松屋は天保年間創業の羊羹の店。「呉竹」は青海苔を練りこんである。口の中で僅かに海草の香りが広がる。
その他食材色々「民田なすの辛子漬物」、酒の肴「紫蘇巻き」、「揚げ堅餅」、「庄内浜の海苔を練りこんだ羊羹」など地元ならではの食材が…
(参)山形県観光サイト
(参)土門拳記念館サイト
【酒田概観】
北に鳥海山、南に月山を配しその両山裾を最上川が日本海に流れ込む。
日本海の冬の寒風はその川筋を通って街へ吹き上げる地勢である。
湊町として江戸時代の古くから隆盛を誇っていた街として今でも有名な地方である。南側に鶴岡市を通って新潟へ続き、北は秋田県となる。東は出羽三山を超えると宮城県と福島県と接する。
藤原家ゆかりの徳尼公と三十六人衆によって街がおこされた酒井湊は、古くから最上川の船運送と海運との拠点として栄え、奈良・平安の昔より大陸への出羽の国の玄関口の役割を持ち、当時のポルトガル世界地図にもSAKATAの地名がある。
江戸時代に入り、河村瑞賢により西廻り航路が整備され出羽御城米の輸送航路が確立。以後京都・堺に代表される上方文化の影響を強く受け東北地方では珍しい独特の湊町文化が勃興した。
(アクセスルート)
新幹線を利用の場合
東京駅…上越新幹線…新潟駅…羽越本線(特急いなほ)…酒田駅(約4時間)
東京駅…山形新幹線…山形駅…奥羽本線…新庄駅…陸羽西線…酒田駅(約4時間)
9時に東京を新幹線で立ち、13時に酒田に到着。途中、鶴岡で大多数の乗客が降りたのをみると酒田の人が「今は、鶴岡に負けてる」といったことを思い起こす。
もっとも鶴岡が有名になったのは、もしかしたら「藤沢周平」の小説からかもしれないが…
↓乗り換え駅の駅弁 やっぱり東北の日本海側の駅弁は山海の味が美味しい。
駅中の案内所で情報を仕入れた後に、タクシーで最上川向うの土門拳写真記念館に向かう。タクシーの女性運転手が途中に古い街並みを回り道してくれた。1976年の酒田の大火で残った街並みらしい。酒田は海風が強く、防風林も多く地名にも飛砂と名がつく街もあると言う。これらの街並みにはなぜか個人宅内に稲荷神社を祭る家々が多い。理由は定かでないが、穀倉地であることに関係があるかも知れない。
土門拳写真館から再びタクシーで山居倉庫へ向かう。米倉が並ぶ倉庫郡だが一部が観光用に改装されている。土産物やらレストラン、辻村寿三郎の展示室がある。倉庫続きに庄内米の博物館がありその展示の中に当時の米一表(60キロ)を五俵担いで搬送する女性の写真がある。当時としては当たり前のことらしいが、小生も60キロを体験したら腰がギックリとするほどだ。
江戸の米飢饉の折に「西廻り航路を開拓した河村某」により酒田の米貿易が一挙に興隆し、酒田の繁栄と繋がるそうだ。 以前は、日本海を琵琶湖を渡り、大津から馬車に換え、桑名港から又船で江戸に向かう航路だったそうだ。
酒田の米の座は36人衆の大半は堺からの米商人が直接酒田湊の株を購入して直接買い付けから搬送までを請負、莫大な利益を得た。それらの賑わいから舞妓町の花街も隆盛を極め、同じくして影の世界の遊郭も又勃興した。
鶴岡は庄内酒井家14万石の城下町だったところである。ここ庄内藩は政治の中心は鶴ヶ岡、商業の中心は酒田と別れていた。
その酒田に「本間様には及びはせぬが、せめてなりたや殿様に・・・・」と歌まで読まれる程のお金持で有名な本間家である。元々は相模国愛甲郡本間村の出。
その子孫は佐渡および越後に移りその後酒田に移り住む。
本間家中興の祖と言われ、三代四郎三郎光丘は、父祖の志を体し、奉公の念厚く、最上川の水利を治め、天明の大飢饉では金穀を施し、酒田の西浜に防砂林を植えるなど功績多く、庄内藩はこれを賞して町年寄とし、後に士格に列し、小姓格となした。その後も酒田、鶴岡両城普請掛を命じられ、備荒貯蓄米24000俵を献じ、その功によって500石30人扶持を給せられた。
当時の豪商三井や住友と双肩を競っていたが 後十代を数え今日に至り、その栄華はすでに無いが、その教えは決して利己の利益を求めてはならぬという先祖の家訓から来るものであつたといわれる。
↓本間家別邸
↓山居倉庫群とその市街化模型
↓小鵜飼船 元禄時代、最上川上流から酒田港までの川舟として重宝された。米俵350表を積んで二名の船子で操船した。
↓北前船の模型
今も、当時の料亭の面影を残した店が数軒残っていたり、名残を残す朽ちた建物が散在する。
遊郭地は既にその面影をとどめるものは僅かに残る旅館の棟などの一部にあるだけだ。
今は観光用として改築された相馬楼は、酒田の繁栄を感じさせるに充分な情景を持っている。
↓観光用として見学もできる相馬楼
相馬楼の隣に当時からの料亭「香り梅咲(かめざき)」がある。総室数9つだが百人の客を賄える大きな室もあり、又、人を顔を会わせずに済むように離れた小部屋が多数ある。 今はランチもニ千円からと観光客、台湾からの集団観光客も見こんで営業がやっと成り立っている様子で、酒田の料亭文化の凋落も感じる。
↓当時の隆盛の名残として、その他の旧遊郭や料亭などの建築群など…
【追記】 2008年の映画「おくりびと」でロケ地の建物が下の古い建物です。私たちが訪れた時は無人の状態でしたが、最近では町興しとして再整備されたようです。
(参)おくりびとサイト
この通りに、寿司で有名な「鈴政」があったり、通り向かいにうなぎ料理の「治朗兵衛」がある。
↓うなぎ店と愛想のいい女将さん
街中の店にはそれぞれと特徴のある個店がある。
村上の鮭にヒントを得て「鮭の汐干しをし、トバづくり」をしている斉藤商店。 筆者は初めて店頭で汐干しをしているところを見たが、の壮観な顔つきをした鮭が飴色に枯渇している様は生きたオブジェである。
小松屋は天保年間創業の羊羹の店。「呉竹」は青海苔を練りこんである。口の中で僅かに海草の香りが広がる。
その他食材色々「民田なすの辛子漬物」、酒の肴「紫蘇巻き」、「揚げ堅餅」、「庄内浜の海苔を練りこんだ羊羹」など地元ならではの食材が…
(参)山形県観光サイト
(参)土門拳記念館サイト