タケ・タケ・エヴリバディ!

当ブログは「竹林や自然と共に生きる」をメインテーマに、管理人の田舎暮らしの様子をお届けします。

第六十九銀行と山田権左衛門

2024年09月12日 | ふるさと長岡・嗚呼!田舎暮らし

長岡藩の「三傑」の1人である三島億二郎について、昨日のブログで取り上げました。昨日のブログの内容は、「長岡の復興のために身分を超えて話し合うメンバー『ランプ会』」について紹介したところまでしたね。

その「ランプ会」のメンバーについても、「第四北越ミュージアム」の展示品の中で紹介されていました。それが次の一覧表です。三島億二郎らの士族だけでなく、岸宇吉らの商人、さらに農民や神官など、さまざまな身分のメンバーが集まっています。それが長岡の「ランプ会」の特徴であり、全国的にも他に類を見ないものなのだそうです。

このメンバーの中に、ボクにとって馴染みのある名前を発見しました。一覧表の下から6番目のこの人です。

三島郡七日市村の地主、山田権左衛門です。この人物はやがて、三島億二郎や岸宇吉とともに第六十九銀行の創設に関わり、主要な経営陣の1人となります。

はい、これが第六十九銀行の開業当時の主要な経営陣です。さらに「銀行の歴史」のコーナーには、歴代の頭取の顔写真も飾られていました。学校の校長室みたいですね。

その中に山田権左衛門の名前と写真がありました。

はい。これが第六十九銀行二代目頭取の山田権左衛門です。ランプ会に参加していた農民(地主)が国立銀行の頭取に抜擢されるって、これもすごいことですよね。

さて、この山田権左衛門なる人物。弊ブログ「タケ・タケ・エヴリバディ」には、かつて数回登場したことがあるのですが、覚えておいででしょうか?まずは、これをお読みください。⬇

 

シリーズ「米一万俵」③:山田権左衛門 - タケ・タケ・エヴリバディ!

前回の記事で、山形の上山藩が越後領を有しており、三島地域の南部もそれに該当することを記しました。ちなみに当時、上山藩の越後領は三島郡内に31村、刈羽郡内に21村があ...

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読んでいただいた通り、山田権左衛門が大庄屋を務めていた旧三島町七日市は、長岡藩領ではなく山形県上山藩の飛び地です。飢饉の上山藩本領へ「米13800俵」を送って人々を飢餓から救った人物の山田権左衛門は、長岡復興の頭脳集団「ランプ会」の一員であり、農民階級でありながら第六十九銀行の頭取まで務めた傑物であるということがわかりました。すごいな、山田権左衛門!

この山田権左衛門について、以前のこのブログ記事⬇のことも覚えていらっしゃいますか?もしよろしかったら、再読してください。

 

シリーズ「米一万俵」④:大旦那様と八百政家のルーツ - タケ・タケ・エヴリバディ!

わが家(八百政家)は江戸寛政期から続く家で、ボク(八百政)が8代目になります(残念ながら8代で終わる予定です。9代目は埼玉在住。)。わが家の仏壇にしまってある家譜...

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そうなんですよ。山田権左衛門は、わが家の本家の当主だったのです。まぁ山田権左衛門が活躍した頃には、わが家の先祖は既に本家から分家独立していましたので、「八百政家の先祖が山田権左衛門」とは言えないのですが、同一のルーツであることは間違いありません。

今まで「本家が大地主だったこと」は知っていましたし、山田権左衛門が「米一万俵」で山形県の上山藩を救済したことも知っていました。しかし、山田権左衛門が「ランプ会」の一員として三島億二郎らとともに長岡藩復興に携わったことや、第四北越銀行の礎となった第六十九銀行の頭取だったことなどは、詳しくは知らないことだらけでした。いやぁ〜勉強になったなぁ。

ちなみに、ボクの祖父(明治40年代生まれ:ボクが大学生の時に逝去)は協和銀行(現在の”りそな銀行”の前身の都市銀行の1つ)に勤務する銀行員でした。祖父が「銀行に勤務する」という人生の選択をした背景には、本家の山田権左衛門の存在が少なからず影響していたのでは?…などと、今は祖父の人生に思いを馳せています。まぁ祖父が亡くなって既に半世紀近く経っていますし、今さらそれを確かめことはできませんけどね。

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