今朝仕事場に向かう車中で聴いていたFMのコーナーで
《ある小学校で母親が申し入れをしました。「給食の時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、言わなくていいではないか」と》
TBSラジオの「永六輔その新世界」で紹介されたあるリスナーからの投稿らしいです。
くわしい記事はこちらです。
MCの永六輔さんは番組の中でも『「あなたの命を私の命にさせていただきます」のいただきますですよ。』と言っていたそうですが、番組に寄せられた意見投稿の約3割の方々はこの考え方に賛同されたそうです。
この問題になってる母親やその子供が、全く周りに感謝する事のない、金払ってサービスを受けるのは当然と思って生きていくのは別に構いません。考え方は自由ですから。
その子供だってどうしても「いただきます」って言いたくないなら言わなきゃいいでしょう。
でもその考えを元に学校側にクレームをつけるというのはいったいどうゆう神経してるんでしょうか。
人は一人で生きてるわけじゃありません。
給食が給食になる前には
農家の方達が何日もかけてお米や野菜、牛や豚を育て、
それを料理してくれる人がいて初めて給食になるのです。
もちろんこの他にも材料を安く仕入れるために働いてる人、それを運ぶ運送屋さんなどいろんな人がいて「そこ」に給食があるのです。
その人たちのために「いただきます」って言うのはそんなにプライドを傷つけられるような、屈辱的な行為ですか?
「商品に対する正当な対価を支払っているのだからそれに感謝する必要はない」と云うのがこの方の考えなんでしょうが、今ある商品だって色々な人達の努力のおかげでこの価格になっています。
もし、「私だけのため」にTVやビデオ、洗濯機などを一から作ってもらったならたぶんその対価の支払だけで一生を終える事になるでしょう。
事実TVが登場した当時はお金持しか買えない程の値段だったそうです。
今は14インチ位のものなら1万円もせずに買えます。
そのようになるために様々な人々が努力をしてきたはずなのです。
その努力に対しても金払ってれば感謝しなくて良いと私は言えません。
自分の子供にそんな教育をしたくありません。
どっかの宗教家みたいに「すべてのものに感謝しなさい」とはいいませんが、
様々な人達の努力のおかげで今の快適な生活があるんだという事は心のどこかで認識しながら生きていってほしいものです。
それは逆に「自分も社会の役にたっている人間の一人」だと云う事の証明なのです。
《ある小学校で母親が申し入れをしました。「給食の時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、言わなくていいではないか」と》
TBSラジオの「永六輔その新世界」で紹介されたあるリスナーからの投稿らしいです。
くわしい記事はこちらです。
MCの永六輔さんは番組の中でも『「あなたの命を私の命にさせていただきます」のいただきますですよ。』と言っていたそうですが、番組に寄せられた意見投稿の約3割の方々はこの考え方に賛同されたそうです。
この問題になってる母親やその子供が、全く周りに感謝する事のない、金払ってサービスを受けるのは当然と思って生きていくのは別に構いません。考え方は自由ですから。
その子供だってどうしても「いただきます」って言いたくないなら言わなきゃいいでしょう。
でもその考えを元に学校側にクレームをつけるというのはいったいどうゆう神経してるんでしょうか。
人は一人で生きてるわけじゃありません。
給食が給食になる前には
農家の方達が何日もかけてお米や野菜、牛や豚を育て、
それを料理してくれる人がいて初めて給食になるのです。
もちろんこの他にも材料を安く仕入れるために働いてる人、それを運ぶ運送屋さんなどいろんな人がいて「そこ」に給食があるのです。
その人たちのために「いただきます」って言うのはそんなにプライドを傷つけられるような、屈辱的な行為ですか?
「商品に対する正当な対価を支払っているのだからそれに感謝する必要はない」と云うのがこの方の考えなんでしょうが、今ある商品だって色々な人達の努力のおかげでこの価格になっています。
もし、「私だけのため」にTVやビデオ、洗濯機などを一から作ってもらったならたぶんその対価の支払だけで一生を終える事になるでしょう。
事実TVが登場した当時はお金持しか買えない程の値段だったそうです。
今は14インチ位のものなら1万円もせずに買えます。
そのようになるために様々な人々が努力をしてきたはずなのです。
その努力に対しても金払ってれば感謝しなくて良いと私は言えません。
自分の子供にそんな教育をしたくありません。
どっかの宗教家みたいに「すべてのものに感謝しなさい」とはいいませんが、
様々な人達の努力のおかげで今の快適な生活があるんだという事は心のどこかで認識しながら生きていってほしいものです。
それは逆に「自分も社会の役にたっている人間の一人」だと云う事の証明なのです。