幸隆の国から

歴史の跡、自然、いい湯などを訪ねて出掛けたときの記録。
また、四季折々、日々の雑感です。

久能山東照宮で見つけた「逆さ葵」

2025-03-04 | 歴史

先日の静岡旅行ではちょっと足を延ばし、貴重な文化財「久能山東照宮」を見学した。

 

久能山東照宮は、眼下に駿河湾を見下ろす斜面に建てられている。

急な石段を昇って、楼門をくぐり、奥に進むと「御社殿」(国宝)にたどり着く。

 

御社殿の左側、見学者が上を見ている場所があり、「逆さ葵」はそこにあった。

屋根の方を見上げると、確かに、ひっくり返っている「葵のご紋」が見えた。

 

その奥、さらに石段を昇ったところに「神廟」がある。

家康公が埋葬された場所であり、この石塔は三代家光公によって建てられたもの。

 

家康公が神となって祀られている神社の、「ご紋」を飾り付ける作業にミスがあろうはずがない。

ましてや責任者はそれを見逃すはずがないし、後の世まで放っておかれるはずもないであろう。

そう思ってパンフレットを読み直してみると、

「建物が未完成であることを表し、さらなる発展が込められていると言われている」とある。

「逆さ葵」一つとっても奥が深い!


日本百名城探訪・静岡編3 掛川城

2025-02-24 | 歴史

静岡県にある「日本百名城」を探訪する旅の最後は掛川城。

現在、各地の天守を木造で復元しようという動きがあるようだが、この「掛川城」は、日本で初めて「木造」で復元された天守閣だという。

 

JR掛川駅から真っすぐ北に向かって7~8分歩くと、掛川城跡の見事な天守が目に入ってくる。

左手角に見えるのは、時を知らせた太鼓があった「太鼓楼」。

 

 

きつい石段をのぼり、四層から成る天守内部に入る。

建物に入り上層階へは、よほど注意しないと転げ落ちそうな急な階段を昇る。

 

ようやく最上階にたどり着くと、眼下には「城郭御殿」の全体を見ることができる。

現存する御殿としては、全国でも少ない貴重な建物である。

お殿様になったつもりで、その向こうに広がる掛川の街並みを見渡す。

 

天守の見学のあと、「城郭御殿」のある二の丸へと向かう。

本丸を囲む位置にあった「三日月堀」は、パンフレットの古い絵図でもその名の通り三日月の形に見える。

 

ここが城郭御殿の玄関。

この建物は江戸時代後期に建てられた建物で、現存する御殿として貴重なもの。

 

玄関脇から今下りてきた天守を見上げる。

決して大きくはないが、美しい姿をした天守である。

 

玄関から書院造りの建物に入り、順路に従って進む。

入ったすぐの「三の間」には、お姫様が着たのであろうきれいな打掛が何枚も下がっていた。

虫干しをしているとのことだった。

思わぬものを見ることができラッキーだった。

 

いったいどのくらいの数の部屋があるのだろうか、畳敷きで、襖で仕切られた部屋が次々現れる。

二の間、次の間に接する「御書院上の間」は、藩主が謁見に使ったり儀式が行われた部屋で、なかでも格式の高さを感じる。

 

全国の城跡を見て歩くと鉄筋コンクリート造りの天守が少なくなく、それらは外観は天守閣であっても内部に入ると通常のビルと変わりはない。

今回訪れた掛川城は、「木造」で復元された天守である。

木造ならではの内部の梁や柱、床、階段などが、現存天守を見学したのに近い価値あるものに感じた。

 


日本百名城探訪・静岡編2 駿府城

2025-02-23 | 歴史

静岡県での日本百名城巡りの二カ所目は「駿府城」。

天下統一が成り大御所となった徳川家康が、大普請をし築城したのがこのお城だという。

三重の堀を廻らせ、壮大な天守をもつ「駿府城」であった。

現在は、築城当時の本丸と二の丸の部分が「駿府城公園」となって開放されており、一部の建物が復元されている。

隠居した家康になったつもりで、公園内を歩いてみた。

 

お城は、外側から「三の丸堀(外堀)」、「二の丸堀(中堀)」、「本丸堀(内堀)」の三重の堀に囲まれていた。

二の丸堀(中堀)

 

本丸堀(内堀)

 

二の丸水路

両側に石垣が積まれ、本丸堀と二の丸堀をつないでいる。 

一部の底には石が敷かれていて土が流されないようになっているとのことである。

 

駿河城公園(本丸・二の丸)へは、二の丸堀に架かる「東御門橋」を渡り、「東御門(復元)」の枡形を通り抜ける。

 

二の丸には二つの櫓が復元されている。

南東の角にある巽櫓(たつみやぐら)と南西角の坤櫓(ひつじさるやぐら)である。

それぞれが位置する方角から呼ばれた名称であろう。

 

広い公園内を進むと、家康公の鷹狩の姿の像がある。

 

家康公の像の脇には、家康公お手植えだとされる何本かのミカンの木がある。

不心得者がいていたずらをするのか(?)、がっちりと金網で囲われている。

 

また、家康公像の後ろでは、天守の発掘調査が行われている。

中をのぞくと、出てきた石垣の一部が見える。

 

城跡(公園)を一回りしてみると、周囲には近代的な高層ビルが立ち並ぶ市街地の公園である。

わずかに東御門や二つの櫓、お堀などから、そこが大きなお城であったことをイメージしたのだった。

現在発掘調査が進む天守台に、もし将来、5層あるいは6層の天守閣が出来るならば、イメージはがらりと変わるであろう。

 


日本百名城探訪・静岡編1 山中城跡

2025-02-22 | 歴史

今回の日本百名城探訪の旅は、静岡県の[山中城]・[駿府城]・[掛川城]の三か所の城跡を巡った。

最初に訪れた「山中城」は文字通り山の中の城である。

JR三島駅からバスで約30分、「山中城跡」で下車すると「山中城跡公園」は目の前である。

 

バス停⇒三の丸堀⇒西櫓⇒北の丸⇒天守台⇒本丸⇒二の丸⇒障子堀⇒西の丸(物見台)⇒バス停のコースをたどった。

バス停前の広場を通り抜け、「三の丸堀」脇の緩やかな登りの探訪コースを上っていく。

コースの所どころにはまだ霜柱が立っており、グサッとそれを踏みしめることもある。

 

西櫓から西の丸の縁を巻くように、障子堀を見ながら北の丸へ進む。

「北の丸」はかなり広い平らな広場がひろがっていて、ぐるりと土塁で囲まれている。

 

北の丸と本丸との間、一段高いところに「天守台跡」がある。

天守といってもどの程度のものであったのであろうか、広くはなく、礎石などは何も残っていない。

 

天守台から先に進むと、「本丸跡」に到着。

ここも往時をしのばせるものは何もない。

 

本丸と二の丸を結ぶ「本丸西橋」。

土橋と木橋が半分ずつの橋であり、敵が迫ってきたら木橋の部分は壊したものらしい。

 

この城の特徴の一つは、石垣が無く、いずれの郭も土塁で囲まれていることではなかろうか。

しかも、その外側は空堀で守られている。

よく「土の城」と表現される。

山中城の堀の多くは「障子堀」であり、探訪コースの見どころとなっている。

一度ここにはまったら進むに進めず、退くに引けず、横の移動もままならず、攻める方は大変であったはずである。

 

一旦「溜池」のあったところまで下るが、そこから急な斜面を「西の丸」へ登る。

西の丸には「物見台」があったとされる場所で周囲が見渡せる。

下を見ると西の丸を守る障子堀もよく見えるし、何よりも、土塁越しに富士山が眺められるのがすばらしい。

富士が見えるのと見えないのでは大違い。

恵まれた天候に感謝しながらバス停方面へと戻る。

 

北条氏は小田原を攻めようとする豊臣秀吉に備え、この城を強化したとされる。

しかし、豊臣軍4万に攻められ、守る北条軍はその十分の一であり、一日もかからず落ちてしまったと伝えられているそうだ。

いかに優れた縄張りであっても、「十倍」の敵を追い返すのは難しかったということであろう。


日本百名城を巡る旅・広島城

2024-12-04 | 歴史

この度の広島への旅の最後は、毛利輝元の築いた「広島城」なる。

昭和20年、原子爆弾が投下され、天守をはじめ全ての建物が無くなってしまったという。

その後、天守や二の丸の御門橋、表御門、多門櫓、太鼓櫓などが復元されている。

 

広島城跡の見学に先立ち、平和記念公園を散策し、原爆の犠牲になった人たちへの慰霊の祈りをささげた。

外国人を含み、朝から平和を祈る人々の姿が多く見られた。

 

広島城跡へは平和記念公園から歩いてわずかな距離である。

「御門橋」を渡り、「表御門」から「二の丸」へと表玄関から入城させてもらう。

二の丸は堀の中に島のように作られていて、馬出として機能し、いざ戦になると城の守備のうえで重要だったはずである。

二の丸と本丸とをつなぐ石積みの通路。

「中御門」のあったところを入る。

地元の方らしい人から、「ここの石垣は、被爆したとき色が赤く変色してしまったのだ」と説明していただいた。

赤くただれたような石が痛々しい。

本丸は堀で囲まれた長方形のエリアで、下段と、そこよりも一段高い上段の二段構造になっている。

石段を登り上段の中を少し進むと、「広島大本営跡」があり、さらに進むと「天守」が見えてくる。

五層の天守は鉄筋コンクリートで復元されたもので、内部は資料館になっている。

最上階は展望室になっており、ぐるり回廊を周り周囲を見渡すことができる。

堀の向こうに見える紅葉がきれいだった。

面白いところがあった。

北東に崩れたまま残る石垣がある。

ここは、当時城主だった福島正則が城の改修をする際幕府への届け出を怠って、それをとがめられて壊した跡とされる。

そのまま今に至っているというのが面白い。

 

二の丸~本丸を一通り観て周って「裏御門」から本丸から外に出る。

 

昭和20年まであった天守その他の建造物は、原子爆弾によりすべてを失ってしまったという。

残念なことである。

現在は、内堀に囲まれた二の丸、本丸の敷地内に復元された建物から、往時の姿を想像するしかない。

福山城、郡山城、広島城と観てきた広島県にある名城の旅も、これをもって終えることになる。