誰かのために我慢したり、
相手に合わせたり、
恋愛でも友情でも家族間でも
そういうことをもって
愛情があるという。
この方が世間一般的には
多い考え方だと思う。
本当は嫌だと思っているけれど
我慢してくれている。
本当は興味が無いことでも
自分に合わせてくれている。
そういうところを見て、
だから相手は自分に対して愛が深い
という風に判断する事も多い。
逆に相手が、近しい間でも
嫌な事は我慢しないし、
自分が興味の無い事は、はっきり
それには自分は興味が無いと言う
こういう場合だと・・・
この人は自分に対して
愛が無いんじゃない?
大切に思ってないよね
軽んじてる?
馬鹿にしてる?
という発想になっていくこともある。
自分ははこんなに合わせてるのに
こんなに我慢してるのに狡い
自分ばっかり何で
ということになってしまう。
そうなると我慢=愛ということに。
そういう刷り込みによって
その思考回路が定着すると、
いくらでも我慢することになる。
日本では特に
法的に決まってもいないことを
暗黙の了解で従わせる時に
思いやりとか愛という言葉が
沢山使われる。
全ての興味が共通の人なんてまず居ない。
興味が無いことに対して、
「それには興味が無い」と言うこととか、
「自分が嫌なことに対しては我慢しない」
ということは、
相手を否定しているわけでも
軽んじているわけでもない。
愛がある無いと、そこは本来別物のはず。
どっちが我慢するか。
お互いにどうやって我慢するか。
というのを考えるよりも、
どうしたらお互いに
我慢しないで済むかを考えた方が
どちらも(複数人の場合は誰も)
ストレスが少なく、
気持ち良く生きていけると思う。
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