筑紫文化財研究所

筑紫における歴史的文化の探求と漫遊

古代大宰府の羅城4

2017-03-20 22:42:12 | 古代西海道研
前畑遺跡の土塁と池田遺跡の土塁には一つの共通点があった。
共に土塁が里道として集落間の通行に使われていたと言うことである。
さらに前畑遺跡では土塁上位の土層中に土間土状の硬化した土壌があり、
土塁西側には土塁に沿うように分岐や結合を繰り返す溝状の遺構があり、
そのラミナ構造を繰り返す埋土も硬化した箇所が見られた。
これらは過去の事例から通行に伴い形成された痕跡と考えられる。
この事から土塁そのものは大宰府の外郭線を明示すると伴に
防衛に関する拠点施設への通行帯としての機能を帯びていたと判断された。

※中央の高まりが前畑遺跡の土塁で、それに並走する右手の帯状の窪みが今に生きる「里道」


古代大宰府の羅城3

2017-03-20 21:23:14 | 古代西海道研

※大宰府羅城新案(北側)

池田遺跡の土塁は下大利の小水城より北東側の谷を塞ぐ位置にあり、
さらにその西側の丘陵上、記憶では九大筑紫キャンパスのトライアム実験棟
(現在の春日野中学校東側)辺りで、調査を担当した林田氏の言によれば、
「地山に切り込む版築状の遺構が出た」とされている箇所があった。
当時は周辺の谷から寺院の存在を示す8世紀の墨書土器が出ていたこともあり、
寺院に絡む掘り込み地業でないかということが取りざたされたが、
それも尻すぼみとなり、この所見も残念ながら報告書では取り上げられられぬままとなっていた。

私にとって前畑遺跡での丘陵上での版築土塁の認知は、まさに九大筑紫キャンパスでの
あの事案をフラッシュバックさせるかのような衝撃的な出来事だったのである。
土塁に天武7年のものと目される地震痕跡があること、丘陵上に版築遺構があることなどから、
これらの事案は明らかに連関しており、池田遺跡の土塁は丘陵を越えて西進し、
推定春日の小水城に連なるプランであったことが想起され、
前畑遺跡の土塁はさらに丘陵を越えて南進し、基山の関屋土塁に繋がるものと理解された。

※大宰府羅城新案(南側)

つづく・・・