筑紫文化財研究所

筑紫における歴史的文化の探求と漫遊

古代大宰府の羅城7

2017-03-22 06:25:43 | 古代西海道研
大宰府羅城説に対する批判的意見はおおかた2種に大別できる。
一つは羅城そのものの概念規定についてであり、
もう一つはルートについてである。
前者については学史を含め後述する。

ルートについては鏡山説による水城から大土居小水城間は
ここ50年の戦後の大宰府研究においてはほぼ是認されてきた。
問題は大野城から基肄城間であり、関屋土塁の存在は
鏡山説段階で紹介されていたものの阿部説が登場するまでは
論究するものはいなかった。
阿部は関屋土塁の西側の区画整理事業で「とうれぎ土塁」が発見されたことを
発想の原点として羅城南部のルート設定をおこなった。


1991年の阿部義平説に依拠した大宰府羅城概念図
(九州歴史資料館刊行 「大宰府復元」大宰府史跡発掘30周年記念特別展図録より)

古代大宰府の羅城6

2017-03-22 00:07:10 | 古代西海道研
前畑遺跡と関屋土塁間で新たに設定したルートの検証をしたい。
この間には筑紫野市での隈・西小田遺跡群と小郡市の苅又遺跡群がかつて存在し、
両市では数年かけて大規模な区画整理事業による発掘調査を実施している。
調査報告書によれば筑紫野市分ではデータが不十分で検証は不可能であった。
しかし、小郡市分では2か所において推定ルートと調査地点が一致し、
両者ともに通行に関する遺構が検出されていた。



(※図は小郡市教育委員会刊行苅又遺跡群報告書より引用、一部加筆)

勝負坂J地点と永浦D地点がそれである。
勝負坂J地点では丘陵を登り上がる頂部手前の2か所で
分岐または交差する溝群があり、調査者は通行痕跡と報告している。
永浦D地点では古墳(円墳)の周溝を切って交差する溝群があり、
その反対側には1メートル以上の古墳斜面を埋めた人工的な盛り土があったと報告されている。

さらにその南側は苅又遺跡群の調査対象地外になるが、
ルート上に複数個所で今の地形で目視できる土塁状の構造物が
4か所以上で新たに確認された。

1970年代の地形図と目視できる土塁状の地形位置(①~④)


①三沢土塁aとした遺構(幅10m以上、高さ3m以上)



②さらに三沢土塁aの西にある遺構




③さらに②の西にある遺構


④三沢土塁bとした遺構


④三沢土塁bの開発で掘削された縦断面の人工積土層

比較のために前畑遺跡南側の山林部分での土塁の現状写真(未調査部分)を見てみよう。

前畑遺跡のそれは里道沿いにややミミズ腫れしたような帯状の高まりが並走する。
それからすれば三沢でみられる土塁群のほうがよほど立派に見える。

推定したルート上を検証したところ、発掘調査所見で2か所、現地の遺存遺構で4か所(+1か所)と
ともに複数の通行痕跡や土塁が存在することが明らかとなった。

余談だが、勝負坂J地点のすぐ南にある「山道堤」という
ルートからすれば意味深な名称の池の堰堤があり、
それがまったく上記の道筋に合致して今も存在している。

⑤三沢Cとした土塁=池の堰堤