筑紫文化財研究所

筑紫における歴史的文化の探求と漫遊

古代大宰府の羅城3

2017-03-20 21:23:14 | 古代西海道研

※大宰府羅城新案(北側)

池田遺跡の土塁は下大利の小水城より北東側の谷を塞ぐ位置にあり、
さらにその西側の丘陵上、記憶では九大筑紫キャンパスのトライアム実験棟
(現在の春日野中学校東側)辺りで、調査を担当した林田氏の言によれば、
「地山に切り込む版築状の遺構が出た」とされている箇所があった。
当時は周辺の谷から寺院の存在を示す8世紀の墨書土器が出ていたこともあり、
寺院に絡む掘り込み地業でないかということが取りざたされたが、
それも尻すぼみとなり、この所見も残念ながら報告書では取り上げられられぬままとなっていた。

私にとって前畑遺跡での丘陵上での版築土塁の認知は、まさに九大筑紫キャンパスでの
あの事案をフラッシュバックさせるかのような衝撃的な出来事だったのである。
土塁に天武7年のものと目される地震痕跡があること、丘陵上に版築遺構があることなどから、
これらの事案は明らかに連関しており、池田遺跡の土塁は丘陵を越えて西進し、
推定春日の小水城に連なるプランであったことが想起され、
前畑遺跡の土塁はさらに丘陵を越えて南進し、基山の関屋土塁に繋がるものと理解された。

※大宰府羅城新案(南側)

つづく・・・

古代大宰府の羅城2

2017-03-14 23:14:39 | 古代西海道研
九州大学筑紫キャンパス内の谷で発見された古代の土塁は
低湿地の上にブロック状の花こう岩風化土や粘質の黒色土壌が
層状に積み重ねられた形状で、最終的に奈良時代の遺物包含層によって
北側が埋めたされた形状であった。
ところがこの重要遺構は最終的に刊行された九州大学による
調査報告書には存在が記載されるだけで図も掲載されぬままであった。
後年、この土塁の東半分が道路工事に伴い大野城市教育委員会の下村氏(当時)が調査され、
池田遺跡の名称で発掘調査報告書が刊行されている。
現場で確認された土塁端部の断層のズレによる崩壊した土層断面の図と写真が掲載されている。

(※画面中央の20cmほどの土層が左右で上下にズレた部分が地震痕跡か)


1990年代に古代官道の研究をおこない、その際に水城西門ルートにピタリと乗るこの土塁を
官道施工によってできた土橋と取り扱ったが(「大宰府周辺の古代官道」)、
当時から地震痕跡のことが気になり、ずっとこれで良いのかと疑問を持っていた。
それが氷解したのが、2年前の10月に姿を現した前畑遺跡の土塁の出現であった。

つづく

古代大宰府の羅城1

2017-03-13 22:47:22 | 古代西海道研

平成29年1月22日におこなった第9回西海道古代官衙研究会(古代山城研究会合同開催)において
「大宰府羅城と通行施設としての古代土塁について」という演題で大宰府を取り囲む
大宰府の外郭ラインの話をさせていただいた。

実はこの羅城探しの話は1983年頃にさかのぼる。
場所は大野城市と春日市の境にあった九州大学筑紫キャンパスである。
大学は米軍春日ベースの跡地をさらに造成して建設された。
当時、工事と並行して九州大学筑紫地区キャンパス埋蔵文化財調査室が
建設工事に併せて発掘調査をおこなっていた。
福岡側に開口した谷部の中央で古代の土塁が発見され、
先に県立春日公園予定地内で発見された古代官道に伴う
土橋状の土塁ではないかとされる所見が与えられた遺構があった。

つづく

中ノ子型の内裏雛

2017-03-11 19:24:21 | 人形

春先のにぎわうとある店頭で中ノ子型のお内裏様に出会いました。
いわゆる郷土人形系の土人形としては非常に繊細な彩色が施されています。


こちらは以前紹介した中ノ子勝美氏六十代頃の作と思われる内裏雛です。
彩色は氏が苦心されて復刻されたもので、円熟し完成度の高い作です。




文様が異なるものの、男雛がやや右に首をかしげるような様から
同じ型からなる作と思われますが、表情は柔和で女性的で、
若さが感じられる面持ちとなっています。