老いを見つめて(22)では、小学生の時代のことを書きました。
私の中学校時代は、もう60年以上も前のことになります。
中学校は、それこそ田んぼの真ん中に位置していました。
学校のすぐ裏に二、三軒の民家があったような気がします。
家から学校までは省線(今のJR) の踏切を渡り線路沿いに立花の駅の前の商店街を突き抜けて学校まで
30分ほどで行けたような気がします。
その頃の、にぎやかな場所は、駅前しかありませんでした。
戦後の、日本は、復興のため自治体が家を建てて、国民に貸し与えていたのです。
今では、府営住宅や市営住宅が平屋造りからマンション形式に変わりましたが、当時はみんな平屋建てでした。
一クラスは40人から50人くらいだったような気がします。
担任の先生は、I先生という方で、体育の先生でした。
大変教育熱心な方でした。体育の先生でしたが、数学も教えてもらいました。
毎週1回は、数学のテストがありました。私の成績は、いつも70点位で普通でした。でも、この試験が楽しみでした。
今度は、何点取れるのかと、80点以上を取れると名前が張り出されたのです。子供心に、やったー、となります。
この先生は、大変厳しい先生でもありました。
生徒が、悪いことをしでかすと、教壇の前に一列に並ばされました。
そうして、悪ガキどもの全員に、「歯を食いしばれ、腕を後ろに回せ、足を開けろ」と大きな声で命令します。
さあ、全員並ばせといて、先生のビンタが飛んできます。パン、パン、パンと生徒のほっぺたに。
生徒たちは当然よろけます。今では、こんなことをしたら、其れこそ新聞沙汰になり、休職させられているでしょうね。
そんな時代でした。
しかし、先生は、家庭訪問をよくされました。
私は、9時になると寝てしまいます。
冬の寒い日でも先生は夜に家庭訪問をされていました。
家庭訪問をしていただいても、家に上がれないほど狭い家でした。私が、玄関のすぐ上がった部屋でもう寝ていたのですから、
母は、玄関に火鉢を出して先生に手を温めてもらうのが、やっとこさといったところです。
そして、私の現状や将来などを2人で話していたようです。
この先生が、3年生まで持ち上がりでした。
しかし、残念ながら2年生から3年生の頃の先生の記憶がほとんど今はありません。
自分でも、何故だかわかりません。
クラブ活動は、当初、バレーボール部に入っていましたが、すぐやめてしまいました。
これは、1年生は、球拾いばかりだったのでやめてしまいました。面白くないでしたことも原因の一つと思っています。
そのあとは、新聞部に入りました。1年ほど続いたと思いますが、特に記憶に残ったことは、これまたありません。
どうも、自分は、今でもそうですが、団体行動が苦手であります。
中学校での思い出は、修学旅行でしょうか。私は、小学生の時代も高校生の時代にも修学旅行にはいっていません。
なぜなら、児童の頃から身体が弱かったからです。それに、家は貧しかったのです。
従って、唯一この中学校時代に修学旅行に行けたわけです。
四国の屋島でした。枕の投げ合いもしたような気がします。楽しかったですね。両親や兄弟たちに一杯のお土産を買った記憶があります。
それから、大きな思い出は、よく痰を吐いていました。
それでも、修学旅行に行ったのですが、高校生になって初めて、肺門リンパ腺結核を患っていることがわかりました。
この件はまた、高校生時代に書きたいと思います。
高校入試の勉強は、自分で言うのも何ですが、本当によく入試勉強をしたと思います。
落ちることは全く心配しませんでしたし、合格するのは当たり前だと思っていました。当然のように高校は合格しました。
中学校の3年間は、あっという間のようでした。
中学校時代のことは、この程度にしておきます。
つまらない、思い出を書きました。 最後まで、お読みいただきまして、ありがとうございました。
==閑題==
「愛}という字
この字はやさしさを感じさせて、日本では人気があるようですね。
さあ、この「愛」という字に皆さんはどんなことを、思いますか。
そうですね、ーーー愛情?ー愛憎?ーラブ?ー愛子?ー愛する我が子?--
では、「愛」という字の元々の意味は? ちょっと驚きますよ。
元の意味は。
「ものをむさぼり、それに執着する」というネクラな意味で、愛着(あいじゃく)・愛執(あいしゅう)などの言葉があります。
ちょっと驚きですね!!!
以上です。
私の中学校時代は、もう60年以上も前のことになります。
中学校は、それこそ田んぼの真ん中に位置していました。
学校のすぐ裏に二、三軒の民家があったような気がします。
家から学校までは省線(今のJR) の踏切を渡り線路沿いに立花の駅の前の商店街を突き抜けて学校まで
30分ほどで行けたような気がします。
その頃の、にぎやかな場所は、駅前しかありませんでした。
戦後の、日本は、復興のため自治体が家を建てて、国民に貸し与えていたのです。
今では、府営住宅や市営住宅が平屋造りからマンション形式に変わりましたが、当時はみんな平屋建てでした。
一クラスは40人から50人くらいだったような気がします。
担任の先生は、I先生という方で、体育の先生でした。
大変教育熱心な方でした。体育の先生でしたが、数学も教えてもらいました。
毎週1回は、数学のテストがありました。私の成績は、いつも70点位で普通でした。でも、この試験が楽しみでした。
今度は、何点取れるのかと、80点以上を取れると名前が張り出されたのです。子供心に、やったー、となります。
この先生は、大変厳しい先生でもありました。
生徒が、悪いことをしでかすと、教壇の前に一列に並ばされました。
そうして、悪ガキどもの全員に、「歯を食いしばれ、腕を後ろに回せ、足を開けろ」と大きな声で命令します。
さあ、全員並ばせといて、先生のビンタが飛んできます。パン、パン、パンと生徒のほっぺたに。
生徒たちは当然よろけます。今では、こんなことをしたら、其れこそ新聞沙汰になり、休職させられているでしょうね。
そんな時代でした。
しかし、先生は、家庭訪問をよくされました。
私は、9時になると寝てしまいます。
冬の寒い日でも先生は夜に家庭訪問をされていました。
家庭訪問をしていただいても、家に上がれないほど狭い家でした。私が、玄関のすぐ上がった部屋でもう寝ていたのですから、
母は、玄関に火鉢を出して先生に手を温めてもらうのが、やっとこさといったところです。
そして、私の現状や将来などを2人で話していたようです。
この先生が、3年生まで持ち上がりでした。
しかし、残念ながら2年生から3年生の頃の先生の記憶がほとんど今はありません。
自分でも、何故だかわかりません。
クラブ活動は、当初、バレーボール部に入っていましたが、すぐやめてしまいました。
これは、1年生は、球拾いばかりだったのでやめてしまいました。面白くないでしたことも原因の一つと思っています。
そのあとは、新聞部に入りました。1年ほど続いたと思いますが、特に記憶に残ったことは、これまたありません。
どうも、自分は、今でもそうですが、団体行動が苦手であります。
中学校での思い出は、修学旅行でしょうか。私は、小学生の時代も高校生の時代にも修学旅行にはいっていません。
なぜなら、児童の頃から身体が弱かったからです。それに、家は貧しかったのです。
従って、唯一この中学校時代に修学旅行に行けたわけです。
四国の屋島でした。枕の投げ合いもしたような気がします。楽しかったですね。両親や兄弟たちに一杯のお土産を買った記憶があります。
それから、大きな思い出は、よく痰を吐いていました。
それでも、修学旅行に行ったのですが、高校生になって初めて、肺門リンパ腺結核を患っていることがわかりました。
この件はまた、高校生時代に書きたいと思います。
高校入試の勉強は、自分で言うのも何ですが、本当によく入試勉強をしたと思います。
落ちることは全く心配しませんでしたし、合格するのは当たり前だと思っていました。当然のように高校は合格しました。
中学校の3年間は、あっという間のようでした。
中学校時代のことは、この程度にしておきます。
つまらない、思い出を書きました。 最後まで、お読みいただきまして、ありがとうございました。
==閑題==
「愛}という字
この字はやさしさを感じさせて、日本では人気があるようですね。
さあ、この「愛」という字に皆さんはどんなことを、思いますか。
そうですね、ーーー愛情?ー愛憎?ーラブ?ー愛子?ー愛する我が子?--
では、「愛」という字の元々の意味は? ちょっと驚きますよ。
元の意味は。
「ものをむさぼり、それに執着する」というネクラな意味で、愛着(あいじゃく)・愛執(あいしゅう)などの言葉があります。
ちょっと驚きですね!!!
以上です。
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