「父」と「母」。 小学生時代 ーーー守口市滝井 尼崎市 立花 私は、実の父と母の顔を知らない。当然自分が生まれたばかりの時には、両親の腕に抱かれたであろうと思うし、また、そう思いたい。 70歳も半ば過ぎた。子供時代は、当然、傍にいる父や母を本当の父や母と思っていた。 父は警察官をしていた。が、私には、父が警察官であった頃の姿が全く記憶にありません。 祖母、両親そして子供4人。家は、戦争で焼け出されて、最初は、守口市の民間のアパートに二部屋を借りて住んでいた。 2部屋を借りられることは、その当時としては、恵まれていたのであろうと思われる。小学校の入学時の写真を見ると良い恰好をして写真 撮影さ れている。 滝井小学校は1年間だけであった。お世話になった先生の名前は、確か中道先生であったような気がする。 アパートのすぐそばに小さな小川が流れていた。 夕方になると、ヤンマが飛んで来る。トンボを取るために、糸の両端に小さな石ころを結び、トンボめがけて空に向かって放り投げるのである。 そうすると、トンボは、その石を餌とおもい食べに来るのです。 するとどうでしょう、石と石を結んだ糸にトンボが絡まって捕まえることが出来るのです。 とったトンボを、自慢げに両親に見せる。こんな、ワンシーンを今でも思い出します。 その頃のお風呂は「お風呂屋さん」ですね。一週間のうち何回風呂に入ったかも記憶に定かではありません。父と二人で風呂桶に石鹸とタオル。 代え下着を持って行ったのでしょうか?これも記憶がありません。季節は冬でした。温まった体での帰り道で、父と何を話して歩いて帰ったのだろうか? アパートと風呂屋さんの距離は少しあった様な気がします。京阪電車のガードをくぐり抜けて左折して帰ったような気がします。 冬空の澄んだ空気に満月が煌々としていたことは覚えています。 昭和24年ころの生活はどんな感じだったのでしょうか。戦後間もない時代です。食べ物もそんなになかったような気がします。 「ハッタイ粉」という粉に砂糖を入れて、お湯をかけ、お箸でかき混ぜて食べるのです。これがおいしいのです。また、お湯をかけないで、粉と砂糖を混ぜただけの粉も又おいし かった。今、こんな、「ㇵッタイ粉」なる粉を売っているのだろうか? あれば、懐かしく食べてみたいと思う。 それから、一升瓶のことです。一升瓶は、お酒が入っているのが本来のはずです。 でも、この瓶の役目は、お米の精米に使うのです。米を中に入れ、長い棒でもって、つつくのです。そう、精米です。精米は、子供たちの仕事でした。 今の子供達には想像出来ないでしょうね。懐かしい思い出です。 それから、運動靴のことです。 物が無かった時代です。子供が4人もいて、父の給与だけで7人の家族を養っていのですので、母もやりくりが大変であったこと思います。 運動靴は、いつも靴底に穴が開いていました。毎朝、靴に合わせた大きさに、厚紙を切って靴底にひくのです。 雨が降ったら、役に立ちません。靴の中はべとべとです。 天気の良い日ではどうでしょうか? 一日履いたら、靴底は当然のように穴が開きます。 穴が開いた靴を履いたまま家に帰るのです。 1年間の滝井のアパート生活から別れて、尼崎市の市営住宅に引っ越しをした。戦争で国民は住宅を焼かれ、戦後の住宅難に突入していた。抽選で市営住宅が当たったということは、大変幸運であったと思う。 間取りは、6畳、4畳半、三畳の三部屋に2畳くらいの土の竈の部屋があった。まだガスの無い時代である。 2軒続きの家だあった。従って、大きな音を出すとお隣さんの音が聞こえる。当然我が家の音も聞こえたと思う。特に我が家は、7人家族であり、子供が4人いた。しかも、4人と もまだ、小学生であった。どこの家も、子供たちが沢山いたが、我が家は、子供たちがよくケンカをした、母も大変だったと思う。食事やおやつの取り合いでやかましかった。当 然のようにお隣さんには、壁を通して大きな声が筒抜けであったのではないか。恐らく、母はお隣さんの奥さんによく謝りに行ったのではないかと思う。7人の家族を父の1人の 給与で賄っていた。母もやりくりが大変であっつたと思う。 その時代は、物のない時代であった。向こう三軒両隣、仲が良かった。だから、醤油が足りない、砂糖が足りない等近所のお母さん方は貸し借りを良くしていた。 一軒一軒の子供たちの数は多かった。その為、子供達が集まって、遊ぶときはやかましい、やかましい事。 遊びは、ビー玉、べったん(関東ではメンコと云いていた)、縄跳び、缶蹴り、かくれんぼ。 こんなところか。いろいろ、男も女も一緒になって遊んだ。 我が家は、7人家族であった。祖母がいました。 祖母は90才で亡くなった。当時では長生きした方である。わたしが小学生のころ祖母はまだ60代であった、70歳になった時尼崎市長より長寿の記念品が届けられた。どんなものであったのか今では定かではない。今では考えられないことである。 この祖母が、私の出生の秘密を知っていたようである。その為か、私を一番かわいがっていてくれたように思う。家の庭で、鶏を飼っていた。卵を産むと身体の丈夫ではなかった私に鶏が産んだ卵を、他の兄弟には内証でコッソリ食べさしてくれていたのである。 そんな祖母であったが私が18才になって、就職のため名古屋の会社の独身寮に単身赴任したため、十分な恩返しもしないうちに亡くなってしまった。今でも心残りの一つである。 6年生になると、今でも実施されている修学旅行がある。楽しみには違いがなかったけれど、体が弱かった自分にとってはあまり乗り気がしなかっつた. 旅先は、お伊勢さんであった。5年生にのころから修学旅行の積み立てが始まっていたように思う。子供の旅行費用であるため大した金額ではなかったと思うが、自分が旅行を辞退することにより、貧しい我が家に少しばかりのお金が入って来る。このことの方が自分にとって嬉しかったのである。 旅行はいかなかった。ともだちたちが、お伊勢さんのお土産として、「ショウガ板やおかし」を買ってきてくれた。 そうこうしているうちに卒業。立花中学校に入学するのである。
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