一日、色々なことを詰め込むのが、この頃の週末の生活。
ほんと、時間が足りないです。
という事で、これ、見てきました。
そう、「機動戦士ガンダムSEED FREEDOM」。
過去・・・そう、TVシリーズ後に発表があってから、色々言われた作品ですね。
ここまで来るまで、色々あったんでしょう。
紆余曲折は、何かを作る時、良くあることです。最悪な結果になることもあるでしょうけど、ここまで来てくれました。
良かったですね。
内容ですけど、TVシリーズの続編です。
・・・ですが、私には「お祭り」に見えましたね。この監督らしい。
約120分フォーマット。
アニメーションにしては、力が入った長さの作品。
この中で、明確な起承転結がある王道シナリオ。
そして、主人公がボッコボコにやられるシナリオ。本当に「王道」。
とはいえ「お祭り」に見えたのが、福田監督らしさと言うか「サイバーフォーミュラ」や「クロスアンジュ」で見た、色々な作品からのオマージュ。
ほんと、色々な作品から細かく入れていたオマージュの嵐。
キャラクターのセリフに入れたり、キャラクターやメカニックに入れたり、表現方法に入れたり。
もう、45歳前後の人には「あ~あそこから持ってきたのか」とか「そこに持ってくるか~」と思える内容。
おじさんたちのツボがわかってるな~と思える半面、若い人にはわからないだろうな~とも思えます。
まあ、そんなことわからなくても純粋に「お話」としても、良くできた王道シナリオなので面白い作りで楽しめる作品です。
破綻しないシナリオ、全体的にスピード感がある展開。
ゆっくりとした動作から加速するモビルスーツの動き。
それらが、見ている人を引き付けるには十分な説得感。
福田組が以前からやっていた作風を十人分に生かし切った映画で、見ている人を飽きさせません。
実際、アニメーション映画では「長編」の部類と思われる120分フォーマットであるにもかかわらず、すぐ終わったという印象。
時間が短く感じられるという事は、それだけ面白く、引き込まれた感覚が得られる内容だったと思います。
ちょっと人間ドラマシーンはくどかったかな。
では、おっさんが「おっ」と思った瞬間を2つほど。
ガンダムSEEDシリーズには反則システム「ミーティアユニット」というものがあります。
この発進シーンがありますが、TVシリーズではあっさりしていたかな~と思ってました・・・が、この作品では
「アスラーダのブーストだよな~これ」
という、派手なバーニアー表現。
サイバーフォーミュラー好きとしては、各マシンの「ブースト」シーンに胸熱くしたものですが、そのエッセンスが盛り込まれており「ほっこり」印象。
そして、このセリフ。
「キャバリアーの準備もできています」
は?キャバリアー?
私が知っているキャバリアーは1つ。
そう「機甲戦記ドラグナー」の「桃太郎侍システム」。
まさか?と思っていましたが・・・そのままでした(笑
ここで持ってくるか~と思いましたが、その姿そのままでした。姿、名称をそのまま持ってくるとは。
やりますね~。
45歳以上の大きなお友達しかわかりませんよ。。。こりゃ。
とはいえ、この「お祭り」を成立された要因。
それは、名敵役の存在。
敵役が、シナリオを上下、左右に振りつつ、しっかり前に進めるだけで作品は締まります。
その敵役を演じたのが「下野 紘」さん。
いつの間にか「ベテラン」の声優さんですが、実に見事に演じていらっしゃいました。
一人、最初から最後まで、ずっと出っ放し。
大活躍でした。
この作品、全体的に役者さんが「豪華」「豪華」「豪華」「豪華」「豪華」「豪華」「豪華」。
これだけの「豪華」な役者さんが演じていて、締まらないわけが無いですね。
という事で、色々な見方があるかと思います。
でも、「映画ってこうじゃなきゃ」という遊び心がふんだんに盛り込まれた、見どころいっぱいの作品でした。
いや~、このタイトルの雰囲気久しぶりでございます。
映画ネタでございますです。
上映開始から随分時間がたっていますが、ジャパニーズホラーを見たい私としては、なんとか滑り込みました。
今回見たのは「忌怪島」というタイトル。
犬鳴村・樹海村・牛首村といったタイトルを制作した、ジャパニーズホラーの巨匠作品です。
腕時計では、約110分フォーマットかな。
シナリオや解説については、公式ページなどを見てね。
私は、あくまでも感想を書きます。
ざっくりシナリオを俯瞰で見ると、使い古された、よくある話を現代風にした感じですね。
基本的には、「リング」の現代風な塗りなおしに見えました。
ということは、「リング」というタイトルが、これほどまで偉大なのかと思わせられます。
とはいえ、「これがジャパニーズホラー?」って感じもします。
見てて思うのは、この作品を見せたいターゲットが明確である点。
それは、主人公の「ジャニーズ なにわ男子~君」を見たい女子たちが、明確なターゲット。
そのため、難解な話、複線、カメラにちらっと映るヒントなどを、とにかく排除した単純な話の構成。
そして、役者たちのバストアップのアップばかりのカメラワーク。
これは、ホラー映画を作っているわけではなく、役者のプロモーションを作っているのだと、私は思いました。
昔は
「漫画なんか読まずに、小説、新聞を読みなさい!」
と言われたものですが、現代は、漫画すら難しくて読めない人が多いと聞きます。
そんな人が、映像を見ると「全て解説」しないと難しくて見れないということなんだろうと思われますね。
本当にホラーを作りたいのであれば、エンドに向けて「何が恐怖なのか」を明確にし、原因は何か、逃れられるのか逃れられないかを伏線とともに(説明せずに)チラ見せして行くべきじゃなかったのかな?
そう感じずにはいられないかのような、単純な流れ。
色々なところで「考察」って書いてありますが、考察しなければいけないということは、色々話がつながっていないことですからね。
カメラワークも、奥から手前、手前から奥といった一点透視法的な構図ばかり。
う~ん、なんでだろうね。
すごく単調になっています。
話の途中に、急に合わせ鏡のシーンがあり、意味があるんだろうな。。。とは思いますが、わかりにくい。
多分最後のあのシーンにつながることなんだろうと思うのですが。。。
それから、主人公以外のキャラクター性というか、役割が不明確。
というか、単なる”にぎやかし”にしかなっていない点。
いなくても、あまり困らない存在になっていることは、非常にかわいそうなキャラクター達です。
一人ずついなくなるとか・・・そういう役割を持たせてもね、良かったのでは?
役者さんが、少々かわいそうでしたね。
時間ループ、世界から抜け出せないなんて、使い古されたネタですよ。
(物語の最後は、こういう意味なんだと思いますが。。。)
ちょっと、「サマータイムレンダ」とか「ゼーガペイン」「ひぐらしのなく頃に」を思い出しちゃいました。
アニメの世界では良く使われる話です。
「まだ解決はしていない」
これは「リング」から派生した話。
ホラーってこういう良い話が、脈々と違うアプローチで使われるものなんですね。
とはいえ、本作にノベライズがあるのかはわかりませんが、たぶんノベライズは面白いと思います。
ようは、見せ方なんですよね。
まあ、ジャニーズのプロモーションなので、こうなっちゃうんだろうけど。。。
なんで、主人公は下を向いた影を持った男ばっかりなんだろう?
素直な、あくまでも普通なキャラクターにはできないものだろうか?
寒いですね~。
でも、わが土地はで雪が降るほどではありません。
で、先週(2022/12/11)見てきました。
話題の「すずめの戸締り」。
映画館はいっぱいでした。
「新海誠」という名前の力はすごいですね。「宮崎駿」「庵野秀明」と並ぶ感じなんですね。
他にも、監督さんはたくさんいますが。。。メディアの力か。
一般の人には、もっと色々な作品を・・・そう、監督名ではなく”作品”を見て欲しいですな。
とまあ、そんな話はこちらに置いておいて、見てきました。
まずは・・・「おばさん、この席間違っていませんか?」ってところから始まりました(笑
いつも思うんですが、私の席に必ず誰か座ってるんですね。
不思議です。。。
とまあ、そんな話はこっちに置いておいて(二回目
「すずめの戸締り」ですね。
フォーマットは、約120分。
新海監督・・・というか、このチームさんは「画期的」な事をやっているように見えて、実は映像手法に忠実なんだな~と思います。
ほんと、映像は細かいところまで書き込まれていますし、背景美術と前面のキャラクターが絶妙にマッチしている。
背景の撮り方も絶品で、それだけで物語の説明ができてしまいます。
いや、背景だけでキャラクターの心情を表現していると思います。
うまい、本当にうまいと思います。
序盤の坂道を上から撮っているシーン。奥に向かって坂道が下っている。
そこを奥から男の子が登ってきて、奥に向かって女の子が下っていく。
必然的に男の子は正面から、女の子は背中のシーンになります。
今でもアメリカ映画では、ちょくちょく出てくるシーンですが、これは凄く意味深なシーンになると思います。
奥から登ってくる、つまり「何かに向かっていく。苦難に向かっていく」という所を意識付けます。
逆に奥へ下っていくというのは、「未来に向かっていく、軽やかに速度を上げて」と感じさせます。
それが、キャラクターの心情を表していて、見ているほうにも意識付けしているので没入感が強まる効果があると。
他にも、走るシーンは大体「左から右」、坂道は右肩上がり。
そのシーンに対するキャラクターの心情を動きとカメラワークだけでちゃんと示していて、すごくわかりやすくつく手ある点が、映像表現に忠実なんだな~と感じさせます。
そいういう所をしっかりと押さえられているので、心理的な矛盾を感じずに物語に対して没入できるのでは?と感じます。
ちょくちょく、スポンサー名を入れるあたり・・・気を使っているんだな~と。
こういう点について、非常に面白かったと思います。
おさまりが良く、わかりやすく、大衆映画としては万人に受ける物語として、映像としてバツグンだと思いました。
で、なんですけどね。。。
(おっ来た!)
お話が・・・何言いたいの?って思いました。
すみません、ひどい言い方ですが。。。
このお話の「本質」というか「本筋」は何?
と言う感じです。
サブシナリオが多い。のは良いんですが、他の話と絡まないので発散している感じがしました。
話自体「戸締り」がメインシナリオだと思わせておいて、多分違うのではなかろうか?
多分、男の子と女の子との追いかけ恋愛プチドラマの方でしょう。
もう「戸締り」がサブシナリオ。
家族ドラマもサブシナリオ。
恋愛ドラマがメインなので、他のシナリオとの絡むところが無い。
なので、各シナリオがバラバラになるという、アンバランス感が出てしまったのかな?と。
ただ、シーン一つ一つをバラバラに見てしまえば、映像は美しいし、お話は理にかなっているので良いお話です。
全体を見る力より個別の恋愛観が好きな人、シーン毎に見たい人、お話とお話の関係は理解の範疇を超えている人には、すごく見やすい話です。
恋愛ドラマとしては、甘酸っぱいというか、少年少女には「キュン」という話ですね。
お~い「戸締り」どこに行ったんだよ(笑
ですよね。この辺りの説明というか、矛盾が沢山あって「あ~どうでもいいんだな~」と思ってしまいます。
アニメを見ていると多少の矛盾は、スパイスとして全然かまわないのですが。。。
映画館でもらったブックレットには、ちょこっと説明がありましたが、後で説明しないといけないものは無いのと同じ。
要石は、何故猫なのか?猫が走り回る理由は?何故付きまとう?なぜ東京に?東京の要石って簡単に抜けるもの?そして、なぜ最後に捨て駒にされたのか?
男の子は、なぜ救われなければいけなかったのか?
最大の不思議は、「主人公は、なぜ全てが、苦労もなく挫折もなく、すんなりうまくいくのか?」です。
ほんと、うまくいきすぎて物語としては重みが無い。
男の子の漫画では、あまりないのですが・・・本作は、あり得ないぐらい挫折が無い。
苦労が無いので、見ている人に対して語り掛ける何かが無い。
なぜ、村のバス停でたたずんでいる時、すぐに誰かに助けられちゃうんですかね?
こういう所から「すべて順調」に感じさせて、とても「軽さ」を感じさせる点、少女漫画風味だな~と感じるんです。
そして、なぜ途中で旅モノを入れたのか?
その中に、それほど重要なメインシナリオに絡む部分が無いので、中だるみとしか思えない。
確かに若干はあるんだけど。。。
旅モノと言えば「キノの旅」。
街についた時と、前後の移動シーンには、必ず関連があります。移動シーンに語られる話には、街自体への教訓や考察、思いが語られます。
そうして、移動シーンも無駄にしない作りになっています。
移動シーンと言うのは、のんびりな感じもありつつ重要なファクターなんですね。
「戸締り」には、旅の最中に意味がそれほどもない、昔の歌謡曲を流すという・・・スポンサーなのかな?許可をもらったから?なのかな。
流すことで、ただノスタルジックさを演出するぐらいの意味しかなかったように感じます。
あとは「方言」。
なぜ「方言」にこだわる?私が東京でバリバリ仕事をしていた時は、知人から「方言を話す娘はかわいい」という話も聞きました。
それだけで方言を選びました?
地方に住む私から言えば「無知」の象徴で、「村社会」「無法」の象徴なんです。
なので、欲を言えば地方や「方言」を前面に出すのは、やめた方が良いんじゃないかな?と。都会の人のエゴなんじゃないかな?と思っている次第です。あくまでも個人的な見解です。
で、主人公の女の子は、なぜ要石にされかかった男の子を救い、元要石の猫を再度要石にすることに「何の罪悪感もなく」臨んだのか?
この部分、面白いですね。
新海監督が、そういう点が感じられない作家だとは思えません。
前作の「天気の子」でも、ラストは「自分たちさえ幸せなら社会がどうなっても」という流れでした。
同じようなものですが、前作を見た時は「尖ったな」と思いました。
今回も同じような感じ。
で、どちらの作品のエンドにたいして「?」を持った人、結構少なかったのでは?と思います。
あくまでも私の感想なのですが。。。
このエンドには「毒」を入れたのでは?と思うんです。
監督が「わかって」やっているような。
今の時代「知らな人には、どんな失礼なことをやっても罪悪感が無い」って時代じゃないかと思います。
失礼な話ですが。
あおり運転もそうですし、高齢者が知らない人に怒鳴るのもそう、若者が暴れるのもそう。
ネットで知らな人に罵詈雑言を言うのもそう。
知らない人に対しては罪悪感がわかない。
なので、主人公も女の子も「知らない猫より、知っている男の子」を優先し、猫が今後何百年要石にしても知ったこっちゃないという判断をしたという「毒」なのでは?と感じます。
なので、元要石の猫に対する情報って極力出さない「知らない猫」という演出を突き通したのではなかろうかと思いました。
まあ、社会に対する警鐘ってほどじゃないけど、思想的な「毒」って感じではなかろうか?
再度書きます。あくまでも私の見解です。
映像としては素晴らしいです。
シナリオは、詰め込みすぎな感じなので、30分ぐらいのオムニバスにした方が良かったかな。
主人公が全てうまくいくところを誤魔化せますし、旅シナリオの中だるみや、メインシナリオをボヤ化すところもふんわりさせられたのではなかろうか?と。
・・・ああ、新海監督が意図して「毒」を書いたという話は無く、あくまでも私の見解です。お間違え無く。
近頃、映画鑑賞に行けていませんね。
話題の「あの」作品も、「この」作品も見れませんでした。残念。
映画館で見ることの重要性ってのもあるんですけどね。
本当に久しぶりに見に行った作品、それが
「沈黙のパレード」です。
知っての通り「東野圭吾」さん原作の映画です。
見てわかりますかね。「ガリレオ」という文字がサブタイトル的に小さい。
ということはTVシリーズと違って、どちらかというと「容疑者Xの献身」のテイストに近いものと感じられます。
まず、ばーんと感想を書きますと、一言「素晴らしい。面白い」です。
二言になりました。。。すみません。
原作小説は読んでいません。これこそ、読んでみたくなりましたね。
一方、この作品は完全な「会話劇」です。
中には、この「会話劇」が苦手な人もいるでしょう。
アクションもののように「こぶしで語れ」的な作品が好きな人には、すごく回りくどい作品です。
また、ハッピーエンドでないと納得、満足できない人もいるでしょう。
そういう人も、厳しいかと思います。
とはいえ、昨今の邦画は「学芸会」と揶揄される子供っぽい作品が多い中、怒鳴りあうこともなく、カメラワークと役者の表情で語る重厚な作品に思えました。
TVシリーズのように、主人公たちが謎を解き、犯人を絞っていくという作品ではないです。
どちらかというと「容疑者Xの献身」のような作品です。
主人公たちの行動が、犯人逮捕に導く感じではなく、どちらかというと「ストーリーテーラー」の役割を持ちます。
話が進むにつ入れて広がった情報などを、いったんまとめ上げて次のシーンに移すような進行役です。
これが、上手く働いています。
まとめるのは出来事と同時に、たくさん出てくる登場人物の出来事や心情。
それらを、実にうまくまとめ、ストーリーの進行方向に正しく持っていく。
実にうまいシナリオだと思いました。
まあ、若い役者さんは、やっぱり「学芸会」のような怒鳴り演技をするのですが、福山さんはじめベテランの大人な役者。
「学芸会」を打ち消すような静かで重く、背景や空間を見事に調和するような演技。
ベテランで固めると、こうも素晴らしい作品になるのかと思い知らされました。
その中に「ずん」の飯尾さんがいるのには、すごく驚きました。
芸人らしからぬ演技。ひょっとすると、何かしらの賞をとっちゃうかもしれないですね。
それだけ、完全に作品の中心に存在していました。
しかしながら、どこかしら「モヤモヤ」したエンド。
それこそが、大人の終わらせ方かもしれません。こういうエンドは嫌いじゃないです。
なんというか、子供の時に食べられなかったものが、大人になると食べられるようになるような・・・ほろ苦いエンドでしたね。
と言いつつも、こういうエンドが苦手な人もいるでしょうね。
スッキリしないというかなんというか。。。
あとは、監督さんなのかな?
すごいうまいです。
昨今の邦画では、全く気にされていないようですが、この作品はカメラワークだけで雰囲気や、キャラクターの心情を表現します。
それに合わせて、役者さんは表情で演技をします。
今どきは1から10までセリフで語らせないと、分かりやすくしないとという風潮があります。
でも、シチュエーションと表情で語るカメラワークというは、珍しい。
それゆえ見る人が、逆に試されるというわけです。
警察の取調室のシーンがあります。
このシーン・・・上手い作品だと必ず「右に警察、左に取り調べ対象」という構図になります。
舞台ではよくあるそうですが、話の進行をつかさどる・・・つまり強者が上手・・・右に配置します。
そして、対するキャラクターが下手・・・つまり左に配置し、右を向かせます。
そうすることで、弱者の緊張感が生まれます。
なぜか?何故なんでしょう。右利きが影響しているかも知れませんが、歌舞伎や舞台、落語などが「上手」「下手」を意識していることから、昔から人の心の動きを加味した考察から生まれているのでしょう。
確かに、下手から右向きにキャラクターが動くと、緊迫感が生まれます。
そして、警察が取り調べ中に、落ち込んだり悩んだ利した時、カメラは逆に回り込みます。
つまり、警察官が下手に移り右向きになり、表情で語ります。
こういうところが、実にうまく表現されていました。
監督のこだわりなのでしょうか?
すごいですね。
湯川教授の部屋も同じ構図です。
右に湯川教授、左が警察という構図で会話劇をやります。
そう、この場、合湯川教授が話を展開する役割を持っていると明示しているわけです。
実際そうなんですけど、見てのお楽しみです。
ちなみに、TVドラマ「相棒」の取調室も、同じ構造になっているのに気が付きますでしょうか?
「右に警察、左に取り調べ対象」
奥に扉があって、その扉から右京さんが入ってきます。
そして左を向きながら「一つよろしいでしょうか?」と聞きます。
つまり「主導権は私にあります」と左側に語り掛けます。
これが左右逆だと、なぜか閉まらなく感じてしまいますね。
不思議です。
といった通り、役者の演技だけに頼らず、構図や背景、雰囲気を十分に考え抜いた結果、役者の演技が十二分に生かされた作品だと感じました。
本当に「役者のアップ」が少ない。
それだけでも、昨今の邦画とは全く違うように感じました。
面白かったです。
若干、シナリオが単純な一本線。
伏線などが無い話なのが、ちょっと残念ですけどね。
今読んでいる小説が、まあ絶妙は伏線を張ってくる「素晴らしい」作品ですので、逆にそう感じてしまうのかもしれませんね。
その小説については、どこかでお話しできたらなと思います。
では。