ガッツ藤本(藤本正人)のきょうのつぶやき

活動日記ほど堅くなく、日々の思いをつぶやきます

小田実 の 『ガ島』 を読む

2025-02-16 17:04:05 | 本・映画など

べ平連の人としてしかあまり存じ上げなかった小田実の『ガ島』を読んだ。
(中高の国語のじかんにはよく「みのる」ではない「まこと だぞ」と先生が言ったものだった)


329ページが細かい字でびっしり埋め尽くされて、

縦横無尽、空前絶後、満身創痍、荒唐無稽・・・でも史実が基にあり、

寄らば斬るぞ、実は大真面目な にんげん小説であった。

小田実自身は まえせつ において これを「政治小説」と呼んでいる。

書いた動機が政治的なものであり、そこに人間のあらゆる情念が表れているから であろう。


ガ島 とは 餓島 であり、蘭英米仏に占領されていた南方に日本軍が進出し、米軍に全滅せられた南洋の島、ガダルカナル島のことである。

武器と食糧の補給を絶たれ 米軍の機銃と爆撃に倒れ、

ある者は餓死し、ある者はマラリアに倒れ、2万人の日本兵が白骨と化したガダルカナル島である。


ひょんなことからその「ガ島」にレジャーランドをつくる計画に巻き込まれ(自らもその気になって)、

人の汗と豚の脂、鬱蒼たるジャングルの雨と湿気と泥にまみれながら、

遺骨収集、慰霊塔建設、なんといってもレジャーランド建設のため、倒(こけ)つ転(まろ)びつ進んでいく

「にんげん」 を描いた小説であった。



主人公は空襲を知る大阪商人の中年男、

「うまいで、安いで、ワッハッハッ」テレビ宣伝でも有名なとんかつチェーン西川の社長であり、

この小説の大半は西川氏の大阪弁で展開される。

また、西川氏と妻の妹キヨ子はともに南洋で父を亡くした、空襲の経験を知る戦争遺児。

そこに日本軍の軍属だった台湾人で今は通訳の陳氏、戦争を知らないかっこつけの野心家の中島、ドイツ人の若者ヘルマン、

さらに、ガ島側からは、戦争に巻き込まれた原住民(土人)の大酋長、戦後生まれの息子で英語も話すシメオン、

呪術師(カヤ)のメダイ婆ちゃん。そして、計画成就のために西川隊一行
に派遣された4人の原住民
(西川氏命名によるプレイボーイ、一言居士、モクモク人間、くたびれ中年男)が、

それぞれの個性を存分に発揮しながら計画の成功目指して奮闘する。



表現も今のコンプラなんて微塵も知らぬ、ナンデモアリの表現で(不倫あり、売春あり、土人あり・・・)

白人に有色人種、日本人にも大阪人あり、台湾人に華僑あり、アメリカ人にドイツ人、土人あり(確かに昔はドジンと言っていた)

現実の描写かと思って読んでいたら想念描写、はたまたいつの間にか夢の中の出来事へと、境なく表現され

情欲と日本遺児としての矜持、ど根性が、あれよあれよと 交錯する。

大阪弁の語りと話の展開が小気味よくテンポを生んで、

ハラハラドキドキ、捧腹絶倒、でも、にんげんっていいなと 感じてしまう小説だった。
(そして、西川隊のジャングルでの行動は戦時の日本の兵隊さんたちの行動に重なっている)


この小説は
昭和49年の執筆で、小田実の執筆ぶりからその当時の感情・感覚というものがうかがわれる。

たとえば、しきりに戦後生まれの若者を「この頃でき の若者」と西川をしてこきおろさせていることや

原住民に日本軍人の勇敢さを語らせたり、兵隊全体へのシンパシーが内容にあふれているところをみると、

小田実ですら戦(前)中と戦後の隔たりがあり、

小田実ですら、戦争に突入していった悲哀とそこにあった日本の理 は認めていたのだ、と感じるのである。

そう考えると日本全体としては さらに言うに言われぬ感情が戦後のそのころには存在したに違いない。

時を隔てて、現代の論理だけでその当時を断罪するのは、やはり間違えなのにちがいない。


実は、恥ずかしながら小田実の本は『何でも見てやろう』を 1年前くらいに読んだのが初めてだった。

まだ、外国に日本人がなかなか行けなかった、戦後まじかに書かれたもので、

その活躍ぶりに 既成の枠に縛られぬ人間はすごいもんだなぁ とワクワクして読んだもので

自治連のゴリラ、安田敏男氏を想起したものだった。

この『ガ島』も その文体、その発想は同様で、

とんかつ西川の西川はんの商人魂は、知人の見澤食品社長を想起しながらニヤニヤして読んだ。

小田実さんの文章(行動)は、何物にも拘束されない、清濁混然とした、自由とエネルギーに満ちあふれている。

それはもしかしたら戦後のその時代特有のものだったのかもしれない。





大阪商人としての欲と野心、日本男児・戦争遺児として矜持、



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みゆき食堂 ふたたび

2025-02-02 15:51:25 | おいしいものなど

前回は、覚えていない。 僕の手が(脳を経ずに)勝手に書いた。

今回は、絶対酔わない。慎重に注文しよう。


意気込んで暖簾(のれん)をくぐる。 

やはり 満卓だ。 

相席上等!    ここで相席の人の料理を観察する。


おいしそうに食べていたのは アジフライ定食500円。それにワンタンメン。

注文したかったが、こらえて抑えて、(これを頼むと時間差が30分はかかりそう、その間に酔ってしまう!)

まずは、ホッピーセット400円。 

同時に

にら玉350円、麻婆豆腐350円、カブの酢の物200円。 (こっちの方がアジフライより早く出て来るはずだ。)

ホッピーは ジョッキの上から3cmくらいまで焼酎で満ちていた。

3品のうち最後に来たのが麻婆豆腐。

最初と最後の品まで20分の時間差があった。 

前回は、この段階でホッピーのお替りまで進んでしまい、すきっ腹に焼酎が染みわたり・・・敗れたのだ。


だから、食事が来るまでは、飲むペースを抑える、抑える。


相席の人と話し始めてはいけない。 そうするとテンションが上がる。

上がれば酒とメニューの話になって、おのずと杯(はい)が進んでしまう。

よって、おもむろに書物を取り出す。

阪倉篤義著『日本文法の話』

これを精読することで、自分は飲みのペース抑制に成功した。

行くまい という形で示されるように、詞の表す客体的なものを、辞の表す主体的なものが包む、という関係にあるのであって、ある事柄(行く)に、それについての話し手の推量(まい)が加わって表現されたものである、と言った。ところが、ある語に接頭語や接尾語が付いたもの、たとえば「素肌」や「学者ぶる」などは、それ全体がやはり客体的なものを表現しているのであって、・・・

出てきた順に ホッピー➨5分後カブの酢の物➨5分後、にら玉➨10分後、麻婆豆腐 

いつのまにか となりのテーブルも相席が成立し、知らない者同士の「注文談義」がはじまっている。

見ると卓上に大量の豚キムチがドンと据えられ、そこから花が咲いたらしい。

新入りと思しき客A 「これじゃ、食べきれませんよ!!!」

少し常連と思われる客B 「 んじゃ お持ち帰りがいいんじゃない。」

常連が 持ち帰りだってできるんだぜパワー を発揮して 新入りは それにいたく感動している。

おお!、いつか見た景色 いつか来た道  (来い! 来い! 俺の来た道!) 

しかし、この2人は穏やかな人々で、この後も飲酒ギアをトップにすることはなかった。(なんとまともな人たちなのだ!!)


聞き耳を立てているうちに、自分の方が本の内容が頭に入らなくなり、豚キムチと日本酒を注文してしまった。

日本酒250円、豚キムチ400円。

時間差で来る間に、さらにホッピー中(200円)を追加して、いい気分で時を過ごす。

  写真左上が「豚キムチ」 自分も少し残して 家に持って帰った

時刻はまだ8時40分。 でも今日はここで良しとしよう!

そろそろ閉店時間である。

酒は五臓に染みわたり、いい気分に酔っぱらい、サービス券までいただいて、僕は食堂を後にした。

ああ、僕も(サービス券をもらうようになって)仲間に認めてもらえたのかなぁ、ナンテネ。


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グリーンポケット10周年 に招かれて

2025-02-02 14:27:02 | 行事を見たり聴いたり活動

令和7年2月2日
新所沢団地自治会コミュニティサロン「グリーンポケット」の10周年のお祝いの会に ありがたくもご招待いただいた。


2015年2月2日 今からちょうど10年前のこの日に グリーンポケットはオープンした。

爾来(じらい)、10年間、雨の日も風の日も雪の日も、そして、コロナの日々も乗り越えて、

グリーンポケットのスタッフは笑顔と共に住民を迎えてきた。
(毎週 火、木、金曜日 11時~15時半)

10年間を振り返っての古屋代表(自治会長)のスライド入りのお話は興味深かった。

開所の時の写真は、やはりみなさん(今より)お若い! お若い!

当時畳敷きだった集会所を改造し、自治会が立ち上げたサロンが「グリーンポケット」。

名前は公募で、夏祭りの時決めたという。

独居になった人 親子連れ 誰でも気軽に立ち寄れるようスタッフが笑顔で迎え、


美味しいご飯も提供してきた。

コロナの時は閉鎖を余儀なくされ 辛かった。

イベントも企画し、春には「桜まつり」 防災面も考えて、空地と道を整備し・・・

お話を伺えばうかがうほど、グリーンポケットの活動が自治会活動の一環であることが しのばれるお話だった。

そして、その共通のテーマが「絆 独りぼっちにならない、させない」である。


そののち、自分もあいさつの機会をいただいた。


家では、10年前の国と市の出来事を調べて 用意してきたが、それはすっかり割愛した。
(国 18歳選挙権に ラグビー日本代表が南アフリカを破る 新国立競技場設計案白紙に 五輪エンブレムも撤回 
   マイナンバー制度スタート
 大村さん 梶田さん ノーベル賞 
 所沢市 住民投票行う 狭山丘陵に墓地問題勃発 育児休業時お母さんがお家にいるのだからいったんお家の戻り(同時に、待機していた他の家庭の子が入園でき)育休終了後(仕事復帰時)は兄弟そろって同じ園に復帰できる制度開始 
   オリンピックホストタウン誘致活動開始 KADOKAWAクールジャパンフォレスト構想発表 
   食品ロス削減協力店制度始まる・・・)

古屋さんのお話を聞きながら、自分は「団地って何だろう?」と思いをめぐらした。

そして、気づいた。 

「団地とは 建物 だけでなく、人のまちまり であり 団結であり、絆のことだ」と。

人が人と出会い、結び付く・・・程よい集住性を有し、それを十二分に生かし、

洗練し切磋琢磨しているのが ここ、新所沢団地なのだ、と。


そんなことをお伝えしたかったのだが、果たしてうまく伝わっただろうか・・・?


       いただいたパンフレットから


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憧れのみゆき食堂にて

2025-01-25 21:43:15 | おいしいものなど


  メニューの数がすごい 基本は「食堂」なんです

行きたかった清瀬のみゆき食堂に行った。

昨日、「おんな酒場放浪記」に出ていたので、そう簡単には入れないと覚悟した。

やはり、並んでいた。二人組のお客さんは、色々とこの店のしきたりを教えてくれた。

その人たちより先に、1人なので自分は通されて、先に通された人と相席で飲み始めた。この方も所沢市民。

いろいろとお話しして、楽しいひと時を過ごした。



壁にはたくさんのメニューが貼り出され、どれを頼んでも手ごろな値段で、そして、美味しかった。ボリュームもある。

最初に品数を頼みすぎた。

ただ、すぐ来るものや時間がかかるものもある。

自分も、最初の二品の段階で、すっかり酔ってしまったらしい。

これからは、しっかりわきまえて 
美味しいものを美味しい時間に しっかりと味わいたいと思う。

ホッピーセット450円か400円 中200円 煮込み450円くらい
(記憶が定かでなくって・・・)日本酒コップ250円
焼き鳥は隣の焼鳥屋から1本140円 このあとピリ辛モヤシ炒めと餃子が来る(これは後で書いた)


 となりのやきとりやさんへ 皿をもって買いに行く

以上

追伸 それにしてもこの記事 お店の中で書いたようなのだが、

そのことをあまり覚えていないのだから不思議だ。

ホッピーの「中」を何杯も頼みすぎたのがもしれない。

反省だ。(こう言う時 たいていは 反省はしていない )


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環境研究総合推進費S-22「気候変動緩和に向けた温室効果ガスと大気質関連物質の監視に関する総合的研究」の発表を聞く

2025-01-24 15:05:53 | 勉強会など

「気候変動緩和に向けた温室効果ガスと大気質関連物質の監視に関する総合的研究」の発表を聞いた。

温室効果ガス(GHG)を正確に把握し、それを政策に役立てること、が目的の研究だ。



温室効果ガス(GHG)は大きくは3種ある、CO2,メタン、一酸化窒素。

空気中に長くはとどまらないものの、強い影響を与えるガスもある。
どれも、パリ協定後も増えていて、CO2は過去最高を記録中。ロックダウン時はどれも激減したが・・・。
一酸化窒素は農業由来が大きい。
CO2は人間活動由来。

測定には2種類ある。
ボトムアップアプローチ=個々の排出源を測定していく積立式で推定する方法は対策を取るのに重要だが、状況をうまく表せないことも多い。
そこで、現実的な状況を表す大気自体を調べていくトップダウンアプローチも増やしている。
ただ、空白地域もあるので(例インド洋)タンカー定期便に観測装置をつけて調べ始めている。

より正確なデータを測定し、GHG監視データを政府や非政府組織、自治体や気候市民会議に提供していきたい。

そのための研究。


民間や企業もそういう試みを始めている。
クライメイトトレースもそうだしData Downloads - Climate TRACE、グーグルも。また、GCPグローバルカーボンプロジェクトも。
※「グローバルカーボンプロジェクトつくば国際オフィス」参照 Global Carbon Project Tsukuba International Office

また、WMO世界気象機関の「U.S.GREENHOUSE GAS CENTER」も。Welcome — U.S. Greenhouse Gas Center

CO2が全地球規模で減少に転ずるのは、SSP119に沿って進めば2040~60くらい以降ではないか、と予測しているらしい。
化石燃料由来のCO2はまだ増えているが、土地利用変化によるCO2は減ってきている。
全体で横ばいに近づいてきてはいる。

メタンはCO2と違って空気中に10年くらいしか存在しないので対策によって効果も顕著に出るはず。

定量的なデータに基づいて気候市民会議を行えれば、地域に応じた議論が展開されていくと思う。
まだその提供が不十分だから、どこの市民会議も同じような結論が導かれているのかもしれない、との見解。

以上、聴講してのまとめ。(本当はもっと専門的な話だが、自分に理解できるのはこれくらい)


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『有機野菜はウソをつく』 齋藤訓之 著

2025-01-19 16:23:54 | 本・映画など

このところ 有機 に没頭してきたので 頭を冷やすために読んでみた。

いい本だった。

筆者はこんな想像を提示する。


あなたが巨人につかまってしまう。

捕らえられたあなたを見て、巨人たちが会話する。

「丸のみしようぜ」

「いや、あいつ化学物質使ってるぜ」

「カバンの中にはビタミン剤と風邪薬が入っていた。それに化粧水とオーデコロンとリップクリーム。

虫よけスプレーと虫刺されの薬。それに水虫の薬も。どれも化学物質だ。」

「ゲェッ!」

「おそらく風呂ではシャンプーにコンディショナーやボディソープも使っているはずだよ。」

「おおっ!」

「それにあいつらの国では水に塩素が入っている。家では芳香剤と蚊取り器も使っているよ。外では車の排気ガスを浴びて・・・」

「なんてこった」

「俺たちの有機の規格には合わんよ。食えたもんじゃない」


こう言われると何とも釈然としない。 が、慣行農業を敵視し 有機を唱える人は、これに似ているところがあるのではないか?!


以下 読んだ内容と感想である。


1.化学肥料も農薬も厳格に規制されている。

そもそも化学肥料も農薬も、『沈黙の春』(1961)、『複合汚染』(1974)以降、


改正農薬取締法、食品衛生法、化学物質の審査及び製造等の帰省に関する法律などで 残留性なども厳格に規制されてきた。

(これにはEUに比べて基準が甘いとか、規制がされていないとか、異論もたくさんある。)

2.植物は栄養を無機質の形で取り入れる。

有機農業だろうと慣行農業だろうと、
植物が栄養を取り入れるのは、窒素、リン酸、カリウム(カルシウム、マグネシウム、硫黄・・・)

に代表されるように無機質で、
水に溶け(陽)イオンの形で根から吸収されるのである。

3.日本は養分を保つのに難しい 土と降雨 の環境だ。

土は、構成する4種類に分けられ、1.造岩鉱物 2.粘土鉱物 3.腐植 4.生物 からなる。


土はコロイド状になっているのが最も養分を蓄えられる。粘土の中で土壌溶液に蓄えられるのだ。

土のコロイドがカルシウム、マグネシウム、カリウムの順に蓄えているのがPhとしても良い。 phは大切で、ph6~7が最適だ。


しかし、日本は雨が多く、雨は二酸化炭素を多く溶かし込み、酸性を呈する。
酸性に傾いた雨はカルシウムやマグネシウムを流してしまい、土も酸性になってしまう。
酸性に傾くと造岩鉱物や粘土鉱物から溶け出したアルミニウムや鉄が溶けだし、それにリン酸が結合してリン酸アルミニウムやリン酸鉄になってしまい、
大切なリン酸なのに植物が吸収できない形になってしまう(リン酸の無効化)。

4.有機であろうと化学であろうと、養分を与えるには適期がある。
   これが肝心だが、これが手間がかかるのだ。

根を張るときには与えない。自分で頑張らせて四方にしっかり根を張らせる。
身体が成長するときには、窒素を与え、アミノ酸、たんぱく質を作らせ、光合成により細胞壁を作らせる。
花芽が付く直前には、カリウムとリン酸を与える。と同時に窒素は断つ。
実がなるときにはカルシウムを与える。その時は、リン酸もカリウムも断つ。

これを適切にするには 手間がかかる。 


元肥(もとごえ)は上手くしないと 植物が根を張るのをさぼり、窒素が多すぎ日照不足なら細胞壁を強くできすに徒長を起こす。
また、堆肥は単肥とちがっていろんなものが入っていて、遅効性なので、コントロールが難しい。
窒素は与えすぎると硝酸態窒素として雨に流され富栄養化し、環境を汚染する。また、食べてもおいしくない。
リン酸とカリウムも与えすぎになる傾向。
リン酸はアルミニウムと化合し、無効化するし、アルミニウムの持つ病原菌抑制の力もそいでしまう。

カリウムはどんどん吸収するが、与えすぎで野菜はどす黒くなってしまう。
化学肥料の単肥の方がコントロールしやすいのだ。登録農薬ではない特定農薬(重曹、食酢、天敵など)でも、成分が一様でなくコントロールするのが難しい。
その分 農家の技術が求められる。


5.そもそも「有機農業」は近代科学主義に対するアンチテーゼとして生まれた

そして、ナチスに迫害されたり(シュタイナー農法)、戦後はアメリカではヒッピー文化に浸透したりして、「バック トゥ ザ ネイチャー」反体制の流れとして広まった。

日本はそもそもは有機農業だった。 でも、戦後、化学肥料の即効性も知られてきた。
また、進駐軍のサラダ需要に対しては、堆肥でなく化学肥料を使う「清浄野菜」が効果を上げ、化学肥料も安くなって化学肥料はどんどん広まっていく。

しかし、一方で土が砂漠化することもわかり、畑に有機化合物をすきこみ腐植を進める農法も見直されていく。
「有機」は日本でも70年代、やはりアンチテーゼとして広まっていったが(大地を守る会・MOA農法・ヤマギシズムなど)、

80年代後半には、GATT貿易の自由化に備え、コスト削減として化学肥料と農薬を減らすことが模索された。
有機農法は農協を敵に回し、周囲からも異端視されがちだったが、
90年代、逆に、安い肉が出回って肉から野菜に差別化の流れがくる。
外食産業(すかいらーくグループ)によって「有機」の価値を見出され、「有機」「減農薬」をうたって有機野菜を価値化した。
こうやって野菜が商品化され、有機野菜が「ブランド化」されていった。

6.有機か化学かではなく、結局 姿形のいいものが良い。

虫食いは有機の勲章ではない。やたら虫に食われている野菜は、弱い作物なのだ。
有機でも駄目なものはダメ。まがい物が出回っていないか?
色が少し薄くきれいなのが良い。濃すぎるのは硝酸過多。
農薬も適切に使えば、生き物たちと共存し、環境多様性も保たれるようにできる。
旬の野菜が一番良い。

そして最後に、筆者は農業における指針というか、基準を示している。

もっとも重要なベンチマーク
1.単収を高める。
基本的な態度
1.コントロール可能なもののコントロールを放棄しない。
2.すべてをコントロールできるとは考えない。
3.人・モノ・金・時間の投入を抑えるように考える。
4.技術を高めること。新しい技術を取り入れることを放棄しない。
重要な判断基準
1.土の内容と働きを考えて、その効果を引き出すように働きかける。
2.作物全体が健康に生育し、作がそろうように働きかける。
3.作業や資材等は、環境への負荷を考慮して選択する。
要求される実践
1.作業を記録する。
2.適期作業を励行する。
3.肥料・農薬等は必要な量だけ。
4.管理には有無や数字で、意味のある指標を用いる。
5.科学的に無意味な資材を使わない。
6.法律を順守する。

藤本感想)
まさにその通りだと感じた。
特に、
栄養は無機質で摂取する。有機肥料も適宜適切に使用しないとダメ。むしろ、化学肥料の方が制御しやすい、という点や、
農業も業なのだから単収を上げなければ良いことも広まらない、ことや、
人・モノ・金・時間の投入を抑える手法が支持されるのであって、また、新たな技術を拒否するのではなく柔らかな頭で、技術を高めねばいけないことは痛感した。
そして、なんと言っても美味しそうな均整とれたものが、健康で強い植物なのだ。
自分は昔、美は対象である、という内容の本を読んだことを思い出す。クジャクの羽も線対称、美しい顔も線対称なのだそうだ。
人は均整とれた肉体、整った顔に美を感じる。 それは、生物として強いからであり、それを好むのは、よい遺伝子を残そうとする習性からだ。
そうやって、美しいと映る要素は遺伝子として広まっていく。
見た目 とはそういうものなのだ。

化学(肥料・農薬)の方が簡単で、技がいらぬし、手間がいらない。人間は省力化する宿命だ。
何と言ってもきれいに作付けされ、単収が上がることが基本だ。
それをしっかり弁えて、慣行農業を否定せず、良いところを利用しながら、それでも、土の力を大切にし、有機に寄り添って技を高めていく。
生態系も守っていく。大きな潮流は有機に傾いていると自分は確信するので。

そんな気持ちで、考えを進めていきたい。


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カルチャーパークのイベントで

2025-01-13 13:38:01 | かんじたこと、つぶやき

1月13日 月曜日

市内各地で成人式が行われている。

新成人の皆さんには、若い大人として充実した日々を送ってほしい。

行くては広く高く深く、未来は広がっていますので。

さて、今日はお誘いをいただいて、カルチャーパークに行ってきた。

木村智子さんが中心になって、

コモンズ※としてのカルチャーパークを
いかに守り、いかに育てていくか、

カルチャーパークを考える未来会議」として生まれた会議体が、いろんな活動とコラボして

総合イベントを企画したからだ。

 

開始早々にはオオタカも姿を現し、

会の成功を祈ってくれたとか。

各種イベントのうち自分は

•カルチャーパークの自然観察会

参加して、植物のことなどを教わった。

思いのほか子どもたちが積極的に質問してて、

子どもってこんなだったのか!

と僕はそちらにも感動を覚えた。

落ち葉はき、落ち葉のマットをつくって遊ぶ(そして、生き物の巣を作る)、など

ボランティアの方々の企画は、多くの親子、カップルで賑わっていた。

市のブースはもちろん、キッチンカー、ブレイパークの会の催しもあり、

向こうでは、滑り台を子どもたちが何度も何度も駆け回っている。

日差しも暖かくみんな笑顔で、

僕の心にもポッと火が灯ったようだった。

皆さんに感謝の気持ちでいっぱいだ。

上田さんもお誘いありがとう。

緑と文化は市の宝である。

みんなの大切なモノ、コト(コモンズ)はみんなで守り、育てる。

これからもそうありますように。

※コモンズ・・・みんなにとって大切なモノ、コト 共有の財産 入会地をはじめとして海、山の幸など
昔の人はおきてを作って、大切にしてきた。
現代では、環境、森、海、山、空気、水をはじめ公園や公共交通、道・・・
教育や医療、福祉制度などのコト、制度まで指すことが多い。
これらはお金に換えてはいけなく、交換経済の対象にしすぎると社会が不公正なものになる。



 

 


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『フード・インク ポストコロナ』を観て

2024-12-13 13:05:00 | 本・映画など


東京では3か所で上映だが、どうも早く終わってしまうかも。

そこであわてて 新宿の「新宿シネマカリテ」で、観た。

    新宿シネマカリテ は新宿駅すぐ 地下1階

コロナの時、アメリカでは多くの作物や肉用動物が余ってしまい、殺されたという。

生産者は悲鳴を上げたが、それを買い上げる大企業は無傷だった。

食品産業などすでに一握りの企業に独占され、生産者からの買値も、製品の売値もみな牛耳られている。

ファストフードや飲料水など、加工に加工を重ねた「超加工食品」は、人の(必要以上に食べたいと思う)欲望を刺激するよう作られ、

肥満、糖尿・・・貧しい人ほど子供のころから体を壊すようになった。

穀物の生産も大規模化するうちに、地下水は枯れ、土壌は飛散し、

大規模プランテーションでは移民が酷使され、漁業では持続不可能なまでに獲りつくし、熱帯雨林は商品作物栽培のため伐採されて、すべてが持続不可能になっている。

食をめぐるシステムがゆがんでいるのだ。

その不公正、不平等に立ち上がった農民、漁師、そして、庶民が声を上げ、

土や水、生物多様性を大切にし、もっと適切な規模で、近くの見える関係の農業、漁業を始め、


ブラジルの給食は地域の食材を使うようになり・・・という人々の奮起する姿を描いたドキュメンタリーだった。

自分が近年学び、読み、考えてきた、目指すべき食をめぐる社会の姿 が描かれていた。

この思い、この流れが、世界の奔流となることを 願う。





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『脱成長の道』をよむ 勝俣誠 マルク・アンベール編著

2024-12-07 17:42:25 | 本・映画など

幸せを感じられない、格差が開いている、不公平で公正でない、自然や環境も危ない、民主主義すら危ない・・・

これらはきっと、市場原理主義、グローバル経済、いや、資本主義の行き詰まりを表しているのではないか?!

(資本主義に代わる)もう一つのオルタナティブな道 はないものか?! 

そう模索する人が増えている。(と思う)

しかし、もっととっくに、

人間の幸せとは何か を見つめ、新たな道 を模索していた人々がいた。

そして、彼らは その結論を正面切って主張していた。


自分は、そのことに驚いた。

「脱成長の道」

・ヨーロッパの方では、欧州評議会が作った指標を使い、各地で「豊かさ」と「生活の充足度」を調査し、

その過程で、人々を巻き込み、みんなで意見を出し合い、社会参加させ、一員として行動していく、

(民主主義を地で行く)作業をしているという。

指標に基づく質問事項は3つ。

1.あなたが充足感を得られる生活状況はどんなものですか? 
2.あなたが不満を感じる生活状況はどんなものですか?
3.現状を改善するためには、あなたは何を行うことができますか?

地域や集団(アソシエーションと呼ぶ)ごとに調査し、集計し、皆で意見を出し合い、みんなにとっての「共通善」のようなものを発見していく。

この作業を通じ、「共通善」、「みんなにとっての幸せ」を見つけ、作業を通じて「共同体」が再構成され、「責任の分かち合い」(主体化)が行われるようになる、という。


幸せの指標と言えば、ブータンのGNH(2008年作成)、タイの足るを知る経済(2002~?)、荒川区のGAH(2007)があるが、


資本主義につきものの「成長と拡大=大量生産・大量消費・大量廃棄、」からは、格差と(自然・社会の)破壊が生まれるので、

そうではない道を探ろう、と幸せの指標を作ったのだ。それらはみな同じ頃にできたようだ。

日本では、ずっと1人当たりのGDPが上がってきたが、生活の満足度は1981年以降ずっと下がり続けている。(一応2005までの調査で)

この傾向はどの先進国も同じであり、一定のものの豊かさを獲得したのちは、幸せは得られなくなるようだ。


この本で著者たちは、次のように提言していた。

幸せを測る指標(ものさし)「成長・拡大・蓄積」から「社会参加・分かち合い・つながり・基本的人権・生命の尊厳・生態系・自然・多様性」におこう。

そのために、もっと我々は簡素に生きよう

より少なく生産し、より少なく消費し、より少なく廃棄する、

「節度」を持って、

自然生態系生物多様性土地の文化など私たちの生きる生存基盤(サブシスタンス)を守る態度で、

1人1人の生命の尊厳を大切にした社会を目指そうではないか! と。


このブログをまとめるうちに、自分は、ある出来事を思い出した。

2011年、市長就任後 エアコンの問題が起きた時、和ケ原商店街で「なぜ狭山ヶ丘中のエアコンを断ったのか」を市民に説明した時、

自分はこの著書と同じような趣旨のことを集まられた市民の皆さんにお話ししたのだった。

会が終わってのち、残られた一人の女性の方が、「そんな社会じゃ、ぜんぜん面白くないじゃないか!」とおっしゃったのを、私は今思い出したのだ。

そう言われて、私はその時、何も言い返さなかった、気がする。

というのも、確かにダイナミックでなく面白さに欠ける、と自分でも感じていたからだ。

自分では「市民の 新たな幸せのために・・・力を尽くしてまいります!」と様々な挨拶の締めに申し上げていたにもかかわらず、である。


さて、考えてみれば、政治の言葉は、いまだ威勢がよく、成長と拡大に満ちている。

「・・・ますますのご発展をお祈り申し上げます」は政治家の挨拶の常とう句である。

自分は、任期途中から、その言葉を使わなくなった。 「発展」を「成熟」に換えたりもしてしゃべっていた。

夏祭りの時なんかは、成熟 だと歯切れ悪く、ピシッと終われず、けっこうそれが違和感だった。

そんなことも思い出した。

でも、学問の世界においては、簡素に生きよう、より少なく作り、より少なく使い、より少なく・・・と正面切っての主張が存在したのだ。

その主張が、いつか学問の世界から政治の世界に躍り出て 経済の世界までに受け入れられていくのは、いったいいつの日なのであろうか。

 


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11月30日  昔ばなしの世界 に伺って

2024-11-30 16:33:29 | かんじたこと、つぶやき

人の集まる、表の世界には行ってはいない。

呼ばれることがないから行かないし、呼ばれても行けないのだ。

あれほど悪口を言われ、それを流布され、悪人として負けた形になっているので、

正直、平静では歩けない。

随分嘘も言われたようで、面と向かえば十分論破できたものも、

言ったもん勝ちでSNSで流布され、謀られたと感じている。

少し大げさではあるけれど、

路上でも会合でも、時々声を掛けてくれる人に助けられるように、勇気をもらって生きている。


今日もそうだった。

昔から招待いただいていた「昔ばなしの世界」に招かれ、

沼田曜一から伝えられた各地の昔話に聞き入った。

今日は大作も多く、聞いていて考えさせられることが多かった。

以下、備忘録。

「正直夫婦の馬」 持続不可能な発想、バカにつける薬なし、今だけ自分だけ・・・なんて思ってたら、
         むしろそちらに軍配が。 信じること、仲良きことは素晴らしき哉。
「かくれ里の話-南羽端山ー」 1ヶ月の幸せな生活、帰ってみたら3年たっていた 動物は皆15億回心臓を打って寿命を迎える。
         ヒトの1年はネズミの10年分だろう。(心臓の打つ速さが10倍ネズミの方が速いから)

         冬眠をする動物もいる。浦島太郎と同じあちらの世界から帰ってくる話は、魂の移動を表しているのかも。
「河童徳利」お腹を空かした子河童を救うために河童は馬を引きづりこもうとした。捕まえられて「もう悪さをしません・・・」
         悪さ、とみなすのは人間本位のエゴではないか。前作品とこの作品、どちらも「幸せ」とは何か? を考えた。 耽溺も実は幸福なのではないか。
「猫また屋敷」  昔ばなしに出てくる夫婦の場合、欲深いのはなぜ爺さまでなく婆さまが多いのだろう? または、隣の爺さま。
         同様に、「このことは決して人に言ってはいけない」「この箱は開けてはいけない」禁忌を破るは人の性(さが)か。
「縁結び子守歌」 これも昔ばなしにある無理難題婚。 かぐや姫と同じ。世の中に大切なのは男の大胆心、勇気と女の知恵、賢さと示唆しているのかも。
         日本の場合、女性は賢く強く、男たちを導いていく。アメリカ映画では、女性は子供と同じ扱いで[Oh、my God!」と騒いで取り乱すばかり。
         農耕民族と狩猟民族の違いなのだろうか?  

お話が終わり会場が明るくなると、見知った人たちに会えて、気持ちが昂(たか)まり、そして安堵する。

子どもがお世話になった、伝説の園長 A子先生にも、また、小学校のH先生にもお会いした。役所でお世話になった方。その他にもたくさん。

皆さん、お元気で!

今日はいい日。  もうすこしで日が暮れる。


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文京区、豊島区を 夜歩く

2024-11-27 14:04:52 | かんじたこと、つぶやき

捨てる神あれば拾う神在り

なんて自虐しては罰が当たるが、敗れて後、ある大学の研究会に声を掛けていただき、研究会会合の際、首長経験者としてのご意見を申し上げる立場を今年からいただいている。

昨日もその会合があった。

会合終わってのち、池袋まで歩いてみることにした。

下町はもちろんだが、山の手の文京区も、高いビルは通りに面したものだけで、

大通りを一つ奥に入ると、そこはもう住まいであり、夕餉(ゆうげ)のにおいが漂ってくる。また、学童帰りの親子にもたくさん出くわす。

細い小さな道、小さな女の子がお母さんとお話ししながら歩いていた。

これからお家に帰るのだ。

2人の会話に僕はそっと耳を傾ける。

わが子が幼かった頃の、安らかで幸せだった感じが じんとよみがえる。


これからもずっと幸せでね、そう念じながら女の子を振り返る。

安らかで穏やかな 親子が歩む速さの そこは「人のため」の町、であり、道であった。


方角だけ予想して、細い小道をあてずっぽうに歩いていくと、お巡りさんが立っていた。

少し歩くとまた一人。

角を曲がるとまた一人。

眉間にしわ寄せる刑事ではなく、みんな穏やかな表情したおまわりさんだ。

あまりにも出くわすので、何かあったのか、聞いてみた。

「三笠宮妃さまの墓所の儀が行われていますので。」

そうだったのか! こんもりとした緑は豊島岡墓地といい、時刻は5時20分頃、

すっかり日も暮れ、闇の中であるのだが、まさにこの場所、この時に、三笠宮妃百合子さまの一連の儀式が執り行われているのだった。

お巡りさんには礼を言い、角をそれてから豊島岡墓地に向かい頭を下げ、駅の方角にまた歩き始めた。

谷があり丘があって、東京の町は起伏に富んだ。

どっちに行こうか、迷ってしまう。迷路のような人だけの道

都電が走った。

池サンパークもわたった。


   頻繁に都電が走る これだけ走るからこそ乗る人もいるのだろう

   イケ-サンパーク 今も所沢の野菜を売る市はあるのだろうか

サンシャインを過ぎた頃には時刻は6時になろうとしていた。

雨が急に勢いを増して降ってきた。

 


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環境・農・食

2024-11-22 14:02:56 | 本・映画など







三冊を読んだ。3冊とも共通しているものを持つ。

『農は輝ける』(山下惣一 星寛治 対談集)

『北の農民 南の農民』の発刊後、約30年たって企画された対談。

2011年、東日本大震災直前とその年の暮れと2回行われた対談の収録。

司会進行は新潟県阿賀野市笹神地域で有機農業をやっている石塚美津夫さん。

・TPP問題だけでなく一連の制度改革を「民(企業)へ」の構造改革としてとらえ、その是非から論じていく。
また、話は脱原発や生き方論へと広範に発展していく。
農業も漁業も(企業がのっとってもかまわないが、)
我々はそこに住んで暮らしと生産が一体だから大事に守り続けるが、
企業はどうか? 生産だけしかしない人が、守るわけないじゃないか。
私としては、よく砂川議員が言っていたことを思い出す

・若い人にも魅力がある、収入も高い農業にするためにどうしたらよいか?! という会場からの問いに
山下さん、
「今のままでいいじゃないか、堆肥をつくって循環農業をやっているではないか。変えなければ、という発想に立つのが間違え。親が死ねば子は戻ってくる。」


星さん
「人間のつながり、自然と人間のつながり、生産者と市民のつながりの豊かさに焦点を絞る。経済成長しないと幸せは得られないという先入観から抜け出してみること。フランスやイギリスでは脱成長「経済成長無き発展とは何か」に向けて探求が始まっている。オバマの提唱するグリーンニューディールも、前提としては経済成長しないと幸せではない、からきている。それを追求したら結局は環境破壊に行きつく。
もっと別のライフスタイルを考えていくことが大事。」

『はじめて学ぶ 環境倫理」吉永明弘著

環境倫理とは、自分は日々の生活で個人がどう工夫するか、というような類のものではなく、
もっと国や世界に問うものだ。
つまり、「システム」「制度」をどうすべきかと考えるものである。

環境倫理には次の3つの考え方がある。 
1、自然の生存権 人間も動物も植物も…生態系も景観も生存権を持っている。
2,世代間倫理  今の世代は未来の世代に責任を持つ
3,地球全体主義  地球の生態系は互いに影響しあい、閉じていている。

これらを、わかりやすく紐解いて問うた本がこの本ともいえよう。

・世代間倫理においては、資源よりごみの方が影響がある。
「耐用期間 > 使用期間」

ごみは使われる時間より、使える時間が長い。レジ袋は1時間くらい使われるだけだが、何十年と分解されずにもつ。
だから、長く使うものをつくる、という発想も環境倫理に叶う。100年住宅も一例。
1軒の家を解体すると1人の一生分の量と同じごみがでる、らしい。それまでいくら努力してても、それで元の木阿弥。長く保つ家を。
最悪が核のゴミ。核廃棄物はサ終始末10万年間影響が残る。フィンランドではオンカロという施設で地中深くに埋設したが、文字とともに記号などで「掘るな」と記しているという。文字は永久ではない。だが、後世の人が発掘したら終わりだし、隕石が当たっても終わりだ。

・CO2削減ももっと生産側の責任を負うべき。個人消費とは規模が違う。企
業もグリーンウォッシュしがち。
昔、衆議院環境委員会に呼ばれた時、2人の識者が 投資と税制に切り込むべき、と主張していたのを思い出す。
お二人の主張は、世界の投資家は環境への貢献度合い(効果)を見て投資先を決めるのが今の主流だから、
その客観的指標をはやく日本でも作って投資家に示さないと資本が逃げる。環境税なども早く導入すべき。
というものだった。

・「保全」と「保存」の違いは、前者は人間が手を入れながらも守っていくことを含むが、後者は人間が手を付けないままを意味する。アメリカの環境主義者は「保存」派が多い。日本は「保全」。

・「都市」は地球の持続可能性に貢献できる。だって、「都市」こそ資源、エネルギーが節約できるからだ。
そのカギは「集住」と「公共交通」にある。豊かな住環境(アメニティ)を実感しつつ住み続けるために「アメニティマップ」を作ることも効果ある。良いところと改善したいところを町を歩いてみんなで地図上に掲げ、みなでより善いマチを作っていく。参加して創る。きっと緑も増える、魅力も増す。
市で行ってきた「音楽のあるマチづくり」「農のあるマチづくり」「まちなかみどり保全制度」そして、所沢グランドデザインからTDW(所沢 デザイン ウォーク)への試みがそれであろう。

・『アメリカ大都市の死と生』を著したジェイン・ジェイコブズにも話が及ぶ。
ジェイコブズ(彼女)は
当時主流の「輝く都市」コルビュジエと「田園都市」ハワードの2つの思想を批判する。都市には都市の魅力がある、それは「多様性」である。魅力ある街にはどうも4つの原則があって、1,混在、2、小さな街区、3.密集、4、古い建物 だという。たとえば道は「効果的にT字路を設けよ」とも彼女は主張した。街を分断する広い街路には、彼女は猛反対した。
それはクルマのための街・道づくりであり、マチを分断し人を分断するからだ。
また、著者(吉永先生)は、古い建物が善いのは、ノスタルジーだけでなく、若い人が住めるから、と説く。
賃料が安ければ若い人が店を出せ、変化が起き、魅力が増すからだ。
市が進めてきた「人を中心にしたマチづくり」の心もそこにある。
職住混在もあえて作るべきで、そうしないと今の世の中、昼間は老人だけになる。幼児は保育園、子どもは学校という施設に収容され、大人は東京で働いている。市の市道認定も「通り抜け」が大前提だが、これも再考の時期。それはクルマのための発想だ。
プロぺより一本はずれの通り、また、最近の西所界隈の隆盛は、古い建物=若い人々の進出による。
人は狭い小路があれば吸い寄せられる。クルマが来なければ道を花畑にしても機能は保てる。人が出逢い、憩う場ができる。エミテラスで大渋滞を恐れたが、実際は、人々がクルマで来るのを控えたので渋滞しないで済んだ。
32m都市計画道路も時代遅れ。今後はこれが街づくりを捻じ曲げる原因になる。不作為の罪にならねばよいが・・・。

自然から街づくりまで、すべてが環境であり、生態系を成し、多様性は維持すべきであり、その生態系は今だけでなく遠い未来まで続いている、という考え方を教えてくれる本でした。

参考となる映画  ・「100000年後の安全」 ・「ジェイン・ジェイコブズ ニューヨーク都市計画革命」
例にとられた町  鞆の浦(確かに風光明媚で道が狭く=人しか通れない幅=曲がりくねっていたことを思い出す)
福祉医療保健常任委員会視察開始 - ガッツ藤本(藤本正人)のきょうのつぶやき
(もっと詳しい視察報告などは市議、県議時代のホームページに掲載していましたが、
維持費がきついので昨年廃止してしまい、今は見られません。悔しい)

真鶴町「真鶴町まちづくり条例(美の条例)」美は変わらない、真鶴の良さを変えない

『生物多様性』本川達雄著


たとえば、自分の名前はもちろんのこと、生きてきた証や歴史も無視され、衣服もはがれ、人間の尊厳をはく奪された人間は、

崩壊してしまうという。アウシュビッツの人々の例は『夜と霧』に描かれている。

そう考えると「私」とは、単なる個体として確立しているものではなく、それを成り立たしめる多くの存在、関係性、つながりによって成り立っているものなのではないか。それはすなわち取り巻くもの=SURRAUNDINGS(環境)ともいえる。生物多様性とは「私」を成り立たしめるもの。私の一部である。

父と母の遺伝子を組み合わせて子ができるが、そもそも父と母の遺伝子も遺伝子の塩基配列はほとんど同じ。チンパンジーと人間だって遺伝子で15%、塩基配列レベルでは1%の違いしかない。子も「私」孫も「私」、親も「私」だし祖父母も「私」なのだ。生物は「私」を渡していくものなのだ。

私は、時間的にも空間的にも周りと切れてはおらず、次世代や環境という時間空間的周りを取り込んだ「私」観を持とう。

子どもや「孫」も「私」だとは誰もが感じるが、実は、「友」も私だし、家も私、ペットも私、近所も私、街も私・・・と空間の広がりも持つものだ。そう考えたとき、生物多様性は時間的にも空間的にも私を成り立たしめるすべてのものであり、必要なものなのだ。



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賑わいの町中華 「栄華」  

2024-11-07 14:05:32 | おいしいものなど

久々に々に「栄華」に寄った。

頼んだのは、チャーハン550円

山盛りの野菜サラダがついてこのお値段。

申しわけない。

   これで550円 ご飯ものにはサラダがついてくる

自分が入った時点ではお客さんは2組だった。


その後、どんどん増えて、途中で自分は席を代わってあげた。

多くの人が、昔ながらの町中華 に魅かれてくる。

遠くからも来る。


所沢としても、うれしいことである。

食べていると、知り合いの方にあった。

ひとしきり話に花を咲かせ、

美味しさと安さに感謝して店を出ると、

こんどは旧知の方が わざわざ家から出てきて声をかけてくれた。

うれしくなって街に出ると


これまたどなたかが私に手を振ってくれた。

じつはよく見えなかったのだが、こちらも手を振り返した。

心がじわっと温まる。

ありがとう、旧町。



 新年にもまたテレビの取材を受けて放映されるらしい


 


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満島ひかり 岡田将生 主演 映画『ラストマイル』 

2024-10-29 08:11:34 | 本・映画など

働く人は幸せなのだろうか?

資本家の一人勝ちで、働く者が部品(駒)に成り下げられていないか。

消費の在り方はそれでいいのか?!

システムはそれでいいのか?

善い社会ではないのではないか?!

自分はこのところ、そう感じているのだ。

この映画は、ずばりそれを指摘してくれていた。



この映画の舞台は、巨大物流システム。(AMAZONのような・・・)

ラストマイル、とは、そのシステムの最終面を担う、運送業の部分を指したものだ。

しわ寄せも帳尻合わせも、ラストマイルが背負い込む。

でも、それだけではない。

そのシステムの中で働くすべての者のが、実はラストマイルの一員なのだ。

全てはカスタマーの欲するままに、

企業間ではクライアントの欲するままに、

企業間も労働者間もそれぞれ階層化して、

より下の者が抑圧される。

その人らしさや人間性など埒外(らちがい)で、生産性だけ求められる。


使っている側だと思っていたら、いつの間にか使われている。

そして、すべての者が交換可能な存在なのだ。

自分もこのところ、同様な仕事も随分としており、まさにこの映画の指摘する通りのことを感じてきた。

そして、だから今こそ働く側の団結が必要なのだと思う。

しかし、労働者こそが幾層にも分断され、資本家の思うがままに統治されてしまっている。

消費の意味を問い、仕事の意味を問い、労働の意味を問う。

そうやってシステムを変えていかなければいけないのではないか。


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『ベーシックサービス 「貯蓄ゼロでも不安ゼロ」の社会』井手英策著

2024-10-06 20:14:13 | 本・映画など

きっとこれなんだ と自分は思った。



市場原理とグローバリズムの資本主義も残念ながら行き詰っている。

今のまま突き進んでも、社会をよい方向には変えることはできないように私には思える。

今後ますます少子高齢化は進み、市場は縮小を余儀なくされている。

それなのに、今も日本は成長と拡大、そして蓄積を求め、

生産性向上の名のもと、安い労働者として外国人、高齢者、女性に頼ろうとしている。

そして、格差だけが開いていく。

著者によれば、平成の30年間、所得格差はどんどん開き、

雇用形態も多様化し、平成末で、15歳から24歳の労働者では、正規:非正規の数は100:104。
また、45~54歳の場合、でも正規:非正規の数は100:47なのだそうだ。

また、世帯収入も全体の3割の世帯が、額面300万円未満(手取りなら約250万)なのだそうだ。

少なくも男女2人とも非正規ならば、生活を営むのも大変だ・・・。

うっ憤は社会にたまり続け、はけ口を求めて蠢き、社会は刹那主義に陥っている。

爆発してもいいから変わればいい・・・。

そんな雰囲気が漂っている。

そいなると民主主義も育たない。 


私はこのところ、ずっとそう感じているのだ。


著者 井手英策氏 は 著書の中でこう言っている。

(高齢者をめぐる家族関係を見て)

生きていれば悪魔に見え、亡くなれば天使に見える。
生きているだけでその人は「費用」とみなされ、それが「負担」に感じてしまう。
大人の健やかな命が、子どもの苦しみを生む。
そんな社会は終わらせなければならない、と。

また、こうも指摘するのだ。

なぜ大学を出ろ、と親が言うのか?
それは、老後まで安定した生活を保障するためである、と。

私たちは今、勉強したくなくても強制され、会社に入れば長時間労働に耐え、疲れ切り、
家族や子供と過ごす時間を失い、趣味や社会参加する機会ももてず、
老後に備えて貯蓄確保に躍起となって人生を送っていないか。

もし、老後まで安定が約束されるのならば、私たちの生活はどう変わるのだろうか、と。

さらに、

人は人の中にあって人でいられる。幸せを感じるものだ。
自己責任で孤立させるのではなく、「共にある」領域 をもっと作っていこう。
それは連帯であり、自治である、と。

そして、提案するのだ。

子育て、教育、医療、介護・・・基本的なサービスが保障されるとしたらどうだろう?

人はもっと豊かに生きていくことができるのではないか、と。


僕はこの点について、はたと気づかされ、そうなのかもしれない、と思うのだった。


著者によれば、

消費税を今より6%上げ、累進課税も強化することで
子育て、教育、医療、介護、障害、生活保護の基本サービス、すべて賄うことができるのだそうだ。

全ての人が受益者となり、人同士のねたみ、嫉み、対立は減り、
自分らしい働き方、生き方に近づくことができ、
社会参加の機会も増え、信頼と支えあいの社会ができやすくなるのではないか、

と提起するのである。


消費税の増税、それは世界各地、特に北欧の国々で実践済みだ。


資本主義が行くところまで行き、社会が変質する中で、

そちらの方がより人々は幸せを感じるのではないだろうか、 

自分はそう感じるのである。



なお、ベーシックインカムとは違うのであって、このベーシックサービス論では

サービスが必要になった時に必要な人に保障するのであって、

皆にお金を配るのとは違う。(ベーシックインカムは財源の用立てが不可能)

財源はより少なくて済み、だれでも必要になったら受給できるので嫉妬、対立は生みにくい。

(病気になる人に嫉妬する人は普通はいない)

また、ベーシックインカムだと、金をもらったんだからもう甘えるな、という自己責任論、

対立が社会に温存されてしまう。

が、ベーシックサービスならば、信頼しあえる社会に転換していくはずだ。

政治家にとって消費税アップは保身のために避けてきた話題であるが、

今の社会状況下ではこれが正解なのではないか! と著書を読んで、そう思った。



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