ガッツ藤本(藤本正人)のきょうのつぶやき

活動日記ほど堅くなく、日々の思いをつぶやきます

新たな環境保全型農業で行こう!『土・牛・微生物』ディビッド・モンゴメリー著

2024-02-14 17:18:36 | 本・映画など

多くの文明は、土を失うことで滅んでいった。

植物を養う力、つまり、豊かな表土を失って、だ。

今の農業のやり方(=慣行農業)も、その道を進んでいる。

化学肥料と化学農薬を利用し、機械と燃料を使って耕し、単一の作物をより大規模に行っていく農法だ。

化学農薬は土の微生物を殺し、肥料は流れて水(川)を汚染し、耕しては風に飛ばされ、結局、表土が奪われる。

化学の力は栄養剤とカンフル剤のようなもの。

土の力は衰え、枯渇していく。

化学製品(肥料、農薬)を注ぎ続けねば回らなくなり、機械の借金も重なって費用が掛かり、収量は減り、収益は上がらなくなる。

それでは農業の未来はない、環境保全型農法に変わらねばならない、と著者は言う。


実は、植物は、養分を直接ではなく、その一部は微生物の助けを借りて吸収している。

だから、土壌微生物が豊かな土こそ農業の基本、最も留意すべきことなのだ。


「土壌微生物」の豊富な土に戻すには、次のことが肝要と著者は言う。

1.耕さない農法(不耕起)作物残渣を残す・・・表土が流れない、微生物を養う
2.被覆作物(マルチ)の活用・・・・・・・・雑草を抑える、土に養分が返る、益虫が増える
3.多様な作物を輪作する・・・・・・害虫と病原菌を抑える

を同時にすべて行うことだ。

それにより、

(面積当たりの単一でなく総生産量)収穫量の増加、化学肥料・農薬使用の減少、労力の節減、費用の節減

ができ、結果として収益があがる、というのだ。

ただ、それは単純なことではなく、

より効果を上げるには、輪作と被覆作物の組み合わせを多様化することが必要らしい。

雑草と害虫と病原体を(真っ向からではなく)搦め手から防いでいく工夫だ。

それは、単純に昔の農法に戻る、のではなく、

新たな知見に基づく新たな手法を取り入れた昔の農法 とでもいうべきか。

しかし、環境保全型のこの農法は、まだまだ広がりを見せてはいない。

採用するのは新規就農者が多く、まじめな篤農家ほどこの農法に抵抗をしめす。



「新たな三学期制」と同じだな と自分は思った。

ただ昔のやり方に戻ることには、人は抵抗感を持つ。 

単純に戻るのではなく、新たな知見も取り入れられた、そして、儲かる農法なんだと

皆が得心できるよう実績が積まれていけば、と願わずにはいられない。
(そのための方法も著者は提案している。)



また、著者は、持続可能性は言わずもがな、コストを減らすことに重点を置いて「収益」を論じている。

収益を上げるというと、すぐ大規模化とつなげてしまう私たちであったが、

売り上げが増えてもコストも増えていたら、収益は少ないのだ。

市が活き活き
した街づくりで指導を仰いでいる東京芸大の藤村先生の言葉を 私は思い出した。

商業も大規模化、多店舗化で売り上げを高めようとするが、小さなお店の方が効率的なこともあるんです。

地域のことも考えると、2階に住んで1階は店舗、そういう小店舗の展開の方が街にとっていいし、

お店も収益はあがるんですよ、と。



そのほか備忘録)長い、羅列にすぎません。

・農業における4つの革命 
1,犂と畜力の導入・・・村が合併し都市国家が大きくなることができた 
2,土壌管理(輪作、間作、堆肥の投入)・・・借地制度が変化し、農地の集約化
3,機械化と工業化・・・農場に資本が必要に、大規模農場の拡大と都市への人の流入
4,緑の革命とバイオテクノロジーの活用・・・知的財産権付きの種など食料システムの企業支配
そして、今、第5の革命へ(環境保全型、土壌の健康を農法の中心に据えた農法)

・多様な輪作で、収量は高く、窒素肥料は1/5~1/7,除草剤は1/6~1/10に。(アイオワ大の圃場試験)

・放牧で地力を上げ、畜産効果も上げるなら、過放牧で短期間で移動させる・・・草をえり好みしない、寄生虫が伝染しない
・土壌微生物は見えない家畜である。微生物が有機物などを食べ、植物が吸収できる形に変える。

・菌根菌は重要な働き。植物のえさをつくり、植物から餌をもらう。共生関係。これは腸内細菌と人間の関係と同じ。

・温室効果ガスの15%は農業から。土壌有機物(作物残渣、被覆作物、堆肥など)を増やせば、微生物が養われ、収量も増える。そして、炭素も土中に固定化される。

・耕すことは土壌有機物の分解を速め、炭素を放出させる。土壌には空気の2倍の炭素が保持されている。

・環境保全型農法で、年0,4%土中炭素を増やせ、世界でやれば炭素放出の1/3を相殺できる。
   フランスの農業大臣フォルはそれをパリ協定に提案した。

・リンの供給は有限だ。中国が半分を供給、モロッコに3/4の埋蔵がある。同時に農場や下水処理場から流れる  リンで海の生態系はダメージを受けている。人糞や家畜の糞を活用する。
アメリカのすべての家畜糞を活用すれば作物が奪ったリンの85%は回収できる。

・農業に関する利益のほとんどは、農家以外の人が受けている。農家は肥料、燃料、資材の値段を決められなしい、作物の値段も決められない。設けているのは、農家に物を売る人間なのだ。

・企業が自分の製品が必要なくなるような農法を推進するわけがない。

著者の提案:
・作物保険制度と補助金を土の健康を増やすように変える。移行期間は国が支える。土壌肥沃度改善した農家に報奨金を出す。
・土壌炭素を増やすことに、炭素排出権を与える。1%土壌炭素を失うと、1エーカー当たり平均66ドルの自然資本を失うことに相当する。
・公的なランドバンクをつくって、労務で支払うことで抵当権流れの農地などを若い人が買えるようにする。

・家畜をどの農家も飼って、作物残渣や刈り株を食べさせる。村に小さな肉加工工場を配置する。
・有機農法というより不耕起も含めた「土壌にやさしい」ブランドをつくり、広く消費者も活用できるようにする。
・技術と農業化学製品は役に立つ。が、これも道具に過ぎない。農家をその気にさせるには、実例を見せるしかない。その方が儲かることが分かればよい。実験農場を各地に設けること。実践者のネットワークを活用する。

・HUMUS(腐植)とHUMAN(人間)はラテン語の同じ語根を持つ。

同じくディビッド・モンゴメリーの本『土の文明史』
『土の文明史』を読む - ガッツ藤本(藤本正人)のきょうのつぶやき (goo.ne.jp)





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原発の本を読み 脱原発で思い出したこと その2

2024-02-08 17:26:24 | かんじたこと、つぶやき

2014年の夏ころたっただろうか? 市長1期目の最後のころのことであった。

なんと脱原発首長の会の世話人の 静岡県 湖西市長三上市長が所沢で講演されるという。

自分もオブザーバーではあるが、脱原発首長の会設立総会にも出て、その後も勉強会など出席していた。

また、議会でも「脱原発? 当たり前のことです。」と公言していた。

ならば駆けつけよう。それが同志というものである。


場所はミューズ5階の会議室であったように記憶している。

多くの観客を前に三上さんの話は熱を帯び、自分もそうだそうだと頷いて聞き入った。

講演が終わると第2部があるという。

つぎは何だ? と入り口でもらったレジメに目を通すと なんと「新しい市長をつくる会」という言葉が書いてあった。

なんだ これは?

第2部に入る。 会の主催者である一人の市民が
前に立ち、

「このように脱原発は急務である。原発のない国にするために市長を換えなければならない。」

と皆に訴えた。

これは大変なところに来てしまった、と自分は悟った。

と同時に、当惑とともに腹がたってきた。

自分こそ脱原発を公言しているのに、そんな市長は県内でもほとんどいないはずなのに。

そうやって会場を見れば、共産党議員がちらほら参加しているではないか。 

市民は知らずとも、議員は知っている。 

あなたの質問に俺は脱原発と答えているぞ。 なんで黙っているんだ。

私がどうしようか慌てていると、今度は

「現市長は狭山ヶ丘中学にエアコンを設置することに否定的だ。エアコンは必要だ。市長を換えよう。」

と論は進むのだった。

エアコンを設置すれば、電力(ガスであろうと石油由来のエネルギーに変わりはない)はさらに使われるし、
そうすれば温暖化はさらに悪化して、さらにエアコンが必要になる。

脱原発は、化石燃料の浪費を抑えること(と自然再生エネルギーの促進)を進めねばならないのに、

つまり、エネルギ消費を抑える方向、持続可能性を問題としているのに、

脱原発とエアコン増設を矛盾なく主張できることに私は唖然としてしまった。

そんなことが今から8年前にあったことを思い出した。


その後、何年もたって、この件だけでなく、いろいろとあった。

いちいちここに記すことはしないけれど、

目的と手段が違うのだ といまは理解するようになった。

純粋に環境を考える人もいれば、 それは一つの手段にすぎない人もいるということだ。

環境も手段。脱原発も手段。 目的は「当局の転換」=市で言えば市長を換えることだったのだ、と。

p.s. 脱原発に関連しては、いろいろとお話を聞きに行ったりもしました。美浦村に元東海村村長の講演を聞きに行ったり(土砂降りの日でした)、福島瑞穂さん夫妻の出版記念会に行ったり、いろいろ
活動していました。
福島瑞穂さん 出版記念会にて 斉藤貴男さんとお会いして - ガッツ藤本(藤本正人)のきょうのつぶやき (goo.ne.jp)



もう一つ思い出すこと。

「河野さんが来てくれそうですけど、お願いしてみますか?」

選挙中にスタッフからそう言われ、私は単純に「すごいね。ではお願いしてみて。」とお願いした。

最終日、来てくれることになり 10月21日夕方 所沢駅東口で河野さんをお迎えした。

わたしは、

河野さんのことだから、コロナワクチン担当大臣のご苦労とか脱原発のこととか 河野さんにも私にも共通する話題 を語ってくれるのではないか、と期待していた。

しかし、お話はデジタルに終始してしまった。確かに河野さんはその時デジタル担当大臣であった。

しかし、デジタルなんて自分のタイプとはちょっと違う。(市としてはきちんと対応していたが)

また、自分の選挙には関係ない。 河野さん、どうしちゃったのだろう?

河野さんの応援演説が終わって自分の番になったので、

私は、河野さんがなぜ応援に来てくれるのか、「私にとっての河野さん」について市民の皆さんにお伝えして、それから本題に入っていった。

私にとっての河野さんは、脱原発派だし、ワクチンなど嫌な役目を押し付けられても任務をやり切ったし、

大勢(たいせい)に怯(ひる)まず行動する点で いいなあ、と思う存在だった。

だから、自分のしゃべる番になった時、

「私は脱原発派です。脱原発首長の会というのがあって、その会に参加した時、多くの国会議員が来ていたが、多くが共産党や社民党の方だった。自分は寂しかった。しかし、ただ一人、自民党から出席している議員がいてくれた。それが河野太郎さんなのです。やっぱり、いてくれた。よかった~と感じたことを昨日のように思い出します。」

こんな感じで紹介してから、それから本題にはいっていった。

あえて、そう紹介することで、

次の西口で行う演説では そんな関連の勢いある応援演説をしてくれることを期待したのだった。

だが、西口でも河野さんは、原発について触れなかった。

デジタルのことをお話しされて、終わってしまわれた。

「なぜ原発をやめられないのか」(青木美希著)でも、河野さんのことにたくさん触れられていて、

河野さんに希望を見出しているような書きぶりであった。

そして、私もそのように思っていた。 

あの時、
脱原発・・・今はそれに触れられたくない。 そういう感じが演説の横から 感じられた。

私は、今、応援演説に来てくださったことに心から感謝しています。と同時に、

今は理解されなくても、のちの世で歴史が証明してくれることも きっとあるのに、とも感じております。



以上が、「なぜ原発をやめられないのか」(青木美希著)を読んで、思い出したことでした。








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所沢の有機農業者がサステナブルアワード2023で受賞!!

2024-02-07 16:39:13 | かんじたこと、つぶやき



有機農業を営む農業者 川瀬さんが「サステナブルアワード2023」にて地域資源循環賞を受賞した。


川瀬さんは、所沢で新たに農業を始めた新規就農者の一人だが、方法は有機農法を採用している。

有機農業とは、化学農薬を使わない農法、ということである。 



もちろん、その農法は土の力を復活させ、自然の力で栽培するところに主眼が置かれるので、

自然に、肥料も有機になる傾向はある。

川瀬さんも、化学肥料、化学農薬を使わない。

所沢農人(のうと)というブランドで、有機野菜を栽培、販売する注目の農業者だ。


気候変動、地球温暖化・・・「人新生」(人間が地球を形作ってしまう時代)にあって、

人間が自然とうまく折り合いをつけていく(調和・共生)ことが必須になってきた。

そうでないと、地球が壊れて人間など生きていけなくなるからだ。(持続不可能に)


農業においても、化学燃料に頼っていて調達が不安定、生物多様性の減少、化学肥料や化学農薬による土の荒廃などの

諸課題が見えてきている今、

世界は、小規模農家の存在価値 や、有機農業の価値 を認めるように転換してきている。

持続可能性を重視するようになってきたのだ。


世界の流れに押される形で、

日本でも、2050年までに

・日本の農地の25%は有機農業とする

・ネオニコチノイド系の農薬を含む化学農薬の使用を50%削減

・化石燃料を原料とした化学肥料をの使用を30%削減

などを定めた「みどりの食糧戦略システム」を定めた。(令和3年5月)

所沢市でもその先頭を走ろうと「有機農業の普及と学校給食での採用」を先の選挙の公約に掲げたが、当選できなかった。

しかし、下地つくりだけは、これまで十分に行ってきた。

その芽が摘まれないことを祈るしかない。


さて、川瀬さん「所沢農人」の受賞である。

この受賞が大いに評価されて、それが経営の安定化に拍車をかけることを祈りたい。
(所沢には有機農業実践者がほかにもたくさんたくさんおられる。)


そして、このうねりが、所沢の農家全体にも広がっていくことを私は切に願うものである。

受賞時の紹介動画はこちら


地域資源循環賞受賞】オーガニックファーム所沢農人 あふの環プロジェクト 「農と人が育む持続可能な未来」【あふの環プロジェクト】 (youtube.com)

そのほか、所沢で有機農業を実践している方のホームページ

農園概要 - organic farm せっせと畑 (sessetohatake.com)

無農薬野菜を作る埼玉県所沢市の農園 | 陽子ファーム (yokofarm.com)

Producer - 生産者紹介 - 所沢産のオーガニック野菜を、週末にお届けします。 (tavege.net)

埼玉の関谷農園 野菜全般 - 自然栽培 そら (そらの野菜)無農薬野菜の宅配-有機野菜の先を目指して (muhiryou.jp)

オギノエンファームhttps://sustainable-community.jimdofree.com/

そのほかにもいらっしゃるのですが、ホームページがないのかも。



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原発の本を読み 脱原発で思い出したこと その1

2024-02-06 08:41:10 | かんじたこと、つぶやき

雪が降って、今朝は雪かき。
近所の方々と顔を合わせて、いい一日の始まりである。



さて、

『なぜ日本は原発を止められないのか?』青木美希 著 を数日前に読みおえた。

結論としては、政・官・業・学が抜き差しならぬ関係で安全神話とともに進んでいき、

福島第1原発事故の後は、放射性廃棄物や使用済み核燃料の処理の行方など難題が見える中、

やめたほうがいいと感じているが、先まで道をつけられないので(廃止までの諸困難が見えるので)、

そのままでいる、と理解した。

戦前の、アメリカと戦えば負ける、とわかっていても誰も決めず、責任を取らないで進んでいった日本そのままである。

同様な本では『日本の原発、 どこで間違えたのか』内橋克人 著 も以前に読んだが、

共通していて驚くのが、

・地域振興で恩恵を受けるのは一世代だけ(元知事)

                     「なぜ日本は原発を止められないのか?」p123

・タナボタでいろんないいことがある…だけど、
 百年たって片輪が生まれてくるやら
・・・わかりませんよ・・(元敦賀市長)

                      「日本の原発、 どこで間違えたのか」p234

など、核心を突きながら捨て鉢というか自虐気味に発言をする首長が多い、ということ。

本当のことは言いましたよ、皆さんが考えてくださいよ、ということか。


自分は石巻での活動があって、市長就任後、脱原発首長会議にも参加し、東海村元村長の話を聞きに美浦村でも話を聞き、脱原発の考えを公に表明した。

事故を経験した世代が決めないでいつの世代が決められるのか?!

事故後、何年もの間、原発なしでも日本は十分やっていけたではないか!

という考えからだ。 

その後も自分は市として気候変動、地球温暖化抑止にも取り組んできたが、

だからといってCO2排出の少ない原発が必要というのは、逃げであり、

進むべき方向・本質は もっともっとの飽くなき欲望を少しでも抑えることにあるのだ、と考える。

あれもこれも、とすべてを満足する解はない。70点で御(おん)の字だ。

私は、子供や孫につけを残してまで自分が豊かさを享受しようとは絶対に思わない。


世の平穏のためには、決めない(先に送る)、という方法もあるのだと、市長になって発見した自分だったが、

この問題は違うと思う。

汚染水の海洋放出は続く。除染土も決まらない。みんな福島に押し付けたままだ。


政治(世の中)において、既定のものをゼロにするのは非常に困難な決定だ。

決めると反対運動が必ず起こる。(前原大臣の八ッ場ダム中止決定や所沢市のことも然りである)

それでも、忘れてはいけないし、解決もされていない。

やめるということを決めなければいけない、と思う。

自分は南相馬へこの3か月間で4往復した。
(8回の行き来のうち6回は高速を使わず、下道で7時間半かけた。)

途中、帰宅困難区域を通過するが、そこは本当にゴーストタウンなのだ。

国道6号をいわきの方から南相馬へ向かうとき、楢葉町、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、小高と北上するが、

大熊の途中から浪江まではほとんど真っ暗。沿道の店も廃墟。

国道をそれる道はバリケードで封鎖され、侵入できない。

街灯は煌々と灯っているし、信号も点滅している。

だが、家は真っ暗、町に住む人は誰もいない。 この光景は芯から寂寥として怖いものだ。

帰宅困難地域が解除されても浪江町なども7%しか帰っていないという。(9/30 2023現在)

帰宅困難地域を通過するときは、線量計は1マイクロシーベルトを超える。

また、もう全く大丈夫な南相馬であっても至るところに線量計があり、市の館には検査所もあり、

お米は(大丈夫なはずなのに)風評被害で売れないので飼料用にしかならないなど、

いまだ解決なんてされていないのだ。(漁業の人たちも大変だ。)

南相馬市の各施設には線量計が今もある 放射線が常に意識のうちにある
当時、所沢でも0,23
マイクロシーベルトを超える場合、付近の土を除染したが、
幸い0,23マイクロシーベルトは越すことはない


生涯学習センターにある食品検査室 今も行われている


大熊町にある大きなショッピングモール  全員、作業着姿の男性です。
女性はほとんど見かけません。  どういうことかわかりますか?




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ブロッコリー収穫作業と 南相馬と この3か月と

2024-02-05 12:01:43 | かんじたこと、つぶやき

選挙から3か月ほどの、ちょうど1月の15日ころだったか、

前の記事にも記したように、気持ちが吹っ切れたというか、前に向かい始めたと実感するようになった。

それまでは気持ちはずっと選挙のことに拘泥(こうでい)していて、時間は止まったままだった。
(でも、能登地震の被災者のことを思うと、そんなの何でもない。
         被災者の方々こそ時間があの時のまま止まっているのだと思う。)

写真は箱入れ前のブロッコリー 24個/箱に入れる大きさ

その3か月の間に、自分は「原点に戻る」つもりで、福島は南相馬の農園でブロッコリーの収穫の手伝いに参加させていただいた。

「東日本大震災と原発事故、あの時誰もが感じたあの思いを決して忘れず、「人と人の絆」・・・・・そんな所沢、日本で行こう!」

何度語ったであろうあの言葉、市長を志した原点に戻ることで、自分を振り返って今後を展開していきたい。

そんな気持ちだったのである。

寺本教育委員のご紹介で、身分は隠して、私は南相馬の篤農家、福田さんの農園に入らせていただけた。

11月19日に南相馬に入って、最終は1月12日まで、

その間、お葬式が入ったり、いろいろで、所沢に戻ることも多く、正味20日間くらいしか手伝えなかったが、働かせていただいた。


ブロッコリー畑 南相馬は被災者の移住先として小開発がされていて 人口増

      畑や田んぼの中に大きな新築住宅が結構ある

ブロッコリーの収穫は、機械ではできない。

刈るか否か、判断しながら畝を進み、出荷できる大きさのものは適切な長さに包丁で切り、
周りの葉を削いで、リヤカーに乗せられた4つのかごに順次それを入れていく。

1台のリヤカーを真ん中に、リヤカーの車輪の内側3列を担当する引き手の1人と、リヤカーの左わき2列、右わき2列の畝を担当する2人、計3人で収穫しながら前へ前へと進んでいく。

1台のリヤカーが進むと合計7列の畝の収穫がなされていく。

リヤカーを引く福田さん この時は一人 ふつうは両脇に1人ずつ付く

畑は広い。成長は気候任せ。

ゆえに最盛期になると人手が必要になるのだ。

   リヤカーの上のかごがいっぱいになると軽トラの荷台に移す

とるべきか否か、その判断が難しい。とると判断しても、適切な長さで切ることも難しかった。

私以外の皆さんは、福田さん親子に親戚知人、新規就農者もおられるが、仕事はみな正確で速い。

強豪ソフトボールチームのような一糸乱れぬ動きで作業は進んでいく。

私が迷っているとリヤカーはどんどん前に行ってしまう。

自分の脳裏には常に運動会の音楽が流れていた。 心が急(せ)いた。

それでも青空の下の作業は、汗もかき、すがすがしいものだった。

息子さんと新規就農の方を除けば、みな70歳代以上の方々だが、正確で速い。

ブロッコリーでいっぱいの籠も平気で持ち運ぶ。


リヤカーの上のかごは、いっぱいになると軽トラの荷台に移され、それがいっぱいになると

「おーし、けぇんべぇ」

福田さんの号令で農地での作業は終わりとなる。

農家に帰って、小屋で一息、コーヒーやおいしい菓子やミカン、

その日に出される柿やチョコなどを食べながら談笑して、しっかり休憩する。

多才な黒木さん手作りのケーキ 奇しくも自分の誕生日に提供された

そののち、今度は軽トラの上のブロッコリーを発泡スチロールの箱に詰めていく。

農家の庭での作業となる。

その際、大きさによって、ひと箱16個入り、20個入り、24個入りのどれに値するか判断しつつ、

形をそろえながら、詰めていくのであるが、これもまた正確さと速さが求められるのだ。

だが、これもまた、私は遅く、ほかの人より処理する箱数が、10箱分以上少ない。

さらに、途中で小便に行きたくなる。 そうするとさらに差が出る。迷惑がかかる。

ジャンバーを上に重ね着して、しまいにはカイロも付けた。

それでも行きたくなる。作業中足踏みしながらこらえる。

自分は今まで小便は したいときに行ける環境だったのだろうか? 

冬の日陰の作業ではあるが、改めて感じた尿意の存在には、自分は本当に閉口してしまった。

  これから発泡スチロールの箱に仕分けする前

そして、収穫したブロッコリーが発泡スチロールの箱にすべて詰められたら、
それをトラックでJAに運んで終わりとなる。自分はそこには同行しない。

この工程を午前に一回、午後に一回。

新年は1月7日から従事したが、お世話になった方のお葬式で一時帰宅。

最盛期を終え、しかも、安値が続いているようで毎日の従事は不要とのことで、

12日をもって終了となった。

正味20日間ほどの参加ではあったが、福田さんには寛大な心持ちの中で大変お世話になりました。

また、皆さんには、よそからの参加者を温かく迎えていただき、時に叱咤していただき、感謝しています。

スーパーでブロッコリーを見ると、それ以来、必ず手に取って、値段を見ては「高値になれ!」と念じています。


本当は、貢献をして役に立って、南相馬を後にしたかったところでした。

実は所沢の市長をしていたんです。そんなことも最後は正直に明かして、きちんと帰りたかったでした。

が、現実は足手まといになること多く、戦力にはなれず、

それゆえ身分など明かすこともできず、消沈して所沢に戻ったことにはなりました。


ああ、自分は、他人とペースを乱さず、正確に速くやるってことが、昔から苦手だったんだ!

いわゆる職人に求められる質に欠けていた、ということを改めて思い出しました。


p.s.その後、政府はブロッコリーを「指定野菜」(現在は14
品目あって国民生活に欠かせない野菜。
価格が下落した時など支えてもらえる。)に令和8年から追加することが決まったそうで、
うれしく思っています。


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立川→国分寺→小平→東村山→そして小平 と歩いて、小平で飲む

2024-02-02 22:13:34 | かんじたこと、つぶやき

バッテリーを交換してもらうため、車を立川近くのディラーに預ける。

私の車はそこで購入し、すでに23年目に入った。

走行距離は22万kmを超えたが、よく頑張って走ってくれる

そのまま帰るのも何なので、

その後、玉川上水に沿って東へ向かい、小平まで歩いてみた。

ひたすら北東に進めばよい。


ディラー近くにあった立川市立若葉小学校はずいぶんと建物の立派な小学校。

国分寺や国立は文教都市といわれるが、立川のここも高級そうな学校に見える。

そのうちに五日市街道に出たので、東へ進む。

通りの両脇は豪農が多く、道に面しておうちもケヤキもみな立派である。

〇〇農園 コクベジ(国分寺ベジタブル)の表示もあって、直売所もあり、東京の野菜を売り込んでいる感じ。

JAがそれをブランド化して後押ししているようだ。

街道両側、母屋があって屋敷林、そして畑が伸びる。

所沢市で言えば 道と家屋と畑の配置は中富と似ている。(中富は屋敷林だけでなく、畑の向こうに林がある)

さて、東西に延びる街道から途中、畑に入って
赤道(あかみち)らしき土の道を北上したら、

創価小学校にでた。

さらに、東へ、そして北へと歩いているうち玉川上水にぶつかった。

玉川上水の脇の道は、車が通れない。ゆえに、轍(わだち)も全くない

ゆえに歩いていて平らで、土だから足にもよい。

散歩や通勤、通学で多くの人が歩いている。

また、道の真ん中に木が生えていても、そんなことは問題ない。


川に沿った土の道を東へ東へ、津田塾の南面を抜け、津田町3丁目へ。

この辺は、所沢市の榎町か松葉町のような邸宅が並ぶ。

さらに東へ、小平に入って上水新町、仲町、学園西町を抜けて北上して東村山市萩山へ。

         途中でいいお宅がありました。


小平市役所近くの西武のバス停。すごいの作らなくても、これでいいんだと思いますが。

萩山実務学校の脇を抜けて、萩山駅付近まで出て、そこから緑道を歩いて小平駅まで到達した。

この緑道は何だったんだろう? 両脇より2mくらい高くなっている。

小平の駅の北側へ行ったら、またこんな張り紙が・・・。
駅近くはみんなこの問題。大土地所有者(または不動産屋)と業者の欲でみんな高層化しようとする。50年後は解体キチンとできるのか。
小平の北口は結構大きな邸宅もある住宅街なのだが。


焼き鳥 「鳥勝」焼き鳥もいいし、鳥鍋が100円! 

  小平南口の「よっちゃん」 佇まいがとても気になっていて・・・


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