さて、投票日まで一週間になった。前回のブログで自民党単独300議席はさほど不思議ではないと書いたけれど、それが軽々しい問題ではないと言うこともまた事実である。
もちろん現状でも自民党独裁であることに違いはない。しかし与党と極右が議席の3分の2を獲得してしまったら、それはいよいよ憲法第9条廃止へのカウントダウンが始まるということを意味する。
ほんの少し前まで、この年末がこれほどまでに今後の日本の将来を左右する重要な歴史的転換点になるとは、誰も思っていなかった。本当に歴史というのはドラスティックなものだと思う。
ただ一番の問題は、実は選挙そのものにあるのではない。自民党および保守系政治家の、はなはだしい劣化にこそ問題の本質があるのである。野党などと言ってはいるが、現在の保守系野党は基本的にもともと自民党であった。逆に言えば自民党というのは保守合同で作られた連合党であり、本来的には内部に複数の小政党が内包されていたのである。これが自民党の派閥と言われるものであった。ところが、この構造がいわば足の引っ張り合いとなり、自民党の腐敗の象徴とされ、派閥解消が長年の自民党のスローガンとなった。
現状の自民党では派閥の力は大きく削がれ、安倍総裁の独裁体制となっている。それでも自民党議員の腐敗ぶりだけは変わっていないのは皮肉な話だが、しかし本来の多用な意見を反映させるという機能の方はしっかり失われてしまった。
アメリカの二大政党制が良いとは思わないが、アメリカの二大政党は二大政党であるがゆえに、どちらにも多用な意見を持つ政治家がいてその存在感を示している。そこにはある面でしぶとい民主主義の伝統を感じざるを得ない。
そう言う意味では、二大政党制における政党として日本の民主党は当たり前の構造をしているのだが、いかんせん無理矢理作られた党であり、あまりにも未熟で何を主張し、何を実行しようとしているのかがさっぱりわからず、政権交代でその実態が明らかになった後は、有権者にはますますとらえどころがなくなってしまった。
というよりは、おそらく日本の政党は21世紀に入って、本来的な政党としての意味を失ってしまったのだ。本来なら政治理念があり政策があり、それを実現しようとする集団が政党であるはずだが、現在の日本の政党の多くが選挙互助会に堕してしまったのである。だから「出来てきた党」ではなく、「作られた党」ばかりになってしまったのだ。
テレビである極小野党の「党首」が「現在の野党は選挙のために離合集散している」と野党批判をしていたが、彼の党自体がそもそも初めからずっと選挙互助会として転変してきたことを知っているので、思わず吹き出してしまった。
自民党がなぜ安倍独裁になってしまったのかも、そういう脈絡で考えればよくわかる。つまり選挙に勝つことだけを目的にするのであれば、強いところに黙ってついて行くのが一番効率的だ。自分の意見を主張して「足の引っ張り合い」と批判されるより、何も言わずに多数派の言いなりになって自分の身の安泰を図っておいた方が得だということである。
もはや政治家の理想などどこにもない。ただ家業として営利のために政治屋をやるという状況が蔓延してしまった。政治家の劣化も極まったと言えよう。
しかし実はこういう状況を、我々は初めて経験するのではないということも忘れてはならない。そう、それは昭和ファシズム時代における大政翼賛化である。国家の危機というアジテーションにあおられて、民主主義が弾圧され、日本は「国防色」一色に染められていった。
その結果、政治は暴走し破滅的な戦争へと突入した。その悲劇の最終章の幕開けとなった開戦記念日が、明日またやってくる。
もちろん現状でも自民党独裁であることに違いはない。しかし与党と極右が議席の3分の2を獲得してしまったら、それはいよいよ憲法第9条廃止へのカウントダウンが始まるということを意味する。
ほんの少し前まで、この年末がこれほどまでに今後の日本の将来を左右する重要な歴史的転換点になるとは、誰も思っていなかった。本当に歴史というのはドラスティックなものだと思う。
ただ一番の問題は、実は選挙そのものにあるのではない。自民党および保守系政治家の、はなはだしい劣化にこそ問題の本質があるのである。野党などと言ってはいるが、現在の保守系野党は基本的にもともと自民党であった。逆に言えば自民党というのは保守合同で作られた連合党であり、本来的には内部に複数の小政党が内包されていたのである。これが自民党の派閥と言われるものであった。ところが、この構造がいわば足の引っ張り合いとなり、自民党の腐敗の象徴とされ、派閥解消が長年の自民党のスローガンとなった。
現状の自民党では派閥の力は大きく削がれ、安倍総裁の独裁体制となっている。それでも自民党議員の腐敗ぶりだけは変わっていないのは皮肉な話だが、しかし本来の多用な意見を反映させるという機能の方はしっかり失われてしまった。
アメリカの二大政党制が良いとは思わないが、アメリカの二大政党は二大政党であるがゆえに、どちらにも多用な意見を持つ政治家がいてその存在感を示している。そこにはある面でしぶとい民主主義の伝統を感じざるを得ない。
そう言う意味では、二大政党制における政党として日本の民主党は当たり前の構造をしているのだが、いかんせん無理矢理作られた党であり、あまりにも未熟で何を主張し、何を実行しようとしているのかがさっぱりわからず、政権交代でその実態が明らかになった後は、有権者にはますますとらえどころがなくなってしまった。
というよりは、おそらく日本の政党は21世紀に入って、本来的な政党としての意味を失ってしまったのだ。本来なら政治理念があり政策があり、それを実現しようとする集団が政党であるはずだが、現在の日本の政党の多くが選挙互助会に堕してしまったのである。だから「出来てきた党」ではなく、「作られた党」ばかりになってしまったのだ。
テレビである極小野党の「党首」が「現在の野党は選挙のために離合集散している」と野党批判をしていたが、彼の党自体がそもそも初めからずっと選挙互助会として転変してきたことを知っているので、思わず吹き出してしまった。
自民党がなぜ安倍独裁になってしまったのかも、そういう脈絡で考えればよくわかる。つまり選挙に勝つことだけを目的にするのであれば、強いところに黙ってついて行くのが一番効率的だ。自分の意見を主張して「足の引っ張り合い」と批判されるより、何も言わずに多数派の言いなりになって自分の身の安泰を図っておいた方が得だということである。
もはや政治家の理想などどこにもない。ただ家業として営利のために政治屋をやるという状況が蔓延してしまった。政治家の劣化も極まったと言えよう。
しかし実はこういう状況を、我々は初めて経験するのではないということも忘れてはならない。そう、それは昭和ファシズム時代における大政翼賛化である。国家の危機というアジテーションにあおられて、民主主義が弾圧され、日本は「国防色」一色に染められていった。
その結果、政治は暴走し破滅的な戦争へと突入した。その悲劇の最終章の幕開けとなった開戦記念日が、明日またやってくる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます