新聞各社の世論調査によると今回の選挙では自民党が単独で300議席以上を獲得するという結果になった。各社の結果がほとんど同じだから、確度の高い分析だ。別にさほど不思議なことではない。こうなる予測があったから安倍さんはこんな時期に解散に打って出たのだ。
90歳の母はテレビニュースの街頭インタビューで、「誰に入れても同じだ」とか「よくわからない」から選挙に行かないという人の声に納得いかない様子だ。「おかしいねえ」と言う。
母の世代は戦前と戦中と戦後を知っている。さらに言えば母の親の世代は明治の後半から大正デモクラシー、そして昭和ファシズムの台頭までの歴史を体験している。戦前には女性に参政権はなく、また軍事教育と大政翼賛の時代でもあった。その中で母の父は「アメリカと戦争をやったら負ける」と断言していたそうだ。
母にとって敗戦は「すごくうれしかった」出来事で、何より灯火管制が解けたのが一番うれしかったようだ。現代のぼくたちには想像できないが、実際にグラマン戦闘機から機銃掃射を受けて逃げ惑ったのである。そういう壮絶な体験をこの世代の多くの人が味わっている。
そんな母が、選挙権という民主主義における最重要の権利を簡単に放棄してしまう人達のことを理解できないのも無理はない。
「投票しなくちゃ変わらないじゃない」と母は言う。あまりにも真っ当な意見だから否定のしようがない。しかし、あえて「変わらない」ことを目論み、投票率を低く抑えるために、このタイミングで選挙を打ったのが安倍政権なのである。
そんな中で、いま「日本未来ネットワーク」というサイトが話題になっている。
スローガンは「黙ってないで、NO!と言おう。」で、「「白票」を投じるのは投票したい立候補者がいないという意思表示です。その1票にも、今の社会を変える力があります」と主張している。
ぼく自身は選挙をボイコットしたこともあるし、白票を入れたこともあるから、白票運動自体を直ちに否定する気にはならない。ただしこの日本未来ネットワークは、ようするに世論誘導のいわゆる人工芝運動(ニセ草の根運動)である。今回の新聞各社の報道を受けて追記された内容はそのことをはっきり表している。いわく「与党は支持、でもうちの選挙区の候補者はNG。/そんな思いを伝えましょう。」なんだそうである。
このサイトの黒幕についていろいろ詮索されているが、それは置いておくとしても、ようするにこのサイトの狙いは、白票という形でガス抜きをしつつ、結果的に現状の自民党政権を安定的に維持させようという世論誘導にある。具体的に言えば、先日来いろいろと問題になっている政治資金問題で黒もしくは灰色の政治家を選ぶ気にはならない人に対し、それでも自民党以外の候補を選ばないようにさせようということだ。あまり意味もなく成功するとも思えない運動だが、ここまでして世論誘導をしようとする執念に不気味なものを感じる。
ぼくが選挙をボイコットしていたのは、おもに新左翼党派の活動家時代だった。マルクス・レーニン主義者だから、選挙によって体制が変わるはずがないことは十分承知している。選挙には意味が無いのだ(もっとも後半になってからは自党が地方選挙に進出する戦略を強化したので、ある程度選挙に関わることにはなったのだけれど)。
ただぼくは選挙はボイコットしたが、革命運動は精力的に行った。社会党や共産党との共闘にも、大きいものから小さいものまでいろいろ関わりもした。
また白票を入れざるを得なかった選挙でも(というのも選挙区に出た候補が全て右翼だったので)、すでにネット上での言論活動はしていたから、積極的に政治的アピールは続けたつもりである。
選挙ボイコットや白票運動もよいが、それはそれだけでは何の意味もない。そのオルタナティブをなんらか持って、それを実践しない限り、ただの白紙委任状にしかなりようがない。そもそも「選挙では何も変わらない」ということは、選挙以外の方法を選ぶという結論にしかならず、だからこそ世界中で選挙をボイコットする勢力は、革命運動など実力で政権を倒す運動を進めるのである。それはアラブの春でも、ウクライナでも、中国のウイグル自治区でも、皆そうなのだ。
オルタナティブを持たず、またそれを実践しもしない人が、選挙を否定したり白票を入れたりするのは、ただの言い訳に過ぎない。それは現在最も権力を握る人々に屈服して言いなりになるということ以外ではない。
ところでもうひとつ、今回はユニークな政治運動が注目される。北海道の比例区に出た「支持政党なし」である。
この運動についてはサイトを読めばその経緯がよく分かるが、別に北海道の人の運動ではなく、ただ北海道でしか出られないからそこで出たということのようだ。
支持政党なしには党の政策はない。公約はただひとつ、もし当選したらその方針はネット上で意見を集約し、その意見に従って行動するというものだ。
それなりに時代の気分にあった運動ではある。おそらく個人でやっているようで、その熱意と努力にはとりあえず敬意を表したい。もしこの理念に同調できる人がいるなら、オルタナティブのない白票運動や選挙ボイコットなどより、よほど意味はあるだろう。
もちろん政治は政策パッケージなので、このような個別直接投票的な意志決定方式は、世論調査的な意見の反映にはなるかもしれないが、政治として正しいとは言えない。世論調査の結果では「良いとこ取り」になりがちで、痛みを伴う決定がしづらいからだ。理念や理想は時として暴走もするが、またそれが無くても想定外の暴走を起こす危険がある。
いずれにしても、少なくとも民主主義であろうとするなら、我々がお客さまになってしまってはいけない。選挙は消費者として消費するようなものではない。店員におだてられて商品を選ぶようなことであっては断じてならない。また逆にいらないからと言って無視できるようなものでもない。
民主主義であろうとする限り、我々自身が当事者であり責任者である。自民党の極右路線を求めるのであれ、選挙をボイコットして革命を目指すのであれ、少なくとも自分の意志と決断で、自分と世界の命運に対して責任を負うべきなのである。
90歳の母はテレビニュースの街頭インタビューで、「誰に入れても同じだ」とか「よくわからない」から選挙に行かないという人の声に納得いかない様子だ。「おかしいねえ」と言う。
母の世代は戦前と戦中と戦後を知っている。さらに言えば母の親の世代は明治の後半から大正デモクラシー、そして昭和ファシズムの台頭までの歴史を体験している。戦前には女性に参政権はなく、また軍事教育と大政翼賛の時代でもあった。その中で母の父は「アメリカと戦争をやったら負ける」と断言していたそうだ。
母にとって敗戦は「すごくうれしかった」出来事で、何より灯火管制が解けたのが一番うれしかったようだ。現代のぼくたちには想像できないが、実際にグラマン戦闘機から機銃掃射を受けて逃げ惑ったのである。そういう壮絶な体験をこの世代の多くの人が味わっている。
そんな母が、選挙権という民主主義における最重要の権利を簡単に放棄してしまう人達のことを理解できないのも無理はない。
「投票しなくちゃ変わらないじゃない」と母は言う。あまりにも真っ当な意見だから否定のしようがない。しかし、あえて「変わらない」ことを目論み、投票率を低く抑えるために、このタイミングで選挙を打ったのが安倍政権なのである。
そんな中で、いま「日本未来ネットワーク」というサイトが話題になっている。
スローガンは「黙ってないで、NO!と言おう。」で、「「白票」を投じるのは投票したい立候補者がいないという意思表示です。その1票にも、今の社会を変える力があります」と主張している。
ぼく自身は選挙をボイコットしたこともあるし、白票を入れたこともあるから、白票運動自体を直ちに否定する気にはならない。ただしこの日本未来ネットワークは、ようするに世論誘導のいわゆる人工芝運動(ニセ草の根運動)である。今回の新聞各社の報道を受けて追記された内容はそのことをはっきり表している。いわく「与党は支持、でもうちの選挙区の候補者はNG。/そんな思いを伝えましょう。」なんだそうである。
このサイトの黒幕についていろいろ詮索されているが、それは置いておくとしても、ようするにこのサイトの狙いは、白票という形でガス抜きをしつつ、結果的に現状の自民党政権を安定的に維持させようという世論誘導にある。具体的に言えば、先日来いろいろと問題になっている政治資金問題で黒もしくは灰色の政治家を選ぶ気にはならない人に対し、それでも自民党以外の候補を選ばないようにさせようということだ。あまり意味もなく成功するとも思えない運動だが、ここまでして世論誘導をしようとする執念に不気味なものを感じる。
ぼくが選挙をボイコットしていたのは、おもに新左翼党派の活動家時代だった。マルクス・レーニン主義者だから、選挙によって体制が変わるはずがないことは十分承知している。選挙には意味が無いのだ(もっとも後半になってからは自党が地方選挙に進出する戦略を強化したので、ある程度選挙に関わることにはなったのだけれど)。
ただぼくは選挙はボイコットしたが、革命運動は精力的に行った。社会党や共産党との共闘にも、大きいものから小さいものまでいろいろ関わりもした。
また白票を入れざるを得なかった選挙でも(というのも選挙区に出た候補が全て右翼だったので)、すでにネット上での言論活動はしていたから、積極的に政治的アピールは続けたつもりである。
選挙ボイコットや白票運動もよいが、それはそれだけでは何の意味もない。そのオルタナティブをなんらか持って、それを実践しない限り、ただの白紙委任状にしかなりようがない。そもそも「選挙では何も変わらない」ということは、選挙以外の方法を選ぶという結論にしかならず、だからこそ世界中で選挙をボイコットする勢力は、革命運動など実力で政権を倒す運動を進めるのである。それはアラブの春でも、ウクライナでも、中国のウイグル自治区でも、皆そうなのだ。
オルタナティブを持たず、またそれを実践しもしない人が、選挙を否定したり白票を入れたりするのは、ただの言い訳に過ぎない。それは現在最も権力を握る人々に屈服して言いなりになるということ以外ではない。
ところでもうひとつ、今回はユニークな政治運動が注目される。北海道の比例区に出た「支持政党なし」である。
この運動についてはサイトを読めばその経緯がよく分かるが、別に北海道の人の運動ではなく、ただ北海道でしか出られないからそこで出たということのようだ。
支持政党なしには党の政策はない。公約はただひとつ、もし当選したらその方針はネット上で意見を集約し、その意見に従って行動するというものだ。
それなりに時代の気分にあった運動ではある。おそらく個人でやっているようで、その熱意と努力にはとりあえず敬意を表したい。もしこの理念に同調できる人がいるなら、オルタナティブのない白票運動や選挙ボイコットなどより、よほど意味はあるだろう。
もちろん政治は政策パッケージなので、このような個別直接投票的な意志決定方式は、世論調査的な意見の反映にはなるかもしれないが、政治として正しいとは言えない。世論調査の結果では「良いとこ取り」になりがちで、痛みを伴う決定がしづらいからだ。理念や理想は時として暴走もするが、またそれが無くても想定外の暴走を起こす危険がある。
いずれにしても、少なくとも民主主義であろうとするなら、我々がお客さまになってしまってはいけない。選挙は消費者として消費するようなものではない。店員におだてられて商品を選ぶようなことであっては断じてならない。また逆にいらないからと言って無視できるようなものでもない。
民主主義であろうとする限り、我々自身が当事者であり責任者である。自民党の極右路線を求めるのであれ、選挙をボイコットして革命を目指すのであれ、少なくとも自分の意志と決断で、自分と世界の命運に対して責任を負うべきなのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます