あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

民主党のCMをどう読むか

2014年12月09日 22時02分38秒 | Weblog
 民主党の選挙用テレビCMの評判が悪い。女性たちが「夢は、正社員になること!」とか「お金を貯めて彼氏と結婚したいです」と言うものだが、正社員になることが夢というところに違和感を感じる人が多いと言う。
 確かに人生の夢が正社員になることでは、あまりにも悲しい社会であろう。むしろそこは夢に向かってのスタートラインであるべきだ。いったいどうしてこんなセンスなのだろうか。そこに民主党とは何なのか、日本の社会と政治の根本的な病理とは何かを見て取ることが出来る。

 ここしばらくテレビの報道番組では、有名なキャスターたちが口々に自民党の政策に疑問を投げかけてきた。集団的自衛権行使容認、秘密法、原発再稼働、消費税増税、アベノミクスの成果などなど。となると必然的に、そうした安倍政権の問題政策の多くに対して一番真正面から批判し反対しているのは共産党と言うことになる。ところが実際には共産党の主張がクローズアップされることはほとんどない。そのことを矛盾と思っているかいないかよくわからないけれど、たぶん有名キャスターたち自身もまず共産党支持者ではない。実際のところ野党支持者であるかどうかさえ怪しいものだ。

 社会正義という意味で言ったら、共産党、社民党の主張はほとんどの点で正義の側に立っていると言って良い。しかし多くの人にとって社会民主主義、社会主義、共産主義は敵であるかのようだ。不思議なものである。
 それはつまり社会主義や共産主義が本質的に近代=資本主義=自由主義=市民社会に対するアンチテーゼだからである。自分たちが現に暮らしているこの社会のあり方を否定するものだから、そこに同調できないのだ。別の言い方をすればそれは人々に自己批判、自己否定を迫るのである。(もちろん、もう一方では社民党や共産党が、実は社会主義や共産主義とは全く違うブルジョア民主主義=近代主義でしかないという左側からの批判もごくわずかには存在するのだが。)

 この世界が閉塞的状況にあることを、おそらく誰もが感じている。しかしそれが近代そのものの限界であり、近代自体を乗り越えない限り解消し得ない問題だと言うことは、誰も言わないし、多くの人は気づきもしない。
 もっともそれを復古主義的に指摘した勢力はいた。たとえば日本で言えばいわゆる「近代の超克」論などがそうだし、現在のイスラム原理主義者たちもそうかもしれない。そんな中で、未来志向において近代を乗り越えることを提起したのはマルクス主義だけだった。その残滓というか、系譜の中にあるのが、日本共産党と社会民主党である。だが彼らにも大きな限界がある。
 近代を超えるには近代主義を超えた思想が必要である。復古主義の場合は近代以前の思想を利用するわけだが、当然われわれには新しい思想が必要だ。ところが、われわれ自身が近代社会の中で近代人として作られてきてしまっているから、近代的思考からなかなか抜け出すことが出来ない。残念ながらカール・マルクス自身もそうだったのだと思う。
 近代の成果を肯定し、その遺産の上に、近代を否定した新しい思想を構築することが求められるのだが、いまだにそれを成し遂げた論はない。それが現代人にとっての最大の悲劇なのかもしれない。

 ニュースキャスターたちに至っては、そもそも現代社会の変化自体にさえついて行けていない。いまだに選挙の動向を、与党対野党という形でしかとらえられなかったりする。
 いったい野党とは何か。与党の政治理念に反対し、政策に対してオルタナティブを提示するのが野党の役割ではないのか。その意味では現在の「野党」の中にどれほど野党がいるのか。確かに55年体制時代の与党と野党なら、それぞれの政党にはっきりした政治理念の違いと政策に対するオルタナティブがあった。与野党という構図はそう言う場合には意味があるが、現状ではそうした勢力図にはほとんど意味が無い。
 経済に対する感覚も同じだ。株価がどうだ、物価指数がどうだと言っても、もはやそんなものはある特定の人々にとっての儲けの尺度であるだけで、経済動向が人々の幸福とは全く関係ないということはずでに明らかになっている。それでもマスコミはまず真っ先に経済問題を取り上げる。政治家はそうして作られた幻想に乗っかって(もしくは乗らざるを得ず)、経済の「復活」だの「成長」だのを公約の第一番に持ってくる。

 民主党のCMへの違和感は、ようするに民主党が第二自民党として、現状の日本資本主義を何が何でも存続させるという立場から、むりやりアベノミクスと違う主張をせざるを得ないというところから発生している。
 民主党にしても格差を撤廃するなどという資本主義の根幹を否定するような主張は出来ない。庶民は庶民、金持ちは金持ちでいてもらわなくてはならない。経済学的に言えば、労働者と資本家が常に存在しなくてはならないのだ。格差を縮めると言っても、「下の上」をせいぜい「中の中」に上げるという程度でよいだろうと思っているだ。あからさまに言えば下層は正社員になるという程度の夢で十分だと言っているのだ。「上の上」を引きずり下ろそうなどとは全く思ってもいない。

 このことをもっと現代史的に解釈するなら、近代自体の限界には目を向けず、ただ表面的にそれを塗り隠してリニューアルしたように見せようとしているだけだということである。
 民主党への違和感をもし人々が掘り下げていくことが出来るようになれば、そのときはじめて本当の光が見えると思うが、それはやって来るとしてもずっと先のことにしかならないのだろう。
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