あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

普通の国ではない「普通の国」

2014年07月06日 10時43分24秒 | Weblog
 以前に全く同じ事を書いたのだけれど、テレビを見ていると本当にみんな褒められるのが好きなんだなあと思う。「外国人に聞いた日本の良いところ」みたいな番組があまりにも多すぎて辟易する。もっともぼくはこの手の番組は好きだ。好きだから見ているのだけれど、ぼくが知りたいのは日本に住む日本人には気づかない、世界から見た世界の中の日本の姿である。何でもかんでも日本が一番という演出にうんざりするのだ。
 褒められるところがあるのは良い。しかし同時に不十分なところ、不満なところ、奇妙なところが同じくらいあるはずだ。そういう部分が表れないとただの気持ちの悪い自己満足・自己充足で終わってしまう。国際番組が国際的視野を開いてくれるのではなく、島国的な狭い見方を、つまり日本的な価値観が全てであり自分たちが世界で一番素晴らしいという固定観念を強化するためのものになってしまっているのだ。
 これは保守政治家の言う「国際人を育てる」とかグローバリズムという言葉と呼応している。彼らの目指す「国際人教育」とは国際的な価値観を持つ人材を育成することではない。国際的価値、国際的感覚を排除できる強さ(もしくは鈍感さ)を持ったナショナリストを(もしくはグローバリスト=アメリカ・ナショナリストを)育てることなのである。
 もちろん日本的な価値観が良いと思い、自分たちのあり方が一番良いと考えるのは自由だし、ある意味では当然のことだ。しかしそれを自分の姿だけを見て思い込んでいるのと、世界的な視点で客観的に考えてそう言う結論になるのとでは、正反対くらいに意味が違ってしまう。

 日本人の繊細さ、助け合いの精神、治安の良さ、それはどれも素晴らしい。重要なのはそれは何から来ているのかを自覚することであり、それを守っていこうと決意するかどうかである。
 それはまさに日本の独自性である。日本は特別な国なのである。特別であるからこそ世界から賞賛を浴びることが出来る。しかし絶対的多数の人々が支持する(もしくは容認する)自民党や保守勢力が目指しているのは「普通の国」だ。人々が目指すのはどちらなのか。何度も言うが「どっちも!」という良いとこ取りなど出来ないことに気づかねばならない。
 何かを守ろうとすれば何かを我慢しなければならない。何かを変えようとしたら何かを捨てなくてはならない。日本の「良さ」は日本の歴史と現在のあり方から生まれているものであり、日本の構造が「普通」に変わってしまったら日本の良さも失われてしまうだろう。全ては関係性でつながっている。我々はそうした現象をたくさん見てきたのではないか。

 「普通の国」という言葉があふれているけれど、本当に本心からみんな普通の国にしたいのだろうか。そうではないはずだ。おそらく最も「普通の国」になることを主張している政治家自身がそうは思っていないのだと思う。
 先日、イギリスのミステリードラマを見ていて気づいたのだが、イギリスの首相は同じ首相と呼ばれていても日本の首相とはその重さが全く違う。その責任と権力は大変に大きい。それはつまり世界の命運を左右する力を持っているということだ。
 安倍さんが求めているのは、そのような世界の命運を自分の意思で決定できる絶大な権力なのだ。もちろん彼自身がそこまで行けるとは思っていないかもしれないが、いずれ日本を米英中露と同じレベルの超大国にしたいと考えているのだろう。だから安倍さんの言う「普通の国」は全く普通の国のことではない。アメリカもしくはそこと密接に同盟しているイギリスのことを称して「普通の国」と言っているのだ。もちろんそれは普通どころか世界で最も特別な国々である。そしてもうひとつ付け加えれば世界最大の殺戮者でもある。

 どのように歴史を見てみても、日本が世界から信頼され、賞賛され、愛される理由は軍事力や覇権主義によるものではない。もし軍事力において日本が世界に希望を与えたとしたら、それは日露戦争だけだったろう。確かに表向きそれはアジア人が欧米、白人の勢力に打ち勝ち得ることを宣言した。しかしその内実は勝利であったわけではないし、また中国や朝鮮にとってはアジア人の顔をした新しい侵略者・覇権主義者の登場を意味するものでしかなかった。
 とりわけ戦後日本が世界に評価されたのは平和主義であった。軍隊が他国の人の血を一滴も流していないということが、世界の中に日本を高いところで位置づけることにつながっている。イスラム原理主義者の無差別テロが起きていない国は世界にどれだけあるだろうか。この奇跡に近い日本の平和と言うことを、日本人は本気で考えなくてはならない。

 しかしあまりにも日本人が世界を見ていない、もしくは見せない思想教育が徹底しているために、日本人は日本の平和を理解できず、平和ボケに陥っている。人々は「豊かさ」という飴にも鞭にもなる魔法の縄に絡め取られ、操られている。
 だが世界を一回ぐるっと見回してみればすぐにわかる。無限の豊かさなどあるはずがない。ただ世界の富を奪い取りかき集めてきて山のように積み上げることが出来る者だけが、豊かさを享受することが出来るだけだ。我々はもう今までのような過剰な豊かさ、あふれるばかりの贅沢を続けることは出来ない。それを続けることは自らの人間性を否定することであり、また現実の歴史がそれを許さないだろう。すでに欧米各国は前世紀の半ば過ぎからその豊かさをどんどん失っている。
 それは別に恐ろしいことでも破滅でもない。まさにそれこそが経済面における「普通の国」化である。ヨーロッパの国々はそのことに直面しながら何とか軟着陸する方向性を探って来たように見える。量より質、企業・組織の繁栄より個人の日常生活の安定化へと。もっともそのヨーロッパでさえ、その限界が迫ってきた。この話はまた別の機会に論じよう。

 ともかくも日本の何を守るのか、何を変えるべきなのか、すなわち何をあきらめ、何を捨てるのかということが現在日本が直面している焦眉の課題である。その一極が安倍政権の秘密法や集団的自衛権、武器輸出、TPP、原発再稼働と輸出、アベノミクスという強国化政策であることは言うまでもない。
 それに対する別の極を考え、選び出していくのが我々の責務なのだと思う。
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