本当に毎日のように自然災害や凶悪事件が続くので、なんとなく人々の意識から遠ざけられているように思える東京オリンピックなのだが。
新国立競技場の建設について、多くの人から異論や反対が続出している。そんな中で現国立競技場の解体工事の業者を決めるのに予想を超える時間がかかったのだという。予算として40億円以上が見込まれる事業だが、入札が不調で何度も行わなくてはならなかったそうだ。ところがその後やっと決まった業者に、今度は談合疑惑が持ち上がり、当初7月、延期して9月とされてきた解体工事が、更に延期になるというのである。
ぼくはそもそもオリンピック誘致に反対だったし、国立競技場の建て替えにも疑問を持っている。オリンピック誘致に一般的な国民のメリットは何もないと思う。あるのかもしれないが、それは精神的な高揚感のみで、たしかにそれも必要かもしれないが経済的メリットを差し置くほどとは思えない。
しかしマスコミは盛大にオリンピック誘致を煽ってお祭り騒ぎにしてしまった。その結果、戦争と同じで反対するのがはばかられるような空気が作られてしまった。ところがいざ誘致が決まるとマスコミは手のひらを返して問題点ばかり並べ立てている。そんなことは事前に分かっていたことばかりなのに、本当に腹立たしい。
外国人観光客がやって来るから経済効果があるという人がいる。しかし絶対にそんなことにはならない。今の日本の社会構造を見てみれば、新たな収益増分は金持ちの方にだけ行き、下層にはまわらないことがはっきりしている。
これまで、経済界、政界、マスコミは、デフレが悪い、不景気が悪い、円高が悪いと連呼していた。それがアベノミクスでインフレ、株高、円安が急激に進んだら、結局、物価は上がるのに給料は据え置き、社会保障費はどんどん減額という形で、格差はより広がってしまった。当ブログでは何度も指摘しているように、景気の良・不良は我々の生活のしやすさとは全く関係がないのである。景気が良くなっても悪くなっても、いずれにしても一般の庶民の富が一部の大企業に搾取され続ける構造そのものに変わりはなく、むしろ景気の良・不良を名目にその度合いがどんどん高められているのが実情である。
象徴的なのは東日本大震災の被災地復興だ。復興のためのオリンピックなどと言いながら、実際にはオリンピックに人・モノ・カネ・関心がまわされるようになったため、福島は忘れ去られ、復興はより遅れる結果になっているではないか。
税金がムダに使われるという言い方がある。しかし実際のところ本当にムダな使われ方をする税金はほとんど無いはずだ。たとえば税金を現金で置いておいて火事で焼けてしまったとか、役人が横領で私的に流用してしまったとか、無理な投資で失敗して消してしまったとか、そういうのがムダな使われ方というのであって、基本的に税金は必ず誰かのところに合法的にまわっていくのである。だからたとえば40億円の解体費用であれば、必ずそれを得る企業があり、解体を通じて何らかの利益を得る人達がいる(必ずしも金銭だけの問題ではなく)。そうした受益者にとっては、税金は何のムダでもないのだ。
何らかの政策において、あらゆる人に利益をもたらす政策はなかなか無い。受益者にとっては必要であり、そうでない人にとってはムダに見える。当たり前のことだと思うだろうが、この当たり前のことをちゃんと理解しておかないと、政治家たちにいいようにコントロールされてしまう。誰だって税金は払いたくないのだから、ついつい税金の少ない国がよいみたいな論議に巻き込まれてしまうのだ。それはつまり小さい国家論であり、低福祉国家である。
たとえば先月に行われたスウェーデンの総選挙では、減税政策を進めようとした右派与党に対して、増税による大きな国家への回帰を掲げた左派野党連合が勝利した。もちろん一方で移民排斥を訴える極右政党が大躍進するなど、スウェーデンが理想的国家でうまくいっているなどと言える訳でもないが、しかしやはり成熟した社会として有権者が問題を冷静に考えているのように感じる。
本来的には増税そのことよりも、税金をどう使うかという面で人々が政策を選択するべきである。とは言え細かい政策の一つ一つを選挙で決定することも出来ないから、その政治家や政党の理念、理想を見て判断することになるのだろうが。
一般論で言えば、予算の執行においてより多くの、より幅広い人々が受益者となるような政策が、よりよい政策と言えるはずだ。この場合、受益と言っても必ずしも金銭的な問題とは限らない。たとえば生活保護費の支給は、単にそのひと個人の生活を保障すると言うことにとどまらず、貧困の広がりによる社会不安や治安悪化をふせぐ意味もあるし、子供に対する教育の充実によって将来におけるより質の高い労働力を確保することにもつながる。それは文化的水準の確保、民度の向上にも関わっていくだろう。それは社会全体、国全体にとって有用なことであり、いわば受益者は国民全体になるのである。
もっともそれだけでは漠然としすぎるかもしれない。金銭面だけではないと言っても、やはりおカネの動きの方が分かりやすい。その視点から見ると、税金のシステムは富の移転、富の再配分であると言えるだろう。40億円の解体費用で言えば、納税者から富を吸収して、それを業者に移転する仕組みと見ることができる。
もちろんそれはまず第一段階の表層的、直接的な再配分であって、先に述べたように、それが「風が吹けば桶屋が儲かる」的に連鎖し最終的により多くの再配分に結実することが期待されているはずだ。
つまり増税とは、より再配分の規模を大きくすることを意味し、より大きな額のおカネが誰かから誰かに移転することになる。もし良い政策がより多くの人に益をもたらすものであるなら、増税が行われた結果、社会的格差が縮まっていなくてはならない。そうであればその政策は良い政策だったと言うことになる。
しかし現実はどうだろう。全く逆である。増税政策はより貧しい者からより裕福な者に富を移転させているのである。これは絶対額の問題ではない。
日本の政治の質が悪いところは、増税をして格差を縮めようという主張がどこからも出て来ないことに象徴されている。なぜ増税したのに格差が縮まらないのかという追及をもう誰もしない。税金を上げるか上げないかだけの議論では、既得権益を握る人達の思うつぼにしかならない。
オリンピック見直しも、表層的なところだけで見ていたら、結局誰か特定の人々だけの利益増につなげられていくだろう。注意が必要だ。
新国立競技場の建設について、多くの人から異論や反対が続出している。そんな中で現国立競技場の解体工事の業者を決めるのに予想を超える時間がかかったのだという。予算として40億円以上が見込まれる事業だが、入札が不調で何度も行わなくてはならなかったそうだ。ところがその後やっと決まった業者に、今度は談合疑惑が持ち上がり、当初7月、延期して9月とされてきた解体工事が、更に延期になるというのである。
ぼくはそもそもオリンピック誘致に反対だったし、国立競技場の建て替えにも疑問を持っている。オリンピック誘致に一般的な国民のメリットは何もないと思う。あるのかもしれないが、それは精神的な高揚感のみで、たしかにそれも必要かもしれないが経済的メリットを差し置くほどとは思えない。
しかしマスコミは盛大にオリンピック誘致を煽ってお祭り騒ぎにしてしまった。その結果、戦争と同じで反対するのがはばかられるような空気が作られてしまった。ところがいざ誘致が決まるとマスコミは手のひらを返して問題点ばかり並べ立てている。そんなことは事前に分かっていたことばかりなのに、本当に腹立たしい。
外国人観光客がやって来るから経済効果があるという人がいる。しかし絶対にそんなことにはならない。今の日本の社会構造を見てみれば、新たな収益増分は金持ちの方にだけ行き、下層にはまわらないことがはっきりしている。
これまで、経済界、政界、マスコミは、デフレが悪い、不景気が悪い、円高が悪いと連呼していた。それがアベノミクスでインフレ、株高、円安が急激に進んだら、結局、物価は上がるのに給料は据え置き、社会保障費はどんどん減額という形で、格差はより広がってしまった。当ブログでは何度も指摘しているように、景気の良・不良は我々の生活のしやすさとは全く関係がないのである。景気が良くなっても悪くなっても、いずれにしても一般の庶民の富が一部の大企業に搾取され続ける構造そのものに変わりはなく、むしろ景気の良・不良を名目にその度合いがどんどん高められているのが実情である。
象徴的なのは東日本大震災の被災地復興だ。復興のためのオリンピックなどと言いながら、実際にはオリンピックに人・モノ・カネ・関心がまわされるようになったため、福島は忘れ去られ、復興はより遅れる結果になっているではないか。
税金がムダに使われるという言い方がある。しかし実際のところ本当にムダな使われ方をする税金はほとんど無いはずだ。たとえば税金を現金で置いておいて火事で焼けてしまったとか、役人が横領で私的に流用してしまったとか、無理な投資で失敗して消してしまったとか、そういうのがムダな使われ方というのであって、基本的に税金は必ず誰かのところに合法的にまわっていくのである。だからたとえば40億円の解体費用であれば、必ずそれを得る企業があり、解体を通じて何らかの利益を得る人達がいる(必ずしも金銭だけの問題ではなく)。そうした受益者にとっては、税金は何のムダでもないのだ。
何らかの政策において、あらゆる人に利益をもたらす政策はなかなか無い。受益者にとっては必要であり、そうでない人にとってはムダに見える。当たり前のことだと思うだろうが、この当たり前のことをちゃんと理解しておかないと、政治家たちにいいようにコントロールされてしまう。誰だって税金は払いたくないのだから、ついつい税金の少ない国がよいみたいな論議に巻き込まれてしまうのだ。それはつまり小さい国家論であり、低福祉国家である。
たとえば先月に行われたスウェーデンの総選挙では、減税政策を進めようとした右派与党に対して、増税による大きな国家への回帰を掲げた左派野党連合が勝利した。もちろん一方で移民排斥を訴える極右政党が大躍進するなど、スウェーデンが理想的国家でうまくいっているなどと言える訳でもないが、しかしやはり成熟した社会として有権者が問題を冷静に考えているのように感じる。
本来的には増税そのことよりも、税金をどう使うかという面で人々が政策を選択するべきである。とは言え細かい政策の一つ一つを選挙で決定することも出来ないから、その政治家や政党の理念、理想を見て判断することになるのだろうが。
一般論で言えば、予算の執行においてより多くの、より幅広い人々が受益者となるような政策が、よりよい政策と言えるはずだ。この場合、受益と言っても必ずしも金銭的な問題とは限らない。たとえば生活保護費の支給は、単にそのひと個人の生活を保障すると言うことにとどまらず、貧困の広がりによる社会不安や治安悪化をふせぐ意味もあるし、子供に対する教育の充実によって将来におけるより質の高い労働力を確保することにもつながる。それは文化的水準の確保、民度の向上にも関わっていくだろう。それは社会全体、国全体にとって有用なことであり、いわば受益者は国民全体になるのである。
もっともそれだけでは漠然としすぎるかもしれない。金銭面だけではないと言っても、やはりおカネの動きの方が分かりやすい。その視点から見ると、税金のシステムは富の移転、富の再配分であると言えるだろう。40億円の解体費用で言えば、納税者から富を吸収して、それを業者に移転する仕組みと見ることができる。
もちろんそれはまず第一段階の表層的、直接的な再配分であって、先に述べたように、それが「風が吹けば桶屋が儲かる」的に連鎖し最終的により多くの再配分に結実することが期待されているはずだ。
つまり増税とは、より再配分の規模を大きくすることを意味し、より大きな額のおカネが誰かから誰かに移転することになる。もし良い政策がより多くの人に益をもたらすものであるなら、増税が行われた結果、社会的格差が縮まっていなくてはならない。そうであればその政策は良い政策だったと言うことになる。
しかし現実はどうだろう。全く逆である。増税政策はより貧しい者からより裕福な者に富を移転させているのである。これは絶対額の問題ではない。
日本の政治の質が悪いところは、増税をして格差を縮めようという主張がどこからも出て来ないことに象徴されている。なぜ増税したのに格差が縮まらないのかという追及をもう誰もしない。税金を上げるか上げないかだけの議論では、既得権益を握る人達の思うつぼにしかならない。
オリンピック見直しも、表層的なところだけで見ていたら、結局誰か特定の人々だけの利益増につなげられていくだろう。注意が必要だ。
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