ジーン・ウールの不思議な旅

ジーン・ウールは不思議な女性です。姿を変えて過去にも未来にも現れます。
もしかしたら貴方の友人や奥様かも知れません。

店主ご挨拶

ようこそお越し下さいました。 昨年(2010)、3ヶ月の雲水修行に行ってまいりました。 私は働き者で(自己申告)、精舎は朝は早く夜は遅く「朝瞑想」の時間は、気がつくといつも寝ておりましたが・・。 私の人生の1ページに、思いがけないご褒美を頂けたような日々を過ごさせて頂きました。・・ま、主婦でも決心ひとつで如何様な道も開けるんですね。 今も精舎に行くと「実家に帰った」ような気がします。 このブログ管理人は、最近物忘れ症候群中につき、おいで頂いた感謝を申し上げ、コメントを頂いても書いたり書かなかったり、付き合いが悪いことのご無礼をお許し下さいませ。

今朝の「あさイチ」 リハビリ最前線  川平法 促通回復療法  

2011-09-14 10:16:24 | 本の話・素敵な話
 
脳卒中に新リハビリ法 鹿児島大病院霧島リハビリテーションセンター・川平教授が開発  http://qnet.nishinippon.co.jp/medical/doctor/feature/post_14.shtml
西日本新聞 2006/2/6 の記事です。


今日のNHK 「あさイチ」本当に治る!?リハビリ最前線」 のゲストが上記の川平和美教授だった。

脳卒中には、40歳以上の日本人で何名に一人なるか? のクイズの答えは 
6人に一人でした。


あなたも 私も 脳卒中の確率は6分の1ですぞ。
 

先日、「ためしてガッテン!」でもやったらしい。
その後、電話・問い合わせが殺到で、今回は(電話など問い合わせに)応じられないので・・とお断りから始まった。

これ 録画しました。

ところで 

わたくしめ 最近 運動していないし 体操(真向法) さぼっているし・・
奮起して 毎朝 真向法 頑張った訳です。

そうしたら、4番目の体操・・正座の足の中にお尻を入れて後ろに倒れる・・というか、寝て100数えるんですが、これを両足同時にしたら、翌朝・・?
その日?から右膝が曲がらなくなった。

それで数日後整形外科に行って来ましたら、変形膝関節炎(たぶん)と言われた。
正座は良くないし、ベッドのほうが良いそうです。(飲み薬と貼り薬でバッチリです)

今年の年末は、亭主念願の「ホノルルマラソン」に行く予定で、私も10キロウォークにエントリーしようかなと思っていたのですが、すでにパスする気分。

12月、一年中で一番忙しい時期のホノルルマラソンです。
どんなに忙しくても、老いは待ってくれないって 亭主 思ったんじゃないでしょうかね。


今年のホノルルマラソンは12月11日です。

飛行機に乗ってハワイに着いて走って帰ってくるだけ。

最近、椅子に座って 立ち上がるだけで 膝が痛い。

飛行機の座席・・ビジネスじゃないから ちょっと辛い
辛いけど 楽しみです。

・・・


時に  良きニュース


我らが支部は

昨日

関西学園


達成 いたしました 


ここ数日は まるで嵐のようでした。


法友に感謝。









ブラックホール 銀河を揺るがす謎の天体  

2011-08-30 11:06:19 | 本の話・素敵な話

幸福実現党ニュース

[HRPニュースファイル] 日本の実験棟「きぼう」ブラックホールに星が吸い込まれる
瞬間を初めて観測
2011年8月29日


国際宇宙ステーションに設置されている日本の実験棟「きぼう」の観測装置が、地球から39億光年離れたブラックホールに星が吸い込まれる瞬間を世界で初めて観測しました。快挙です!

国際宇宙ステーションの日本の実験棟「きぼう」には、様々な天体から出されるエックス線を観測する装置が搭載されていて、今年3月28日、地球から39億光年離れた銀河の中心にある、ふだんは暗い天体から強いエックス線が出ている画像の撮影に成功しました。

同じ現象はNASAの観測衛星でも捉えられ、双方の観測結果を日本とNASAの研究チームが共同で解析した結果、この強いエックス線の画像はブラックホールに星が吸い込まれた瞬間を捉えたものであることが分かりました。

ブラックホールは太陽の100万倍以上の重さがあるため、重力が大きく、近くに来た星を吸い込んでしまいます。(下の映像は、ブラックホールに太陽と同じくらいの恒星が吸い込まれる瞬間をシミュレーションしたもの)

NASAと並んで世界の最先端を走る、日本の宇宙開発。宇宙時代を切り拓くためにも、宇宙開発にはより一層力を入れるべきでしょう。(文責・小島一郎)





















まだまだ つづく ・・ 様子

「敵兵を救助せよ」

2011-08-28 06:47:20 | 本の話・素敵な話
工藤俊作・駆逐艦「雷」艦長  「敵兵を救助せよ」
「海の武士道」恵隆之介 著 より


あらすじ
 平成十五年十月十九日、日本の土を初めて踏んだ一人の元英国海軍士官がいた。

元海軍中尉サミュエル・フォール卿。

 フォール卿は、戦後、外交官として活躍。その功績によってサーの称号を受けている。外交官を定年退職後、一九九六年に自伝「マイ・ラッキー・ライフ」を上梓した際、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。
--------------------------------------------------------------------------

 大東亜戦争の開戦劈頭、一九四二年二月二七日から三月一日にかけて、ジャワ島北方のスラバヤ沖で日本艦隊と英米蘭の連合艦隊が激。日本艦隊は三月一日までに、十五隻中一一隻を撃沈し勝利した。

 三月一日にスラバヤ沖で撃沈された英海軍の巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」の乗組員四百数十名は二日に渡って漂流を続け、生存の限界に達していた。このとき、偶然この海域を航行していたのが日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」である。


 当時、英国海軍中尉だったフォール卿は、「日本人は非情」という先入観を持っていたため、機銃掃射を受けていよいよ最期を迎えるものと覚悟した。
 しかし、駆逐艦「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号旗を掲げ、漂流者全員422名を救助したのである。艦長・工藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、英語で、「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」と健闘を称え全員に友軍以上の丁重な処遇を施した。
 戦闘行動中の艦艇が、敵潜水艦の魚雷攻撃をいつ受けるかも知れない危険な海域で、自艦の乗組員の二倍の敵将兵を救助したのだった。もちろん艦長の英断であった。
--------------------------------------------------------------------------------

 フォール卿はこの艦長への恩が忘れられず、戦後その消息を捜し続けてきた。しかし、昭和六二年、工藤中佐が八年前に他界していた事を知ると、自身の齢もすでに八十四歳を数えることもあり、意を決し「人生の締めくくり」として来日したのである。
--------------------------------------------------------------------------

 フォール卿の来日を知った外務省や海上幕僚部は、海上自衛隊最精鋭の艦隊である第一護衛隊群に所属する四代目「いかづち」に卿を招いた。
 フォール卿は迎えいられた「いかずち」の士官室にて戦時中を振り返り、「自分や、戦友の命を救ってくれた『雷』艦長御遺族を始め、関係者に会ってお礼が言いたい。できれば工藤中佐の墓前に自分が著した書を捧げたい」と語る。

 フォール卿の来日の目的は、かなうことなら艦長の墓参をし、遺族に感謝の意を表明したいという積年の思いを遂げることであった。ところが、来日してみたもののその願いはかなえられず、フォール卿は恵氏に艦長の墓と遺族を探し出すことを依頼して帰国する。
  一九九八年四月二九日英タイムズ紙に、フォール卿が投稿し掲載された一文がある。それは翌月に天皇の英国訪問が予定されている時期であり、、それに対してかつて日本軍の捕虜となった退役軍人たちが中心となり反対運動が起きていた。捕虜として受けた処遇への恨みが原因であった。

 しかし、「元日本軍の捕虜として、私は旧敵となぜ和解することに関心を抱いているのか、説明申し上げたい」と前置きして、自身の体験を語ったこのフォール卿の投稿は、それ以後の日本批判の言説の数々を、全く精彩を欠くものとすることになった。
--------------------------------------------------------------------------

 米海軍機関紙「プロシーデングス」昭和六二年新年号にも、フォール卿は「騎士道(Chiv-alry)として工藤艦長の行動を執筆した論文を七ページにわたって掲載し、米海軍軍人をも驚嘆させている。
 さらに 平成四年、スラバヤ沖海戦五〇周年記念式典がジャカルタで行われ、その式典にてフォール卿は記念講演を行った。ここでも工藤中佐の功績を称え、「日本武士道の実践」と強調した。会場からは、万雷の拍手とスタンディングオベーションが起こったという。
--------------------------------------------------------------------------

■工藤艦長の生い立ち

 工藤俊作は、明治三十四年一月七日、山形県東置賜郡屋台村竹森、現在の高畠町大字竹森で父七次三十三歳(大正十一年、七郎兵衛襲名)、母きん二十九歳の次男として生まれた。

 工藤俊作は明治四十一年四月に屋代尋常小学校に入学。明治四十三年四月十五日に佐久間艇長乗り組む第六潜水艇の事故があり、当時屋代尋常小学校では、佐久間艇長の話を朝礼で全校生徒に伝え、責任感の重要性を強調し、呉軍港に向かって全校生徒が最敬礼した。
  工藤はこの朝礼の直後、担任の先生に「平民でも海軍仕官になれますか」と尋ねている。先生は「なれる」と言い、米沢興譲館中学への進学を勧めた。 この時代、小学校の身上書には「士族」か「平民」かを記載する欄が設けられていた。

 工藤は、三学年後半から、猛然と勉強するようになり、屋代尋常小学校創立以来の高得点を維持し続け「神童」と称されるほどになっていた。そして、工藤は米沢興譲館中学に大正四年四月七日に合格順位三位で入学した。

 明治に入り米沢興譲館中学は山形県立米沢中学校となり、米沢士族の間ではステイタス・シンボル的な学校であった。工藤は五年間、現在の上新田にあった親類の家に下宿して、約三キロの道のりを徒歩で通学した。当時、一流中学校の成績抜群で体力のすぐれた者が志すのは、きまって海軍兵学校への受験。次が陸軍仕官学校、それから旧制高等学校、ついで大学予科、専門学校の順であった。

 日本の兵学校の凄さは、欧州のそれが貴族の子弟しか入校できなかったのに比べて、学力と体力さへあれば、誰でも入校できたことである。しかも、入学資格は、中学四年終了程度とされていたが、戦前義務教育課程であった高等小学校しか出ていなくとも(現在の中学校卒業相当)、専検に合格さえすれば受験できた。 その所在地より英国のダートマス、米国のアナポリス、日本の江田島、これらは戦前世界三大海軍兵学校の代名詞とされていた。
--------------------------------------------------------------------------

■海軍の教育方針

 工藤俊作は海軍兵学校五一期として大正九年に入校する。この時代は八八艦隊構想により、入学人員の大幅な増員により二九三名だった。


 海軍は徴兵制の戦前においても、一水兵に至まで志願制で、海軍独特のリベラリズムの気風があった。とくに海軍兵学校は「士官たる前に紳士たれ」とされ昭和二十年十月に閉校するまで継承されたライフスタイルは、長髪をゆるされ、英国流で洗練されていた。

 鈴木貫太郎中将(海兵一四期)が校長として赴任し、約半年の十一月末までであるが工藤たち五一期はその影響を強く受けていくこととなる。

 海軍兵学校校長に着任した鈴木は、大正八年十二月二日、兵学校の従来の教育方針を大改新を敢行する。

・鉄拳制裁の禁止
・歴史および哲学教育強化
・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)

 工藤ら五一期生は、この教えを忠実に守り、鉄拳制裁を一切行わなかったばかりか、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導していた。

 鈴木中将は 明治天皇が、水師営の会見の際「敵将ステッセルに武士の名誉を保たせよ」と御諚され、ステッセル以下列席した敵軍将校の帯剣が許されたことを生徒に語っている。

 昭和一九年夏、海軍兵学校を訪ねた鈴木は、時の井上成美校長に「井上君、兵学校教育の本当の効果があらわれるのは、君、二十年後だよ、いいか、二十年後だよ」と繰り返し言っている。
--------------------------------------------------------------------------

■工藤俊作「雷」艦長に着任

工藤俊作は駆逐艦「雷」の艦長として、昭和十五年十一月一日として着任する。工藤は駆逐艦艦長としてはまったくの型破りで、乗組員たちはたちまち魅了されていった。

 着任の訓示も、「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」というものだった。乗組員たちは、当初工藤をいわゆる「軟弱」ではないかと疑ったが、工藤は決断力があり、当時官僚化していた海軍でも上に媚びへつらうことを一切しなかった。

 また、工藤は酒豪で、何かにつけて宴会を催し、仕官兵の区別なく酒を酌み交わした。好物は魚の光り物(サンマ、イワシ等)で、仕官室の食堂にはめったにでないので、兵員食堂で光り物が出る時、伝令のと自分のエビや肉と交換したり、自ら兵員食堂まで仕官室の皿を持って行って「誰か交換せんか」と言ったりもした。

 工藤は日頃士官や先任下士官に、「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように言っていた。 見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。 このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告していたという。

二ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは、工藤を慈父のように慕い、「オラが艦長は」と自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになっていった。艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していった。
--------------------------------------------------------------------------

■駆逐艦「雷」

 「特型駆逐艦」または「吹雪型」と称される大正十二年度の建艦計画で設計され、大正十五年から昭和八年まで二四隻が就航した、日本海軍建艦史の中で最多のシリーズである。
「雷」は特型・型、二三番艦として造られた。
基本排水量一六八〇トン 全長・全幅一一八・五メートル 一〇・三六メートル
速力三八ノット 機関艦本式タービン二基二軸
主要兵装 一二センチ砲六門 一三ミリ機銃二挺 六一センチ魚雷発射管九門、魚雷一八本
(「日本海軍総覧」新人物往来社 一九九四年刊より)
--------------------------------------------------------------------------

日本海軍の武士道精神

昭和一六年一二月八日に大東亜戦争開戦。その大東亜戦争開戦の二日後、昭和一六年一二月一〇日、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の「不沈艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈した。英国の駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めたが、日本の航空隊は救助活動にはいると一切妨害せず、それどころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送った。さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰港する際にも、日本軍は上空から視認していたが、一切攻撃をしなかった。
 
  こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させた。工藤の敵兵救助とは、こうした武士道の表れであり、決して、例外的な行為だったわけではない。
--------------------------------------------------------------------------

■敵兵を救助せよ!

  英国駆逐艦「エンカウンター」は日本艦隊の追撃を受け、撃沈された。この時、二〇歳の砲術士官だったフォール卿は、こう証言している。

「艦長とモーターボートに乗って脱出しました。その直後、小さな砲弾が着弾してボートは壊れました。・・・この直後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。」「間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けました。固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っていきました。」

 この時期には、米蘭の多くの潜水艦がジャワ海で行動しており、わが国の艦艇も犠牲になっていた。三月一日には、この海域で輸送船「加茂川丸」が敵潜水艦の攻撃を受け沈没。船長であった工藤の兵学校時代の教官であった清水巌大佐(海兵三九期)が船と運命を共にしている。戦闘詳報には二月二七日から三月一日にかけて、ジャワ海で「敵潜水艦合計七隻撃沈」の報告もなされている。それほど危険な海域なのである。敵の攻撃をいつ受けるか分からない状況では、国際法上は、海上遭難者を放置しても違法ではない。「エンカウンター」の乗組員たちは、約二一時間も漂流し、「エクゼター」の場合と異なり、沈没艦から流出した重油の海につかり、多くの者が一時的に目が見えなくなる。

「救命浮舟に五、六人で掴まり、首から上を出していました。見渡す限り海また海で、救命艇も見えず、陸岸から一五〇海里も離れ、食糧も飲料水もない有り様でした。この時、ジャワ海にはすでに一隻の連合軍艦船も存在せず、しかも日本側はわれわれを放置してしまうという絶望的な情況に置かれていました。」

「私は、オランダの飛行艇がきっと救助に来てくれるだろうと盲信しておりました。ところが一夜を明かし、夜明け前になると精気が減退し、沈鬱な気分になっていきました。死後を想い、その時には優しかった祖父に会えることをひそかに願うようになっていたのです」

「一九四二年三月二日の黎明を迎えました。われわれは赤道近くにいたため、日が昇りはじめるとまた猛暑の中にいました。 仲間の一人が遂に耐えられなくなって、軍医長に、自殺のための劇薬を要求し始めました。軍医長はこの時、全員を死に至らしめてまだ余りある程の劇薬を携行しておりました」

 このような情況の中、そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だった。二番見張りと四番見張りからそれぞれ、「浮遊物は漂流中の敵将兵らしき」「漂流者四〇〇以上」と次々に報告がはいる。工藤艦長は「潜望鏡は見えないか」と見張りと探信員に再確認を指示し、敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、午後一〇時頃「救助!」と命じた。

「午前一〇時(正確には午前一〇時一〇分頃とおもわれる)、突然二〇〇ヤード(約180メートル)のところに日本の駆逐艦が現れました。当初私は、幻ではないかと思い、わが目を疑いました。そして銃撃を受けるのではないかという恐怖を覚えたのです」

「雷」は直ちに、「救難活動中」の国際信号旗をマストに掲げ、第三艦隊司令部高橋伊望中将宛てに「我、タダ今ヨリ、敵漂流将兵多数ヲ救助スル」と無電で発した。敵潜水艦に攻撃されるおそれのある中での救助である。それも、その救助する対象は敵将兵である。
--------------------------------------------------------------------------

■工藤艦長 決断す!


ここで工藤は、日本海軍史上極めて異例の号令をかける。

「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」

 工藤は先任将校(浅野市郎大尉海兵六三期当時二九歳)に救助全般指揮をとらせ、航海長(谷川清澄中尉二五歳)に後甲板を、砲術長(田上俊三中尉二四歳)に中甲板における救助の指揮をとらせた。

 佐々木確治一等水兵(当時21歳)が回想する。

「筏が艦側に近づいてきたので『上がれ!』と怒鳴り、縄梯子を出しましたが、誰も上がろうとしません。敵側から、ロープ送れの手信号があったのでそうしましたら、筏上のビヤ樽のような高級将校(中佐)にそれを巻き付け、この人を上げてくれの手信号を送ってきました。五人がかりで苦労して上げましたら、この人は『エクゼター』副長で、怪我をしておりました。それから、『エクゼター』艦長、『エンカウンター』艦長が上がってきました。 その後敵兵はわれ先に『雷』に殺到してきました。一時パニック状態になったが、ライフジャケットをつけた英海軍の青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然となりました。この人は、独力で上がれない者には、われわれが差し出したロープを手繰り寄せて、負傷者の身体に巻き、そして、引けの合図を送り、多くの者を救助をしておりました。『さすが、イギリス海軍士官』と、思いました」

「彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。艦に上がってきた順序は、最初が『エクゼター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿が青年士官という順でした。当初『雷』は自分で上がれる者を先にあげ、重傷者はあとで救助しようとしたんですが、彼らは頑として応じなかったのです。その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』の乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、この光景と対象的な情景を目にしました」

浮遊木材にしがみついていた重傷者が、最後の力を振り絞って「雷」の舷側に泳ぎ着いて、「雷」の乗組員が支える竹竿に触れるや、安堵したのか、ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。甲板上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」と呼びかける。この光景を見かねて、二番砲塔の斉藤光一等水兵(秋田出身)が、独断で海中に飛び込み、続いて二人がまた飛び込んだ。立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けた。

 艦橋からこの情景を見ていた工藤は決断する。

「先人将校!重傷者は、内火艇で艦尾左舷に誘導して、デリック(弾薬移送用)を使って網で後甲板に釣り上げろ!」

 この期に及んで敵も味方もなかった。まして海軍軍人というのは、敵と戦う以前に、日頃狭い艦内で昼夜大自然と戦っている。この思いから、国籍を超えた独特の同胞意識が芽生えたのであろう。甲板上には負傷した英兵が横たわり、「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいた。一方、甲板上の英国将兵に早速水と食糧が配られたが、ほとんどの者が水をがぶ飲みした。救助されたという安堵も加わって、その消費量は三トンにものぼった。便意を催す者も続出した。工藤は先任下士官に命じて、右舷舷側に長さ四メートルの張り出し便所を着工させた。
--------------------------------------------------------------------------

■今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである

 「私は当初、日本人というのは、野蛮で非人情、あたかもアッチラ部族かジンギスハンのようだと思っていました。『雷』を発見した時、機銃掃射を受けていよいよ最後を迎えるかとさえ思っていました。ところが、『雷』の砲は一切自分達に向けられず、救助艇が降ろされ、救助活動に入ったのです」

「駆逐艦の甲板上では大騒ぎが起こっていました。水平たちは舷側から縄梯子を次々と降ろし、微笑を浮かべ、白い防暑服とカーキ色の服を着けた小柄で褐色に日焼けした乗組員がわれわれを温かくみつめてくれていたのです」

「艦に近づき、われわれは縄梯子を伝わってどうにか甲板に上がることができました。われわれは油や汚物にまみれていましたが、水兵たちは我々を取り囲み、嫌がりもせず元気づけるように物珍しげに見守っていました。それから木綿のウエスと、アルコールをもってきて我々の身体についた油を拭き取ってくれました。しっかりと、しかも優しく、それは全く思いもよらなかったことだったのです。友情あふれる歓迎でした。私は緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと、運動靴が支給されました。これが終わって、甲板中央の広い処に案内され、丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。私は、まさに『奇跡』が起こったと思い、これは夢でないかと、自分の手を何度もつねったのです」

フォール卿は当時の様子をそう語った。

 間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられた。

「すると、キャプテン(艦長)・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼をしました。われわれも遅ればせながら答礼しました。」
キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチされたのです。

You had fought bravely.
Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.
I respect the English Navy,but your government is foolish make war on Japan.

「諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである」

フォール卿はさらに、目を潤ませて語る。

「『雷』はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助してくれました」


 この日「雷」は422名を救助した。ちなみに、駆逐艦「雷」の乗組員は約150名である。

 この頃、我国にとってはまさに「石油の一滴は、血の一滴」といわれた時であり、また艦内の真水をつくるために造水装置も作動させるにも燃料を消費する。そのため、直接燃料を制御する機関長以下の機関科員は、絶えず燃料節約に努力し、また乗組員は真水を節約するため、洗面や飲料水にも細心の注意を心がけていた。それを、工藤艦長は、敵兵救助のために艦の停発進を繰り返して燃料を激しく消耗し、重油で汚染された敵兵を洗浄するため、アルコールやガソリンを使い、さらに真水まで使用している。

 海の中から上がった喜びも束の間、今度は赤道直下の灼熱の太陽が容赦なく敵兵を襲った。一時間も経過すると、身体の重油を落とすために使用したガソリンやアルコールが災いして、今度は彼らの身体に水泡ができた。そこで工藤艦長は全甲板に大型の天幕を張らせ、そこに負傷者を休ませた。艦が走ると風も当たり心地よい。ただ、これで全甲板の主砲は使えなくなった。
--------------------------------------------------------------------------

■この光景は初めてだ・・・


 「雷」はもはや病院船となったと言っても過言ではなかった。

 「雷」の上甲板面積は約一二二二平方メートル、この約六〇%は艦橋や主砲等の上部構造物が占める。実質的に使えるスペースは、四八八平方メートル前後である。そこに、約三九〇人(約二〇人から三〇人は士官で、艦内に収容)の敵将兵と、これをケアーする「雷」の乗組員を含めると一人当りのスペースは驚く程狭いスペースしか確保できない。また、工藤艦長は敵将校たちに「雷」の士官室の使用を許可した。  

蘭印攻略部隊指揮官高橋伊望中将はこの日夕刻四時頃、「エクゼター」「エンカウンター」の両艦長を「雷」の付近を行動中の重巡「足柄」に移乗するよう命令を下した。舷門付近で見送る工藤と、両艦長はしっかりと手を握り、互いの武運長久を祈った。高橋中将は双眼鏡で、「足柄」艦橋ウイングから接近中の「雷」を見て、甲板上にひしめき合う捕虜の余りの多さに、唖然とした。

 この時、第三艦隊参謀で工藤俊作と同期の山内栄一中佐が高橋中将に、「工藤は兵学校時代からのニックネームが『大仏』であります。非常に情の深い男であります」と言い、高橋司令長官を笑わせた。高橋中将は「それにしても、物凄い光景だ。自分は海軍に入っていろいろなものを見てきたが、この光景は初めてだ」と話していたという。

 救助された英兵たちは、停泊中のオランダの病院船「オプテンノート」に引き渡された。移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、また、向きを変えてウイングに立つ工藤に敬礼して「雷」をあとにした。工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をしていた模様である。これに比べて兵のほうは気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感謝の意を表していた。

 「エグゼタ?」の副長以下重傷者は担架で移乗した。とくに工藤艦長は、負傷して横たわる「エグゼタ?」の副長を労い、艦内で療養する間、当番兵をつけて身の回りの世話をさせていた。副長も「雷」艦内で、涙をこぼしながら工藤の手を握り、感謝の意を表明していたという。
--------------------------------------------------------------------------

■捕虜としての生活


その後のフォール卿の捕虜としての生活はどうなったのであろうか。

「オランダの病院船からマサッサルの捕虜収容所まで徒歩で行進しました。路上でみた住民たちはかなり親日的で、軒ごとに日章旗が掲揚されていました。それに反して、彼らは自分たちをかなり敵愾心をもって見ているようでした。

 捕虜収容所はオランダ軍の施設でした。当初は鉄条網もなく、さほどの束縛もありませんでした。土間に寝起きさせられましたが、後に、小さなベットと蚊屋が支給されました。ここには、英海軍、オランダ海軍、少数の米海軍(撃沈された潜水艦乗組員)の士官を含め兵卒もまじって収容されていました。

 ある時、オランダ海軍士官が脱走を試みました。ところが、買収したはずのインドネシア人が日本軍に通報し、それは失敗に終わったのです。これ以降、自分は英国海軍の上級士官から二度とこういう行為はするなと言われました。

 日本兵はわれわれが勉強することを許してくれました。そのため、私はこの環境を利用してオランダ語、マレー語、インドネシア語を学んだのです。このことは戦後自分の外交官活動に大変役立ちました。

 一九四二年の暮れ、ある日本人のジャーナリストが捕虜収容所を訪問し、私は取材を受けました。彼は長年の滞米経験があり、われわれに同情的でした。彼は私にインタビューし、その内容を東京放送で必ず放送すると約束してくれました。その時、私が語ったのは次のようなことでした。

 一、両親あて、私は現在日本の捕虜になっている。日本の処遇はいい。現在語学を懸命に学んでいる。

 二、恋人メレーデ(現婦人)へ、私の愛を君に送る。

 戦後になってわかったことですが、この放送はロンドンのアマチュア無線家によって受信され、両親に電話で知らされていました。 両親はすぐにこれが偽物でない事を確信しました。なぜならメレーデは、私のフィアンセの愛称だったからです。これは、当時スウェーデンにいたメレーデの兄にも伝えられました。

 その後、捕虜は分けられて、セレベスの東岸にあるパマラに移され、そこで終戦を迎え、一九四五年一〇月二九日にリバプールに帰還したのです」

 先に書いたようにフォール卿は、戦後、外交官として活躍し、定年退職後、平成八年に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓し、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。
--------------------------------------------------------------------------

■価値観の転換の中で・・・

 平成一五年一〇月、フォール卿は日本の土を踏んだ。八四歳を迎える自身の「人生の締めくくり」として、すでに他界していた工藤艦長の墓参を行い、遺族に感謝の意を表したいと願ったのである。しかし、あいにく墓も遺族も所在が分からず、フォール卿の願いは叶えられなかった。

 フォール卿から依頼を受けて、「敵兵を救助せよ」の著者・恵隆之介氏がわずか三ヶ月後に、遺族を見つけ出した。工藤俊作氏は終戦後、高畠にあったかよ夫人の実家にいて、苗木の挿し木などをして収入を得ていた。敗戦により陸海軍人に対する視点が一八〇度変わり、かっての職業軍人に戦争責任のすべてを転嫁する風潮が全国的に起こっていたのである。しかし、工藤俊作の出身地である屋代村村民は、戦前戦後の価値観の転換はなかった。

 村民は、工藤が駆逐艦艦長時代、碇泊中に郷党の兵が表敬のため舷門を訪ねると、階級にこだわることなく艦長室に招き入れ、歓待してくれたことを決して忘れなかった。とくに元海軍下士官の二階堂敬三氏(平成一二年、八一歳で死去)は、戦後、何度も感激をもって次の話を村民にしていた。

「水兵時代に『雷』を訪問し、『工藤艦長に表敬したい』と舷門にいる下士官に申告したことがあった。下士官は即座に『兵の分際で、艦長を表敬とは何事か』と怒鳴った。そこに、折良く工藤艦長が通りかかり、『二階堂君ではないか』と、艦長室に案内し、歓待してくれた」

工藤は高畠から自転車で、屋代村の兄家族を度々訪ねているが、途中、村人たちは農作業の手を止めて頭を垂れていた。

 昭和三〇年、工藤も敗戦のショックからようやく立ち直り、埼玉県川口市朝日に転居する。かよ夫人の姪が、この地で医院を開業することになり、工藤は事務を、夫人は入院患者の賄い婦としての生活が始まったのである。

 この頃になると、同期や、旧部下が、工藤の所在を探し当てて訪問するようになる。戦後まっ先に工藤を訪ねてきたのが、艦長伝令をしていた佐々木確治氏であった。その次が第一砲塔砲手の橋本衛氏であった。二人とも玄関で、「艦長、戦時中はお世話になりました」と発声するや、後は声にならずただただ、工藤に肩をたたかれて、涙を滂沱するだけであった。

 近所の人々もこの寡黙で長身の男が、かつて駆逐艦の艦長であることに気づく。少年たちは朝夕、挨拶し、工藤を畏敬するようになる。
--------------------------------------------------------------------------

■晩年の工藤艦長

 工藤は海上自衛隊や、クラスが在籍する大企業からの招きも全部断わった。さらに戦後のクラス会には出席しようとしなかった。工藤の日課は、毎朝、死んでいったクラスや、部下の冥福を祈って仏前で合掌することから始まった。楽しみは、毎晩かよ夫人に注がれる晩酌と、毎月送られてくる雑誌「水交」に目を通し、先輩、後輩の消息を知ることであった。

 昭和五二年暮れ、病魔に冒される。胃ガンであった。

 昭和五四年一月一二日、七八歳の生涯を静かに閉じた。いよいよ最後という時、クラスの大井薫氏や、正木生虎氏が病室を訪ねた。付き添い中の夫人が、「大井さんと正木さんですよ」と耳元で囁いた。

「ああ大井か、正木か。貴様たちはおおいにやっているようだが、俺は独活の大木だったなあ」

と言いつつ、静かに目を閉じたという。

工藤俊作の甥・七郎兵衛氏は「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と落涙した。我国海軍のサイレント・ネービーの伝統を忠実に守って、工藤中佐は己を語らず、黙々と軍人としての職務を忠実に果たして、静かにこの世を去っていったのである。

 現在、工藤中佐夫妻は川口市朝日にある薬林寺境内に眠っている



とても感動しました。

教科書問題・・

こうゆう話こそ 子供たちに伝えたいです。


◆ 強かった日本人 2/2◆

2011-08-19 20:36:48 | 本の話・素敵な話


◆ 強かった日本人 2/2◆

「おそろしく強い」日本の軍人は、体格で言ったら、ものすごく小柄です。

だいたい当時の男性の平均身長は、160cm前後です。
これは世界的にみても小柄です。

お隣のコリアンなどは、遺伝的特性で、日本人と比べると、男性の体格は、ひとまわりもふたまわりもデカイ。
そのことは、明治の初めごろ日韓を訪問したイザベラ・バードの紀行文にも出てきます。

そのコリアンがいくら体格が良くても、支那人がいくら大人数で、ぶ厚い青竜刀を振り回しても、とにかく日本の軍人には敵わなかった。

青竜刀は、ぶ厚くて重いから、攻撃が単調です。
これをかわして、切れ味のするどい日本刀で、斬る。

いくらコリアンの体格がよくても、木刀で相手の動きを読んで、切っ先を毛筋ひとつでかわず訓練を積んだ日本人には、パンチもキックも通じません。

なぜなら、あたらない。

そのくせ、棒きれひとつで、打ちすえられるし、つかみかかって組みふせようとすると、柔道の投げ技で投げ飛ばされる。

そんなことが繰り返されれば、そりゃあ日本人が怖かったのも当然です。

実は、最近のテレビや映画の時代劇で、必ず剣を剣で受け止めるのは、コリアンの陰謀というウワサもあります。
幼いころから日本人に、戦いになったら剣は剣で受けるもの、と刷り込んでおけば、たとえば青竜刀で斬りかかったとき、日本人はとっさに刀でこれを受け止める。
そうなればぶ厚い青龍刀で日本刀もろとも、日本人を青竜刀でまっぷたつにすることができる。


要するに、そういう絵を書いている奴がいて、その絵に日本人は戦後65年、易々と乗せられ、弱化されてきている、ということです。

昔、連合赤軍事件というものがありました。
この事件以降、左翼のいわゆる「闘争」は、日本人の世間からは、もはや見向きもされなくなった。

その2年後、大ヒットした曲が、麻丘めぐみの「わたしの彼はひだりきき」です。
ロングヘアを、頬のところだけ、短くカットした、彼女のヘアスタイルは、平安美女を思わせるお姫様カットと呼ばれ、当時「かわいい」と大流行した。


そしてかわいらしい日本人形のような女性が、「わたしの彼は左きき」と歌ったわけです。
左きき=左前=左翼を連想させますが、美しい日本女性、しかも古風ないかにも日本的な情緒を持った美しい女性が、私の彼は左です、とやったわけです。

歌った歌手の麻丘めぐみさんには、何の罪もないけれど、この歌のおかげで、確実に当時の大学内での左翼派学生の地位は向上した。

なにせ左翼の方がかっこいい。
私の彼は、左なのです。


ボクも、麻丘めぐみのファンだったし、この歌も好きな歌ではあるけれど、社会性を失った左翼の復権のために、そういう歌を仕掛けたヤカラが、たしかにこの日本にいた、という事は、忘れてはいけないことのように思います。

もうすこし続けます。

戦後、もてはやされたもののひとつに、男性の低音があります。
フランク永井の「君恋し」や「おまえに」は、いまでもカラオケで歌われる定番ソングになっているけれど、そこでよく言われたのが「低音の魅力」です。

そして男性の声は、低い声がモテ声だ、とされた。


けれどよくよく考えてみると、実は低い声というのは、非常に「通らない」声です。
たとえば連隊に、右向け―、右っ!と号令をかけるとき、低い声では、後ろの方にはまるで聞こえない。
銃弾唸る戦場では、むしろキーの高い声の方が、よく通ったりします。


とりわけ、騒音の中では、半音高い声の方が、よく通ります。
ですから、電車のアナウンスなどは、半音高い声で「次は~、新宿~。新宿~。お降りの際は・・」などとアナウンスします。
騒音の中で、声を聞き取りやすくするためです。


要するに、日本男児がモテたい一心で、低音病にとりつかれれば、もはや号令をかけることもできなくなる。

集団戦術がとりにくくなる。

号令できる日本人男性が、減る。

これも、日本弱化策の一環だったのかもしれません。


毎日新聞社のWAIWAI事件など、氷山の一角で、これまで日本人は、戦後65年、ありとあらゆるトラップを仕掛けられ、弱体化させられ、結果として、私たちは、そうした日本解体計略に、うまうまとのせられ、結果として、親支那、親韓、反日政党、政治家に、この日本を明け渡してしまったのです。

そして、先人達が築いてくれた日本は、もはや風前のともしびにある。

最近、日本で商売をする韓国人の方と話をする機会があったのですが、彼ら、もう完全に日本を馬鹿にしきっています。


いまどき、世界中どこに行っても、韓国産品だといえば、相手にされない。
日本くらいなもの、なのだそうです。韓国産品をありがたがって買ってくれるのは。
これで日本の農業が壊滅してくれれば、韓国製食品が飛ぶように売れる、のだとか。

その韓国人の友人の支那人が言っていたそうです。
支那でも韓国でも、総理や政府高官が、外国から金銭を受け取っていたことがバレれば、国民は暴動を起こしてでもそんな総理を引きずり降ろす。


ところが日本では、そんな不祥事がバレても、国民は何も文句を言わない。
日本人は、完全に政治オンチのアホタレになっているから、何を言っても、どれだけ収奪しても、やり放題、なのだそうです。

年号が昭和の間は、それでも、日本に手をだそうというのは、おっかなびっくり、こわごわ、だったそうです。
いまは、完全に舐めきっている。


こんな日本にしたのは、他の誰でもない。日本人そのものです。

逆にいえば、日本人が矜持を持ち、本来の日本の歴史、伝統、文化を大切する気概を持てば、それだけで日本は変わる。


日本を変えるのは、他の誰でもない。
私たち自身が変わることです。


 v(^∀^*)ノ

<編集 配信> 『日本の心を伝える会』
ホームページ http://www.nippon-kokoro.com/


   
日本刀が チャリン って刀と刀がぶつかったら 刃こぼれする筈・・刀は武士の魂で、大事な刀を乱暴には使わない・・って、そうだろうなぁ って思う。


私の彼は左利き・・の左は左翼のこと・・ってのも、「ねずきち」さんのおっしゃることなら 口答えはいたしません。

・・支那でも韓国でも、総理や政府高官が、外国から金銭を受け取っていたことがバレれば、国民は暴動を起こしてでもそんな総理を引きずり降ろす。

ところが日本では、そんな不祥事がバレても、国民は何も文句を言わない。
日本人は、完全に政治オンチのアホタレだ・・

本当にアホタレです。

経済音痴の民主党は、日本という国を弱小化するのみです。
良いことはありません!!


◆ 強かった日本人 1/2◆

2011-08-19 14:09:05 | 本の話・素敵な話
   


◆ 強かった日本人 1/2◆


子供の喧嘩といえば、昔は「とっくみあい」の喧嘩をよくしたものです。
それが最近では、滅多に喧嘩をすることもなく、たまにあっても「殴り合い」になるのだそうです。

原因は、幼いころからのテレビの刷り込みで、「○○レンジャー」などの怪物ものので、キックやパンチを目で見て覚える。
いやはやテレビの影響というのは、おそろしいものです。


そういえば、初期の頃のウルトラマンは、最後はスペシウム光線で怪獣を倒すけれど、その途中の格闘シーンというのは、いま思えばまさに「とっくみあい」でした。

それがパンチやキックでの戦いが主流になったのは、仮面ライダーくらいからです。
以後は、子供の喧嘩も、パンチやキックが主流になった。


もともと喧嘩といえば「とっくみあい」だったのには理由があって、昔の人は幼いころから剣術を習ったから、日本人同士の喧嘩では、まずパンチが当たらない。

どんなハードパンチャーの拳でも、木刀の切っ先のスピードには敵わないからです。


木刀と書きましたが、剣道が今のような防具と竹刀というスタイルになったのは、実はずいぶんと最近のことです。

それ以前の剣術道場というのは、基本、防具はつけませんでした。
竹刀も使いません。
練習着を着て、木刀で稽古したのです。


木刀で打ちあうのです。

当たれば、大けがをします。

打ちどころが悪ければ、死にます。

そういう道具を使って、防具もつけずに稽古した。

ですから、剣術の稽古で何を学ぶかといえば、とにもかくにも、相手の太刀筋や動きを読んで、毛筋一本で、その攻撃をかわすのが訓練です。
あたりまえです。

当たれば大けがする。

これが木刀でなく、真剣なら、死んでいる。
だから、決して「あたらないよう」に全力を尽くして練習したのです。

ついでに申し上げると、よく最近のテレビや映画などである「つばぜり合い」は、剣術では「禁じ手」です。
木刀同士なら、相手の打ち込みを木刀でかわしても、それは木と木がぶつかるだけで済みます。
けれど、これが実戦なら日本刀と日本刀がぶつかるわけです。

日本刀は、すぐれた切れ味を持つけれど、薄くて鋭利です。
薄くて鋭利な刃物と刃物がぶつかりあったらどうなるか。
考えなくてもわかることです。
刃こぼれするし、折れたり曲がったりしてしまう。


伝家の宝刀という言葉がありますが、精魂こめて作られ、先祖代々伝わる大事な刀を、使い方を誤って折ったり、傷にしたりしたら、ご先祖様に申し訳がたたないと考えるのが、日本人です。

だから、日本刀での斬り合いに、刀と刀を、チャリーンと合わせるなどという戦い方はない。

日本刀での戦いには、「盾」が用いられません。

世界中、剣と楯はセットなのですが、日本にはないです。

要するに、相手の剣を毛筋一本でかわして、斬るというのが剣の使い方の基本中の基本だったのです。

ちなみに、テレビや映画での殺陣シーンでは、いまどきはどの時代劇でも必ず、相手の剣を、自分の剣で受けるというシーンが出てきます。

これこそ大ウソのコンコンチキだとわかっていただけますでしょうか。


実は、以下を言いたくて、長い前置きをしています。

戦前の日本の軍人というのは、とにかく恐ろしく強かったのです。
常に少数で、大多数の敵と戦い、それでも勝ってしまった。

とりわけ恐ろしかったのが、日本の軍人による夜襲です。
接近戦になると、日本の軍人に勝てる軍隊は、世界中、どこにもなかったのです。

その理由は明日のメルマガでお伝えします。

◆【2】◆ 日心会会員募集中      ◆
└────────────────────────
 ↓お申込みはコチラ↓
http://www.nippon-kokoro.com/mailmag_entry.php

■┓ ML会員   ■
┗┛ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

登録費用も月々の費用も全部無料です。

 ↓お申込みはコチラ↓
http://www.nippon-kokoro.com/ml_entry.php


なんか待ち遠しいです。
昨日18日、今日19日だから・・と見たけど・・まだ送ってくれていない。

面白いですよね~★



エルトゥールル号の遭難 -命の光からー 

2011-08-17 22:25:41 | 本の話・素敵な話

「TKCビジネスワンポイントニュース」「TKC商工ニュース」 2002-11月 「付録資料」                                  
[耳より情報(特別編)]

ーー語り継ぐべき歴史ーー                               

エルトゥールル号の遭難 -命の光からー 

 和歌山県の南端に大島がある。その東には灯台がある。明治3年(1970年)にできた樫野崎灯台。今も断崖の上に立っている。

 びゅわーんびゅわ-ん、猛烈な風が灯台を打つ。どどどーんどどどーん、波が激しく断崖を打つ。

台風が大島を襲った。明治23年9月16日夜のことである。

午後9時ごろ、どどかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海の方から音がした。灯台守(通信技手)ははっきりとその爆発音を聞いた。

「何か大変なことが起きなければよいが」 灯台守は胸騒ぎがした。しかし、風と岩に打ちつける波の音以外は、もう何も聞こえなかった。

 このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台の方へ押し流されてきた。全長76メートルもある船。
しかし、まるで板切れのように、風と波の力でどんどん近づいてくる。
あぶない! 灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には、岩がにょきにょき出ている。

 ぐうぐうわーん、ばりばり、ばりばりばり。

船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに水が入り、大爆発が起きた。
この爆発音を灯台守が聞いたのだった。
乗務員は海に放り出され、波にさらわれた。また、ある者は自ら脱出した。真っ暗な荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだった。そして、岩にたたきつけられた。
一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。意識を失い、岩場に打上げられた。

 「息子よ、起きなさい」 懐かしい母が耳元で囁いているようだった。
 「お母さん」という自分の声で意識が戻った。

真っ暗な中で、灯台の光が見えた。
 「あそこへ行けば、人がいるに違いない」

そう思うと、急に力が沸いてきた。40メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いたのだった。

 灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然だった。顔から血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。灯台守はこの人が海で遭難したことはすぐわかった。

 「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」と感嘆した。

 「あなたの国はどこですか」
 
 「…………」

言葉が通じなかった。それで、「万国信号音」を見せて、初めてこの人はトルコ人であることと、船はトルコ軍艦であることを知った。また、振りで、多くの乗務員が海に投げ出されたことがわかった。

 「この乗務員達を救うには人手がいる」
傷ついた水兵に応急手当をしながら、灯台守はそう考えた。
 「樫野の人たちに知らせよう」

灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆け出した。電灯もない真っ暗な夜道。人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。

灯台に戻ると、10人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけだった。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。

 この当時、樫野には50軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは総出で岩場の海岸に下りた。だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたくなる光景であった。村の男たちは泣いた。

遠い外国から来て、日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。

 「一人でも多く救ってあげたい」

しかし、大多数は動かなかった。一人の男が叫ぶ。

 「息があるぞ」

だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。
村の男たちは、自分たちも裸になって、乗務員を抱き起こした。
自分たちの体温で彼らを温めはじめた。

 「死ぬな!」 「元気を出せ!」 「生きるんだ!」

村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗務員の意識がもどった。
船に乗っていた600人余り。そして、助かったのは69名。
この船の名はエルトゥールル号である。

助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。
当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。
井戸もなく、水は雨水を利用した。サツマイモやみかんがとれた。
漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。ただ、各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。

 このような村落に、69名もの外国人が収容されたのだ。島の人たちは、生まれてはじめてみる外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。だが、どんどん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。台風で漁ができなかったからである。

 「もう食べさせてあげるものがない」 「どうしよう」

 一人の婦人がいう。 「にわとりが残っている」

 「でもこれを食べてしまったら……」
 「お天とうさまが、守ってくださるよ」

女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人に食べさせた。

 こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁寧に葬った。

このエルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして、明治天皇に言上された。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。

このことは、日本中に大きな衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。

 次のような後日物語がある。

イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。
イラクのサダム・フセィンが
「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」
と無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。
日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。
その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。日本政府は素早い決定ができなかった。空港にいた日本人はパニック状態になっていた。

 そこに、2機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。
日本人216名を乗せて、成田に向けて飛び立った。
タイムリミットの1時間15分前であった。

 なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。

前・駐日大使、ネジアテイ・ウトカン氏は次のように語られた。

「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子どもたちでさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 エルトゥールル号の話は112年前の真実で、17年前のイラン・イラク戦争の時には、多くの日本人がトルコの人によって救われました。

決して、多くの人には知られていない歴史の真実です。

ちなみに、今回のサッカーワールドカップで、トルコ代表がユニホームを和歌山県串本町に寄贈したということです。

   

薬剤師をしている友人から、昨日メールを頂きました。
胸を打つ・・とても良い話ですね。

涙がとまりませんでした。

・・ そう言えば・・確かにそんな事がありました。

テレビニュースで・・そんな出来事があったこと思い出しました。

あの時は誰も・・エルトゥールル号の事故や 樫野の村人の温かい心を 思い出すことはなかった。

ただ、なんてトルコ航空機の人々は素晴らしいんだ・・って感動しました。

覚えていますか?


◆ 阿片戦争と支那人の嘘吐き ◆  

2011-08-13 18:43:43 | 本の話・素敵な話
   
┌◆ 阿片戦争と支那人の嘘吐き ◆  2011/8/10

『日本の心を伝える会』より

最近、喫煙所という閉ざされた空間を見て、「似ているな」と思うことがあります。
「阿片窟(あへんくつ)」です。

阿片窟というのは、19世紀初頭、支那にあったとされる阿片の吸引所で、映画や漫画では、よくその阿片窟で、阿片を詰めたキセルで煙をくすらせ、ガリガリに痩せ細った人達が、眼をトロンとさせ、男女とも半裸の姿でときにえっちに励む姿などが描かれています。

けれど実はそんなものは「なかった」と言ったら、皆様は驚かれるでしょうか。
が、実は、そうなのです。

阿片(アヘン)は、ケシ(芥子)の実から生産されます。

芥子という植物は、芥子の花を咲かせます。
この花が散ると、花があった根元に丸いふくらみが残る。

これが芥子坊主(けしぼうず)と呼ばれるもので、この芥子坊主にナイフで切り込みを入れると、中から乳液状の液体が出てきます。
これを乾燥させて、黒い粘土状にしたものが阿片なのだそうです。

そして阿片をさらに精製してそのアルカロイドを抽出したものが、みなさまご存知の「モルヒネ」です。
さらにモルヒネの純度を高めたものがヘロインです。

ヘロインまでくると、依存性が格段に高くなり、幻覚症状などがひどくなる。

(ちなみにアルカロイド(天然由来の有機化合物)の抽出方法が確立されたのは、阿片が土台となっています。
日本で言ったら江戸時代中期の文化元(1804)年、ドイツの薬剤師ゼルチュネルが、阿片からモルヒネを分離抽出した。いまではカフェインをはじめ、様々な医薬品に、このアルカロイド抽出の技法が役立てられています。)

そもそも阿片と人類の歴史は古く、いまから5400年前のメソポタミアでは、すでに芥子の栽培がされていたそうです。

5000年前のイランの石版には、古代シュメール人が芥子からどうやって乳液を採取したかについてが書かれています。
4000年前にはヨーロッパや、中東、中央アフリカで広く芥子は栽培されていたし、3500年前のエジプトでは、阿片が製造されていた事がパピルスの文書に記されています。

当時の人々にとって、阿片は鎮痛剤や、睡眠導入剤などの医薬品だったのです。
そして広く普及していた。

支那にはシルクロードを経由して、やはり医薬品として持ち込まれました。
三国志に登場する医師、華佗の用いた麻酔薬は、阿片だったといわれています。

日本では、阿片は室町時代に支那からもたらされました。
阿片は日本では阿芙蓉(あふよう)と呼ばれ、鎮痛薬として流通しています。

よく時代劇などでは、長崎奉行がよく悪徳商人と結託して、阿片を密輸して遊女などに吸わせて中毒にさせてものにしたり、密貿易で大儲けをしたりなどという筋書きが描かれますが、これは大嘘です。

実際には江戸中期までは、あくまで阿片は沈痛、解熱、麻酔、睡眠薬として、医師の専管物でしかなかったし、阿片の麻薬性自体が、まったく世に知られていませんでした。
ところが幕末になってすこし様相が変ってきます。

浪士たちが斬り合いをして、大怪我をするたからです。
その鎮痛剤として、阿片が大量に国内に出回るようになる。

江戸中期に、すでに国内での芥子栽培や、阿片抽出技法が確立されていた日本では、万一怪我をしたときの用心であり、医薬品だったのです。

ところが、ここに問題が起きます。阿片戦争です。
阿片戦争は、天保11(1840)年から、約2年間続いた、支那の清国と英国の間で行われた戦争です。

「阿片戦争」と聞くと、大概の方は、英国が支那人を麻薬漬けにするために阿片を大量に支那に持ち込み、そのために支那のあちこちに阿片窟なる阿片の吸引所ができて、知識人たちが廃人にさせられ、こうした事態に怒った民衆が、英国と一戦交えた戦争という認識の方が多いかと思います。

ところが実際には、だいぶ様子が違います。

この時代、阿片を含めて、いま言われるところのいわゆる「麻薬」の販売、所持、吸引などは、まったく規制外だったのです。

そもそも有名なシャーロック・ホームズは有名なコカイン常習者です。
ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」は、麻薬で酩酊状態になったときの世界観を表現したものだったとされています。
なかでも阿片は、沈痛、咳止め、睡眠導入効果のある嗜好品として、ガムやあめ玉と一緒に、普通にそこらで売られていた、いまで言ったらコンビ二で売っている健康食品みたいなものだったのです。

加えて、精製がさほどよくもなかったから、日常生活に異常をきたすような重度の中毒者もいなかったし、ましてや阿片窟なんてものも、存在しなかった。

このことは、タバコを例にとるとわかりやすいかもしれません。
ニコチンは、精製したものは、少量でも即死に至る劇薬です。
けれどタバコを吸ったからといって、ショック死する人はいない。これと同じです。
そしてタバコは、いまでは閉鎖された喫煙所(煙草窟)で喫煙されている。
つまり、歴史上、阿片窟は存在しなかったけれど、なぜか煙草窟は、現代日本に存在している、というわけです。

さてこうして鎮痛効果もある、吸えば気持ちいいという阿片は、1830年代には、世界貿易のまさに主役となっていました。
とりわけインドを統治する大英帝国では、東インド会社が精製するインド・ベンガル産の阿片が、とびきりの高品質な高級嗜好品として世界中に流通していました。

これで東インド会社が大儲けし、世界中で商品がひっぱりだこになっているという状況になると、だいたいそれを真似して、粗悪品を「安かろう、悪かろう」で輸出しはじめるのが、今も昔も変わらない支那人商法です。

実際、東インド会社産の阿片に対し、支那産の阿片は価格は半分でした。
それで粗悪品を世界に流通させて、大儲けしようとした。

問題は、その商業のやり方です。

英国は、今も昔も、民間会社が公正な法のもとに貿易をし、その法が守られるよう、英国軍が商人たちを保護します。
これに対し支那は、儲かる商売は官営です。
官憲が儲かる商売を独占し、賄賂をとって私服を肥やします。

当時、英国は陶磁器や茶などを支那から大量に買い付けいました。
そして良質な阿片を支那に販売していました。

ところが、良質な阿片を販売する英国に対し、支那産の阿片は粗悪品です。
人々の人気は、どうしても英国産に偏る。
結果、阿片を買うために、貿易通貨としての支那の銀が大量に支那から流出してしまいます。このことに青くなった清国は、阿片の輸入を規制し、銀の流出を阻止しようと目論見ます。対英貿易趣旨が大幅に赤字となった支那は、英国から輸入する阿片を頭ごなしに規制したのです。要するに輸入禁止商品にした。

もともとは、英国と清国の貿易収支は、英国側が大量の茶葉と陶器を買付けていたので、清国が大儲けしていたのです。
ところが、阿片の流通で、この貿易収支が反転した。で、英国の貿易収支が黒字になり、清側が赤字になって銀が流出しはじめたのです。

事態を重く見た清朝政府は、英国東インド会社からの阿片の輸入を規制します。
ところが、そこが支那です。
中央政府が規制しても、現場ベースでは、官僚たちが規制を盾に多額の賄賂をとって大儲けした。

結局、官僚たちの賄賂の分だけ、阿片が高値になっただけで、阿片の清国内流通はまるで止まらず、当然、清国内の銀の流出も止まらない。
こうなるといきなり過激になるのも、支那の特徴です。

(明日の記事に続く)

回回回回回回回回回回回回回回回回回回回
<編集 配信> 『日本の心を伝える会』
ホームページ http://www.nippon-kokoro.com/


今NHKで「テンペスト」やっていますね。
「テンペスト」上下巻があるのですが、先日読み上げました。

この上巻にちょうど 阿片事件 が出てきます。

・・・我が国と清国との為替は銀1に対して銅1000となっており  ・・・我が国と日本の銀の交換比率は、銀1に対して銅1500となっております。 つまり我が国は銀出過で銀の価値が落ちているということ・・我が国(琉球)を中継することによって清国の帳簿では見えにくくなっております・・・

そもそも阿片戦争とは阿片の悪習が起因だったのではなく、阿片貿易で生じた銀本位性の揺らぎから来る経済戦争だった・・ なんて書いてあった。

テンペスト 

本もテレビも面白かったよ。


支那は 「歴史のない国」・・ か

2011-06-16 09:52:59 | 本の話・素敵な話
   
♪ 日本の心を伝える会メールマガジン vol.346♪
        2011/6/15(水曜日)

【転送歓迎】

◆ 犬種と人種 ◆

プードル犬は、みなさんご存知と思います。

非常に頭が良い犬種で、介助犬としても使われています。
大きさは体高45~60cm。体重15~19kgの中型犬です。

これを小さく改良したのが、ミニチュア・プードル。
体高28~35cm、体重12~14kgの小型犬です。

これをさらに小さく改良したのが、トイ・プードル。
体高は、わずか26~28cm、体重6.5~7.5kgです。

プードル(スタンダード)が、ミニチュア、さらにミニチュアに改良されるのに、わずか100年程度の年数で、これだけの遺伝的特徴を持った犬種ができあがっています。

犬種は、現在ではさまざまなものがありますが、たとえば、セッター系の犬種は、狩りのときに獲物の居場所を探して、そこに座って待機するように改良された犬種です。
水陸両用の狩猟補助犬として改良され、できあがったのがレトリバー種です。

犬の好きな方ならおわかりいただけると思うのだけれど、犬種による特性は、家で飼っていくら“しつけ”をしても、その違いや差異は、歴然としています。

ドーベルマンや、シェパードは、訓練すれば警察犬になるけれど、ハスキー犬は、いくら訓練しても、まるでやる気を見せずに、警察犬として使えない。
ブルドック種は、非常に頭のいい品種だけれども、やはり、いくら仕込んでも警察犬にはなれない。獰猛すぎて、警察犬や盲導犬になれない。

だいたいひとつの犬種が固定するのに、数十年という短い期間で、それぞれの犬の外見や性格が確立されます。

異なる犬種ごとの交配は可能ですが、純血種の場合、それぞれの犬種ごとに特徴がまるで異なるものになります。


種による差異は、実は人間にもあります。


人間と犬を一緒にするとは何事か!と、不愉快に思われる方がおいでになるかもしれませんが、人間も犬も、おなじ哺乳類です。
そして人種(犬種)ごとに、顔かたちも違うし、性格・特徴も大きく違う。

「人種」も「種」のひとつです。

よく「中国四千年の歴史」という言葉を聞きますが、実は支那は「歴史のない国」です。

どういうことかというと、支那人は、幾度となく多民族によって征服され、他民族の王朝に全土を支配されている、ということです。

そして王朝が変わるたびに、過去の王朝が築きあげた全ての歴史観、文化が否定され、書物は焼き尽くされ(焚書)、財物は押収され不要なものは破壊されつくされています。

これに異を唱える者は、、きわめて残酷な方法で虐殺された。

そんなことはない、中国には儒教が生き残っているではないか、といわれる方がおいでかもしれないが、儒教は、簡単にいえば、いまある王朝を常によいしょする官僚教であり、新たな施政者となった外国人王朝にとっても、便利な存在として生き残ったにすぎない。

諸子百家の時代に栄えた、法家や、墨家など、多様性を持った教えのことごとくは、破壊され、燃やされつくしている。

そしてなにを隠そう、現代中国人自身が、中国の過去の王朝にあった様々な哲学や思想、あるいは様々な王朝が多民族による支配王朝であったという事実すら、まったく教えられていない。

ここで、問題になるのは、外国人王朝ができあがったとき、前王朝に結びつくものは、人であれ、モノであれ、そのことごとくが破壊されつくしたということ。

そして、人に関しては、極めて残虐な方法で、殺戮されつくしたということです。

そうした状態が、支那では、過去4000年にわたって続いた。

この状況の中で、改良(改悪?)された、支那人という人種は、残虐性を好み、強いものには無条件で従い、弱い者の前では、極端に居丈高になるという特性を身につけています。
これは遺伝的に生まれた本能とも呼ぶべきものです。


日本人という人種は、性善説です。

人の良心を信じるから、戦前、請われて大陸に行ったときも、支那人にきちんと教育を与え、物事の道理を教えれば、彼らは教化され、法を守り、和を尊ぶ人種になると考えた。

しかし、彼らの残忍性、鬼畜性、弱肉強食という野蛮性という遺伝的特性は、わずかな期間での日本統治や、教育では、まるで変化させることができなかったのです。

結果、終戦で大陸から日本人が帰還するとき、多くの良心的に彼らを教導していた日本人が、支那人によって、裸にされ、股を割かれ、生きたまま肉を削がれるなど、残虐極まりない方法で、何万人も虐殺された。

そして運悪くシナに残った日本人の中国残留孤児たちは、幼いころから日本鬼子(シャオリーペイツ)と呼ばれ、シナ人たちによって、動物以下の非人間的扱いをされ続けています。


朝鮮半島の人種は、シナとは少し異なります。

半島では、李氏朝鮮という国家の将軍職にありながら敵である支那と通じて国王に居座った王朝が、約400年も続いたのです。

李氏朝鮮のはじまりと終わりの半島の人口をみると、李氏が王朝を打ち立てる前と比べて、滅ぶまでの400年間に、なんと人口が半分に減っています。

李氏朝鮮時代の人々の平均寿命はわずか24歳であり、王族に連なるわずかな人数のヤンバンの一党を除いては、人口の99%を占める一般庶民には、私有財産はいっさい認められず、名前を名乗ることすら許されませんでした。

名前がない、ということは、国家によって個人の尊厳が認められていない、ということです。

半島人の一般民衆が、名前を名乗ることが許されたのは、なんと日本統治時代です。
日本は、半島史上はじめて戸籍の制度を導入したのです。

「宮廷女官 チャングムの誓い」なんていう韓流ドラマを見ると、李氏朝鮮時代の半島では、女性たちは色とりどりのきらびやかなチマ・チョゴリを身にまとっているように描かれています。

けれど、これは真っ赤なウソです。

半島人はチマ・チョゴリを、李氏朝鮮王朝から強制されて着せられていたけれど、色は“白”のみと決められていたのです。

李氏朝鮮は、中国の属国だから、シナの皇帝に献上する女性だけが色とりどりのチマ・チョゴリを身にまとい、それ以外には、国王から庶民に至るまで、全員が白服以外、着用を禁じられていました。

そして国民には、私有財産はなく、一般庶民の女性も、貴族特権階級のヤンバンが街を歩き、いい女がいたら、胸を露出させて強姦するために、乳部を露出させやすいチマ(上着)が考案されています。

そして長男を出産した女性は、全員が、生涯にわたって両乳を露出してすごす栄誉(?)が与えられていました。


要するに、庶民は、恋愛も労働の対価による蓄財も、一切合財認められず、愛する女性がいても、ヤンバンが、よこせ、と言ったら、差し出すしかなかったのです。

こうした時代が400年もの長きにわたって続いた半島では、庶民がヤンバンに抵抗する手段はただひとつ。
火病を起こしてキチガイのように泣きわめき、言い張り、縄張りを作ってそこに籠ることだけです。

そしてそれが、半島人の人種として定着しています。

ひとのよい日本は、それも教育すれば正せると信じて、日本だって貧しかったのに、莫大な国費を使って半島に学校を作り、半島人に文字を与え、(ハングル文字というのは、日本統治時代に、もともと半島にあった音符を改良して、韓国版50音を作ったもの)、教育指導を行いました。
けれど、すでに遺伝的に沁みついた人種の特性までは、改良できなかったのです。

そのために、日本が終戦で本土に復員するときに、半島人によって、略奪・強姦の限りを尽くされています。

要するに、人種による特性というものは、厳然として“ある”ということです。

眼鼻口がついていれば、同じ人間であり、その本性は変わらないだろう、などという安易な考えは、通用しません。


ところが昨今の日本では、そうした支那人や半島人を、我が国に大量に迎え入れ、居住権を与えるのみならず、国政への参政権まで与えようという国賊が跋扈しはじめています。

あろうことか、半島と福岡の間にトンネルを掘り、大陸と地続き状態にしてしまおうなんていう案まで、本気で語るとんでもない政治家が現れ出している。

このことは「和をもって尊しとなす」という相互信頼を重んじる日本に、残虐で殺戮を好む極悪劣等人種と、強姦、はては屍姦までこなす凶悪火病人種を、大量に招き入れるということです。

わたしたちには、わたしたちの時代だけでなく、わたしたちの子や孫の代まで、日本を健全で和を大事にする、安心で安全な国家として維持発展させる義務があります。

そのことを考えたとき、人種の異なる外国人を大量に招き入れることを“是”とするような危険な思想を持つ政党に、いつまでも政権を委ねていてはいけないと思います。

<編集 配信> 『日本の心を伝える会』
ホームページ http://www.nippon-kokoro.com/

<代表者ブログ>ねずきちの ひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/



私はこうした事実を知らない。
ほとんどの日本人がそうだと思う。
でも、私の育った時代よりもっと前の日本で経験なさった 
諸先輩たちの 警告の声を 

聞いてください。



枝葉末節 という言葉の本当の使い方  木村秋則

2011-05-22 21:20:12 | 本の話・素敵な話
   
あなたの人生に「奇跡のリンゴ」をつくる本  
木村秋則著作 より抜粋


枝葉末節という言葉があるけどさ、私は世の中の人がこの使い方を間違っているような気がしてならないのな。

枝葉末節はばっさり切り捨てて、もっと大事な幹のことを考えろというわけだ。
だけどな、本当はその枝葉こそが大切なんだと私は思っています。

リンゴの木だって、葉がなければどうにもならない。
葉は太陽のエネルギーを使って、水と二酸化炭素をつくるわけだ。
その葉を失ったらリンゴは生きていけない。腐乱病という病気で、リンゴの幹が腐ってしまうことがある。

幹を切り倒すしかないんだけど、私はそういうとき元気のいい枝を1本残す。
何年かするとその細い枝が立派な幹に育ち、枝葉を茂らせ、りんごの実を実らせるようになるのな。枝は幹になるけれど、その逆はないんだよ。

この話は、何もリンゴだけに限った話じゃない。川だってそうだ。ナイル川といか揚子江みたいな大河だってさ。無数の細い支流が集まってできているんだよ。
川を遡ればやがては山の湧き水のような小さな源流にたどり着く。
その無数の小さな源流をすべて断ったら、どんな大河も涸れるしかない。

私の友達の農家に、借金で首がまわらなくなった男がいました。
それで、まず田や畑を売ろうとしたわけ。
なんとか家屋敷は残したいということでな。

私は「話があべこべだ」と言ってやりました。「売らなきゃいけないなら、家屋敷を売れ。借家に住めば済むことだ」ってな。
だって、農家の収入の源は田や畑なんだからな。

友達は、なるほどといって家を売りました。それから一生懸命農業に打ち込んで、元の家を買い戻すまでになりました。




旅のチカラ 「西太后のレシピ 狐野扶実子 中国」 その4

2011-05-22 15:18:45 | 本の話・素敵な話

旅のチカラ 「西太后のレシピ 心をとき放つ料理の秘密 フードプロデューサー・狐野扶実子 中国」その4

4日目の朝、狐野さんの家菜での修行はこの日が最後。

厨房には、からし菜の根の漬け物が用意されていました。
今日の先生は龍さん。からし菜の根を薄く切ります。
紙のように薄く、厚さにムラがないよう均一に。

狐野さんの番です。

薄く切った後は千切りにします。
材料の大きさを揃えるのは、均一にするためです。

次は人参を切ります。

「これは漬け物より切りにくいですよ」 

「うまいよ彼女は」
「初めてなのに凄い」と声があがります。

実は、これは狐野さんが家菜で最初に食べた料理 炒咸食(しょうかんしょく)の材料です。


さんはどこにも出していないこの料理のレシピを教えようと言うのです。

「私はこれまで彼女を見てきて とても誠実で 料理が好きで 本気で学ぼうとしていることがわかったんです。 私は彼女の気持ちに感動して 西太后のレシピを教えることにしたんです」

家菜の料理のかなめは火の調整。

「火を弱くして」

微妙な火加減が出来なければ、素材の命 食感が失われます。

「塩を入れて」

調味料を入れる順番、タイミング、特別なことではない、普通な、些細なこと。
家菜の美味しさの秘密は、繊細なこだわりのなかにありました。

狐野さんが初めて作った 西太后 のレシピ 「炒咸食」の完成です。

「人参はさっと油に通すことで栄養素が十分引き出されます。煮込んでは失われてしまいます。北京特産のカラシナの根は、ビタミンCを多く含んでいます。
人参のなかから油を出す効果もあります。
タケノコに含まれる成分は、ガンの予防に役立ちます。」とさん
「ありがとうございます」
冷めたらもっと美味しくなります。

門外不出といわれた西太后のレシピ、今その一つを手にしたのです。

しかし、狐野さんはこの旅でレシピ以上の宝を手に入れました。
それは迷っていた自分自身への答えです。

うーん
たぶん、その作っている人が、やはり料理なので  やっぱり 料理は人なんだな
作るのが人間で ・・っていう感じがしましたね。
たぶん ある程度までは 国とか 何とか料理 何とか料理 ってあるんですけど
そのある一定の境界線から 別のを加えると それは個人の、人の、その人そのものが料理に現れる。 それは 本当に 万国共通みたいな 国籍もなくて っていう
二つの世界が 料理にはあるかな・・と 思いましたね。


大丈夫だと思います。


それから狐野さんは、最後にお礼の創作料理一品を、愛茵さんとご主人に食べて頂くんですが・・ここは 省略

最後の独白なんて訳がわからない・・ですよね。
料理は人で・・作るのが人間で・・料理には二つの世界がある。  

あら わかりやすいかも。 

・・でも やっぱり 私には意味不明


完 でございます。



NHK 旅のチカラ 「西太后のレシピ 狐野扶実子 中国」 その1
http://blog.goo.ne.jp/zi-nn-u-ru/e/92a12b4da861a1693c563029c0a6c5b6

旅のチカラ 「西太后のレシピ 狐野扶実子 中国」 その2
http://blog.goo.ne.jp/zi-nn-u-ru/e/415597be3974e30219f97369f22e0a31

旅のチカラ 「西太后のレシピ 狐野扶実子 中国」 その3
http://blog.goo.ne.jp/zi-nn-u-ru/e/4ac555bdafbec5b5c8701cc5abf26c15