ジーン・ウールの不思議な旅

ジーン・ウールは不思議な女性です。姿を変えて過去にも未来にも現れます。
もしかしたら貴方の友人や奥様かも知れません。

店主ご挨拶

ようこそお越し下さいました。 昨年(2010)、3ヶ月の雲水修行に行ってまいりました。 私は働き者で(自己申告)、精舎は朝は早く夜は遅く「朝瞑想」の時間は、気がつくといつも寝ておりましたが・・。 私の人生の1ページに、思いがけないご褒美を頂けたような日々を過ごさせて頂きました。・・ま、主婦でも決心ひとつで如何様な道も開けるんですね。 今も精舎に行くと「実家に帰った」ような気がします。 このブログ管理人は、最近物忘れ症候群中につき、おいで頂いた感謝を申し上げ、コメントを頂いても書いたり書かなかったり、付き合いが悪いことのご無礼をお許し下さいませ。

旅のチカラ 「西太后のレシピ 狐野扶実子 中国」 その3

2011-05-22 08:44:23 | 本の話・素敵な話

旅のチカラ 「西太后のレシピ 心をとき放つ料理の秘密 フードプロデューサー・狐野扶実子 中国」その3

三日目

ここでは 朝・昼・晩 三食が まかない料理です。
さんはじめ従業員全員が敷地内で暮らし寝食を共にしています。

狐野さん: 皆さん すごく仲が良いんですね
さん: 大きな家族みたいなんです
従業員: ★さんが優しくて、私達を家族のように接してくれるんです
      ★年齢的にも親と同じくらいで、本当のお母さんみたいです
      ★私にとっては親戚のおばさんかな (笑)

 
家菜では、地方出身の未経験者ばかりを雇います。
そしてさんが、一人一人に一から料理を教えていくのです。
代々伝わる西太后のレシピを正確に再現するには、先入観のない、料理に向かう純粋さ、素直さ、そして家族のような強い絆が必要なのです。

狐野さんの胸に幼い頃の料理する時の楽しさが甦ってきます。
その夜、狐野さんはさんに誰にも話せなかった悩みを打ち明けました。

狐野さん: 料理が好きだから今の仕事をしていた筈なのに、毎日毎日忙しい日々を過ごしていくと料理を好きだったことを、いつの間にか忘れてしまって、どんどんどんどん日にちが過ぎていって、全く 最初の心を忘れてしまった。

さん: 例えば私の店も、しなくてはいけないことが多くあります。
料理以外に事務仕事や取材も受けなくてはいけません。
しかし、物事の優先順位をハッキリさせることが必要だと思います。

料理が好きでこの仕事を始めたのだから、料理を仕事にしても 好きな気持ちをなくしてはいけません。
まず、自信を持つことです。自信を持ったら決断もできるでしょう。

つづく



NHK 旅のチカラ 「西太后のレシピ 狐野扶実子 中国」 その1
http://blog.goo.ne.jp/zi-nn-u-ru/e/92a12b4da861a1693c563029c0a6c5b6

旅のチカラ 「西太后のレシピ 狐野扶実子 中国」 その2
http://blog.goo.ne.jp/zi-nn-u-ru/e/415597be3974e30219f97369f22e0a31

旅のチカラ 「西太后のレシピ 狐野扶実子 中国」 その4
http://blog.goo.ne.jp/zi-nn-u-ru/e/7e6e204d227e58c515f0899684b59ee0

旅のチカラ 「西太后のレシピ 狐野扶実子 中国」 その2

2011-05-22 06:08:16 | 本の話・素敵な話

旅のチカラ 「西太后のレシピ 心をとき放つ料理の秘密 フードプロデューサー・狐野扶実子 中国」その2


2日目

狐野さんに先生が出来ました。
前菜担当の張さん。
張さんが教えてくれるのは、前菜の盛りつけです。凝った飾りのないシンプルなもの、狐野さんが盛りつけた前菜がテーブルに運ばれます。

夜、お客さんが次々にやってきます。
狐野さんは、お店で充分に戦力となっています。
厨房の中でさんは狐野さんの動きを気にかけていました。

愛茵さんの父親が善麟さん。91歳です。
愛茵さんは、狐野さんを父親の善麟さんに会わせていいか・・と考えていました。

善麟さんの先々代が、西太后のレシピを紙に書き残しました。
しかし、戦乱のなか、その紙は失われてしまいましたが、記憶をたどりながらレシピを家族に伝えて守ってきました。

幼い頃から、愛茵さんや子供たちに料理の楽しさ厳しさを教えた父でした。

その夜、狐野さんは善麟さんとお話することができました。


狐野さんは善麟さんに、お料理で一番大切なことは何ですか・・とたずねます。

善麟さん:料理で一番大切なのは、なんと言っても美味しさだ。
もちろん料理はその素材の栄養も失ってはいけない。
人はものを食べないと生きてはいけないからな。
料理をするためには実践しなければならない。

話を聞きながら・・
狐野さん: おじいさまにお会いしたときに、すごく似ているなと感じました。
わたしのおじいさんもお酒を飲むのが好きで、自分の家の裏に畑があって、とれた野菜を料理して一緒に食べていました。

愛茵さん: それは私と同じね。
幼い頃、台所でいつも料理していたのは父でした。
家に親戚や友達を呼んでご馳走することもよくありました。
私は食べることがまず好きで、だんだん料理が好きになったんです。


父やおじいさんから教えられた料理が原点。
料理が好きだから、料理を仕事にした。

似たような環境に育ったさんと狐野さん。
二人の話はいつまでも尽きることはありませんでした。


3日目につづく



NHK 旅のチカラ 「西太后のレシピ 狐野扶実子 中国」 より
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旅のチカラ 「西太后のレシピ 狐野扶実子 中国」 その3
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旅のチカラ 「西太后のレシピ 狐野扶実子 中国」 その4
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NHK 旅のチカラ 「西太后のレシピ 狐野扶実子 中国」 より

2011-05-21 23:24:15 | 本の話・素敵な話


NHK 旅のチカラ 「西太后のレシピ 心をとき放つ料理の秘密 フードプロデューサー・狐野扶実子 中国」より


今回の旅人は、フードプロデューサー狐野扶実子(41歳)。

狐野扶実子(このふみこ)は
世界的に認められた料理人だ。パリの三ツ星レストランの副料理長から、出張料理人に転身したあと、世界のVIPの会食に腕をふるい、2005年には、東洋人として女性として初めてフランスの老舗高級食料品店のエクゼクティブ・シェフに抜擢された。

 そんな狐野が、今、知りたいと願ってやまないのが「西太后の日常食」。フランス料理が優雅と快楽としての料理を重要視するのに対して、中国料理は「医食同源」。漢方を駆使した薬膳料理で、美と長寿を全うしたという西太后。

いったい彼女は、日頃何を食べていたのか。 北京に、そんな西太后の日常食の門外不出のレシピを受け継ぐ家がある。古き庶民の町、フートンにひっそりと看板も出さず佇む一軒のレストラン。「羊房11号」住所番地がその店の看板だ。
看板のないレストラン「家菜(れいかさい)」。
口コミで世界中から食通が押しかける隠れた名店です。料理はコース料理、小皿で20種類が出されます。

家菜のテーブルで、狐野扶実子が食事する食器の音と、料理をかむ音だけが響きます。

「うん すごく好き。なんか作っている人の・・なんかこう・・全部生きている感じがする。 火は通っているんだけど、なんか全部生きている気がする・・なんか 大切にされた人たちがここに並んでいるって気がする。 なんかぜんぜん違った。 
比較しちゃいけないけど、昨日(満漢全席を食べた)とやっぱり世界が違う」と狐野扶実子。

家菜のレシピは、西太后の食事を準備した順慶のひ孫へと伝えられ、現在は家菜を守るのは4代目のひ孫の「愛茵」さんです。
翌日の昼過ぎ、狐野は再び家菜を訊ねる。
「西太后のレシピを見せてもらえないだろうが、料理するところを見せてもらえないか。」

愛茵さん「我が家のレシピは、外には漏らさないことになっている。特にあなたは外国の方ですね・・それにうちの料理は複雑で、2日や3日で覚えられるものでもありません」

狐野「実際お目にかかりたいなという気持ちが、一つ一つの料理が出てくるたびに高まっていったことと、こうゆうお料理を作られる方の人柄みたいなものを・・私に興味を持たせました。今日は私にはすごく印象的で一生忘れることの出来ない食事の一つになった・・と言うことは事実です」

愛茵さん「私は普通の人ですよ。わかったわ。一緒に厨房にいることができればいいのね」
狐野「大丈夫ですか」 愛茵さん「大丈夫です」

翌日から4日間、狐野扶実子は家菜にお世話になる。
一皿一皿に秘められた薬膳の料理法と哲学を、自らの目と舌で徹底的に習得したいと考える狐野。しかし、そこで出会ったのは、温かく素朴な料理人たちでした。


この日、狐野扶実子はこんな事を画面で話していました。

フランスのパリの星つきのレストランとなると、上下関係もすごくありますし、あんまり・・こう話しかけられないし・・とにかく調理場のなかで声はしないことが当たり前の世界でしょうね。

(26歳フランスでのこと、夫の赴任先について行き 「ル・コルドンブルー」に入学。1996年料理部門上級コースを主席で卒業。
ある三つ星レストランの味に惚れ込み、掃除係から副料理長まで昇りつめました。
その後、自ら出向き料理する出張料理人に転身、その繊細な味が世界中のVIPに愛され、東洋人女性として初めて2005年フォションの老舗高級食料品店のエグゼキティブシェフに就任。最高責任者に抜擢される。)

しかし彼女は1年後、その職を辞しパリを離れ日本に帰ります。
そこには、狐野さんが向き合わざるを得なかった厳しい現実がありました。


アジア人の女性から命令されて、自分のやっていることを否定され、まあ命令じゃないですけど、ある程度 こうやって欲しい・・ということを言われると、時に、やはり 爆発した時も何回かあって、
・・調理場というところは、すごく危ないところですから・・包丁もあったり、鍋のなかグラグラ、本当に熱湯のものがあったり、そうゆうものぶちまけられて、あと本当に血の出る殴り合いの喧嘩など、私も何度も見たし・・自分がそうゆう目にあってみると、次から怖くて行けないんですよ・・その調理場に。

文化とか女性とか宗教とかね。そうゆう違いによって危ないことが、日本ではあまり見られないことがあるんだなあ・・と感じました。
ごめんなさい・・なんか いろいろ思い出しちゃって ・・ 涙 ・・ すごい久しぶりに思い出して ・・ 涙


大好きな仕事場 厨房に怖くて入れない・・狐野さんの意外な告白でした。
これから料理人としてどう生きていけばよいのか、大きな悩みを抱えていたのです。

この日、遅くまでお皿を洗う狐野さんの姿がありました。


つづく です。

とっても面白かったぁ
それに狐野扶実子さん、素敵だった。
雰囲気とか、ファッションとか・・。

カッコ良かったです。


旅のチカラ 「西太后のレシピ 狐野扶実子 中国」 その2
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旅のチカラ 「西太后のレシピ 狐野扶実子 中国」 その3
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旅のチカラ 「西太后のレシピ 狐野扶実子 中国」 その4
http://blog.goo.ne.jp/zi-nn-u-ru/e/7e6e204d227e58c515f0899684b59ee0




漫画「ONE PIECE(ワンピース)」は中国を変えるか?

2011-05-19 10:59:10 | 本の話・素敵な話

.HOMEDaily News Clip
漫画「ONE PIECE(ワンピース)」は中国を変えるか?
2011.05.18
ザ・リバティweb


.累計発行部数2億冊突破の、週刊少年ジャンプの人気漫画『ONE PIECE(ワンピース)』(尾田栄一郎著、集英社)が、15日から中国の新聞で連載スタートした。



時事通信によると、連載が開始したのは中国・逝江省の新聞「銭江晩報」。『ONE PIECE』が新聞紙上で連載されること自体が世界初だが、中国の新聞で連載というのも注目だ。



中国ではすでに正規版の『ONE PIECE』単行本は57巻まで発行されている。中国でのタイトルは『航海王』。15日から始まった第1話は別刷りで14ページの扱い。毎週日曜日に連載されるとのことで、中国内のファンから問い合わせが殺到という。



中国の民主化の鍵の一つは、日本のアニメや漫画にあるかもしれない。知らない間に『ONE PIECE』が、じわじわと共産主義体制を根元から切り崩していくことを期待したい。(ア)


  

我が家の息子・・「ワンピース」が大好き。

それで私も毎週見ていたよ。

もう忘れちゃったけど・・いつも仲間を信じていて、助け合っていたなぁ

なんて簡単なコメントですみません。

 
今、NHKでやっている 「忍たま乱太郎」 たまたま見たんだけどね。

これが実は とっても 天国的。

せりふは まるで 幸福学園 

通りすがりにちょっと覗いただけなので 正確ではないけど

17日にやっていたのは 「幸運食堂の段」

で、あれあれ って見てたら・・正確ではないですよ。

大川塾長・・?  校長・・? なんて言葉が耳に入ってきた。


最後の エンディングテーマは 「ゆめのタネ」


星の数ほど花が 咲いてそして 夢がなるよ

みんなと手のばして つかみとろう

笑顔と笑顔がこぼれるよ~~


なーんて NHKさん やるじゃない~★

一度見てみてね~~








◆ 不思議な入社試験 ◆

2011-05-16 23:32:03 | 本の話・素敵な話
   

┌◆【1】◆ 不思議な入社試験 ◆
└────────────────────────

どんな企業でも、お客様への「感謝」というのは当たり前のことのように言われています。「有難うございます」も、ぶっきらぼうではなく、心が込められていなければなりません。そのような本当の意味で心から感謝をしている、そんな社員教育が出来ている企業がどれくらいあるでしょうか?

ある会社の社長さんは、自社の社員を見ていて、次のようなことに気づかされたそうです。
「一生懸命に社員教育で規則やノウハウばかり教えているけれども、社員の心が豊かにならないと形だけになる、本当にお客様に喜んでもらえないし、組織は活性化しないのでは・・・。

理屈だけでは人は動かない、“本当の感謝とは何か?”を社員に実体験させてこそ、お客様に心から感謝できる社員が育つのではないか・・・。」

このことに気づいた社長さんは、毎年の入社試験の最後に、学生に次の2つの質問をするようにしたそうです。

まず、学生に向って尋ねます。
「あなたは、お母さんの肩たたきをしたことがありますか?」
この問いに、ほとんどの学生は「はい」と答えるそうです。

次に、
「あなたは、お母さんの足を洗ってあげたことありますか?」
これにはほとんどの学生が「いいえ」と答えるそうです。

「それでは、3日間差し上げますので、その間に、お母さんの足を洗って報告に来てください。それで入社試験は終わりです」

学生達は、「そんなことで入社できるのなら」と、ほくそ笑みながら会社を後にするそうです。

ところが家に帰って、実際にやろうとすると、母親に言い出すことが、なかなかできません。
ある学生は、2日間、母親の後をそわそわとついてまわり、母親から「おまえ、どうしたの、気でも狂ったの、何かおかしいねぇ?」と聞かれてしまいました。

ついに息子は思い切って話します。
「いや、あの~、お母さんの足を洗いたいんだけど」
それに対し母親は言います。
「なんだい?気持ち悪いねぇ。」

こうしてその学生は、ようやく母親を縁側に連れて行き、たらいにお湯を汲み入れました。
そして、お母さんの足を洗おうとして、お母さんの足を持ち上げた瞬間・・・。

母親の足の裏が、あまりにも荒れてひび割れているのを手で感じて絶句します。
その学生ははじめて気がついたのです。そして胸が一杯になりました。
「うちは、お父さんが早いうちに死んでしまって、お母さんが死に物ぐるいで働いて、自分と兄貴を養ってくれた。この荒れた足は、自分達のために働き続けてくれた足なんだ。」

そして思わず小さな声でひとこと言うのが精一杯でした。
「お母さん、長生きしてくれよな」

それまで、息子の「柄にもない親孝行」を冷やかしていた母親は、「ありがとう」と言ったまま黙り込んでしまいました。
息子は足を洗い続けます。その手の上にポトリ、ポトリと落ちてくるものがありました。母親の涙でした。

学生は、母親の顔を見上げることができなくなって、「お母さん、ありがとう」と言って部屋に引きこもったそうです。

そして翌日、会社に報告に行きました。
「私はこんなに素晴らしい教育を受けたのは初めてです。社長、本当にありがとうございました。」

社長は言いました。
「君は一人で大人になったんじゃない。両親をはじめ、いろいろな人に支えられて大人になったんだ。
これからも、自分一人の力だけで一人前になるのではないんだよ。
私自身も、お客様やスタッフや、いろいろな人達との出会いの中で、一人前の社会人にならせていただいたんだよ。」

(資料)矢島実「涙と感動が幸運を呼ぶ」(ごま書房新社)


 v(^∀^*)ノ*:。。.:*ヽ(*^∀^)ノ*:.。。.:*


┌◆【2】◆ 日心会会員募集中      ◆
└────────────────────────


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発見の「発見」/科学と言葉 稲恭宏博士の低線量率放射線療法は根拠もデータもある・・

2011-05-14 00:52:07 | 本の話・素敵な話
 
― ブログ・発見の「発見」/科学と言葉 ― 科学上の発見から「意味」を発見
http://d.hatena.ne.jp/quarta/

このブログは ウェブサイト・発見の「発見」とセットで公開しています。
このウェブサイトでは日英米のニュースサイト科学欄から発見に関わる記事をリストアップし、一部の記事(NYタイムズ記事の一部)には要約を付記しています。


2011-04-25放射線許容しきい値問題と低線量(率)放射線が健康に良いという説への私見 ― 少なくとも現在認められているしきい値には正当な根拠があるように思われる

環境, 科学と言葉 | 23:54 |

放射線許容しきい値問題と低線量(率)放射線が健康に良いという説への私見

― 直線仮説支持者の論拠としきい値理論の文献を一般人の立場から検討して見た結果、少なくとも現在認められているしきい値には正当な根拠があるように思います。

先般、別のブログに2度にわたってメモを書いたのですが、その続編になります。こちらのブログに掲載する方が適切であると思いましたので、当ブログに掲載します。
前回までの2回の記事は下記です。

http://takaragaku.blogspot.com/2011/04/u_11.html

http://takaragaku.blogspot.com/2011/04/u.html


上記ブログ記事のとおり、稲恭宏博士の講演ビデオに強い印象を受けたことをきっかけに、7日と引き続いて11日に、多少自分で調べたことと考えたことを併せて、メモをこのブログで公開しました。その後も私の立場と境遇から言えば他の事に時間を使うべきとの気持ちを抑えて、この問題に時間を割くことを余儀なくさせられる気分から逃れることができず、自分なりにネットで放射線に関する勉強と調査を続けました。
主に次の2つのサイトです。

(1) http://rcwww.kek.jp/kurasi/index.html 「暮らしの中の放射線」

(2) http://www.iips.co.jp/rah/index.htm 放射線と健康を考える会ホームページ

さらにツイッター情報からのリンクで次の2つのファイルを参照しました。

(3) http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/14610281

Brenner DJ, Doll R, Goodhead DT., et al. "Cancer risks attributable to low doses of ionizing radiation: assessing what we really know." Proc Natl Acad Sci U S A. (2003) Nov 25;100(24):13761-6.

(4) http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/15987704

Cardis E, Vrijheid M. Blettner M., et al. "Risk of cancer after low doses of ionising radiation: retrospective cohort study in 15 countries." BMJ (2005) 9;331(7508): 77

(5) http://peacephilosophy.blogspot.com/2011/04/blog-post_20.html

沢田昭二『放射線による内部被曝』-福島原発事故に関連して-


(1)は放射線科学センターのサイトで公開している「暮らしの中の放射線」という一般向けの解説で、素人が放射線全般についての基礎知識を手っ取り早く仕入れるか整理するのに非常に有益なファイルだと思います。(2)、(3)、および(4)の文献を理解するのに有益でした。次のような認識を得ることができました。

1.自然放射線には大地からのガンマ線と吸引空気に含まれるラドン由来のアルファ線とβ線の呼吸器からの吸収、それに加えて宇宙線の3種があり、自然放射線という場合はこの3つの合計を指すが、普通、データとして取り上げられるのは大地のガンマ線と宇宙線(この成分は強度と共に高度によって変わるようでもあり、まだ良く判らない)の2つの合計を指す場合が多い。しかし地域で比較する場合は大地からのガンマ線だけをデータと指定掲げている場合も多いようだ。


2.体外被曝は事実上ガンマ線被ばくと同一視されている。地域の自然放射線はグレイの単位で表されるが、ガンマ線の場合はシーベルトとグレイが同一の数値になるので、グレイをシーベルトとみなせる。


3.低線量放射線の健康リスクを調査する場合のデータとしてはガンマ線の体外被曝のみで調査されているケースが多いようである。前記③と④もそうである。


以上の3項目を抑えておくことは、この問題を考え、評価する上で重要なポイントになると思います。


まず、(2)の放射線と健康を考える会のサイトにはサイトで作成された記事と参照文献を含め相当に多量の資料があります。両者を含めて内容は基本的に2つにカテゴリーにに分けられるようです。

1つは放射線が細胞に及ぼす影響と、細胞の持つ防御機能や修復機能の分子生物学的なメカニズムに関するもので、この種の文献は一部を読みましたが、正直なところ、素人が細部まで理解するには難しい内容です。

ただ、放射線が染色体を破損するだけではなく、それを修復するメカニズムや防御機能を備えていることは解ったように思います。この種の機構については直線仮説論者は何れも全く言及することがない場合が多い、とくに素人向けの説明では無視して飛ばしている場合が多いと言えます。

他方のカテゴリーは、現実のデータ、すなわち被ばく線量や線量率とがん死亡率その他の調査結果(疫学調査)に類するものです。
こちらは統計学的な問題はありますが、高度な分子生物学的なメカニズムは関係がないので、基本的に一般人にも評価できる種類のものです。

あと、これに含まれる下も知れませんが、公的機関やオーソリティーの作成した基準や声明文などがあります。
これには件のビデオで京都大学の小出氏が準拠していたアメリカ科学アカデミーの基準のソースと思われる報告書も含まれています。

これらの資料を全部ではないものの、通読したり、ざっと目を通したり、拾い読みして行きましたがその時点での個人的な印象では、まず、放射線のもたらす健康リスクに「しきい値」が存在すること自体は確実である印象をうけました。

いまここで具体的にどの資料、報告書のどのような記述からどういう結論が得られたかということをすべて述べることはできませんが、その時の気持ちを1つのフレーズで代弁していると思える文章が、やはりこの中に含まれていたフランス医学アカデミーによる声明の中の次のフレーズです。

『この仮説(しきい値なし直線仮説)は自己矛盾であり、科学的には強く批判されており、また実験的、疫学的データと矛盾している 』

前回の記事でチェルノブイリや広島長崎被爆者の断片的なデータではなく総合的なデータが一般にはあまり公表されていないように思われる―と書いたのですが、そのようなデータもこれらの文献には含まれていました。
やはり、世界的に現在の放射線被ばく基準というのは広島長崎のデータが基準にされていたわけですね。

というわけで、少なくとも放射線被ばくによる健康リスクにしきい値があるという考え方を理解できたつもりになったのですが、その後もツイッター情報からのリンクで、「放射線はわずかな線量でも、確率的に健康に影響を与える可能性があります。」として、しきい値説否定論者(年間100mシーベルト以下というしきい値による基準が不適切であるとする)と思われる慶応大学の近藤誠氏の論説が掲載されているページhttp://smc-japan.org/?p=1627にアクセスしたところ、近藤氏は前記(3)および(4)を論拠としていたわけです。それで、

この両論文のfree text を一応、慣れない医学論文ですが大ざっぱに読んで見ました。以下の箇条書きはこの両論文に対するコメントです。次のような問題点があると言えます。

◆ 何れもX線とγ線被ばくのみを対象とした、がん死亡率の調査であって原爆被爆者のデータもX線γ線による外部被ばくのみのデータを使用している。

◆ (1)では短期的な被ばくデータとして原爆被爆者のデータが考察されている。の図2によれば、爆心地から離れた被曝線量が5mSv以下の被爆者のデータと5~100mSvの範囲は統計的に有意でないと書かれており、またデータにも殆ど差が見られないが、本文では明確なデータのないバイアスを加味した上で、別の研究による処の(がん死亡率ではなく)がん発生率のデータを考慮した上でで統計的に有意であるとしている。

◆ (1)では長期的な被ばくの例として核施設労働者のデータも紹介されているが、これは(2)で詳しく扱われている。(2)と大体同じ考察がされている。

◆ (1)において、総合的には低線量被ばくによる健康リスクの有意な値を直接に見積もることができるようになるとは思われないとし、また疫学的データのみで線量と反応の関係を確立することはできないとし、いわゆる外挿という手法で関係の確率を試みているという事ができ、そこにがん発生率のデータを加味したり、分子生物学的な理論を用いている。この辺りの議論は専門的で理解困難であるが、外挿をするうえで異なる結果をもたらすいくつかの理論が紹介されている。

◆ 最後の方でしきい値を与える可能性のある理論や健康に良い影響を与えるとするホルメチック反応の理論やそれを実証する動物実験なども紹介されている。また染色体ではなく免疫に影響を与えるといった文献も引かれている。

◆ 以上のような考察の上で、結論として、微妙な表現が続いているのであるが、最終的に「Given that it is supported by experimentally grounded, quantifiable, biophysical arguments, a linear extrapolation of cancer risks from intermediate to very low doses currently appears to be the most appropriate methodology.」となっている。

以上を 要するに、この論文でも結論はあくまで理論その他の類推を根拠に外挿「 linear extrapolation of cancer risks」によっているのであって、直接のデータによる確定的なものではないといえると思います。

次に(2)の論文ですが、これは数カ国の核施設の労働者の被ばくデータを元にした考察です。これに対するコメントを列挙するとつぎのようになります。

◆ これも同様にX線とγ線の外部被ばくのみに関するデータであり、体内被曝と中性子被ばくの可能性のある(10%以上)被験者は除外されている。これは体内被曝のデータはシステマティックに得ることが難しいためとされている。また原爆被爆者のデータで体内被曝の可能性が無視されているのは①と同様。

◆ 白血病とタバコの影響が大きいと思われる肺がんなどが除外されている。

◆ 結果は図http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC558612/figure/fig2/のようにプロットされている。国と施設によってかなり差があるが、本文では、最大のリスク値を示すカナダを除外すると相対リスクはゼロと有意差がなくなるとしているが、全体では(combined)相対リスクがゼロよりも高くなっている。個人的な印象ではカナダともう一つUSA-ORNLのデータが特別高く、この2つを除外すると、全体では事実上、完全にゼロになる。

◆ これらの相対リスクデータは原爆被爆者のデータ直線的に外挿したデータに適合しているとされている。しかし原爆被爆者のデータと併せて相対リスク値が有意になるとは書かれていないので、有意データにならない事に変わりはない。

◆ 白血病のデータは別にあり、それによるとゼロと有意差はないものの、過去の核施設作業者の調査データと適合し、原爆被爆者データとも近いとしているが、それで有意になっているわけでもない。

以上、2つの論文、共に専門的に評価することは勿論できませんが、結果と著者の考察はかなりクリティカルなものであるということと、X線とγ線による以外のデータしか用いられていない事が問題だと言えます。

(1)ではアルファ線などの体内被曝でも同じ結果が得られるであろうという表現をしていますが、後になってから見るとこれはおかしいのであって、被験者(この場合は原爆被爆者)が体内被曝をしている可能性を無視していることから、逆にX線とγ線のみによるこの研究自体に問題があることを覆い隠している表現では無いかとも思われるわけです。

(2)では体内被曝と中性子被曝の可能性がある被験者を除外しているとされているものの、比較されている原爆被爆者のデータでは体内被曝の可能性を除外できていないのは(1)と同様であり、下記(6)論文で批判されているように原爆被爆者が多量の体内被曝を含む残留放射線を被曝している事が確実である以上、これは原爆被爆者のデータと適合しているとは言えなくなります。

これら2つの論文に当たった後、もう一度、「放射線と健康を考える会」ホームページの資料に当たってみました。そうすると前記①の論文の部分和訳もここにあったのです。『低線量の電離放射線によるがんリスク:現在の評価』 http://www.iips.co.jp/rah/spotlight/kassei/matu_1.htm (スポットライトというカテゴリーのリンクに含まれています)。それだけこのサイトには関連資料が網羅されているとことが解ります。

その時にもう一つ、改めて目に止まった資料が次のファイルです。(同じ「すぽっとらいと」のリンク)

(6)被爆者の疫学的データから導いた線量-反応関係-しきい値の存在についての考察-」http://www.iips.co.jp/rah/spotlight/kassei/matu_1.htm

これはそれまで原爆被爆者に対して行われている疫学調査の基本となっていた放射線影響研究所(RERF)のデータが原爆炸裂時の直接的放射線線量だけを対象にし、原爆炸裂後の残留放射線や放射性汚染物質による体内被曝(β線とγ線)を無視していることに着目し、有名な「黒い雨」や飛散物の降下データなどを解析した上で、原爆炸裂時の被曝線量にそれらの被曝を加味して再検討しています。
この考え方は全く誰が見ても正当であり、無視する事は許されないと思います。少なくとも、従来のデータと結論に問題があり、不完全であることは証明されていると言えます。この報告によれば、「少なくとも発がんのしきい値は0.37Sv(370mSv)ということになる。」という結論になっています。」これは現在のしきい値とされている100mSvの三倍以上になります。

前記、近藤誠氏が準拠する2つの論文も、原爆被爆者のデータに関しては基本的にRERFと同じであると考えられます。第一両者ともγ線被曝しか検討の範囲に入れられていないわけですから。

(5)の論考では内部被曝の重要性を強調することにより、直線仮説を採用すべきであると主張しているわけですが、こうしてみると、直線仮説の採用を推奨している研究は内部被曝の線量を無視したものであり、逆に内部被曝の線量を考慮した研究ではしきい値モデルを使用することの正当性を明らかにしていると言えます。

内部被曝の重要性を解説、論証した部分は何れも正当なものだと思います。しかし、低線量被曝の問題、特にしきい値線量を批判する部分では次のような問題があります。

◆ 「しきい値線量の考え方」を「古い」と決めつけていること。何を根拠に「古い」と言えるのかを説明していない。後の方で「バイススタンダー効果」によって「低線量被曝の方が深刻な傷害を引き起こす可能性も示唆されている」と書かれているだけで、これだけで「古い」と決めつけるのはどうかと思われる。
現にしきい値を採用している権威ある組織や学者が多数あるのに「古い」というのは一方的である。

◆ 論拠とするデータに急性症状のデータが用いられ、グラフの単位もmSvではなくSvを用いている。

◆ 「直漠被爆者」と「非被爆者」の「悪性新生物による死亡率」を被曝線量によって比較したグラフを論拠として直線モデルを作成して死亡率への影響を計算しているが、これもグラフの単位がmSvではなくSvであり、データの間隔も荒い。
直接被爆者と非被爆者とで比較しているが、直接被爆者とは原爆炸裂時の被爆者とすればこのデータも内部被曝を全く考慮していない事になる。

以上を要するに、(4)では内部被曝の重要性を指摘しそのメカニズムの説明として、個々の指摘は正当であり、被曝の実情を知る上で有益であると思いますが、この問題と低線量被曝の問題が整理されておらず、入り組んだ説明になっているように思われます。

低線量のしきい値について議論する論拠として急性症状のグラフを用いたり、がん死亡率のグラフにしても低線量の影響を論じるには単位の大きすぎるデータを用いています。基本的に、は近藤氏の論拠とする論文と同じで、(6)の論文によって乗り越えられていると言えます。

つまり、内部被曝を重視しているにもかかわらず、直線モデル使用の論拠としているデータには内部被曝の影響が捨てられており、内部被曝の影響を重視した(6)の論文ではしきい値の存在が明らかにされているといえます。
この結論は純粋にしきい値の問題であって、現在福島で適用される基準に内部被曝を考慮するべきであるというような指摘をはじめ、個々の指摘、数量的ではない原理的な、あるいは理論的な指摘にはそれぞれ正当なものがあると思います。
しかし、純粋にしきい値の問題としては問題があるのではないでしょうか。

以上、全体を通じて強硬な直線仮説の支持者は科学者、専門家であれ、ジャーナリストであれ、その他であれ、共通して論拠が大ざっぱであり、準拠するデータなり研究が限られています。
それに対してしきい値説は多くの場合、原爆被爆者のデータに限っても正当なデータに基づいていると思われます。
さらに直線仮説の支持者は自然放射線の高い地域のデータは全く考慮していないし、放射能温泉などの現実を全く無視していると思います。

以上はいわゆるしきい値問題に関して言えることですが、稲博士の主張するような、低線量放射線はむしろ健康に良いという説も、けっして稲博士だけではなく、多くの学者が主張していることであり、それなりの根拠もデータもあることが判りました。少なくとも(6)の研究で370mSvというしきい値が出されていることを参考にすると、現在問題になっている100mSvというしきい値に基づいた基準には問題はないのではないかという印象です。

もちろん、体内被曝や呼吸やその他諸々の詳細な考慮すべき要素についてこの私見で判断することはできませんが、少なくともしきい値の存在は認めるべきだと思います。
この点で先にも引用したフランス医学アカデミー声明文中の『この仮説(しきい値なし直線仮説)は自己矛盾であり、科学的には強く批判されており、また実験的、疫学的データと矛盾している 』という主張はやはり正当であり、尊重すべきでしょう。

現在、低線量放射線被ばくに直線仮説を使用すべきとの論調には、「原発事故の責任を追及するためにこれは譲れない」という意識が込められているように思います。
この意識は超克すべきものではないでしょうか。

しきい値モデルを使用するかどうかという問題は純粋に国民や被災者の福利のために議論すべきであり、原発の是非、事故の責任問題とは完全に切り離すべきではないでしょうか。
そのように考えると、放射線によるがん死亡リスクの問題を他のがん死亡リスク要素の問題、タバコや大気汚染その他の発がん物質の規制問題と比較して論じることもでき、冷静な議論ができるのではないでしょうか。

そのように考えると、放射性物質で汚染された土壌や食物について、過去の実体はどうであったのかというような問題をも参考にすべきではないかと思います。
過去の例と言えば常に原爆とチェルノブイリ事故とが参照されるわけですが、まだあまり取り上げられることが少ない例として1960年代に行われた大国による大気中核実験の影響があります。
たとえば、冒頭に引用した高エネルギー研の「暮らしの中の放射線」 http://rcwww.kek.jp/kurasi/index.html には当時の日本のデータが一部掲載されています。またツイッターの東大早野教授のリンクから次のような資料が紹介されていました。http://rms1.agsearch.agropedia.affrc.go.jp/contents/JASI/pdf/JASI/72-4549.pdf こういう資料も公式な基準値以外に、国民自身も判断材料に使うべきでしょう。
難しいですが。少なくとも識者にはこういう資料も参考にして欲しいものだと思います。また現在は日本からの輸出が問題になっていますが、本来日本は穀物の輸入国であるわけで、過去の輸入元の国ではどうであったのかという事など、いろいろ気になることも出てきます。

以上。

  

早坂茂三さんの書く 田中角栄伝説

2011-05-13 14:22:16 | 本の話・素敵な話
 
2011年05月13日

奄美のアマミちゃんお気楽ブログより
http://amamikyo.amamin.jp/t108883


早坂茂三さんの書く田中角栄伝説は、すごいです。

私はあれで政治家へのものの見方が一変しました。

思春期のこども達に読ませたいですね。

___________

§ 早坂茂三の言葉

『若い者はしくじる。右も左も分からないのだから、失敗は当たり前だ。
老人の跋扈は国を滅ぼす。しかし、青年の失敗は国を滅ぼさない。
私はそう思う。
だから、若い者はやりたいことをやったらいい。
ウジウジして、周りに気兼ねする必要はない。
そして、どつかれ、こづかれ、けつまずき、ひっくり返り、糞小便を浴び、人に裏切られ、だまされ、カスをつかみ、「われ誤れり」と歯ぎしりをする。
それを繰り返しやって、たくましい、しなやかな知恵を身に付けることができる。この修羅の巷で生きていけるようになる。
出来上がりのワンセット、ワンパッケージの知恵など、この世には存在しない』



悪評を恐れることはない。人の口に戸は立てられない。
世の中はやきもちの大海だ。目立つやつは目障りになる。
態度のでかいやつには風当たりが強い。

ところがまた、この世間の悪評ほど移ろいやすいものはない。
一匹のいぬが吠えれば、ほかの万匹の犬が、わけも分からずにいっせいに吠えたてる。日本はそういう国だ。

そして風向きが変われば、犬の鳴き声は一気にとまる。世間は手のひらを返す。世評、何ぞ気にすることあらん。顔を上げて吾が道を行く。
頑固でもいい。妥協せず、自ら恃むところさえあれば、自分の本心だけは譲らないという気構えでやれば、何とかやれる。そうして私は生きてきた。



国乱れて忠臣現れ、家貧しくして孝子現る。



失敗はイヤというほど、したほうがいい。死にさえ至らなければ、何回も繰り返しひどい目に遇ったほうがいい。やけどもしたほうがいい。五針も十針も縫うような大怪我をしたほうがいい。そうするとバカでないかぎり、骨身にしみる。次回から不必要なリスクを避けるためにどうしたらいいか、反射神経が身についてくる。判断力、分別ができてくる。

これが成長の正体だ。



人間にとって一番大切なのは情だ。

世の中には志を果たせない人、運が悪くてチャンスに乗れない、つかめないという人が溢れ返っている。

こういう人たちに対して、本当にいたわり、優しさ、侍でいえば『惻隠の情』が持てるかどうか、これで人間の上等と下等とが分かれる。



人はどういう話に感動するのだろうか。
嘘はダメだ。作り事の話をしても、人はすぐ嘘を見破る。
世の中はそれほどバカばかりではない。
やはり、自分の実体験を下敷きにして、そこから話を進めたらいい。
理屈をあまりくどくど言わないことだ。

抽象的な話は整合性があり、起承転結もきちんとしている場合が多い。
後で速記録を取り寄せてみても、非のうちどころが少ない。
そういう話は確かに存在する。

だが、それを言葉として聞く時、聞くほうはなかなか大変だ。

たとえ話の筋道が整っていても、理屈というものは左の耳から右の耳に流れていく。感性に響いてこない。心に訴えるものがない。なるほど、はい、わかりました。話が終わって、ヨイショと立ちあがり、たまっていた小便を便所でシャーっとやって、ドアを開けて建物の外に出ると、九割は忘れている。

人をとらえる話は、そうした性質のものではない。
自分はこういうことでトチったという失敗談とか、こういうことを誰かに教えてもらった、そして、それは真実であったというエピソード、事実を中心にして話す。そうすると相手はとても覚えやすい。記憶のひだのどこかに止まりやすい。
自分が胸打たれた話を家や職場に土産として持ちかえる。家族や仲間に伝えて、一緒に感動を反芻する。いい話、本当の雄弁とは、もともと、そうしたものだ。



「宮沢喜一に衆議院の予算委員会で質問する。すると、彼はあの小さな身体をチョコマカ動かして出てくる。答弁席に両手をつき、噛んで含めるように答えてくれる。役所の資料を一切、見ないで、面倒な法律でも数字でも自在にこなし、こともなげに答弁する。ニコニコしながらね。
聞きながらオレは、この人は何とできる人かと思う。この人は何でもかんでも実によく知っている。オレはこの人に比べたらいかに不勉強で、いかにボンクラで、いかに至らないか、いやというほど思い知らされる。」

ただ、自分も代表質問を終わって、自席に戻り、そして彼の顔を見てつくづく思うことがあるという。

「おい、宮さん。今夜十時ごろ、オレの知っている小さな赤提灯の店に来ないか。おかみは懇意にしているし、口も固い。おかみの部屋が二階にある。布団が置いてあるようなところだ。あそこじゃ、どんなことをしゃべったって、絶対に大丈夫だ。あそこで今晩、二人で上着を脱いで、ネクタイをはずして、時間を気にせず、とことん話そうや。自民党をどうするか。社会党をどうするか。本当の話を徹底的にしゃべろう。宮さん、都合をつけてくれ――。

だが、こういう電話をかける気には絶対にならない相手だ」

私は、それが宮沢氏の責任だとは思わない。相手にそういう印象を与えるということが、宮沢喜一の罪咎とは思わない。しかし、相手も感情を持った人間だ。質疑応答していれば、当然、何かを感じるし、この感じることがいけないとは言えない。

とすれば、相手にそういう思いを抱かせるということは、やはり、その人にどこか至らない面があるという証明ではないか。



この世には、他人に対して無遠慮に聞いてはいけないことがある。
「出身校はどこか」、「今、どこで何をして働いているのか」
――この二つがいい例だ。

学校に行きたくても事情があって進学できなかった。

胸を張って「勤め先はここだ」と言えず、肩身の狭い思いで毎日、必死に働いている。そういう人たちが日本にたくさんいる。



どんな小さな会社でも、いい仕事をしていれば生きていける。
良質で、値段が安く、長持ちして、後の面倒見のいい商品を作りさえすれば、あるいは、同じようなサービスを提供することができれば、お客は必ずつく。
これが資本の論理というものだ。



意地を張っていると言われるかもしれないが、意地というのは、人間が生きていくうえでの背骨だ。背骨があるから頭が支えられている。背骨があるから、血液のもとになる骨髄液が、日夜不断に再生産されていく。
意地というものを人間から取れば、それは背骨なし、つまり、クラゲになってしまう。クラゲは潮の流れに身を任せて漂うだけだ。

世の中は、いつでもどこでも利口千人バカ千人である。本当はバカ十万人がひしめいている。だから、万事、多数決の社会では、一時は受け入れられない。
しかし、今、身のこなしが軽やかで、何もかも分かっているような顔をして、人の顔色を見ては達者にスイスイ動き回っている若い人たちがたくさんいる。そういう背骨のないクラゲが群れている。
その種の若者を私は好まない。



佐藤栄作は竹下登にこう語った。

「政治家の世界は100メートル競争ではない。マラソンだ。最初から優勝しようと思うな。自分のペースで走れ。自分の身柄に合った早さで、自分の心臓の強さに合わせて走れ。
トップランナーは、子供の投げたバナナの皮にすべって転ぶ。
二番手と三番手は、あまりに競い合って、コーナーを曲がる時に身体がぶつかり、二人でひっくり返って、アキレス腱を切る。
四番目の走者は下痢になって、テープの100メートル前で、もれそうになってしゃがんでしまう。
そうすると、竹下君、十番目、二十番目では困るが、五番目くらいのところにぴったりつけていけば、最後に君が勝つことになる」



田中角栄が私にこう言ったことがある。

「頂上を極めるために、いちばん大事なことは何だと思うか」

「むろん、味方を作ることです」

「それはちがう。無理をして味方を作ろうと思えば、どうしても狩を作ることになる。相手に愛想笑いをする。腰を引いてしまう。揉み手をする。すり足になる。そうしてできた味方は頼りにできるのか。できない。無理して作った味方は、いったん、世の中の風向きが変われば、アッという間に逃げ出していく。そうしたシロモノがほとんどだ。だから無理をして味方を作るな。

敵を減らすことだ。自分に好意を寄せてくれる人たちを気長に増やしていくしかない。その中からしだいに味方ができる。そのためには、他人、とくに目下の人をかわいがることだ。誰にも長所がある。それを引き出すことだ。いばるな、どなるな、言えば分かる。手のひらを返すような仕打ちをするな。いつでも平らに人と接することだ」



『人には馬鹿にされていろ』

人の口に戸は立てられない。人間は三人寄れば、そこにいない人の悪口を言う。バカにする。欠席裁判をする。あるいは、仲間内みんなで集まって酒の肴にする。とかく、そういう具合になりがちだ。

弱い人間の最大の楽しみは、他人の悪口を言い合うことだ。上司の悪口、あの社長、部長、課長、ぶっ叩いてやる。あいつは偉そうなことを言ってるけれども、薄皮一枚ひんむけば、こんなことだ。そんなこともふくめて、欠席裁判をすることが世間にはとても多い。それは人間の本性の一つだ。

私がここで思うのは、人にバカにされてもいちいちカッカするな――ということだ。相手だって、こっちをぶち殺してやる、社会的に葬ってやるというやつを除けば、心底、ひきずりおろすために悪口を言ってるわけではない。楽しみ半分だ。それにいちいち目くじらを立てていたのでは胃を壊す。
欠席裁判にされているのではないかと思ったら、一日中、悪口を言いそうなやつの側にへばりついていなければならない。そんなことは無駄なことである。



田中角栄師匠が、私に言ったことがある。

「商売も政治も結局、同じことだ。大勢の人に集まってもらわなければ、話にならない。大勢の人の気持ち、お心を頂戴できなければ、吾が思いを遂げることはできない。自分だけがオレは東京帝国大学出身だ、東大だ、オレは一番賢いんだ、ほかのやつはバカだ、オレのところに寄ってこないのは、そいつらがバカだからだ。これを銀座4丁目で空に向かって叫んだところで、どうなるか。カラスが飛んできて、その開けた口の中に糞をたれて、アホウ、アホウと言って飛んでいくだけのことだ」



人は誰でも世にスタートしたときは、右も左もろくに分からない。だが、風雪の歳月を経て経験を積み、百石もの汗を流した甲斐あって才能も花開き、時流にも恵まれて、世間が丁重に迎えるということになると、人間は普通、鼻が下を向かないで上を向くようになる。目線が高くなる。そうなれば本人の行く手に黄色の信号がチカチカ点滅する。いばりくさって世の中は渡れない。そのうち誰も相手にしなくなる。



若い者は粗相する。だが、それは当たり前だ。経験が浅いのだから、何かにつけて失敗する。しかし、経験が浅い者の失敗に、いちいち目くじらを立てることはない。自分だってそれ以上に失敗の連続だったじゃないか。叱る時には、誰もいないところでガッチリやったらいい。どんなささやかなことでも、褒めるときには、大勢のいる前でドンと褒めてやることだ。そうすれば若者は奮起する。いつか必ず知遇に応えてくれる。



田中角栄という人は、人の顔を見れば、

「おい、メシは食ったか」

と言っていた。口癖である。

表現は乱暴だが、相手は春風のように聞いた。

「メシは食ったか」

初心忘れず、この言葉は角栄の体験から発した。すきっ腹のつらさ、切なさを知っていたからである。

「おい、角さん、おれが昼飯も食えないほど貧乏してると思ってバカにするのか」

こう言って怒った人は一人もいない。よほどのひねくれものでもなければ、「メシまで心配してくれるのか、うれしい。ありがたいことだ」――そう思う。
 


田中角栄さんは好きでしたね。

支持者の待つ会場へ、雪が降れば 寒さのなか 雪まみれで現れる。(これは霊言で聞いたのか)
人の心をつかんで離さない政治家でしたねぇ・・

早坂茂三さんの書く 田中角栄伝説 昔 買って読んだことがあります。

なつかしいです ・・  

◆ 富士山頂、男達は命をかけた ◆

2011-05-12 09:36:04 | 本の話・素敵な話

◆ 富士山頂、男達は命をかけた 

日本の心をつたえる会 メルマガより


日本は台風銀座の中にあります。

全世界では毎年平均して80個の台風が発生し、約3割の28個が日本に襲いかかります。
現在は気象衛星等により、発生のごく初期から捕捉され、その後の動きも時々刻々分かります。

しかし50年前頃の昭和30年代までは、南洋上にある台風の動きを探知する方法がありませんでした。
気象レーダーは全国5ヶ所に設置されていましたが、探知能力はせいぜい300Km程度。
台風の速度が、昭和29年(1954)の洞爺丸台風の時速100Kmとすれば、上陸の3時間前にやっと分かる状況でした。

昭和33年(1958)の狩野側台風、翌年の伊勢湾台風では、それぞれ1000名を超える死者を出しました。

「もっとレーダーの足を伸ばせないか」
富士山頂にレーダーを設置できればと、関係者は誰でも思っていました。

「日本列島の中心だ、標高も日本最高の3776m、探知距離は一気に800Kmに達する、上陸までにかなり余裕が出来る、それを東京の気象庁から遠隔操作できたら・・・。」

それは、世界に前例のない途方もないことでした。
しかし気象庁に、毎年起こる台風災害を防ぐためにはこれしかないと、しゃかりきになって進めた人がいました。
F測器課長です。

後日談になりますが、Fは、精魂を傾けた富士山レーダーが完成したあと、気象庁を退職し、作家新田次郎として「富士山頂」を表します。

昭和35年(1960)、気象庁は「富士山頂レーダー設置計画」予算案を大蔵省に提出します。しかし予算規模面、技術面などで「途方もない」として却下。
翌36年、再度提出、また却下。

しかし挫けません。
技術的詰めや建設工事面、資材輸送面などで課題の研究を進め、37年、3たび予算を提出し、遂に内示を得ます。

時代は戦後の高度成長が始まった頃で、東海道新幹線の工事が進められ、数年後には東京オリンピックの開催が控えていました。
未来は明るく、時代は活況を呈していました。

その中で予算の満額回答を得ます。
事業年度は、昭和38年、39年の2ヶ年でした。

この富士山頂レーダーの話は、世間の話題を集めました。

ところが、いざ事業がスタートすると、たちまち問題が現れます。

 *~*~*~*~*~*

1つめは、富士山頂と東京の気象庁との間に障害物がなく、発信した電波が本当に届くのかと言うことです。

富士山頂からは、東京の街の灯りが見えていました。
それで問題なしと誰もが思っていたのです。
しかし本当なのか。
計画の甘さに関係者は真っ青になります。

その時、レーダーメーカーのM社が、山頂と気象庁間の見通しテストを買って出ます。
M社も何とか世紀のプロジェクトに参加したいとの執念があったのです。
「やるなら直ぐやらなければ間に合わない。」

昭和38年2月、厳冬の富士山へM社の調査隊5名と強力2名のパーティが登頂を開始しました。
5名のうち、冬山登山の経験があるものは2名で、厳冬の富士登山の困難さ、危険さは熟知していました。

その一人は後で述懐します。
「一生に一度、この時だけは家族に宛て遺書を書きました。自分はこういう目的のために自分の意志で行くのだからと。」

行く手は全てガチンガチンのアイスバーン、強風が容赦なく吹き付けます。
気圧が低く酸素も薄く高山病にかかります。
「ものを考えられない。頭が割れるように痛い。・・・」

見通しテストは、大量のマグネシウムを焚き、それを東京から望遠鏡で確認するという方法です。
やりとりは無線でやります。
双方が晴天でなければなりません。強風が吹くと、着火が困難です。
なかなかうまくいきません。

1週間経ちました。これが最後だと言う時に、東京の望遠鏡の視野に、トキ色の光点が浮かび上がりました。

 *~*~*~*~*~*

2つめの問題点は、業者への発注形態です。
一括発注か分割発注かです。

レーダー本体、通信機器、建物の建設、物資の輸送、頂上での作業者の宿泊設備、数千人になるであろう労務など、通常ではそれぞれの専門業者への分割発注になります。
また歴史的なかつ富士山という日本を象徴する名前がついた事業です。
業者としては是非受注して名前を残したい・・・。
政治家も動かして受注競争に参画してきます。

しかし、F測器課長は終始一貫主張します。
「この仕事は一括発注でなければならない。富士山頂で仕事が出来るのは、7月と8月、実働日数は40日くらい、2年間の事業と言いながら、実際は80日で何もかも仕上げなければならない。」
「分割発注したら、業者間の仕事の調整であっという間に時間が経ってしまう。仕事の命令系統は一元化することが必須だ。」

各方面からの圧力がありましたが、Fは一括発注を貫き通し、そしてM社が落札します。


富士山頂レーダーの建設で、最も長く山頂にへばりついて仕事をしなければならないのは、レーダーを収納する建物の建設作業です。
これはM社から建設会社D社が委託を受けました。

昭和38年6月、D社の30人が山頂に立ちます。
問題はまたしても高山病です。
それに夏場でも荒天が加わります。
何と言っても仕事自体が厳しいものでした。
基礎工事で土壌の掘削を始めると、永久凍土にぶち当たります。
御影石みたいに硬く、どんな機械も歯が立ちません。
結局ノミとハンマーでコツコツ掘っていくしかありませんでした。

水の調達も問題でした。
生活水と共に、セメントに水は不可欠です。
雪解け水は噴火口の底に溜まっています。
底まで200mの急斜面を入れ替わり立ち替わり、缶に汲んで運び上げました。
往復すると息は切れ、心臓は早鐘を打ちます。

作業員は疲れ切ってしまい音を上げました。
高山病が追い打ちをかけます。
その挙げ句、逃げ出し下山者が続出します。

工事責任者のJは、自ら憔悴しながら説得を進めます。
現地視察に来たF測器課長は後で記しました。

「単なる言葉や物質的な条件だけで彼等を引き留めることは出来なかった。Jは心で引き留めていた。男は一生に一度でいいから、子孫に自慢できるような仕事をすべきだ。この富士山こそその仕事だ。日本の象徴である富士山に、台風の砦を自分達は作っているのだと。」

Fは、働いた者の名前を銅板に刻み込んで後世に残すと約束しました。

 *~*~*~*~*~*


昭和38年5月、御殿場の馬方衆に大仕事が持ち込まれました。
「山頂に物資を運んでくれ。ブルトーザーで。」

何回もテストが繰り返されます。
「6合目までは直登で行くことが出来る。そのあとの急傾斜は、幅2mのジグザク路で昇ることが出来る。」
早速ジグザクの道路づくりが行われ、ブルドーザーも急遽特別仕様に改造されました。
そして9月末、機材を積んだブルトーザーが日本最高所に到達したのでした。
これで翌年の機材運搬の問題は解決されました。


 *~*~*~*~*~*

昭和39年の2年目の富士山頂は、前年の経験を活かし、作業環境が大幅に改善されます。
噴火口底の水も、電動ポンプで汲み上げられます。食事、睡眠、休養などの生活環境も改善されます。
「結局、作業能力を高めるためには、生活環境をよくするしかない。」

2年目の山頂は、天候にも恵まれ、工事が順調に進みます。ドームの台枠も完成しました。

 *~*~*~*~*~*

M社の工場では、電波の出力も探知距離も、従来に比べて数倍の能力を持つレーダーの開発に苦闘を続けていました。
通信機器なども皆初物づくりででしたが、技術課題がクリアされていきました。

問題は、レーダーアンテナを覆うドームでした。
直径9m、高さ7m、重量は600Kg、風速毎秒100mに耐えなければなりません。
ぎりぎり軽くしてかつ強度は強くしなければならない。
それを工場で数ミリの狂いもなく組み立て、ヘリコプターで頂上に運び上げ、ドームの台枠の上に正確に設置しなければなりません。

ヘリコプター会社のA社との打合せで、大問題が発覚します。
ヘリコプターの搭載の上限は、600Kgです。
しかしそれは平地の場合でした。富士山頂の高度では浮力が落ち、450Kgが限界というのです。
重量オーバーの上、乱気流が渦巻く山頂へ運ぶのは、通常では不可能なのでした。

 *~*~*~*~*~*

A社に超ベテランのK操縦士がいました。Kは淡々と引き受けます。
そして富士山火口付近の気流を綿密に調べることから始め、山頂に近づくルートを決めていきます。

また、ドームを台枠に下ろす時には、ホバリング(空中停止)が必要ですが、停止すれば浮力が落ちて危険です。
「置き逃げしかない。」

置き逃げとは、目標位置まできたら、ドームを台枠の上にポンと「置き」、直ちにパワーを上げて一目散に逃げ出すという方法です。
これしか方法はありませんでした。

そのため、麓の基地では、実寸大の台枠の模型を作り、目標位置にポンと置く練習を繰り返します。
もちろん台枠の各部には、作業員が配置され正確に位置決めをします。


 *~*~*~*~*~*

昭和39年8月15日、快晴、風もなし、決行が決まりました。
ヘリコプターは基地からドームを吊して山頂に飛び立ちました。
誘導者が1人乗り込み、Kを誘導します。

「もう少し前、あと70センチ、あと30センチ、・・今だ!」

そしてドームは、台枠に正確に設置されたのです。奇跡のようなことでした。固唾を呑んでみていた人達が拍手をします。誰彼となく握手し、肩をたたき合います。Kは大声で叫びました。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう。」

ドーム空輸成功の知らせは、直ぐに気象庁に届きました。
皆、この5年間の来し方を思い、静かに喜びを噛み締めました。

 *~*~*~*~*~*

Kは、昭和16年、霞ヶ浦航空隊に入隊、ゼロ戦に乗っていた人です。
同期生の8割は戦死、実の兄も戦死しました。

「みんな若い命を“お国のため”に散らして行った。こっちは生き残っちゃったから、目一杯のことやらにゃ行かんわけですよ。」
それがKの覚悟でした。
8月15日の決行も、何か神の加護を感じたそうです。

 *~*~*~*~*~*

昭和39年9月、富士山レーダーは動き始めました。
翌40年8月の台風17号来襲の際は、遠州灘に上陸するまでの3日間、台風の正確な位置を刻々と通報し続けました。

レーダードームの一角には、極限の現場を支え続けた男達の名前が刻まれました。
その数105名、しかしそれは一部でした。
延べ9000名の男達が、参加した一大プロジェクトでした。

 *~*~*~*~*~*

それから35年後の平成11年(1999)、富士山頂レーダーは気象衛星にその役割を譲り、歴史の幕を閉じました。

 *~*~*~*~*~*

長々と昔の話をしました。
昭和の高度成長期、名もない多くの日本人が、社会のニーズに対して、果敢に挑戦していったのでした。

しかし今、福島原発でも、同じように男達が、放射能の恐怖と戦いながら、文字通り命をかけて、可能性を求めて、日夜困難に取り組んでいます。
そして同じようなドラマが繰り返されていることでしょう。

是非とも早く終息し、栄光ある結果がもたらされるよう、祈らずにはいられません。

(資料)新田次郎「富士山頂」(文春文庫)
NHKプロジェクトX制作班「プロジェクトX、挑戦者たち」(NHK出版)

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ニューヨークの駆け込み寺

2011-05-09 10:41:03 | 本の話・素敵な話

ニューヨークの駆け込み寺 

ねずきちのひとりごとさん
日本の心を伝える会さん メールより


今回は、ニューヨークにある通称「駆け込み寺」の話です。
故上坂冬子女史の「南の島のマリア」1994年7月発刊(文芸春秋) などからの引用です。

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ここ「駆け込み寺」で活躍した大正13年加州生まれの日系2世ミドリ・島内(しまのうち)・レダラーさんは、老人福祉に取り組む非営利公共団体JASSI(Japanese American Social Service Incorporation)の会長として長い間才能をふるに発揮して奉仕に従事しました。

JASSIを立ち上げる以前の彼女は、アカデミー賞受賞映画制作者で、エリザベス・テーラーの夫だったマイケル・トッド氏の秘書です。

マイケル・トッド氏が代表作「80日間世界一周」で映画界における基礎を固めた時期、ミドリ・島内さんは、財務部長に昇格しています。

トッド氏が飛行機事故でなくなると、事業は暗礁に乗り上げます。
ボスのエリザベス・テーラーは、話相手にとミドリ島内さんを引き止めますが、彼女は仕事を替えました。

ミドリ島内さんの辣腕ぶりは業界で注目されていたので、すぐにブロードウェイのショービジネスに副社長として迎えられ、この仕事の絶頂期にレダラー氏と再婚します。

レダラー氏は有能な弁護士だったので、生活のために働く必要はなく、彼女は主婦業に専念します。

ところが、彼女の才能を専業主婦で埋没させるしのびないと、夫に背中を押された彼女は、貧民街で麻薬中毒のリハビリのボランティア活動をはじめます。

この活動がきっかけとなり、彼女は日系市民協会の斡旋で、日系高齢者援助会に行きます。
これが、JASSIの活動の発端です。

きっかけは、明治生まれのサウス・ブロンクス地区に住む孤老の男性との出会いです。
その男性の名は、貴志駒太郎といいます。

サウス・ブロンクス地区というのは、白人は通り抜けることも難しいといわれるほどの貧民街です。
そこに、この男性は住んでいた。

道を尋ねながら彼のアパートに辿り着く迄に、周囲の反応からこの孤老の男性がどんな目で見られているのかが、ミドリには分かったといいます。
それでも彼女はボランティアとして、掃除/炊事/洗濯とこの老人の世話をしはじめます。

ミドリの周りでは、そのころ旧知の本野盛幸がニューヨークの総領事として就任していました。
リンゴ園の経営で成功していた、もう一人の友人二世のタカシ・森内もいました。

ミドリは、閃めきます。
「この二人を結びつけてイベントをやろう!」

さっそくミドリさんは、森内氏に、
「リバーサイド・パークに桜を植え、ワシントンの向こうを張ってはどうか」ともちかけます。

植樹には日本総領事も立ち会う。

植樹の当日、ミドリさんは、本野総領事と孤老の男性貴志老人に鍬をふるわせます。
渡米八十余年の歴史を持つ一世老人と、日本総領事の姿は、人々のあいだにさまざまな感動を呼びます。

新聞はこぞって二人が鍬をふるう様子に大きなスペースをさいた。

ミドリさんはその新聞を、貴志老人の住むサウス・ブロンクス地区のアパートの掲示板に貼って、彼を軽蔑した人たちに一矢報います。

その後貴志老人は、骨折をしてしまいます。
自宅で身動きもままならない彼をおもいやってミドリが肩を落としていると、夫は、
「そんなに気がかりなら、家に連れて来て世話してやってはどうか」と言いました。

ミドリさんは、この朗報を貴志老人に伝えます。
ところが、明治気質の貴志老人は、これを受け入ません。
他人の生活圏に入って邪魔をするのは、本意でないというのです。

数年後、貴志老人は、風呂場で倒れているところを発見されました。
和歌山県出身の彼は一世紀に渡る生涯を閉じます。

こうした行動をきっかけとして、ミドリさんは、五千ドルを基金とし、自宅を事務所にして、キミ・清水とシリル・西本の三人でボランティア団体をたちあげます。

十三年後、彼女の事務所は、ハドソン河を見下ろす堂々たる事務所となりました。
年間予算二十五万ドルです。

いま、そのうち五パーセントは、ニューヨーク市からの助成金で賄われています。
彼女の団体は、非営利の公共団体として認可されたのです。

ここまで拡大できた理由は、ミドリの才能です。
「カーネギーホールの加藤登紀子リサイタルや、由紀さおり/安田祥子姉妹らのチャリティ・ディナーショー、五嶋みどりのコンサートなどの企画に注目して、福祉のための資金稼ぎにも流用させていただいたんですよ」と彼女は述べています。 

ミドリさんがUC(University of California)バークレー校に進学した時、父親は脳溢血で倒れ半身不随となりました。

その後、日米開戦に島内家は巻き込まれています。
彼女は、両親とともに強制収容所に放り込まれました。

このとき、勉強のためなら、収容所の外に住むことが認められました。
また、強制収容所とはいえ、宗教団体からの援助もありました。

こうしたことから当時のミドリさんは、バプティスト教会の手引きでニューヨークのベース・インスティチュートの学生となっています。
この学校に入学した時、ミドリさんは、最初の夫とともにニューヨークに向かっています。

そうして両親の元を離れた。
ミドリさんにとって、これが、老いた父親を見た最後でした。

ミドリさんは、父親の死に目にも会えませんでした。
当時、強制収容所のある、ユタ州までの旅費がなかったのです。

そんな悲しみを、二度と味わいたくない。
その思いが、彼女がサウス・ブロンクス地区の孤老にあれほど執着し、福祉の活動家になった原点となっています。

ミドリさんは、平成17年(2005年)3月9日に呼吸不全で、ボランティアに尽くした81歳の生涯を終えました。

日米ソーシャルサービス(通称JASSI)は、ニューヨークに推定で約9万人いる日本人や日系人を対象にした社会福祉活動を専門に行っているNPO法人です。

JASSIは、ニューヨークにおける日系人社会のいわば「駆け込み寺」です。

現在は、理事長の青木博、副理事長の畠中ひろ子、岩本理、大崎孝三、加納良雄、渋沢田鶴子、望月良子、ワイズマン綾子の八人の理事、鳥巣千明、片山瑞恵、中曜子、蔭山正子、喜島栄子の五人のスタッフに受け継がれて運営されています。

日本人個人がこのアメリカで生活に困ったり、ビザの問題や借家、アパートの大家との修理放置のトラブル、ID盗難被害などで法的手段に訴える場合の解決方法や法的手続きのサポートなどを日本語で相談に乗っています。

日本領事館から「JASSIに行きなさい」と指示され場合も多いといいます。
日本政府公認の悩み事相談窓口となっています。

引用元:
http://www.jassi.org/about_mission_E.html
http://www.info-fresh.com/index.php?pages=seikatsu&type=detail&no=4934「時代に挑戦した女たち」上坂冬子
「南の島のマリア」1994年7月発刊/文芸春秋





なにくそ!・・・早川徳次

2011-05-06 16:48:28 | 本の話・素敵な話
なにくそ!・・・早川徳次

ねずきちのひとりごと さんより
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-767.html

SHARP(シャープ)といえば、最近では液晶AQUOS、太陽熱発電に携帯電話、パソコンなどを製造販売する東証1部の大企業です。

シャープの創業社長は、早川徳次(はやかわとくじ)さんという方です。
ですからシャープという名前になる前は、「早川電機工業」という社名でした。

シャープの本社は大阪にあります。
ところが、もともとはこの会社は、東京で創業されました。

実は、創業社長の早川徳次さんは、東京日本橋の生まれです。

生家はなにかのご商売をされていた家のようですが、家業が衰退し、母親も病気になってしまう。
徳次さんは、2歳半のときに、出野家に養子に出されます。

出野家の養母は、徳次少年を非常に可愛がってくれたようです。
ところが、徳次が5歳のとき、実の母と思って慕ったこの養母が、亡くなってしまいます。

出野家では、後妻をもらいます。
この後妻が、とんでもない伝説の女性で、徳次に対して殴る蹴るの暴行はあたりまえ、真冬に公衆便所の糞つぼの中に突き落とし、放置したりもした。

泣き声を聞きつけた近所の人々が助け出したのですが、糞尿まみれでおぼれかけていたのですから、半死半生です。もちろん全身糞まみれで、臭い。

出野の後妻は、眼を吊上げて徳次少年を井戸端(いどばた)に引きずって行くと、厳寒の中、罵声とともに井戸の水を浴びせ続けたそうです。
近所の人たちも、あきれはててものもいえなかった。

徳次少年は、食事もしばしば与えられなかった。
さらに「お前に勉強なんか贅沢だ!働け!」と、小学校も二年で中退させられてしまいます。

あまりのヒドイ仕打ちをみかねた近所の井上さんという盲目の女行者さんが、徳次少年の手を引いて、かざり職人の丁稚奉公に連れて行ってくれた。

修験道の信仰をされていた女性です。徳次は晩年になっても、「あの時の井上さんの手のぬくもりを、私は生涯忘れる事が出来ない」と述懐しておられたといいます。
女行者の井上さんの手のぬくもりが、それほどまでにあたたかく感じた。
徳次少年には、よほどつらい毎日だったのだろうと思います。

徳次が連れて行かれたかざり職人さんの家は、男っ気のある親方の下に、何名かの職人さんがいる商店です。そこで徳次は、18歳までかざり金物の丁稚(でっち)職人として奉公します。

徳次少年が一生懸命働いた給金は、れいの後妻がやってきて、ぜんぶ持って行ってしまったそうです。
だから徳次少年には、遊んだり、自分のモノを買ったりするお金は一円もない。

徳次少年にとっては、黙々と金属の加工をし、飾り物作りに打ち込んでいる時間だけが、楽しい時間だったようです。

ちなみに、偉大な事績を残す創業者というのは、不思議なことに創業前の十年が、めちゃめちゃ不幸な生活をしていることが往往にしてあります。
人並みはずれてたいへんな苦労をする。その苦労した自分を償う気持ちを持てたとき、はじめて人は大きな仕事ができるようになれるのかもしれません。

明治44(1911)年、徳次18歳の時、ズボンのベルトに、穴を開けずに使えるバックル「徳尾錠」を発明します。ちなみにねずきちがいま使っているベルトのバックルも、この「徳尾錠」タイプです。


徳尾錠



徳次は、この発明で新案特許を取り、19歳で独立します。

このとき彼ははじめて、自分が出野家の養子であったこと、実の両親が死んでしまったことを知ります。
そして実の兄である早川政治と対面し、兄弟で「早川兄弟社」を設立した。そして「徳尾錠」の製造販売を開始します。

独立資金50円のうち、10円は兄弟でお金を出し合い、40円は借金した。

会社は、徳次が商品を考案し、兄が、販売を担当します。

たいへん苦しい財務状態からのたち上げでしたが、二人は寝る間も惜しんで働き、「徳尾錠」は、ヒット商品となって、事業は拡大していきます。

さらに徳次は、22才のとき、独創的な芯の繰出し装置付きのシャープペンシルを考案します。

これは、棒を金属ではさむと、摩擦の力で軽い力でも強固に固定できると言う現象を利用したもので、ほとんどいま使われているシャープペンと同じ仕様のものです。

大正4(1915)年、徳次は、このシャープペンシルを「早川式繰出鉛筆」として特許を出願します。

最初はプロペリングペンシル(軸をひねって芯を出す機構だったため)の名で売り出したのですが、後に、エバー・レディ・シャープ・ペンシルと改名しました。この名前が詰まって、後にシャープペンシルとなり、シャープの社名にまでなっています。

しかし、この「早川式繰出鉛筆」は、売出し当初は、「和服に向かない」、「金属製なので冷たく感じる」など、まったくもって評判が悪かった。おかげで全く売れなかったそうです。

それでも銀座の文房具屋に試作品を置いてもらうなどの努力を続けるうち、徳次のシャープペンは、欧米で人気商品になります。
すると、日本でも売れ始めた。
海外でヒットすると日本でも売れ始める。
いまも昔も日本は変わらないです(笑)

徳次の会社は、このシャープペンシルの大量生産で、会社の規模を拡大します。
さらに徳次は、当時としては先駆的な試みである、流れ作業方式を導入することで、製品の生産効率を格段に高めた。

「早川兄弟社」は、大正12(1923年)には、従業員数200名の会社に成長します。
「早川式繰出鉛筆」も、米国特許を取得し、事業は完全に軌道に乗ったかにみえた。


ところが徳次は、激務がたたって、過労で倒れてしまいます。29歳のときです。
当時としては珍しい「血清注射」による治療で命拾いをします。


徳次が30歳になった大正12(1923)年のことです。

関東大震災が起こった。

震災で、徳次は九死に一生を得たのだけれど、妻と2人の子供は死亡してしまいます。工場も焼け落ちてしまった。

残ったのは、借金だけです。

さすがの徳次も「何もかも、元に戻ってしまった」と、泣きに泣きに泣いたそうです。死のうとすら思った。
しかしこのとき生き残った社員たちが、彼を励まします。
何もかも失ってしまったけれど、自分はまだ生きている。生きている限り、何かをなさなければならない。

徳次は、借金の返済のため、シャープペンシルの特許を日本文房具に売却すると、心機一転、大阪へと移り、震災の翌年の大正13(1924)年には、大阪で「早川金属工業研究所」を設立します。
日本文房具の下請けの仕事をはじめた。

と、こう書くとなにやらもっともらしいのですが、実は、震災ですべてを失って、一文無しどころか、借金だけが残った。
工場もない。
やむなく徳次は、日本文房具に特許権を売り渡し、売却益で小金を作って、関西に夜逃げしたのです。そして大阪で日本文房具の下請け工場をはじめた。

細々と下請け仕事をする徳次のもとには、債権者が追いかけてきます。脅され、民事で訴えられ、刑事告訴され、徳次はまさに舌筆につくしがたい苦境を味わいます。

そんな日々の中で、徳次は、たまたま大阪の心斎橋でアメリカから輸入された鉱石ラジオを見かけます。
日本でもラジオ放送が始まろうとしていたのです。
徳次は、これはイケルと確信します。

徳次は、一心不乱に鉱石ラジオを研究し、震災の翌年(大正14(1925)年)には、国産第1号機の鉱石ラジオを開発します。

鉱石ラジオというのは、ゲルマニウム・ラジオが生まれるよりも、もっとずっと以前のラジオの仕様です。真空管ラジオよりも古い。

方鉛鉱や黄鉄鉱などの鉱石の表面に、細い金属線を接触させ、その整流作用を利用して電波を受信します。
電力には、アンテナから受けた電波を利用します。当然アンプなんてしゃれたものはついてませんから、音声信号も微弱です。だからヘッドホンで音を聞いた。

それでも当時としてみれば、NHKがラジオ放送を開始する、ラジオが普及する、これは、実に楽しみな出来事です。

この年の6月1日、会社で、社員みんなが集まって、大阪NHKのラジオ放送を受信します。
レシーバーから細々と声が聞こえた。それを聞いて、社員全員、抱き合って喜んだ。


国産初の鉱石ラジオ



ラジオ放送の開始に伴い、このラジオは爆発的に売れます。

そして昭和4(1929)年には、鉱石ラジオに替わる新技術の交流式真空管ラジオを発売します。
以後、相次ぐ新製品の開発などで、「ラジオはシャープ」の名を不動のもにします。

ラジオの普及と共に業績は拡大し「早川金属工業研究所」は、昭和17(1942)年には「早川電機工業」に社名を変更しました。

しかし昭和4(1929)年といえば、ブラックマンデーから世界大恐慌に至った年です。
関東大震災で壊滅した首都東京と、有名な「震災手形」で、日本国内は、明治以来最大の恐慌へと向かっていきました。

そんな中で徳次は、貧しい人、不幸な人、身障者を積極的に雇用し、また援助の手を休めなかったといいます。

早川徳次は、晩年、色紙を求められると必ず、

 「なにくそ」

と書いたそうです。

どんなに苦しくても、いじめられても、ほんとうにヤバイと感じる情況に陥っても、絶対に負けない。「なにくそっ」と思って頑張る。

いま日本という国は、建国以来最大の国難の時代をむかえてると言われています。

気がつくと保守は、いつのまにか少数派になっていた。

そういうときだからこそ、目覚めた少数の保守が、「なにくそっ」と頑張りぬく。

頑張ってがんばって、がんばりぬいた先に、日本の未来がある。
そんな気がします。