上杉鷹山に見る繁栄のための精神
2003.09.05
リバティWEBより
英国の探検家が目撃したアルカディア(桃源郷)
「米沢平野は、南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。『鋤で耕したというより鉛筆で描いたように』美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデア(桃源郷)である」
明治初期、日本の各地を見て歩いた英国の女流探検家イザベラ・バード(注1)は、旅の途中、かつての米沢藩の領地に足を踏み入れると、その美しさに思わずそう感嘆した。
「自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。彼らは、葡萄、いちじく、ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮らしをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である」
米沢の地の豊かさと、人々の豊かな暮らしぶりは、当時、世界最大の経済大国であった英国人をも驚かせるに十分なものがあったのだ。
ところが、この“桃源郷”も、そのわずか100年前には、藩の財政が破綻寸前に陥り、貧しさのあまり領民が逃げ出す、痩せ衰えた土地だった。
その米沢藩を再建し、不死鳥のごとく生まれ変わらせたのが上杉鷹山である。
崩壊寸前の米沢藩
上杉鷹山が1767年にわずか15歳で上杉家の家督を継いで米沢藩主となったとき、藩は窮乏のどん底。領内の村は荒れ果て、貧民や流浪者があふれていた。
それもそのはずで、年間3万両の必要経費に対し、豪商からの借金の支払い額は4万両近くに上り、そのうち実際に払えるのはせいぜい1万両。積もり積もった借財の総額は20万両にも達し、一年の藩の収入でも利息を払えない有り様だった(注2)。
なぜなら初代藩主の上杉景勝の時代には120万石あった石高が、15万石に減っているにもかかわらず、家臣団は約5千人のまま横ばい。しかも初代の大藩時代の慣習やしきたりをことごとく踏襲したため、経費が財政を圧迫していたのである。企業でいえば、売上げが8分の1に減りながら、経費の削減をしないのだから、債務超過に陥るのは当たり前だ。
しかも、歴代の藩主たちは、収入を増やそうと重税を課したために、苦しめられた農民が逃散したり、子供を間引くなどして、最盛期に13万人いた人口が10万人程度にまで減少していた。
(注1) 明治11年に日本を訪れ、東北、北海道を旅行した女性探検家(左写真)。そのときの記録は、『日本奥地紀行』として出版された。
(注2) 一両を約20万円で換算した場合、借財総額20万両は現在の約400億円に相当する。
早わかり上杉鷹山
上杉鷹山が米沢藩主になったとき、領内の村は荒れ果て、藩の財政は崩壊寸前だった。
鷹山は、大倹約令を発し、自ら範を示しつつ、無駄な経費を思い切ってカットした。
一方、植林事業や灌漑用水の工事を積極的に展開、織物や焼物など、さまざまな産業を興した。
「民の幸福は治者の幸福である」と信じて必死の努力を続け、鷹山が亡くなるころには藩の借金はほぼ返済し終えた。
率先垂範の"コストカッター"
そんな状況のなかで上杉鷹山がまず取り組んだのが、「出ずるを制す」。すなわち自らが率先垂範し、徹底的な大節減を行うことだった。
まず「大倹約令」を発し、藩主の生活費である仕切料を年1500両から209両に一気に削減。身の回りの世話をする奥女中50余人を9人に減らした。日常の食事は一汁一菜、衣服も贅沢な絹から綿衣に限らせた。現代で言う"コストカッター"である。
人事にも手をつけた。例えば実力本意で人材を起用し、無能な代官はことごとく退け、不正を行なう者は罷免した。幹部に対しては、複数の役職を兼務させ、目一杯仕事をさせて、"お飾り"としての役職を許さなかったのである。
単なる経費削減だけでは、下手をすると組織はやせ細るだけだ。そこで同時に組織を鍛え上げて筋肉質に変えていったのだ。
情報開示と新産業の育成
むろん、鷹山はただ倹約に励んだだけではない。積極投資をはじめとする革新的な再建策にこそ、その真骨頂があった。
まずは情報公開。藩の収支決算を示す会計帳を家臣に公開、上杉家の財政がいかにひどい状態にあるかを包み隠さず明らかにした。現代でこそ「ディスクロージャー」が盛んに言われるようになったが、200年以上も前の封建時代に、すでに鷹山は情報公開を進めていたのである。
また、藩士からは政治改革の意見を募り、優れた意見を述べた者を次々と登用。領内には目安箱ならぬ「上書箱」を設置し、アイデアを吸い上げることに心を砕いた。
中でも最も力を入れたのは、「入るをはかる」殖産興業である。
例えば、米沢市の代表的な伝統産業である「米沢織」は、鷹山の時代に桑を植え、養蚕を奨励し、越後から職人を招いて縮布製造場を設けたことに始まっている。特に蚕のエサとなる桑やが取れる漆、和紙の原料となる楮などは、実に100万本の植え立て計画を打ち出した。
ほかにも今に受け継がれる成島焼、笹野一刀彫、相良人形といった特産物を生み出している。
また、他藩からの輸入に依存していた農業用の馬を、国産馬の開発に力を注ぐことで価格を下げ、農民を大きく潤わせた。江戸随一の学者を招いて薬草園を開き、製薬事業も起こした。
交通革命と大規模公共事業
さらに見過ごせないのが「規制緩和」だ。まず、米価安定のために米の領外への移出を自由にする法令を発布。次いで最上川上流の商船の航行を許可し、輸送力を強化。わずか6艘だった商船を36艘にまで増やしている。一種の「トランスポーテーション(輸送)革命」である。
そして藩の財政が大赤字にもかかわらず、積極財政も行なった。
黒井堰の大工事では、3年間で10万人以上の人夫や大工を動員。この灌漑用水の開通で、実に領内の33カ村が潤った。さらに20年もの歳月を費やして、飯豊山の標高1500mの高所にトンネルを掘った。領民を楽にし、豊かにするという試みには、惜しげもなく投資したのだ。
しかも、こうした一連の施策に魂を入れるために教育事業にも投資している。
当時一流の儒学者で、鷹山の師でもある細井平洲(注3)を3回にわたって招き、1776年には学問所として興譲館を創設。「教育投資など、この財政難では無意味だ」という周囲の猛烈な反対を押し切って、人材づくりに万金を惜しまなかった。
こうして見ると、鷹山はただ清廉潔白であったというだけでなく、現代で言えば、発想力豊かな「ベンチャー経営者」としての感覚を多分に持っていたことが分かる。
こうした一連の改革を30数年にわたって行なってきた結果、鷹山が亡くなるころには、膨大な借金をほとんど返済し、財政を黒字化させ、5千両もの蓄財ができるまでになったのだ。
民の幸福こそ治者の幸福
慎重な「倹約家」と大胆な「起業家」──。そうした鷹山の一見相反するような側面を貫くものが、彼の徹底した「自助努力」と「愛他・利他」を尊ぶ精神であった。
「自助努力」の精神の典型は、鷹山が就任して間もなく始めた「籍田の礼」だろう。藩主自らが田を耕し、農業の尊さを表す神事だが、これによって、米沢藩では以後、家臣をあげての耕地開発や用水のための堰堀、堤防修築が行われることになる。
藩窮乏の時には、武士であっても農民の年貢に徒食することなく、それぞれが「自助努力の精神」を発揮すべきである──そのことを身をもって示したのだ。
鷹山が師と仰いだ細井平洲は、常々次のように説いていた。
「経済とは経世済民の略であり、単なる銭勘定ではなく、その背後に民を愛する政治を行なう姿勢がなければならない。治者は民の父母でなければならない」
幼少時にこの教えに触れた鷹山は、涙を流して感動したという。それが鷹山の「民の幸福は治者の幸福」という思想に結実する。
後に藩主になってから、鷹山は、現在の行政官である郷村頭取や郡奉行に次のように語ったという。
「赤ん坊は自分の知識を持ち合わせていない。しかし母親は子の要求をくみとって世話をする。それは真心があるからである。真心は慈愛を生む。慈愛は知識を生む。真心さえあれば、不可能なものはない。役人は、民には母のように接しなければならない。民をいつくしむ心さえ汝にあるならば、才能の不足を心配する必要はない」──。
その「慈愛の心」は、「国民が貧しければ自分は貧しく、国民が豊かになれば自分が豊かなのだ」と、民の窮乏を見かねて仁政を施した仁徳天皇の精神にも通じるといえるだろう。
「信仰心」が生んだ理想郷
そうした鷹山の精神性の背景に、神仏への「深い信仰心」があったことを忘れてはならない。
鷹山が藩主になる日のこと、彼は人知れず次のような誓文を、自らの守護神と仰ぐ春日明神に奉納し、誓いを立てている。
一、 文武の修練は定めにし
たがい怠りなく励むこと
二、 民の父母となるを第一 のつとめとすること
三、 次の言葉を日夜忘れぬ こと
贅沢なければ危険なし
施して浪費するなかれ
四、 言行の不一致、賞罰の 不正、不実と無礼、を犯 さぬようつとめること
これを今後堅く守ることを約束する。もし怠るときには、ただちに神罰を下し、家運を永代にわたり消失されんことを
こうした鷹山の「信仰心」と領民への「慈愛の心」、人々が自助努力によって豊かになることを肯定する考え方。そこから生じる「智慧」(工夫とアイディア)、そして常に「あるべき姿」を求め続け、その実現に向けた不退転の決意と情熱──。それこそが、数十年にわたる長い藩政改革を成功に導き、窮乏の極みにあった米沢藩を、「アジアのアルカディア」へと変えた秘訣と言ってよいだろう。
◇ ◇
かつてない深刻な不況で苦しむ日本。そうした時だからこそ、「清貧の思想」だけでなく、上杉鷹山が身をもって実践した「繁栄のための精神」を、学ぶ必要があるのではないだろうか。
(注3)江戸時代の儒学者で上杉鷹山の師。その著『嚶鳴館遺草』は、後に吉田松陰が「この本こそ、治者の宝典である」と絶賛し、塾生にすすめたと言われる。
上杉謙信が鷹山を天上界から指導していた?
上杉謙信 何を悩んでおる。いかがいたした。
鷹山 私の考えは上杉家の格式に反しておりますか?
謙信 格式とはなんぞや。
鷹山 謙信公の生きざまでござる。
謙信 正義の為に戦う。それが上杉家の伝統。今、何が正義よ。
鷹山 今は米沢の窮乏を救うことこそ正義でございます。
謙信 ならば、おのれの信じる正義をつらぬくのだ。
鷹山 謙信殿……。
この会話は、米沢市立上杉博物館で上映している短編映画「鷹山シアター」の一部分。改革に取り組む鷹山が、家臣団の激しい抵抗に悩み、お堂に籠もった時、上杉家の藩祖・上杉謙信と霊的に会話し、その指導を得て改革を断行したというストーリーだ。
残念ながら、この“会話”は史実ではないが、仏神への篤い信仰心を持ち、民の幸福のために身命を賭した鷹山に、天上界の上杉謙信から霊的な指導が臨んだという設定は、興味深い。
ちなみに上杉謙信は、仏教で「毘沙門天」と言われる、あの世の高級霊の一人だ。
ジョン・F・ケネディが最も尊敬した日本人
「あなたが、日本で最も尊敬する政治家はだれですか」
「上杉鷹山です」
1961年、第35代アメリカ大統領に就任したとき、日本人記者団からの質問に、ジョン・F・ケネディは即座にこう答えた。日本の国内でも鷹山の名を知っている人が少なかった当時、ケネディはこの日本の小藩主をよく研究し、「自分の政治家としての理想像」を鷹山公に求め、「アメリカも大事なときであるから、私も十分頑張るつもりである」と話したという(注4)。
実際に鷹山の名前は、日本の有徳の為政者として、明治以降、欧米人に広く知られ、尊敬を集めてきた。
そのきっかけとなったのが、キリスト者・内村鑑三が、明治41年に発刊した英文の『代表的日本人』と言われている。内村はその中で、鷹山の業績と人格を、キリスト教的な「天の王国の実現」と「愛」、「信仰」の観点から描き、紹介した。
日露戦争以後、広く海外で読まれたこの名著を、敬虔なカトリック信者で勉強家のケネディが何らかの形で読み、感銘を受けた可能性は大いにある。
だとすれば、ケネディが大統領になってから、不況に苦しむアメリカ国民を救うために大減税を断行し、かつアポロ計画といった積極投資を決断したのも、鷹山の思想と行動がその背景にあったと言えるだろう。
日本の名君・鷹山は、米沢藩のみならず、現代のアメリカの繁栄にも影響を与えたのかもしれない。
(注4)『米澤藩行革の恩人 上杉鷹山公』(山田武雄著)より。