◆ 富士山頂、男達は命をかけた
日本の心をつたえる会 メルマガより
日本は台風銀座の中にあります。
全世界では毎年平均して80個の台風が発生し、約3割の28個が日本に襲いかかります。
現在は気象衛星等により、発生のごく初期から捕捉され、その後の動きも時々刻々分かります。
しかし50年前頃の昭和30年代までは、南洋上にある台風の動きを探知する方法がありませんでした。
気象レーダーは全国5ヶ所に設置されていましたが、探知能力はせいぜい300Km程度。
台風の速度が、昭和29年(1954)の洞爺丸台風の時速100Kmとすれば、上陸の3時間前にやっと分かる状況でした。
昭和33年(1958)の狩野側台風、翌年の伊勢湾台風では、それぞれ1000名を超える死者を出しました。
「もっとレーダーの足を伸ばせないか」
富士山頂にレーダーを設置できればと、関係者は誰でも思っていました。
「日本列島の中心だ、標高も日本最高の3776m、探知距離は一気に800Kmに達する、上陸までにかなり余裕が出来る、それを東京の気象庁から遠隔操作できたら・・・。」
それは、世界に前例のない途方もないことでした。
しかし気象庁に、毎年起こる台風災害を防ぐためにはこれしかないと、しゃかりきになって進めた人がいました。
F測器課長です。
後日談になりますが、Fは、精魂を傾けた富士山レーダーが完成したあと、気象庁を退職し、作家新田次郎として「富士山頂」を表します。
昭和35年(1960)、気象庁は「富士山頂レーダー設置計画」予算案を大蔵省に提出します。しかし予算規模面、技術面などで「途方もない」として却下。
翌36年、再度提出、また却下。
しかし挫けません。
技術的詰めや建設工事面、資材輸送面などで課題の研究を進め、37年、3たび予算を提出し、遂に内示を得ます。
時代は戦後の高度成長が始まった頃で、東海道新幹線の工事が進められ、数年後には東京オリンピックの開催が控えていました。
未来は明るく、時代は活況を呈していました。
その中で予算の満額回答を得ます。
事業年度は、昭和38年、39年の2ヶ年でした。
この富士山頂レーダーの話は、世間の話題を集めました。
ところが、いざ事業がスタートすると、たちまち問題が現れます。
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1つめは、富士山頂と東京の気象庁との間に障害物がなく、発信した電波が本当に届くのかと言うことです。
富士山頂からは、東京の街の灯りが見えていました。
それで問題なしと誰もが思っていたのです。
しかし本当なのか。
計画の甘さに関係者は真っ青になります。
その時、レーダーメーカーのM社が、山頂と気象庁間の見通しテストを買って出ます。
M社も何とか世紀のプロジェクトに参加したいとの執念があったのです。
「やるなら直ぐやらなければ間に合わない。」
昭和38年2月、厳冬の富士山へM社の調査隊5名と強力2名のパーティが登頂を開始しました。
5名のうち、冬山登山の経験があるものは2名で、厳冬の富士登山の困難さ、危険さは熟知していました。
その一人は後で述懐します。
「一生に一度、この時だけは家族に宛て遺書を書きました。自分はこういう目的のために自分の意志で行くのだからと。」
行く手は全てガチンガチンのアイスバーン、強風が容赦なく吹き付けます。
気圧が低く酸素も薄く高山病にかかります。
「ものを考えられない。頭が割れるように痛い。・・・」
見通しテストは、大量のマグネシウムを焚き、それを東京から望遠鏡で確認するという方法です。
やりとりは無線でやります。
双方が晴天でなければなりません。強風が吹くと、着火が困難です。
なかなかうまくいきません。
1週間経ちました。これが最後だと言う時に、東京の望遠鏡の視野に、トキ色の光点が浮かび上がりました。
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2つめの問題点は、業者への発注形態です。
一括発注か分割発注かです。
レーダー本体、通信機器、建物の建設、物資の輸送、頂上での作業者の宿泊設備、数千人になるであろう労務など、通常ではそれぞれの専門業者への分割発注になります。
また歴史的なかつ富士山という日本を象徴する名前がついた事業です。
業者としては是非受注して名前を残したい・・・。
政治家も動かして受注競争に参画してきます。
しかし、F測器課長は終始一貫主張します。
「この仕事は一括発注でなければならない。富士山頂で仕事が出来るのは、7月と8月、実働日数は40日くらい、2年間の事業と言いながら、実際は80日で何もかも仕上げなければならない。」
「分割発注したら、業者間の仕事の調整であっという間に時間が経ってしまう。仕事の命令系統は一元化することが必須だ。」
各方面からの圧力がありましたが、Fは一括発注を貫き通し、そしてM社が落札します。
富士山頂レーダーの建設で、最も長く山頂にへばりついて仕事をしなければならないのは、レーダーを収納する建物の建設作業です。
これはM社から建設会社D社が委託を受けました。
昭和38年6月、D社の30人が山頂に立ちます。
問題はまたしても高山病です。
それに夏場でも荒天が加わります。
何と言っても仕事自体が厳しいものでした。
基礎工事で土壌の掘削を始めると、永久凍土にぶち当たります。
御影石みたいに硬く、どんな機械も歯が立ちません。
結局ノミとハンマーでコツコツ掘っていくしかありませんでした。
水の調達も問題でした。
生活水と共に、セメントに水は不可欠です。
雪解け水は噴火口の底に溜まっています。
底まで200mの急斜面を入れ替わり立ち替わり、缶に汲んで運び上げました。
往復すると息は切れ、心臓は早鐘を打ちます。
作業員は疲れ切ってしまい音を上げました。
高山病が追い打ちをかけます。
その挙げ句、逃げ出し下山者が続出します。
工事責任者のJは、自ら憔悴しながら説得を進めます。
現地視察に来たF測器課長は後で記しました。
「単なる言葉や物質的な条件だけで彼等を引き留めることは出来なかった。Jは心で引き留めていた。男は一生に一度でいいから、子孫に自慢できるような仕事をすべきだ。この富士山こそその仕事だ。日本の象徴である富士山に、台風の砦を自分達は作っているのだと。」
Fは、働いた者の名前を銅板に刻み込んで後世に残すと約束しました。
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★
昭和38年5月、御殿場の馬方衆に大仕事が持ち込まれました。
「山頂に物資を運んでくれ。ブルトーザーで。」
何回もテストが繰り返されます。
「6合目までは直登で行くことが出来る。そのあとの急傾斜は、幅2mのジグザク路で昇ることが出来る。」
早速ジグザクの道路づくりが行われ、ブルドーザーも急遽特別仕様に改造されました。
そして9月末、機材を積んだブルトーザーが日本最高所に到達したのでした。
これで翌年の機材運搬の問題は解決されました。
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昭和39年の2年目の富士山頂は、前年の経験を活かし、作業環境が大幅に改善されます。
噴火口底の水も、電動ポンプで汲み上げられます。食事、睡眠、休養などの生活環境も改善されます。
「結局、作業能力を高めるためには、生活環境をよくするしかない。」
2年目の山頂は、天候にも恵まれ、工事が順調に進みます。ドームの台枠も完成しました。
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M社の工場では、電波の出力も探知距離も、従来に比べて数倍の能力を持つレーダーの開発に苦闘を続けていました。
通信機器なども皆初物づくりででしたが、技術課題がクリアされていきました。
問題は、レーダーアンテナを覆うドームでした。
直径9m、高さ7m、重量は600Kg、風速毎秒100mに耐えなければなりません。
ぎりぎり軽くしてかつ強度は強くしなければならない。
それを工場で数ミリの狂いもなく組み立て、ヘリコプターで頂上に運び上げ、ドームの台枠の上に正確に設置しなければなりません。
ヘリコプター会社のA社との打合せで、大問題が発覚します。
ヘリコプターの搭載の上限は、600Kgです。
しかしそれは平地の場合でした。富士山頂の高度では浮力が落ち、450Kgが限界というのです。
重量オーバーの上、乱気流が渦巻く山頂へ運ぶのは、通常では不可能なのでした。
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A社に超ベテランのK操縦士がいました。Kは淡々と引き受けます。
そして富士山火口付近の気流を綿密に調べることから始め、山頂に近づくルートを決めていきます。
また、ドームを台枠に下ろす時には、ホバリング(空中停止)が必要ですが、停止すれば浮力が落ちて危険です。
「置き逃げしかない。」
置き逃げとは、目標位置まできたら、ドームを台枠の上にポンと「置き」、直ちにパワーを上げて一目散に逃げ出すという方法です。
これしか方法はありませんでした。
そのため、麓の基地では、実寸大の台枠の模型を作り、目標位置にポンと置く練習を繰り返します。
もちろん台枠の各部には、作業員が配置され正確に位置決めをします。
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昭和39年8月15日、快晴、風もなし、決行が決まりました。
ヘリコプターは基地からドームを吊して山頂に飛び立ちました。
誘導者が1人乗り込み、Kを誘導します。
「もう少し前、あと70センチ、あと30センチ、・・今だ!」
そしてドームは、台枠に正確に設置されたのです。奇跡のようなことでした。固唾を呑んでみていた人達が拍手をします。誰彼となく握手し、肩をたたき合います。Kは大声で叫びました。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう。」
ドーム空輸成功の知らせは、直ぐに気象庁に届きました。
皆、この5年間の来し方を思い、静かに喜びを噛み締めました。
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Kは、昭和16年、霞ヶ浦航空隊に入隊、ゼロ戦に乗っていた人です。
同期生の8割は戦死、実の兄も戦死しました。
「みんな若い命を“お国のため”に散らして行った。こっちは生き残っちゃったから、目一杯のことやらにゃ行かんわけですよ。」
それがKの覚悟でした。
8月15日の決行も、何か神の加護を感じたそうです。
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昭和39年9月、富士山レーダーは動き始めました。
翌40年8月の台風17号来襲の際は、遠州灘に上陸するまでの3日間、台風の正確な位置を刻々と通報し続けました。
レーダードームの一角には、極限の現場を支え続けた男達の名前が刻まれました。
その数105名、しかしそれは一部でした。
延べ9000名の男達が、参加した一大プロジェクトでした。
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それから35年後の平成11年(1999)、富士山頂レーダーは気象衛星にその役割を譲り、歴史の幕を閉じました。
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長々と昔の話をしました。
昭和の高度成長期、名もない多くの日本人が、社会のニーズに対して、果敢に挑戦していったのでした。
しかし今、福島原発でも、同じように男達が、放射能の恐怖と戦いながら、文字通り命をかけて、可能性を求めて、日夜困難に取り組んでいます。
そして同じようなドラマが繰り返されていることでしょう。
是非とも早く終息し、栄光ある結果がもたらされるよう、祈らずにはいられません。
(資料)新田次郎「富士山頂」(文春文庫)
NHKプロジェクトX制作班「プロジェクトX、挑戦者たち」(NHK出版)
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