ねずきちのひとりごと ブログより
◆ だけれども僕はやる 中田厚仁さん ◆
中田厚仁(なかたあつひと)さんのことを書こうと思います。
昭和43年1月生まれですから、生きていれば今年43歳になられます。
中田さんは、平成5年4月8日に、カンボジアで選挙監視員として活動中に、何者かから至近距離で2発撃たれました。
銃弾は、一発が左側頭後部から左目にかけて貫通し、彼は「I am dying.(私は死んでいきます)」という言葉を最期に、25歳の若い命を散らせました。
(ありし日の中田厚仁さん)
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当時のカンボジアは、20年もの長きにわたって内戦が続き、全土に1千万発もの主として中国製の地雷が埋められていたのです。
当時の日本の宇野宗佑外務大臣の努力で、カンボジアの停戦に関する国際会議が日本で開かれ、カンボジアに停戦と和平、そして国民の意思を尊重した総選挙が実施されることになったのが、平成2(1990)年のことです。
日本で、他国の戦闘行為をめぐる国際会議が開催されたのは、実は、これが戦後初のことです。
これは日本が、世界で初めて国際社会から独立国として承認されたことを意味し、その功績によって宇野宗佑氏は、内閣総理大臣に就任します。
ところが、指3本事件というわけのわからない下ネタで、彼は世間の笑いものにされ、わずか2週間で総理の職を辞してしまう。
なぜなら、カンボジアの平和に世界でもっとも大きな功績を持つ宇野氏は、そのカンボジアの内紛に乗じて粗悪品の地雷を売って金儲けをしている中共政府からみたら、大敵だったからです。
地雷というのは、実は、とてつもなく原始的かつ人類史上、もっとも低劣で劣悪な人道上許せない最低最悪の武器です。
どういうことかというと、地雷は、人を殺すだけの威力がないのです。
殺さずに、腕や足を吹っ飛ばす。
こうかくと、すごく残酷なようだけど、一撃で死んでくれた方が、残された者にとっても、本人にとっても楽なのです。
現実論として、葬式と埋葬をするだけで済む。
けれど、大けがをされると、怪我をした本人が痛い思いをするだけでなく、彼を助けるために、周りの多くの人々に負担がかかり、さらに彼が生きている間中、周囲が面倒を見続けなければならない。
怪我をした本人も、その先、つらすぎる人生が待っています。
実際上、敵の国力や戦力を削ぎ、疲弊させるには、ある意味、地雷はものすごく都合がよいのかもしれない。
けれど、これほどアコギな武器・兵器も珍しいです。
考えてみてください。
兄弟が怪我をして片足を失ったという状態と、兄弟が銃で撃たれて死んだ場合と。
もちろん情の面からは、たとえ片輪になっても生きていてくれた方がうれしいけれど、現実は、ただでさえ貧しい食うや食わずの生活の中で、さらに被介護者を抱えることになる。
これは、たいへんな負担でもあるのです。
そういう非人道的な武器を、日本の悪口を言い続けているどこぞの国は、カンボジアに1000万発も売りまくり、カンボジアの国中に埋めた。
そのカンボジアに、ようやく日本の宇野宗佑さんの努力で、平成4(1992)年に国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)ができ、20年続いた内戦に終止符が打たれ、停戦合意が成立し、総選挙を実施する事になったのです。
人々が、中国産の撃てば暴発して、撃った本人が大けがをするという中国製の機関銃やら地雷を使って、武力で国家を統一するのではなく、民主的な公正な選挙によって、平和な国家を取り戻そうということになったのです。
選挙を実現するためには、ひとつには、地雷の撤去をしなければならない。
そのために、戦後初めて、自衛隊が海外派兵されることになりました。
日本中に降り注いだ焼夷弾の不発弾処理で、日本の自衛隊は目下のところ世界で最も優れた爆弾処理技術を持っていたからです。
当時、日本の左翼は「平和憲法を守れ!自衛隊の海外派兵を許すな!」と盛んにデモや宣伝をしていましたが、日ごろ人命重視、人の命は地球よりも重いなどと言っている反日左翼が、カンボジアの人々の苦しみや生命の危険に関しては、何の関心も払わない、払おうとすらしないというのは、「人類」という視点から見ても、実に変な話です。
同時に日本は、国連のボランティア機構を通じて、日本国内からも志願者を募り、カンボジア国内で、これからカンボジアで行われようとする公正な「選挙」について、それがどういうもので、いつ、どこで行われるものなのかを、あくまで中立の立場で説いて回るスタッフを派遣しました。
その中の一人が、中田厚仁さんだったわけです。
中田さんは、大阪の出身で、大阪大学法学部に入り、国際法を専攻し、卒業後、カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が平成4年に募集を開始した国際連合ボランティア(UNV)に採用されています。
彼は、7月にカンボジアへ渡ると、最も危険なコンポトム州の巡回要員に、自ら志願しています。
当時のカンボジアには、まだ政府はないのです。
戦っている内乱グループは、細かな派閥に分かれていて、武装解除に応じないグループもまだ数多くあった。
なかでもコンポトム州というのは、地雷の埋蔵量、武装ゲリラ数とも、最低最悪の状況にある州だった。
でも、カンボジアの人々の平和を心から願う中田さんは、懸命に村々を回ります。
道すらないのです。
だから、川にぶつかればフェリーを使い、フェリーが行けなくなるとカヌーを使い、カヌーが使えないところでは、泥水のような濁った川を泳いで村々を回った。
2時間以上も泳いで、ようやくたどり着いた村もあったそうです。
そこで彼は、選挙の必要性などについて、必死に、真剣に説いて回りました。
平成5(1993)年4月8日のことです。
中田さんのもとに、国連ボランティアの人たちの安全を守るための会議に出席するようにとの連絡がはいります。
彼は、会議出席のために、車で移動を開始した。
そのとき、中田さんの乗った車は、中国共産党の影響を受けた「ポルポト派」の兵士に囲まれます。
中田さんは、後頭部に銃を突きつけられ、左後頭部から左目にかけて、ズドンと貫通傷を負わされた。
瀕死の重傷の中で、中田さんがボランティアの本部に向けて無線で伝えらた最後の言葉が、「I'm dying.(死んでいきます)」でした。
中田厚仁さんが亡くなった翌月の5月23日、カンボジアで総選挙が行われました。
カンボジア全体で、この選挙の投票率は、90%でした。
すごい数字です。大成功です。
中田厚仁さんが担当していた、最も危険だった地域の投票率はどの位だったでしょうか。
99.99%です。
考えられないような高率です。
開票作業をしていた投票箱の中から、いくつも手紙が出てきたそうです。
投票用紙に混じった手紙です。
ほんとうは、投票箱には投票用紙以外のものを入れることは、禁止されているのです。
だから人々は、選挙の立会人に見つからないように苦心して、手紙を入れた。
その一枚、一枚のすべての手紙も、中田さんの死を悼み、彼の温かい人柄を慕い、彼の誠実な活動に感謝の気持ちを述べ、中田さんの日本にいるご家族に感謝の思いを伝える内容の手紙だったそうです。
中田さんが殺害された場所は、事件当時は、無人の地でした。
総選挙が終わり、カンボジアが新たな一歩を踏み出したとき、付近の村々から、たくさんの人が、この地に集まってきます。
彼らは、平成7(1995)年、そこに新しい村を作ります。
村の名前は、公式名は「ナカタアツヒト・コミューン」です。
村人達は、親しみを込めて「アツ村」と呼んでいます。
その村で、村人たちが作詞作曲した村歌です。
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題名【アツヒト村の歴史】
♪新たに発展したアツヒトの村
地方にある田舎の村である
森の中に生まれた新しい村
みんなの手によって作られた
♪93年の出来事を思い出せ
地域一帯は地雷でおおわれていた
旅人はとても恐れた
そこには山賊もひそんでいた
♪4月8日のこと
おば おじ 祖母 祖父はある事件のことを聞いた
道の途中でいつも恐怖におびえていた
銃撃(じゅうげき)の音を耳にして
♪その時アツヒトは殺された
痛々しく苦しんでいた
学校の前にあるクロラッニュの記の近くで
その事件は歴史に刻まれた
♪彼は死んだが
彼の名前は生き続けている
石碑に刻まれている
学校の中庭にその石碑が置かれている
クメール人に語り続けている
♪新しいコンクリートの家が作られた
種々の樹木を植える
カンボジアの発展のために
それが彼の願いである
♪クメール人よ 記憶にとどめよ
これは心の平和である
彼に学び 従えよ
わたしたちの幸福は彼の力によるのだ
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信じることのために、命を捧げてでも行動する。
それが日本人という生き方、なのではないでしょうか。
亡くなられた中田さんは、次の言葉を残されています。
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だけれども僕はやる。
この世の中に、
誰かがやらなければならない事があるとき、
僕は、
その誰かになりたい。
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中田さんの冥福を心からお祈りいたします。
v(^∀^*)ノ*:。。.:*ヽ(*^∀^)ノ*:
<編集 配信> 『日本の心を伝える会』
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数年前ですが、カンボジアに行って来ました。
ポルポトの時代に・・ この葉っぱで 時間をかけて 首を 切ったのです・・と
ガイドさんが教えてくれました。
時々 あるじゃないですか 固くて ギザギザした葉っぱ・・
尖っていて 危ないから 先っぽを 切っておく あの葉っぱ
カンボジアには 暗黒の時代が ありました
その時代に 中田厚仁さんが かの地で 亡くなった のですね。
その尊い志は バトンは 私達が 継いでいきたいですね。